44.a.
2015 / 06 / 02 ( Tue )
 手首に繋がる縄が緩くなったと感じた時、ゲズゥ・スディル・クレインカティの中で危機感が弾けた。
 縄の先に連なる人物が動きを止めたのだ――沼に潜って以来、ずっと勝手知ったる様子で先導していたというのに。

 確認せんと回り込む。標(しるべ)は互いを結び合わせる縄だ。何せ、三フィート以上先は何も見えないのである。リーデンが入手した水めがねのおかげで水中でも視力はほぼ保たれているものの、藻や泥などの遮蔽物まではどうにもならない。

 とにかくゲズゥは小柄な少女の肩を掴んで引き寄せ、その様相に注目した。
 異変があったのは明らかだ。ガラスの向こうの茶色い瞳は近くの物に焦点を合わせていない。これは何かを見ている目ではなく、脳の中で記録などの映像を「視ている」目だ。

 ゲズゥは五秒数えようと決め、観察を続けた。
 だが四まで数えた時点で己の中の危機感が頂点に達した。思考を中断して沼底を全力で蹴る。
 聖女ミスリア・ノイラートは、呼吸をしていなかった。周囲からは気泡が上っていないし、胸や腹部などの呼吸をする為の筋肉が停止しているのが見て取れる。

 こうなる可能性は最初から見通していた。これは聖地に面する際のミスリアの恒例の反応とも言えるからだ。場所が水中でなければ放って置いたかもしれない。そもそも聖地によっては、最初の岩壁の教会みたく、ゲズゥのような穢れた人間を近付けさせないわけだが。

 幸いこの沼にそんな制限はなく、むしろ毎日管理する者さえ居ない。したがって、ミスリアの潜水に付き合うことができた。
 あと少しで水面に届くところで。少女が急に身じろぎしだして――

 ――抗った。
 変わらずにどこを見ているのかはっきりしない眼差しで、ミスリアは水面とは反対方向に泳ぎ出す。
 縄がゲズゥの手首に食い込んだ。切迫感と小さな体躯に似合わぬ異常な力が伝わってくる。

 何がしたいのか、ミスリアは水草に覆われた底を両手の指で漁った。確信を持った動きだ。
 そう長くは息がもたないだろうに、この必死さは一体――。

 水めがねが囲う視界の端で石が淡い輝きを放つのが見えた。
 人間の眼球と同じくらいの大きさの石が、少女の白い両手の中に納まる。大切な宝物を優しく包むような手つきだ。

 胸騒ぎがした。
 あの石を見ていると、落ち着かない気分になる。何故か左眼からは疼痛が沸き起こっている。

 反射的に瞬いた。
 すると瞼の裏に身分の高そうな男の姿が浮かんだ。長身痩躯で、真っ直ぐな長髪を一つにまとめている。今からさも重要な用事に向かわねばならんとでも言いたげな、上向きな顎。見下ろすような視線。それがいつしか疑心暗鬼と恐怖の色に塗り替えられていく。

 そこでようやく記憶から呼び起こせた。長い間、夢の中ですら振り返ることのなかった事件。たとえ振り返りたいと思ったとしても、鮮明に脳裏に残っていたのはこの男の死に顔だけ。そう、邂逅して間もなくこの男を殺したのは、紛れもなく自分だった。
 しかし何故にこんな時に思い出す?

 ――ごぼっ。

 夢から覚めたように、ミスリアが苦しそうに身悶えした。ゲズゥも我に返り、今度こそ息継ぎの為に水面に戻った。

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13:33:24 | 小説 | コメント(0) | page top↑
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