2. f.
2025 / 12 / 30 ( Tue )
「もしかして私、口に出してた?」
「嫌いだったわけじゃない、辺りからな」
 思考を全部垂れ流しにしていたと知り、羞恥にカッと顔が熱くなる。
「ごめんなさい。つまらないよね、私の話ばっかり――いたっ!?」
 俯いた途端、後ろ頭をはたかれた。結構強い力だったのか目の前がチカチカする。

「つまんないなんて思ってねえって。いちいち謝るんじゃねえ。おまえは他人の顔色、気にし過ぎだ」
「そうかな」
「誰だって自分のことしか見えねえんだから、堂々と自分の話してりゃいいだろ」
「は、はい。あ、でも私はあなたの話も聞きたいよ」
 思ったままに返すと、長身の男は、面食らったようだった。目をしばしぱちくりさせてから、ため息を吐くように静かに答えた。

「そうかよ」
「うん」
 階段を上り、再び部屋の前に立った。リクターは鍵を差し入れて回した。
「オレの話つっても、何が聞きたいんだ」
 あのね、と口を開けようとしたのに、シェリーは声を出すことができなかった。比喩ではなく喉が詰まったのである。

 眩暈がした。胃の中がぐるぐると、猛烈な不快感を訴えかけている。いつからだったのかはわからないが、喉元からこめかみまでが、鈍く痛んでいる。
 こちらを覗き込んだリクターは、すかさずシェリーの腕を引っつかんで、土足なのも気にせずに廊下を突き進んだ。

「吐くなら便器にしてくれ。シンク、詰まりやすいんだよ」
 冷静な声。口元を押さえていたシェリーは、頷く間もなく、言われた通りにした。
 吐いたと言っても、胃の中には大した物量が入っていなかったので、すぐに胃液を出し切ってはえづいただけとなってしまった。
 顔を洗った後、くらくらする頭で、ソファの上に丸まった。

「せっかく、美味しかったのに……もったいない……」
 後ろで家主がテレビをつけながら「さすがにチリドッグは重すぎたか」と感慨なさそうに漏らしていた。これでも気遣ってくれているのだろう、リクターはテレビの音量を思い切り下げてからチャンネルを漁っていた。
 止まった先は雄大な山の自然を映したドキュメンタリーだった。猛禽類が翼を広げて青空を横切っていく映像だ。こういうのが好きなのかと思うと、意外だ。

(うう、気持ち悪い)
 ペットボトルの水をちまちま飲む。まだ頭がぼんやりしているし、視界が定まらない。
 いつしかシェリーはまた自分語りを始めてしまった。
「お母さん、働きすぎて死んじゃった。このまま行ったら、私も同じ道を辿るのかな」
 腹の奥に溜まっている不安の一端は、ここにある。

 シェリーは他の生き方を知らない。母が決めた進路、住処、交友関係。彼女のカーボンコピーとして育てられたはずなのだから、同じ末路を辿ることになっても不思議はない。
 直接の死因は急性心不全と言われた。前触れがあったとしても母は面に出さず、その日も普通に出勤していた。何気ない朝の挨拶が、今生の別れになった。
 怖い。働き過ぎのラインとは、どれくらいだろうか。自分も残業する方だし、自宅に資料を持ち帰ることに抵抗が無い。睡眠時間を削って書類作成した夜も少なくない。

「いまから軌道修正したらいいだろ」
 男の声は淡々としていた。
(どうやって)
 いとも簡単そうに言うリクターに、イラっとした。
(私は自由意志の持ち方すらよくわかっていないのに)
 敷かれたレールからどうやって降りればいいのだろう。自分で考えるのは苦手だ。

(……これも思い込み?)
 ずっと昔に住んでいたコンドミニアムの住所を探し出して、タクシーに乗ってここまで来たのは、自分で考えた結果ではないのか。
 そんなことを思いながら、うとうとする。




 ――トゥルルルル。
 シェリーが電話の音に驚いて目を覚ますと、時刻は夜中の十時を回っていた。
 壁にかかっている家電がしつこく鳴り続ける。自分の家ではないので出るべきか決めかねていると、大股で部屋を横切る男の気配があった。真っ暗な中でも迷いがない動きだ。

「Hello」
 短いやり取りがあった。意図して抑えているのと男の声がもともと掠れがちなのが相まって、あまり聞き取れなかった。やがてガチャリと小気味のいい音を立てて、受話器が元の場所に帰る。
 こちらの視線に気付いていたのか、リクターは躊躇いがちに口火を切った。

「あー、今から、出かける」
「こんな時間に?」
「呼び出された。まあ、仕事」
「土曜日なのに」
 そういえばどういう仕事をしているのか聞いていなかったと、今更気付く。といっても、急いでいるようで、とても訊ける雰囲気ではなかった。

「こういうこと、たまにあるんだよ。おまえは休んでろ。食欲戻りそうだったら、冷蔵庫の上にシリアルの箱が置いてある」
 男はもう身支度を始めていた。ちょっと悪いな、と言って電気を点けている。窓の外は仄かにピンク色に見えた。きっと雪雲に電灯が反射している色だ。
 あの重そうなショルダーバッグには、今日も拳銃が入っているのだろうか。
 心配だった。何がどうして心配なのかは、うまく言語化できない。

「えっと、気を付けてね」
「ん。おやすみ」
 また後でな、と言い残して彼は出て行った。
 重々しく閉まった扉を、シェリーは数分の間、じっと見つめ続けた。
 そしてふと思い当たった。

「また鍵かけ忘れてるよ!」
 急いでいたとはいえ、一人暮らしにはあまりに不用心だ。毛布を肩に巻いて立ち上がり、シェリーは内側から鍵とドアロックをしっかりとかけてやった。知らず知らず、口元が綻んでいた。




2話おわり。残りが微妙な長さだったので区切らずに一気出し。
家族旅行に出ていて数日更新が開いてしまいました。大掃除してねー うえーい

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