ディーナジャーヤと言えばアルシュント大陸で最も広大な領土を誇る、大帝国である。過去数度にわたる大規模な戦によって土地を勝ち取り、更に三つの属国を従えている。
当然、それだけ広いのだから聖地の幾つかもディーナジャーヤ帝国内にある。
「でもあの城はもっと――」
資料に目を通しただけで詳しく覚えているわけではない。ただ古城なのは確かでも、もっと手入れの行き届いた建物だった気がする。第一印象が涼やかとすら言えるような。
「貴女がご存じなくても無理のないこと。数百年前、聖獣が飛び立つ直前まではクシェイヌ城は忌み地でした。人間同士の激しい闘争の歴史を背負った場所でしてね、聖獣によって浄化された後に聖地に変わったのですよ」
「では私が視たのが忌み地だった頃の姿ですか?」
「と、私は考えます」
教皇猊下は会議室のテーブルにそっと両の腕を乗せ、手を組み合わせた。
「同調、できたのですね。よかった。おめでとうございます、聖女ミスリア。貴女はもう得るべきものを得たのです。次に何をすべきかおわかりでしょう」
満足げな表情を向けられて、ミスリアは頷きを返した。
(まだ不安も謎も残っているけど……)
とにかく今は、あの場所に行かなければならないという抗し難い想いがある。
おかげで他のことを長く考えていられない。次の聖地に辿り着くまでずっとこれが続くのだろうか、とミスリアは一抹の不安を覚えた。
「大丈夫ですよ。次の聖地に行けば、もっと色々なことがわかるでしょう。聖人聖女たちの道のりが重ならない理由も含めて」
ミスリアの不安を汲み取ったのか、猊下はとても優しく笑いかけてくれた。
「最初に訪れた巡礼地でそれだけ明瞭なイメージを感じ取れた貴女なら、何も問題はありません」
「はい、猊下」
励ましに、ミスリアはしっかりと返事をした。
余計な考えを巡らせるよりただ進めばいい。自身にそう言い聞かせて不安を封じる。
「あの、ところで今は夕方ですよね。私はどれくらいの時間、意識を失っていたんですか?」
おずおずとミスリアは訊ねた。
「それは私よりもスディル氏がご存知でしょう。私たちは朝から時々様子を見に来ただけですが、彼はずっと野原に残りましたからね」
隣の神父と顔を見合わせた後、猊下がその柔らかい微笑みをミスリアの背後に立つゲズゥへ移す。
数秒後に返答があった。
「三十分くらい崖っぷちで突っ立ってた」
「そんなに……。それからは?」
続きを語るように促した。
ゲズゥは思い出すように視線を天井へ走らせ、次に眉根を寄せた。
「よろめいて、膝をついて……しばらくして倒れた。二時間経ったら起き上がって、草の中をのたうち回って、這いずって、また意識を失った。それからは起きるまで動かなかった」
「そ、そうですか」
「全く覚えてないのか」
いいえ、とミスリアは頭を振った。
絶句するしかなかった。崖に立った以降の記憶が無い。そんなに動き回ったなど――確かに純白の聖女の衣装にあちこち緑色の跡があったのはおかしいと思っていたけれど、思い出せないものは思い出せない。
「スディル氏、あれほど手を出してはいけないと申しましたのを、ちゃんと守って下さったんですね」
猊下が嬉しそうにゲズゥに笑みを向けた。
「……」
それに対してゲズゥは反応を示さない。
(きっと猊下に言われたから動かなかったんじゃなくて、自分なりの理由があったのね)
ミスリアはそのように想像した。
穢れた魂の人間が聖地に踏み入ってはいけない、なんてルールは彼にとっては大した抑制にならないだろう。それよりも踏み入れば自分までどうなるのか予測ができないのだから、迂闊に動けなかったのではないか。
「さて、私はそろそろ失礼します。聖女ミスリア、貴女はまだこの町に滞在されますよね?」
ナキロスの教会に勤める司祭が席を立ち上がった。
「はい神父さま、少なくともあと数日は」
鍛冶屋からゲズゥの修理された剣などを受け取らねばならないのだから、この町には用事が残っている。
「ではまた後ほどお話しましょう。別件について、貴女の意見をお聞きしたい」
そう言って教皇猊下も席を立つ。
「私でよければお話をうかがいます」
立ち上がり、ミスリアは敬礼した。
「ええ。今晩はゆっくりお休みなさい」
「ありがとうございます」
ミスリアが深く頭を下げる。どんな挨拶でも猊下が話すと音楽的に聴こえる、となんとなく思った。
そうして二人は会議室を辞した。彼らは他に仕事が残っているのだろうか。今夜は晩御飯の席で顔を合わせることが無いだろうと予感がした。
戸が閉まり、ミスリアは小さくため息をついた。半日過ぎた実感が無かった。自分では何もしていないと思っているのに、身体がまるで長時間運動をしたみたいにとんでもなくだるい。
(最近こういう流れが多いわ。これって、体力つけるべき?)
どこか的外れなことを思いながらも、ミスリアは伸びをした。
振り返ればゲズゥはいつも通りに腕を組んで、静かな目をしていた。凪いだ湖面と似た落ち着きを感じさせる。
ふと目が合うと、意外なことに、彼の唇が動いた。
「お前は、よく崖から落ちなかったな」
低い声がそう指摘した。
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