17.b.
2012 / 10 / 19 ( Fri )
 一人取り残されたアズリは髪をかき上げながら笑った。
 寝台の上で脚を組み替える。

「女を焦らすなんてひどいわね。でも、今のアンタの方が昔よりもずっと、ずっと面白いわ」
 悪戯を企む子供のように、彼女は唇の両端を吊り上げた。

_______

 自覚が無かった訳ではない。
 己の内に芽生えつつある望みを認めたくないだけで、だからこそいつもそれを頭の片隅に追いやっているのだ。
 大蛇の姿をした魔物の上顎と下顎を素手で掴んで引き裂きながら、ゲズゥはそんなことを思った。

 瞬間、何故か大量の血液が噴き出したため顔を逸らしたが、遅かった。髪から足の指まで、全身にたっぷりと紫黒色の液体がかかる。泥っぽいぬるま湯をかぶっているような不快感を覚えた。

 ゲズゥは瞼の回りを擦った。
 一度腹から息を吐いて、雑念を振り払う。
 右に一匹、前方にもう二匹――二体? 左前には人間が居るようだが、気を配ってやる義理は無いので放置している。

 前方の魔物たちは生き物というよりただのでこぼことした塊でしかない。素手ではやりづらい予感がするので、ゲズゥは右の芋虫に似た個体を先に片付けることにした。
 壁を伝い走って勢いを付け、頭に該当するであろう部分を思いっきり蹴り飛ばした。芋虫が倒れる間に、壁にかかっていた松明を手に取った。
 蠢く巨体に松明の火をつけると、次第に芋虫は燃え上がった。腐った肉が焼き上がるような臭いに、ゲズゥは鼻を手の甲で覆った。

「うわあ!」
 塊に襲われているらしい一組の男女が隅に縮こまっていた。そういえば此処は誰かの寝室に当たるらしい。
 ゲズゥの視線は二人と二体の上を通り過ぎ、手前に座り込んでいる少女の横顔に止まった。

「ミスリア」
 特に何も考えずに少女の名を呼んでみる。
 肩を震わせ、呼ばれたミスリアはゆっくりとこちらを向いた。

 少女の大きな茶色い瞳は先ずは驚きと怯えに見開かれ、次には安堵の色を映し出していた。
 おそらくは、この血塗れの姿に驚いていたのだろう。
 しかしゲズゥは、確かに見たのだった。

 振り向く直前のミスリアは恐怖を表情に浮かべ、今の今までゲズゥの存在に気付かない程に恐怖の対象を見つめていた。
 視線の先に居たのは、魔物ではなく、あの二人の人間だ。
 どう見ても恐れるに足る人間には見えないが、ゲズゥが到着する以前に何かがあったかもしれないので、一概には言えない。

 ――さて残された魔物をどうしようか――と考えていたら、誰かが後ろから飛び出し、直刀で塊たちを素早く切り刻んだ。
 ぼとっ、ぼとっ、と小さくなった黒い塊が散り散りになる。案外、呆気ないものだ。

 急に現れたその人物に誰もが驚愕する中、ゲズゥは一人感心していた。
 何故ならその男はいきなり現れたのではなく、巧みに気配を消して影の中に立っていたからだ。

「アニキ! すいませんっ」
 すかさず男の方が立ち上がり、謝罪した。
「別にいいぜ」
 遅れて現れた男はけろりと謝罪を流し、刀を収めた。すぐに助けに入らなかったことに微塵も後ろめたさを表していない。

 ゲズゥにもそれが誰なのかすぐにわかった。勿論、名前は覚えていないが。
 左頬に黒い墨で描いたような複雑な模様。頬骨から顎下まで続くそれは、パッと見た印象では文字が絡んでいるようで、同時に絵のようでもある。
 顔の模様があまりに目立つためか、男の他の特徴はなかなか記憶に残らない。

「で、何か揉めてたん? 魔物云々の前にも騒いでんの聴こえたぜ」
 模様の男はミスリアとベッドの上の下着姿の男女を見比べ、訊ねた。
「え、そこの小娘が盗んだ物返せーって」
「ふーん。何盗んだんだ」

「こいつが、風呂ん時に、水晶の付いた銀ペンダントを……」
 男は自分に寄り添う女を指差して言った。
「な、何よ。客人だとか言ったってこれくらい、盗られる方が悪いでしょ!?」
「それは別に否定しないけどさ」
 模様の男がやる気無さそうに頷いている。

「嬢ちゃん、大丈夫?」
 同じやる気の無さそうな声色で、模様の男が問いかけた。一歩、ミスリアに歩み寄る。
「……っ」
 ミスリアは体を強張らせ、両手を固く握り合わせた。その間に恐らくあの銀細工のペンダントがあるのだろう。

 こちらが目を瞠るほどに怯えている。
 確かにぬくぬくと安全な場所で育った人間ならば、賊を怖いと感じるのは当然かもしれない。しかしそれにしてもこの怯えようはおかしい。

 思えばミスリアは最初から、魔物などよりも人間を怖がっていたのではないか――ふと、そんな考えが脳裏を過ぎった。

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