47.a.
2015 / 08 / 10 ( Mon )
 闇に呑まれそうになる一歩手前、留まることができたのは背中に走った痛みのおかげだった。
 皮膚が裂け肉が抉れる激痛。焼けるような傷口に染み込む冷たい水の刺激は、まるで我が身が真っ二つに裂けるのではないかと錯覚させる。

 ――取り巻く全てを忘れ、手放して、苦しみに身を任せて悶えたい。
 この時のゲズゥ・スディル・クレインカティには、呼吸への欲求以上にその衝動が強かった。

 だが打ち勝たねばならない理由が腕の中にある。
 歯を食いしばった。
 岸に辿り着き、すっかり汚泥となった土に爪を立てられる一瞬まで、彼は衝動を抑制しぬいてみせた。

「がはっ」
 立てた指に力を込めて身を引き上げる。抱き抱えていた少女ごと、ドサッと雑に寝転がった。
 オルトに借りたマントが半分ほど下敷きとなってくれた。水を吸った状態の残る布は、ただの冷たい重しにしか感じられない。

 ここで力尽きて意識が飛びかけたのも無理はない。
 背中だけでなく、体中の至る箇所が水面を打った反動で痺れて痛かった。水を吐こうとして咳き込み、それが治まったら次は呼吸という必須機能に従事せんと胸板や腹筋が重苦しく上下する。

 満身創痍だ。この機に敵に襲われたとしても、呆気なく敗北すること間違いなしだ。
 もう何も考えられない。動けない。寝たい。
 そんな途切れ途切れな思考も弱まり、瞼が縫い付けられたように下りたまま開けられなくなる――

「……――ですか!? 気をしっかり!」
 泣きじゃくる声と頬を叩かれる感触によってゲズゥはまどろみから呼び覚まされた。
「すごい血!? 痛いところは――」
 よほど気が動転しているのだろう。こんな状況、常ならば喋るよりも早く聖気とやらを使用しているはずだ。突然の展開続きで落ち着きを失くしているのだと思えば、得心がいく。

「…………そんなに叫ばなくても聴こえている」
 少女に対して、ゲズゥは気だるげに抗議した。ゆっくりと瞬きを繰り返すと、視界に聖女ミスリアの輪郭が浮かんだ。
「す、すみません。でもよかった……」
 謝罪と安堵の言葉と共に、大粒の涙が零れ落ちる気配があった。
 その涙を美しいと思った時もあった。しかし何故だか、以前は嬉しいとすら感じたこの様子が、今は不愉快でならない。

「泣くな」
 気が付けば疲労困憊していた身体を動かせた。頬に添えられたままの小さな手をそっと握る。か細い指からぴくりと、微かな痙攣にも似た身じろぎが返った。「お前が泣いても、俺はどうもしてやれない」
 束の間を置いて、ミスリアが囁くように訊ねる。

「本気で……そんなこと思ってるんですか?」
 姿形がまだくっきりとしないため表情は見えないが、声の調子を聴く限りでは驚いているらしかった。
「質問の意味がわからない」
 そう返事してやると――ふ、とミスリアは小さく息を吐いて笑った。

「ゲズゥは優しいですね」
 計らずも瞠目してしまった。多分、少女の声音があまりに柔らかく、聴いたこともないような温もりを含んでいたからだろう。
 反応に窮した果てに、ゲズゥは訝しげに答えた。

「その手の寝言をぬかすのはお前だけだ」
「でも、私は本当にそう思ってますよ」

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