42.j.
2015 / 04 / 29 ( Wed )
「でもこのもじゃもじゃ髪をもう切れないのは、いやよ」
「どうせ成人したら切ってくれないんじゃん」
 デイゼルの巻き毛をわしゃわしゃと乱していたティナの手がぴたりと止まった。そしてそのまま彼女はもの悲しい微笑みをつくった。

「だいじょーぶだって。出発は早いほうがいいっていうけど、そんなすぐおわかれじゃないんだからさ。だからティナ姉、もうわるいことやめて。兄ちゃんたちが助けてくれるよ」
 ティナは長いため息をついてから、司教さまに向き直った。
「信じていいのね」
「約束します。私の持つ全てでお力になります」
「わかった。それじゃあ、アイツのことを話すわ」

 ティナはこちらに向けて短く目配せした。察するに、この先の会話を十三歳の子供に聞かせたくないという心境だ。
 司教さまやミスリアたちが話を聞いているのならそれで十分だろう。カイルサィートはデイゼルの肩に手を触れ、部屋から連れて廊下に出た。

 子供たちが揃って昼寝しているからか、廊下はしんと静まり返っている。二人の衣擦れの音や足音だけがやたらと響いた。
 俯き加減のデイゼルに、ふと思い立って話しかけてみる。

「君が修道者になるなら、いつかどこかで僕のお父さんと会うかもしれないね」
「ふーん。せーじんの兄ちゃんのおとーさんってどんな人なん」
「さあ?」
「なんだそりゃ」
 立ち止まって、鼻をぎゅっと皺くちゃにした顔が見上げてくる。視線を合わせるようにしてカイルサィートは僅かに上体を傾けた。

「顔は似てるんじゃないかな。でも僕の知ってる父さんがまだ残っているのかどうかは、わからない」
「んー、じゃあ兄ちゃんのおぼえてるのはどんなん」
「そうだね。信心深くて、笑顔が温かい人だったよ」――言葉を連ねながらも懐かしさが胸に満ちる――「良き夫で、良き父親で、良い兄だったんだろう。少し優しすぎたかもしれないけど」

 心が優しすぎたがために、現実の重圧に耐え切れずに脆く壊れてしまった。思えばそういったところは、父と叔父はよく似ていたのだろう。今更責めたいと思うことは無いが、それでもたまに思い出しては一抹の寂しさと失望を覚えることはある。
 それに、殻に篭もってしまった父を未だに救ってもやれない己の無力さにも失望する。

「僕はできれば父さんとは似ない方がいいな。君みたいな逞しい男になるよ」
 カイルサィートは視線を廊下の先へと戻して宣言した。
「はあ? もう大人なのに、おれ目指してどーすんだよ。ぎゃくだよ」
「あはは、清々しい正論だ。どうするんだろうね」

「兄ちゃんなに言ってるかわけわかんね。へーんなのー」
 デイゼルは急に小走りになって廊下をドタドタと進んだ。仲間たちの様子を見に行くのだろう。一緒に居られる時間がそう多く残らない、仲間たちの。

(ああ……父さん、叔父上。生きるというのは、ままならないものですね)
 額に片手の指先を押し当てたのはほんの数秒の間だった。この絡まるような想いは、何であるのか。

 少年は気付いているはずだ。大切なものは自分が何もしなくても、どんどん掌から零れていく。
 守る為に敢えて手放して、後悔する日が来ないと良いが――。
 目を覚まし始めた子供たちの声が微かに聴こえる。そこに、悪戯っぽいデイゼルの笑い声が重なる。

(これから先どれほど大きな目的を追おうとも、守るべき宝が何なのか、それだけは見失わずにいよう)
 決意を新たに胸に抱いて、カイルサィートは居間へと踵を返した。

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