05.d.
2012 / 01 / 15 ( Sun )
 最初、なんて言ったのか飲み込めなかった。
 次に頭が勝手に想像し、吐き気を催した。反射的に口元を手で抑える。

 なんて、残酷なことを。
 ミスリアは眩暈がした。なおこみ上げてくる吐き気を意思だけで制する。目に溜まる涙で視界が霞む。

 すぐそばに、手綱を握るゲズゥの手があった。今までに何度もミスリアを助けた大きな手が、急に赤黒い血に塗れて見えた。動物や魔物ではなく、自分たちと同じ人間の血。悪臭が鼻をついた。
 ――幻覚だ。すぐに消えたものの、悪寒は残る。

(私はもしかして、とんでもない間違いを犯したの)
 彼が誰かを拷問にかけたということも、解体して捨て置いたことも、調書に記されてなかった。しかし本人が認めたからには、実際に起きたことと受け入れねばならない。

「一度きりだ。俺はいつもはそんな手間をかけない」
 ゲズゥはそのようにも付け加えた。

「貴様――ゆるさないゆるさないゆるさない!」
 兵隊長は逆上して突進してくる。

 いつの間にか抜いた曲刀で、ゲズゥは槍を受け流した。ミスリアは巻き込まれないように縮こまる。間に一人いるので、ゲズゥは下手に間合いを詰められない。この場合、長い槍の方が有利だ。
 兵隊長とゲズゥは何合か打ち合った。見た目ほど力の差は無さそうだが、兵隊長が押している。

 ミスリアはチラリと目線を上へやった。相変わらず、ゲズゥは涼しげな顔をしている。いっそ、この男には心がないのではないかと危惧した。いや、そんなはずはない。人間なのだから、総ての行動は何かしら考えや気持ちに基づいているはず。きっと理由があって、残酷な真似をするのだ。そうでなければならない。

 それでも、深い理由をもってしても正当化できない行為は確かにある。道徳を持たなければ人間とてただの獣だ。

(ああもう、わけわかんないっ)
 ややこしく考えてる場合じゃない。問い質すなら後にしないと。ミスリアはひとまず諦めた。

 ――ギィン!

 一際大きな音を立てて、鉄と鉄がぶつかり合う。その勢いで、ゲズゥの手元から曲刀が回転しながら離れていった。まずい。
 ゲズゥの心臓めがけて、槍の先が迫る。

 それを彼は、左腕を出して止めた。刃が前腕の肉に食い込み、骨に当たる。なんとも気色悪い音がした。
 兵隊長がひるんだ隙に、ゲズゥは右手で槍に力を込め、横に押してずらした。引かれるようにして、兵隊長はドッサリと落馬する。体重と鎧の重さが合わさって衝撃も大きく、すぐには起き上がれないだろう。

 躊躇なく槍を腕から抜き、ゲズゥは黒馬に蹴りを入れて逃げるよう促した。傷口から噴出す血にはお構いなしだ。
 彼は周囲の兵を踏み散らしながら強引に進む。まさしく人の命をなんとも思って無さそうな振る舞いだ。止めようか迷ったけど、結局ミスリアは声が出なかった。否、出そうとしなかった。

「止めろ! 矢を射るんだ!」
 兵隊長が命令した。
「しかし、聖女様に当たったらどうします――」
「背後からなら問題ない! 奴のほうが的が大きい」

 すぐに、弓の弦が弾かれる音がした。背後から複数。
 黒馬の足は速く、林の中では的を定めにくいこともあり、なかなか当たらない。

 が、ついに一本の矢が馬の尻に刺さった。
 馬が大きく嘶き、痛みに驚いて棹立ちになった。
 立ち止まった一瞬のせいで、また一本の矢が的を捉えた。

 音と衝撃に驚いてミスリアは身体をびくりとした。
 例によってゲズゥは動揺ひとつ見せず、すかさずミスリアを右腕で抱えて馬から飛び降りた。

 着地にわずかな乱れがあった。
 ミスリアは後ろを振り向いた。

「矢が!」
 ゲズゥの左肩辺りに、長い木製の矢が刺さっている。貫通はしてないらしいが、前腕の出血と合わせれば手当ては必須だ。毒矢である可能性だってある。

「ほっとけ。それより掴まってろ」
「そんな……えっ!?」
 ゲズゥは右腕だけでミスリアを抱え上げて肘に座らせるように固定した。ちょうど、親が子供にするように。体格差のおかげでそういう体勢になれる。彼はそのまま疾走し出した。
 吃驚して、とっさにゲズゥの肩を掴んだ。それが怪我の集中している左側だと気付いて、力を緩める。

 傷を負った状態では長くもたないだろう。いつミスリアを取り落としても仕方ない。かすかに、腕が震えている気もする。それはきっとミスリアの体重を支える力が不足してるからではなく、激痛に耐えているから。
 やむをえまい。一旦迷いも捨てることに決めた。

 ミスリアは、ゲズゥの首に腕を回しながら、治癒のために聖気を展開した。

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