2. d.
2025 / 12 / 24 ( Wed )
「なんていうか、支度にかかる時間がもったいないな、って……お化粧さえなければもっと早く家を出られるのにって思ってた……。夜も、メイク落としが面倒だし、ネイルは……匂いが嫌だし」
「おう。これからはそんなもん全部やめて、時間ギリギリまで寝てればいいだろ」
「ほんとに、いいのかな」

「誰に断る必要があんだよ」
「はい……」
 リクターの言動には不思議な説得力があった。昔からそうだ。
 言われた通り、やりたいようにしてみようと思った。仕事はさすがに薄化粧で続けるか――また出勤する日が来れば。
 ハンドバッグに詰まっている化粧道具を意識した。これがなければバッグが軽くなる。ずっと興味があった、肩にかけるタイプの小型のバッグに乗り換えてみるのも楽しそうだ。

「おまえ、食いたいもんあるか」
 しばらく歩いてからふいに足を止めて、リクターがまた振り返った。今から? と訊き返すと、そうだ、と返された。
 食材の買い出しに行くのではなかったのかと面食らう。
「うーん、ない。むしろ、たぶん、食欲があんまりない」
 数十秒かけて頑張って考えてみるも、シェリーには何もいい案が浮かばなかった。

「近しいヤツが死んだあと胃腸が何年もおかしいっつう例もまあまああるらしいな」
「おか、しい……」
 言われてみれば、お腹に溜まるようなものをずっと口にしていない。お腹が減っている気はするのに、咀嚼する気力がどうにも湧かない。

「食べないと余計に眠れないだろうし、パンくらいは……でもパンだったらスーパーで買った方が……?」お金をかけるならせめて体に良さそうなものを、と思っても、サラダを食べたい気分でもない。「優柔不断でごめんなさい。私って昔から、自分じゃ何も決められなくて」
 煮え切らないシェリーに対して、リクターは訝しげな顔をした。
「思い込みだろ。自分はダメなやつって、あの母親に刷り込まれたんじゃねえの」

「そんなこと、ない」
「選択なんて脳の筋肉みたいなもんだ。使わなきゃ衰えるし、鍛えれば発達する」
「え、えー? そうかな」
「いまここで左に行くか右に行くか、おまえが決めろ」
 男は、黒い革手袋に覆われた手をポケットから出して、真っすぐに伸ばした。人差し指が順に左と右を差していく。

「判断材料が足りないよ。私は食べたいものがないし」
「いいから」
 シェリーの抗議もむなしく、彼は答えを促すように視線で圧をかけ続けた。
「せめて、先に何があるの教えて」
「左はアーケード街で右は公園だな」
 ふたつのキーワードを、シェリーは顎に手を当ててしばし咀嚼した。

(どうしよう)
 色々と理由を並べて考えた。その間、傍らの男は「さみぃな」とぼやいたものの、急かす素振りは見せない。
(このひとは――待ってくれるひとだった)
 ふっと胸の奥が軽くなった気がした。

「……右にする」
 アーケード街の方が色々な食べ物がありそうだ。けれど、いまこの時に見たいと思ったのは、公園だった。ただそれだけの理由でも、それが自分の正直な気持ちだった。
「できんじゃねえか」
「このやり取りで五分は使ったよ」

「練習すりゃ早くなる。洗脳が行き届いてなくてよかったな」
 トレンチコートのポケットに両手を戻したリクターは、ふっと白い息を吐いて――笑った。
 目元が柔らかく細められ、口角が少し上がっただけで、数年の時間がとけていくようだった。
 悪戯を思いついた少年の表情。変わったと思ったら、根っこの部分は変わっていないのではないかと、くすぐったいような嬉しさがある。

「楽しそうだね」
「そっちこそ」
 言われてみれば、とまた頬に触れてみた。

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