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2016 / 02 / 16 ( Tue ) 「兄さんと旅に出てからもう一年経ったよね」
ふいにそんな話題になった。 「言われてみればそうですね」 リーデンの一言をきっかけに、ミスリアは処刑台の前まで駆けた時のことを思い返した。 あのやたらと空気が乾いていた日――神々への供物のように磔にされ、真昼の陽射しを肌に浴びた青年を見上げて――何を想ったか。胸の内に転がった淡い期待と感動の粒をどう押し退けて、声を出したのだったか。第一声は「待ってください」だった気がする。 そしてこちらが近付いたのと同時に、ゲズゥは包帯に隠れていなかった右目を開いた。 その折、黒い瞳が映し出したあまりもの空虚さに、心が捩れたように苦しかったのを憶えている。それを拭い去ろうとして、ミスリアは微笑んだのだった。そして、青年の無表情が崩れた。ほんの僅かではあったが、確かな驚きを見せた―― (ああ、きっと私は) カサリ、と涼やかな風が頭上の枝を揺らす。手元に落ちた影の形が踊り、木漏れ日の温もりが膝の上へと逃げてゆく。 (私はあの時から……) ゲズゥが感情の起伏を表す瞬間が、好きだ。それを引き出せたのが自分だってわかると、特に嬉しい。 最近では笑いかけてもらえる時もある。 その度に目に見えない場所をくすぐられたみたいに、ふわっと暖かい心持ちになる。それと何故か同じくらいに苦しくなって、気持ちの落としどころがわからない。 「もう一年、まだ一年。生誕を祝う余裕も無かったんだろうし、せっかくだから全員分パーッと祝っちゃおうか」 新しく提供された話題の方向性によって、思考の渦から呼び戻された。 「それはいいですね。皆さんいつ生まれですか? 私は春です」 「僕は冬で、兄さんが真夏だよ。みんなイメージぴったりだね」 「ではイマリナさんは?」 「マリちゃんは自分でも憶えてないそうだよ。僕があの子を拾ったのが冬だから、冬生まれってことで」 「なるほど。どういう祝い方がいいでしょうか。贈り物交換か、お菓子かそれとも――」 他愛も無い、実にのんびりとした午後のひと時だった。 それが瞬く間に空気がピリッと緊張に震えた。 ――とん。 見知らぬ通行人。 一人の小柄な若者が自然な足取りでミスリアたちの座るベンチに近寄り、よろけて、すれ違う際に肘をリーデンの肩にぶつけそうになったのである。普通ならば一言の謝罪が添えられればそのまま通り過ぎてしまうはずだった。 それを、リーデンの方が許さなかった。ように、見えた。実際に聴こえた音は、若者の手首を、リーデンが掴み取った音である。 若者が息を呑んだ。シャッ、っと何かが鋭く飛び出す音が続く。 「何の真似かなぁ?」 絶世の美青年は凄絶な笑みを見せた。彼の長い袖の中では、鉄の煌めきが今か今かと出番を窺っている。 「仕込み刀って、セコイな。暗殺者かよ」 「すれ違いざまに人を刺そうとした子に言われたくはないね。拳を開いてごらん? オニーサン怒らないからさー」 「――っ」 若者は舌打ちした。それが合図だったかのように、他にも何人かが木陰から進み出てきた。あっという間に音も無くベンチを取り囲まれる。 午後の太陽にちょうど雲がかかった。 この陰りの中で複数に襲われては、誰にも気づかれる間もなく消されるのではないか――そんな危険な予感が脳裏を過ぎった。 中庭に居る他の図書館の利用者とはほど良い距離を取っていた。しかも皆真剣に読書や論議に取り組んでいて、他人のことなど気にかけない。 (どうしよう) ミスリアの右方から、フードを被った少年が詰め寄ってきた。悪意に満ちた笑みにぞっとする。無意識に恐怖に身をよじった。 ザッ、と木の葉が擦れる音―― 少年は横に跳んで、危機を逃れた。木の上から落ちてきたゲズゥという、大いなる危機を。 (寝てたんじゃないのね) 深い安堵が身体中を流れていくのがわかる。 兄弟は言葉に出さない意図を交わすように、目を合わせる。 次には、不思議な行動に出た。 |
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