八 - e.
2017 / 08 / 08 ( Tue )
(薔薇の香り……香油なんて持ってたか?)
 石鹸を持っていたようにも見えなかったが、懐に収めていたのかもしれない。
 背後から、カタカタと硬いものがぶつかり合う音――おそらく寒さに歯を鳴らしているのだろう――が聴こえた。声をかけていいのか逡巡した。衣擦れがするので、まだ着替え終わっていないのだろう。
 待つしかなかった。セリカの育ちを思えば、不慣れな衣装をひとりで身に付けるのに時間がかかっていても仕方がない。

「六日」
 しばらくして、静寂が破られた。
「六日?」
 微動だにせずに訊き返す。
「あんたと出会ってから六日経ったわ。三日目に公都から逃げ出して、移動に丸二日かかって」

「もっと長いように感じていたが、短いな」
「明日から、どうするの」
 心なしかその問いには、責め立てるような響きが含まれている。ここ数日の不機嫌の原因はこの辺りにあるのかもしれないとエランはふと思った。
 先のことにまつわる不安をどうすれば払拭してやれるのか。嘘偽りなく話す以外に、思い付かない。

「遅れて悪かった。安心してくれ、お前は必ず無事に送り返す。傭兵を雇って」
「あんたは、どうするのよ」
 何故かセリカが苛立たしげに言葉を被せて来た。
「必要なものが幾つかある。手配でき次第、ムゥダ=ヴァハナに戻るつも」
「戻るの!?」
 再び、被せられた。

「放っておけない。亡命は最初から選択肢に無かった」
「危険でしょ。また誰かが消そうとするんじゃないの」
「逃れえぬ死に向かっていても、たとえ無駄な足掻きだとしても、行くしかない」
 エランは知らず握り拳を作っていた。命をかける覚悟は、既に決めている――

「どうしてそう考えが捨て身なの! もっと自分を大事にしてよ! 国の為なら自分ひとりの命なんて安い対価だとか思ってる? どんだけ生きる意欲が無いの!?」
 突然浴びせられた怒号に、首筋が強張った。現状を忘れて振り返る。
 着替えも半ばの薄着姿だが、幸い、首から下がちゃんと隠れていた。

「また誰も知らない場所で独り、血を吐くことになってもいいの!?」
「――――」
 絶句した。濡らしたままの長い髪を振り乱しながら、セリカは泣いていた。
「そりゃあたしじゃ何の役に立てないかもだけど、一緒に行っても足手まといだろうけど! だったら、行かないでよ! 馬鹿! 無謀!」

「……私は怒られているのか、心配されているのか……?」
「心配だから怒ってるのよ!」
 セリカはその場にしゃがみ込んで、組んだ腕に顔をうずめる。
 弾みで水滴が顔にかかった。頬を打った冷たさに、目が覚める想いだった。
(国の為なら自分ひとりの命は安い対価、そう感じていたのは否定できないな)
 くぐもった罵声が更に畳みかける。

「エランのばか! だいきらい!」
「だっ――大嫌い、か……」
 驚愕して、オウム返しになった。
 言葉が突き刺さるとはこういう現象だったのか。存在を否定するほどの暴言をアストファン辺りによく吐かれた人生だったが、あれはどうでもいい相手の吐くどうでもいい戯言として容易に受け流せたものだ。

 どうでもよくない人間からの苦言の、なんと痛いことか。悪くない感情を抱かれていると自惚れていた己を恥じた。
 吐き気がしてきた。謝ろうとして口を開くが、声が出ない。
 沈黙がやたらと重い。
 やがて、小さく「ごめん」と呟く声があった。

「……うそ。ほんとは、大好きだもん」
 継がれた言葉に、またもやエランは驚愕して絶句するしかなかった。
「こういうのが――世に言う、恋愛感情なのかはわかんないけど……あんたが楽しそうにしてると、見てるこっちもなんか和むのよ。変に理屈っぽいとことか、だるそうな話し方とか、子供に怖がられるのにリスには懐かれるとことか……面白い。もっと見ていたい。近くに、居たい。独りで死んじゃうのかと想像すると、どうしようもなく、つらい……」
 嗚咽交じりに明かされる想いが、静かに染み入る。

「でも『連れてって』なんて言えるわけない。縁談がなければ出会わないような、か細い縁よ。国同士の事情を取っ払ったら……個人としてのあたしには、リスクを負ってでも一緒に居るほどの価値が――」
 セリカはしゃくり上げながら顔を上げた。目が、合った。
「ねえ。エランはこのまま帰って、二度と会えなくなっても、平気? あたしは……平気じゃない、気がする」

 ――処理能力が追い付かない。
 嫌いなのか好きなのか、どっちだ。今しがた聞いた新情報の数々に対する感想が思考回路をぐるぐる回る。その中に罪悪感があった。誰かにこれほど辛い想いをさせていながら気付かずにいた自分を、殴りたい。

「エラン?」
 髪と同じ赤紫色の長い睫毛に縁取られた瞼が、瞬く。涙の滴が月明りに煌いて綺麗だ。
「あ。もしかして、この前みたいに思考停止した?」
 次いで、表情が打って変わって輝き出す。泣き止んで欲しいと切に願っていたから僥倖だ。しかしこの至近距離で好奇心に満ちた瞳を向けられるのは居心地が悪い。座ったままで後退った。

「お前は相変わらず、忙しないな」
 やっと喋られたかと思えば。我ながら、間抜けな第一声だ。咳払いをして、やり直す。

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