56.a.
2016 / 04 / 30 ( Sat ) 耳鳴りがひどい。 小雨がぴたぴたと降りしきる音や、女神の祭に伴う騒がしさを抜けて、嫌に高い響きが頭蓋を満たしている。体外かそれとも体内より出でた事象であるのか、エザレイ・ロゥンには判断がつかなかった。「どうぞ」 正面に、大きな皿を持った女が現れた。何かの肉切れを配っているらしい。笑顔で皿を差し出されては、一枚だけでも手にせずにはいられない。 口に運ぶと、芳香がツンと広がった。燻製だ。 実に味わい深いそれを咀嚼している際に、電流のような悪寒が背筋を走った。 この肉の旨みに覚えがある。それに留まらず、籠から花びらを散らして走る子供たちの姿や、「燻製たまごどうぞー」と人込みの中から声を張る少年や、平和と豊穣への感謝を込めた合唱にも、覚えがあった。 かつて一度は見た景色だ、と潜在的に彼は感じ取った。 ――あの時に傍で笑っていた人物は、もう居ない。たぶん、どこにも―― 彼の中ではその事実に疑う余地など無かった。 ごくん、とエザレイは肉切れを飲み込んだ。 「すごく美味しいですね。何の肉でしょうか」 後ろに立っていた小柄な少女が、指先に付いた肉汁を舐めている。彼女の左右に立つ二人の若い男がそれぞれ、「わからん」「なんだろうねー」と答える。 「ロゥンさんにはわかりますか?」 「……エザレイでいい。地域の野生大型肉食獣だろ」 深く考えずに彼は答えを提示する。 突然、ハッとなった。サエドラの町で振舞われる燻製の施された食物の数々。その大部分を占めるのは、謎の四足歩行動物。町の中でそのような生き物は見ないし、外れの森に行ってもちらりとも姿を目にしたことは無い。最近の経験でも、過去の記憶の中でも、皆無だ。 それには何か特別な意味があったはずだ。だがどうにも、半端な具合でしか思い出せない。 エザレイは最後尾を歩く女を目の端で認めた。紅褐色であったはずの長い髪を黒い染め粉で隠している。 助言したのは自分だ。赤い髪はサエドラ付近では厭われるはずだから誤魔化した方が良い、と。女の保護者か何かであるらしい銀髪の青年は理由を求めたが、よく憶えていないの一点張りで通した。そうして当人は垂れ気味の黒い瞳を瞬かせて、従ってくれた。 実は自分も以前は赤茶色の髪だったのである。最初に会った日に、カタリアはスターアニスの種のようだと言った―― どういう風に厭われるのか、原因は何なのかまでは思い出せないが、間違いなく毛嫌いされている、それだけはわかっていた。 そして何故か、この者たちには濁してしまった。 |
|