13.a.
2012 / 06 / 07 ( Thu )
 衝撃は、解放感に似ていた。
 泡の音。水の中を落下する時のみに味わう独特の重圧。
 
 人間の体温より遥かに冷たい水に全身を包まれ、芯まで震える。浮上し、水面を突き破って息を吸い込んだ。ひんやりとした空気が肺を満たす。淡水の臭いは割と好きだ。
 目を開けたまま、再び夜の湖に潜り込んだ。視界の曇りから察するに、藻で月明かりが湖底まで届きにくいとわかる。小魚が足の指を掠めた。長い水草が左手首に絡みつくのを、右手で剥がした。
 
 暗闇自体は気にならないどころか、むしろ安寧を与えてくれるものに感じられる。
 時折、闇の中に浮かび上がる記憶と言う名の映像だけが余計だが。
 昔から幾度となく、繰り返し思い出してきた場面の一つがまた脳裏にちらついている。瞼の裏に焼き付く光景を払いたいがためにとにかく体を動かす。
 
 十代半ばの少年が地面に横たわり、血にまみれた手を伸ばしていた。
 いつだって、少年の全身を汚す血と煤と体液よりも左の眼窩(がんか)から溢れる赤黒い血ばかりが気になる。
 
 ――頼む、――してくれ。――――ったら、かならず――――を―せ――
 途切れ途切れに記憶を波打つ、少年の必死な声。
 
 ゲズゥ・スディルは息を止めて二十秒ほど泳いだ。
 苦しいのは、息をしていないからではない。彼は柄にも無く悩んでいる。

 目が覚めて仕方が無い時は、体を動かすに限る。疲労感だけが確実に深い眠りの世界へ沈ませてくれるからだ。普段はそういう睡眠ばかり取っているので夢すら見ない日が多い。
 気分は未だ晴れないが、諦めて水面を目指した。
 
「眠れないんですか?」
 湖から頭を出した途端に、背後から少女の澄んだ声が聴こえた。
 
 振り返るとそこには、デッキの端に腰をかけた聖女ミスリアの姿がある。縁に手をかけ、白い素足をぷらぷら揺らしている。栗色の髪を後頭部で束ね、身に着けている淡い色のワンピースは暗くてよくわからないが橙か黄色だろう。
 
 小柄な少女は僅かに上半身を傾け、湖面を見つめた。手すりに囲われていないデッキだからできることだ。
 見たところ、眠れないのは寧ろミスリアの方なのではないかと思う。
 ゲズゥは岸に向かってゆるやかに泳いだ。
 
「……夢を、見ていました。怖いというとそうでもなかったんですが、後味が悪くて目が覚めたんです」
「そうか」
 いつもなら相槌を打たなかったかもしれない。今夜はたまたま自分も似たような気分だったからか、つい先を促すような視線を向けた。その意図を受け取って、ミスリアは話を続けた。
 
「螺旋の階段を、のぼる夢でした。目指す先は雲の上にあって見えないんですけど、そこに欲しいものがあると確信を持って走り続けるんです。でも息が切れるまで走っても、たどり着かなくて。疲れて立ち止まって階下を見ると、幸せそうに笑う人が一杯いて、楽しそうだなって羨ましくなって。引き返して階段をくだるんですけど、今度はどんなに頑張っても下の方へいけないんです。いつの間にか上へも下へも進めないんだって解って、自分だけ取り残されたと解って、階段に座り込んで泣き崩れました」
 
 そこで目が覚めたのだと予想がつく。
 ミスリアは両膝を抱き抱えて、膝の頭に顎を乗せた。ワンピースの裾が柔らかい風になびく。
 
 世界に一人取り残される気分なら、ゲズゥには覚えのある感情だった。そんな夢を見るくらいだからミスリアにも何か心当たりがあるのだろう。多少の興味は沸いたが、訊きたいほどでもない。
 ゲズゥは岸まで泳いだ。
 
「夢なら、俺も見た」
 居心地悪そうに目を潤ませる少女に、同情したのかもしれない。気がつけばそんなことを呟いていた。
「どんな夢でしたか?」
 茶色の瞳には驚きが彩られた。
 しかしその質問には答えず、ゲズゥはひとりごちた。
 
「……約束を果たすまで、あと一人……」
 両手を岸にかけ、水の中から上がった。
 
_______
 
 湖から岸へ上がってきた青年は全裸であった。ミスリア・ノイラートは一瞬遅れて顔を逸らした。
 下半身に何か穿いていると思ったから吃驚だ。
 
「ご、ごめんなさい」
 デッキに灯りが灯されていないからおおまかなシルエット以外は何も見えなかった訳だけど、一応直視した形になったので、謝罪せずにはいられない。
 視界の端を、細かい傷跡だらけの足が通り抜けた。向こうは気にしている様子は無い。

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