22.f.
2013 / 05 / 15 ( Wed )
 顔を上げ、ミスリアは差し伸べられた手を小さな両手で口元に引き寄せ――教皇の右手の中指に嵌められているごつい指輪に口付けを落とした。
 ゲズゥは片眉を吊り上げた。男が女の手にキスするのはそれなりによく見る挨拶だが、女が男にそうする場面は初めて見たかもしれない。

「よくぞ無事にここまで辿り着けましたね。安心しました。貴女は世に出た聖人聖女たちの中でも最年少ですし、何かと気がかりで」
 教皇は子供か教え子にするように少女の頭を優しく撫でた。ミスリアはくすぐったそうに身じろぎする。

「ありがとうございます、猊下。苦難あれど、何とか旅を進めています」
 ミスリアの返答に教皇は満足げに微笑むと、今度はゲズゥへと眼差しを移した。振り向く際に、低い位置で一つにくくられた髪が揺れた。

「左目がうまいこと黒い前髪に隠れていますけれど、貴方がゲズゥ・スディル氏ですね。お初にお目にかかります、私はヴィールヴ=ハイス教団を代表する者の一人。位は教皇。聖女ミスリアがお世話になっております」
 優雅に一礼してから教皇は右手を伸ばした。数フィート離れているというのに、まさか握手しに来いとでも言いたいのだろうか。ゲズゥは微動だにしなかった。

「ちなみに指輪にキス、は信徒の挨拶。信徒じゃないなら握手でいいんだよ」
 エンが楽しげに耳打ちしてきた。
「教皇っつーと最高責任者だな。そいつの握手を拒むのって、スッゲー失礼だと思うぞー? 従者の黒い兄弟に刺されるかも」
 そういうエンも失礼な口を利いていたはずだが、特に問題ないのか、教皇や兄弟からの反応は無い。

「俺に礼節を重んじろと」
「ココの飯食うつもりなら重んじた方がいーんじゃねーの。ミスリア嬢ちゃんの生活費とか教団からもらってんだろーし。お前も世話になってんじゃん?」
 声を小声から普通の音量に戻し、エンは肩をすくめた。

「貴方の釈放を許可したのも私ですけれどね?」教皇がにっこり笑う。「おかげさまで対犯罪組織の怒りを買ってしまいましたよ。とはいえ元々あの組織もシャスヴォル国もいちいち過激です。死は本当の意味では贖罪になりえませんのに」
「…………」

 どうやらこの男は死刑に対して反対のスタンスを通しているらしい。だからこそ「天下の大罪人」の釈放に繋がったのだろうが、それでも礼を言う気になどならない。
 ゲズゥは沈黙の内にいくつかの事項を考慮し、主にエンの意見を取り入れて噛み締めた。

 この優男教皇と友好関係を築いた方が今後動きやすそうだろうという結論に至り、重い足取りで教皇の前まで歩いた。顔を見ずに、奴の骨ばった細い手に己の手を重ねた。想像通りの弱い握手が返ってきた。

「時に、スディル氏」
 何故かシーダーの香りが鼻をかすめた気がしたのと同時に、教皇の握手に見た目からは想像できない強い力が加えられた。反射的に抵抗しかけ、思い直して力を抜いた。相手の骨を折る結果を招きかねない。

「経過はどうです。貴方にとってどのような行路であるのかは存じませんけれど、我々の大事な人財に、まさか呪いをかけたりはしていませんね?」
 脈絡の無い問いかけにゲズゥは教皇の白い顔面へと目線を上げ、瞬いた。

 ――旅の途中でミスリアに呪いをかけたりしていないか――?

 普段のゲズゥならば馬鹿馬鹿しいと一蹴するか無視するような、くだらない質問である。
 そんな心配をするぐらいなら最初から釈放を許可しなければいいだろうに。そもそも「呪いの眼」という呼び名から派生する誤解と迷信を信じているなら、当人に面と向かって訊けないはずだ。冗談に過ぎないのか、教皇の意図が掴めなかった。

 ところが優男の鮮やかな青い双眸や掌を圧迫する握力が、何故か言い逃れを許さない雰囲気を湛えている。意図が何であれ半端な答えに納得するとは思えない。いっそ今からでも無視してやろうか、と奴の顔から視線を外した。

 不安と気遣いに表情を曇らせる少女の姿が目に入り、ゲズゥはしばらくミスリアの茶色の瞳を見つめて更に思考を巡らせた。
 気遣いの心が何を意味するのかはわからない。ただ、他でもないこれからも一緒に旅を続けなければならない聖女に、こっそりと化け物と疑われるのは面倒ではある。

「…………思い過ごしだ。左眼に他人を呪う力は無い」
 やがてゲズゥは、これまでぼかし続けてきた問題について、今は真実を答えるべきだと判断した。

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