1-3. d
2018 / 05 / 07 ( Mon ) さかのぼったのが数日分か、数週間分かは定かではない。 ――けがしてる……。ひとつの思考をきっかけに、場面が断片的に再現される。 その日も雨が降っていたが、唯美子は傘を手にしてしゃがんでいた。視線を注ぐ先は、地面でうごめく小さな生き物。 ――あめ、しみちゃう。でもながくてうねうねしてるの、きもちわるいなあ。さわりたくないなあ。 小さな生き物をどこかへ避難させてやりたかったが、運ぶ手段が問題だ。下敷きか何かで拾えただろうに、その時は思いつかなかった。 触りたくないけれど、雨に降られているのがかわいそうだ。結果、傘をあげることにした。後に母に「ずぶぬれじゃない! ちょっと目を離した隙にどうやって傘をなくしたのよ!?」とひどく叱られたものだ。 ――へびってなにたべるのかな。 呟いても、答えはなかった。大人の手の平に収まりそうなほど小さい蛇は、弱々しく頭をもたげようとするだけだ。 ――はやくげんきになってね。 せめてものエールを送るつもりで、唯美子は蛇に笑顔を向けた。 * 建物がひしゃげてつぶれるような凄まじい破壊音の連鎖で覚醒した。 浮遊感に、息が詰まる。寝ぼけた頭が発するそれではなく肉体全体で感じ取れる重力の欠如――つまりは落下が始まる予兆である。 恐怖は抱かなかった。唯美子を包み込む気配が、安心をもたらすものだからだ。 (…………ナガメ) これが偽りの温もりだと言われても、俄かには信じがたい。自身の肩を握りしめる大きな手も、膝を支え上げる力強い腕も、作り物だとは思えなかった。あるいは真偽のほどは大して重要でないのかもしれない。信頼できると直感できるなら、それで十分だろう。 着地の衝撃はほとんどなかった。 「先達に敬意を払えって、習わなかったのかあ? こいつの糸を引いてたのって、あんただな」 成人男性の姿をしたナガメが、毒を含んだ声で言い放つ。 数秒ほどの沈黙。さきほどまで喫茶店であったはずの瓦礫の下から、先にマスターが這い出て、恐縮したように深く頭を垂れた。 「まさか近くに上位個体がいたとは気付かず……礼を欠いてしまい、申し開きもありません」 「おう。わかりゃーいいんだよ」 「これからどうするおつもりですか。我々はニンゲンの法では裁けない。顔を変えることも、DNA鑑定をごまかすことだってできます」 「おとなしくどっか遠くに消えるんならどうもしないぜ。俺は別に、餌場荒らしがしたかったわけじゃねーし」 「慈悲を与えてくださり、感謝」 「はは、お前も大変だな。ニンゲンの味をおぼえた獣《ケモノ》は、大抵は餓え続ける。俺たちは確かに新鮮な内臓を喰えば生命力が跳ね上がるけど、喰った相手の思念も己の血肉に吸収されるからな。その業を消化できるほどの精神力がなければ、狂った化物と化すだけだ」 次のひと言は、マスターの後方からゆらりと立ち上がった影に向けられていた。 「ニンゲンの思念は、重くて粘っこいだろ。案外ギリギリのとこで理性保ってんじゃねーの」 「せっかくの、すごく、うまそうな、エモノ! じゃまを――するなぁっ!」 影は威嚇するように呼気を吐いた。察するにこれが笛吹の本性なのだろう。「これ」と会話して食事をしていたとは、なんと不気味な……。 「頭冷やせって。もっかい吹き飛ばしてほしいみたいだな」 唯美子はただ息を呑み、悠々としているナガメにしがみついた。 そこに、マスターが間に入って手を突き出す。 「ご心配には及びません。力ある眷属を育てたかったのですが、いつの間に勝手に食の範囲を広げて、収拾がつかなくなってしまいました。この個体はいずれ、私の方で『処理』します」 「おー、ぜったい半径百キロ以内に戻ってくんなよ」 「はい」 二つの影は瞬時に折り重なり、突風を伴って消えていった。悔しそうな雄叫びも一緒になって遠ざかる。 今になって振り返ると、笛吹秀明が真に経理課の先輩だったかどうかに自信が持てない。初めて会ったのがあの合コンで正しいのか、またはいつから勤めていたのかを思い出そうとしても、頭の中に靄がかかったように判然としない。 これまでに得た情報を疲れた頭でかき集めると――彼は、彼らは、人間ではないもので。この周辺で(死体を隣の県に捨てたりして?)、人に害をなしていたのだという。 非日常感が強すぎてなかなか理解しきれない。自分は死にそうになっていたのか。食べられるところだったのか。 騒ぎを聞きつけた者が駆け付けるよりも早く、ナガメもあっという間にその場を後にした。サイレンの反響から離れられたところで、やっと地に下ろしてもらった。 「泣いてんのか、ゆみ。よしよし怖かったな」 「……違うの。わたしは助かったけど、助からなかった他の女の人たちがどんなに怖かったのかと思うと、ほんとにこれでよかったのかなって」 ふと頭を撫でる手が止まった。 「報復したいって意味か?」 グロ派手人外バトルを描こうか迷いましたけど、今回は導入部でソフトスタート(唯美子にとっても)なのでおいおい行きます。書く前に抱いていた悪役像が結構あやふやだったので、書きながら勝手に進化していったのが面白かったです。 |
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