65.g.
2016 / 12 / 28 ( Wed ) 存在が危ういから消してやるのが慈悲なのか、とゲズゥは無意識に眉をしかめた。 『消滅するとわかっていて、それを甘受するのが正しいとも限らない』 聖獣の答えが妙に遠く感じる。意識の境界がぶれているのだと悟った時には、ゲズゥはまた思い出の層に向かって転落していた。 古い記憶だった。こんなこともあったのかと、すっかり忘れていたほどに昔の話だ。 ゴミを漁って生きていた頃は栄養失調が普通で、当然ながら身体の免疫力は著しく低かった。おそらくは慢性的に体調が悪かったのだろうが、自身では気付けずにいたのである。そして雨が厳しかった冬の日、ついに弟が高熱を出したのだった。 丸一日経っても回復の兆しは表れず。このまま死ぬかもしれない、唯一残った家族を失うかもしれない――恐怖にじわじわと蝕まれながら、延々と貧乏ゆすりをしていた。 ――治れと念じて睨むだけで、治ったならいいのに。 悶々とする。自分自身が熱を出したことは数えるほどしかなく、適切な対応など当時のゲズゥにわかるわけがなかった。とりあえず、喉が渇いたと言われれば飲み物を見繕い、汗が気持ち悪いと言われれば拭ってやった。 後は「身体が弱っていると心も弱るからせめて相手の手を握って勇気付けてやりなさい」と母が言っていた気がしたからと、そうしていた。辛いのはわかっている、心配する人がすぐ傍にいるよ、と伝えるのが大事だと母は主張した。 けれどもそれでは足りなかった。自分よりも小さくてか弱い幼児の手を握る間、己にできることなど何も無いと思い知ったのだった。ならば自然と次の手は決まっていた。 心臓が引っ掻かれているような痛みを抑え込んで、その場を去った。夜通し咳の所為でうまく眠れずにいた弟の傍を、自ら離れたのである。 深夜の住宅街を駆け巡り、順に戸を叩いた。話を聞いてくれる相手が見つかるまで、何度も何度も「たすけて」の一言を口にした。そうしてやがては老夫婦を伴ってリーデンの元に戻ることが叶った。 その夜からしばらく屋根の下で暖かい食事と柔らかい寝床にありつけたが。最終的には自分の幸せを投げ出して、弟の幸せを願った。 願いは成就しなかった。 ――お前はこれから何度も間違いながら大人になる―― 父が予言した通りになった。愛する者を守るのは果てしなく難しい、今ならそれが痛いほどよくわかる。 先祖が、世界が、自分にどんな運命を用意していたのかはわからない。抗って、疲れて、抗って、疲れた。生きることに疲れ果てた頃に、純真な少女と道が交わった―― 『神々は材料を与えただけ、料理するのは汝ら人間どもの役目だ。条件が満たされれば我は世界の清浄化の為に飛行する』 意識の外側から聖獣が語りかけてくる。 『満たされなければ眠り続けるだけだ。どのような世であるかは、その瞬間その瞬間、多くの者の選択肢の果てにある』 「……何が言いたい」 『神々の最大の贈り物は、成長する余地ではないか。不確定な未来こそが、民への祝福であろう』 「ふざけるな」 沸々と怒りがこみ上げる。成長する余地が魔物と隣り合う日常だと言うのなら、それを覆そうとして奔走したミスリアが滑稽ではないか。 『教団の先人……我に聖気を供給した者ら、そして汝の愛しき聖女が勝ち取った未来を真摯に愛せぬか、愚か者』 ――そんなもの、ミスリアが居なくならない未来に比べたら然程の価値も―― 『偽らずとも良い。己の欲を投げ出してでも、聖女の意思を尊重したのだろう。そこに、汝の想いは無かったのか?』 「…………」 想いだなどと。改めて考えてみたが頭の中は真っ白だった。 ふと、漂う空気に新たな風が吹いた。 記憶の層がドロリと融けては、再構築される。 「今日は楽しかったですね」 ――ああ、別れてまだそう時間が経たないはずなのに、思い出の色がひどく懐かしい。これは、何時の記憶だろうか。はっきりとは思い出せない。 ゲズゥは声を弾ませる少女の方を振り向いた。 自分にとっては楽しくもなんともない日だった気がするだけに、彼女がどうして日差しと同じくらいに明るい表情をしているのかがわからなかった。 「決まった予定が無いからと朝はいつもよりちょっと遅くまで寝て、朝ごはんのパンと一緒に紅茶をいただいて……午前中は溜まっていた繕い物をやっと全部直せました。お昼の後は街中を散歩して、午後のお茶もして、図書館で少し読書していって。夕ご飯はこの通り、美味しいポットパイを食べることができました」 ミスリアは終えたばかりの食事の跡を満足そうに指差した。こうして並べ立てられると充実した日に聞こえなくもないが。 食後の茶を口に運びながら、とりあえず相槌を打っておいた。 「いくらこれが大事な目的を果たす為の旅だとしても、私はこんな日がもっとあっていいと思うんです」 そうだな、とまた些か気の入らない返事をする。 「偉い人とバッタリ会うことも無ければ、浄化や魔物退治の依頼もありません。これで明日までトラブルに遭わなければ完璧ですね」 「言った傍から攫われるなよ」 「別にこれまでだって好きで攫われたわけじゃないです!」 と、少女は両の拳を食卓に叩きつける。 「……当然」 適当に言っただけのことに意外に面白い反応を貰えて、ゲズゥはどこか楽しくなった。 「私は被害者です! ちゃんとゲズゥが守って下さらないと……って、責めたいわけじゃなくて」 「事実だ。責めればいい」 「いいえ……何があっても、毎回、助けに来てくれましたから」 ふふ、と何故かミスリアはそこで朗らかに笑った。 ヘンなトコで切ってすみません。 ちょっと今回の話は もんやり し過ぎかもしれませんが、雰囲気で大体理解していただければ十分です! |
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