八 - c.
2017 / 08 / 04 ( Fri ) 「頭を下げるべきは私の方だ。急に押しかけて悪かった」
「いいえ、嬉しゅうございます。よもやまたお会いできるとは……ええ、ご立派になられて。目元なんて、ますますお嬢さまに似ておいでです」 顔を上げたヤチマは、鼻をすすって泣いていた。 母に似てきたと言われるのはどこか複雑だが、微笑みを返しておいた。まだ壮年と呼べる女性の手を取り、立ち上がるのを手伝う。 「仕事はどうだ、楽しんでいるか」 「はい、おかげさまで! 皆、底なしの胃袋の持ち主ばかりで作り甲斐があります」 綻んだ表情が全てを物語っていた。明日にでも寄ってみていいか、とエランが問えば、もちろんです、と彼女は嬉しそうに答える。 「今はひとりで住んでるのか」 「はい。娘は……ハリマヌは先年結婚しまして、別の町に」 「結婚? めでたいな、聞いていれば祝いの品を贈ったのに」 「まあ、初耳ですか。息子には手紙で報せましたけれど」 「タバンヌスはきっと伝え忘れたんだな」 引きつった笑顔で応じたが、心の中では別のことを思っていた。 ――あの野郎、気を遣わせまいと黙っていたのか。 贈り物くらい贈らせてくれればいいのに、身分を気にして遠慮したのか、全く頭の固い乳兄弟である。 (私にとってもハリマヌは家族なんだがな……) 過ぎたことを考えても仕方ない。次に会ったら蹴りのひとつでも入れて、それで水に流してやろう。 「ところでエランさま、息子はいずこに? そちらの麗しいご婦人は異国の方ですか……?」 ヤチマが戸惑いを隠せない様子で両手を握り合わせて視線を彷徨わせた。 注目されていると気付き、姫君は優雅に一礼した。 「セリカ、という。彼女に関してはできれば何も訊かないでもらえると助かる。他の話は座ってからでもいいか」 「ええ、ええ! 気が利かなくて申し訳ございません、すぐにお茶とお食事の用意をいたします!」 「何か手伝えること――」 言い終われる前に遮られた。 「お客さまですのにお手を煩わせるなどとんでもない! 狭いところですが、どうぞ先におかけになってください」 とりあえず彼女の促すままに、絨毯の上に直接腰を下ろした。小さな食卓は二人で囲んだら既にいっぱいいっぱいだ。向かいのセリカは姿勢を整えて大人しくしているが、目だけは興味津々に周囲を取り込んでいる。 それからヤチマは怒涛の如く動き回った。茶器に続いて、食べ物がどんどん並べられてゆく。ありあわせの漬物、職場から持ち帰った余り物、新しく焼いたパン、そして限界までに何かを詰められた三角形の揚げ物。 最後のそれは、わざわざエランの目前に置かれた。子供の頃からの変わらぬ好物だ、ヤチマもしっかりと憶えていたようだ。 食前の祈りと感謝の挨拶を述べると、真っ先にひとつを手に取った。 「懐かしいな。お前のサンボサは絶品だった」 「まあ、ありがとうございます」 「……さむぼさ、ってこれ」 未知の物を警戒するように、セリカが目を細めている。 「そうだ。カリカリに揚げられた皮を噛み切った瞬間に旨みが爆発する。中身は肉か野菜か、とにかく香草や香辛料が具材と完全に調和して美味い」 ちなみにエランが最初に手に取った一個は、中身が野菜のみで構成されていた。素材の旨味に便りがちな肉のサンボサに比べると調味料のクセが強めで、実は野菜の方が好みだったりする。 だが包みを使った料理は総じて内側がとんでもなく熱い。急ぎすぎたために舌に軽くやけどを負ってしまったが、後悔は一切無い。 むしろ、この痛みを伴って尚更に美味しく感じるのだ。 「まあ、まあ。エランさまったらそんなにお褒めにならなくてもまだたくさんありますからね」 「……っ」 ほどなくしてセリカも身悶えるのを我慢しているような様子になった。同じくやけどをしたのだろう。 「おめでとう。誰しもが通るべき洗礼だ」 姫君は涙目で睨んできたが、言い返すことができない。一時のことだとしても、妙に楽しい気分になった。 そうして空腹をほどよく満たした頃。 エランはぽつぽつと事情を語り始める。セリカとの関係は、協力者とだけ言ってぼかした。 タバンヌスが時間を稼ぐ為に宮殿に残ってくれた話に至ると、口は勝手に重くなった。何度もため息を挟んで、話した。 「大丈夫です! 簡単にくたばるような息子じゃありません。わたしはそんな、ヤワな子に育てませんでしたから」 「……そうだな。私もそう思う」 子の無事を信じる母親の強がりは痛々しく――尊いと感じた。 _______ 「お風呂、でございますか。残念ながらこの家には風呂場も庭もありません。お湯を浴びたいのでしたら近くに大衆浴場があります」 食後のコーヒーを堪能していたら、ふいにセリカがヤチマに「身体を洗いたいので風呂を借りたい」と声をかけたのである。 「庭……? 大衆、浴場……?」 提示された単語の意味合いが理解できないのか、セリカは不思議そうに首を傾げている。宮殿育ちの公女はきっと、庭先で桶から湯水を浴びたことも無ければ、見知らぬ人間と並んで裸になったことも無いはずだ。 「すまない、ヤチマ。できれば他の方法で頼む」 「大衆浴場でなければそうですねえ。少し歩きますけど、川を上れば行水が出来るとっておきの場所がございます。静かですよ」 タバさんの妹・ハリマヌちゃんは気弱そうな外見だがその昔「おおきくなったらエランさまのおよめさんになる!」と豪語した図太きドリーマー。身分的に無理だと聞いてからは「じゃあ、あいじんにしてください」と詰め寄り、たいそうエランを困らせたが、まじめなお兄ちゃんの三日がかりの説得によって考え直した。というどうでもいい逸話がある。 サンボサ は サモサ の別地域での呼び名みたいなもの。mの音が短いのでどっちかと言えば「む」ならずに「ん」表記にしました。 |
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