2-1. b
2018 / 06 / 18 ( Mon )
 その問いに対して、母が重くため息をつき、少年は舌をべっと突き出した。
「ながめ? ――ああ、おまえが化け物につけた名ね。もちろん知ってるわ。昔、こっそり唯美子を遊ぼうと誘い出しては、傷や泥だらけで連れ帰ってきた嫌なやつよ」
「そうだっけ?」

 正直、唯美子が思い出せたのは雨の中で出会った最初とその次の邂逅だけである。
 チラリと当事者の方を見やるも、彼は目線をあさっての方向に飛ばして、何も語るまいと唇を引き結んでいる。

「そうよ。百歩譲って遊ぶのはいいとしても、ミズチみたいな化け物には人の労わり方も思いやり方もわからないの。何度も無自覚に危ない目に遭わせたでしょ。唯美子が風邪をひいて帰ってきたのは一度や二度じゃないわ。湖で溺れた時だって――」
 ひと息にまくしたてながら、母は押し込むように入ってきた。慣れた手つきで古びたスニーカーを脱いで揃える。

「吉岡由梨にはかんけーねーだろ」
「関係ないはずがありますか。母親ですよ! 一生心配するし、小言も言わせてもらうわ」
「んなこと言ったって、おいらにはよくわかんねーよ。オヤってーのは」
「わかるはずがないでしょう。化け物だもの」
「わるかったなー、ニンゲンじゃなくてー」
 応酬は一向に止まりそうにない。これではいけない、と唯美子は駆け寄った。

「ね、立ち話もなんだし、二人とも中で落ち着いて」
 ところがナガメの方がくるりと踵を返した。一度閉まったばかりの扉をまた開けている。
「どこ行くの?」
「てきとーにその辺。そいつが帰るまで、もどらない」

「残念だったわね、今日は泊まっていくわ」
 母が、自身が引いて来たキャリーケースをぽんぽんと叩く。
 少年はそのまま無言で出て行った。晩ごはんどうするのと訊く暇もなく。
(いいのかな……)
 実際、心配する必要はないのだった。彼は以前言った通りに、週に数度何かを口にしただけで十分らしく、睡眠ですら毎日とらなくてもいいらしい。放っておいても自力で生命活動を維持できるだろう。

 何も心配はいらないというのに、胸の奥に沸き起こるこのモヤッとした感触はなんなのだろう――。
 ふと、母の視線と視界の中でひらひらと振られているものに気付いた。薄緑色のふっくらとしたパックだ。

「ちょっと前の旅行のお土産。お高い煎茶らしいわ。これで、お茶にしましょ」
「いいよ」
 破顔し、唯美子は湯飲みや急須を用意した。次にトラの印がついた給湯ポットに向かった。
 二人でちゃぶ台を囲んで、高級煎茶を堪能する。猫舌気味の唯美子には80℃でもまだ少し冷ましたいくらいなので、のんびり飲んでいる。

「大丈夫だよお母さん。ナガメはあんなだけど、わたしを危険に巻き込んだりしないよ。むしろ何度も助けられてる」
 ふう、と急須に軽く息を吹きかける。九月とはいえまだ暑く、水で淹れられなかっただろうかと今更ながらに思案した。これを飲んだら余計に汗をかきそうだが、こうなっては致し方ない。
 母はなかなか言葉を継がなかった。

「……それなら、いいけど」
 今の間は何だったのだろう。色々と訊きたいことができたものの、「仕事どう?」と先に質問されたのでひとまずミズチの話は打ち切られてしまった。

     *

 在りし日の漆原家が住んでいた家は、山麓の住宅街にあった。地価の安い県だ、一般家庭が買えるレベルの一戸建てでも快適に広い。
 当時は三世代で暮らしており、仕事で出払う他の大人たちに代わって、漆原ひよりが孫・唯美子の世話をすることが多かった。唯美子と知り合って間もないミズチも、既にそのことを知っていた。

 ひよりは、こちら側に踏み込んでいるニンゲンだ。漆原に嫁いだ彼女は元からそういった素質を秘めていたらしく、そのことを自覚して、己の潜在能力を引き出す修行をした。
 彼女とは顔見知り程度に面識があったが、それが雨の日に出会った少女の祖母だと知ったのは、より最近の話である。

 ある夏休みの日のことだ。
 蛙狩りに行こうと唯美子を誘いにやってきたら、うかつにも気配を消すのを忘れていた。
 和室の縁側でくつろいでいた和服姿の女が、素早く目を見開いた。

「おまえ……ミズチ、また来たね」
 おう、とめんどくさそうに返事をする。
「帰りなさいな。あたしの目が黒いうちはゆみに手出しさせないわ」
「じゃあ、ひよりが死ぬのを待てばいい?」

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