1-1. e
2018 / 03 / 10 ( Sat )
「うそっ、うみ!?」
 激しい焦りが急速に全身を巡る。
 夢遊を経験するのは人生で初めてだ。この点だけでも十分に動揺しているのに、行き着いた場所が場所である。

 唯美子はたちまちパニックに取りつかれた。
 慌てて背後を振り返った。
 視覚が頼りない。コンタクトを入れていなければ眼鏡もかけていないからだ。
 光明を見出そうと、とにかく必死に目を凝らした。

 遠いが、疎らに光が灯っているように見える。あちら側に岸があるのは間違いない。
 そうとわかれば――
 安全圏へ進もうとして、足が滑った。波にさらわれたのである。

 喉から飛び出た悲鳴は、黒い海に呑みこまれた。
 皮膚を揉む感触は冷酷で。まだ足が付くような浅い地点であったにも関わらず、唯美子は必要以上に手足を暴れさせてしまった。

(いや! いや、誰か助けて!)
 鼻や口や耳や目が浸食されている。冷たい。怖い。
 なんとか頭を水の上に出すが、視界はますます悪くなっていた。光を反射する水泡がとけてなくなる度に、果てしない黒に取り巻かれるみたいだ。

「だっ、だれか……!」
 必死に出した声はか細く、あっさりと風にかき消されてしまった。
 次いで、むせた。しょっぱい味が不快だ。
 ――ここはどこ。
 岸は近付いたのか、それとも遠ざかったのだろうか。近くに船はないのか。

 ――誰か。見つけてくれる誰かは、いないの!
 寒い。激しい波に翻弄される。泳ごうともがいたが、濡れた衣服が絡みついて、手足の疲労は早かった。
(落ち着いて、落ち着かなきゃ。平泳ぎってどうやるんだっけ)
 波に揺らされるほどに平衡感覚が失われていった。こうなっては浮力も何の役に立ちやしない。

(やだ。おぼれるのだけは――)
 いやいやをするように頭を振る。水中では嗚咽すら満足にできなくて、ただただ苦しい。
 行き場のない恐怖が胃の奥に固まった。
「が、は……だ……」
 空気を飲み込めるタイミングが、間隔が次第に長くなっていった。
 酸素が足りない。意識が途切れそうになる。

『めんどーな目に遭うぞ』
 こういう時に、どうしてか頭に浮かぶのはあの子供の警告だった。
(面倒どころじゃないよっ……!」
 肺が痛い。耳も目も。
 二十代で死にゆく自分を、かわいそうに思う余裕はなかった。走馬灯を見る時間も――

 ――突如、腹部と膝周りが圧迫された。
 ごぼぼ、と吐かされた息が泡になる。
 瞑っていた目を開けても、暗くて何も見えない。
 巻き付いた何かが、唯美子の体を運ぼうとしているらしかった。手探りでそれに触れてみる。
 滑らかな触り心地ながら、微かにでこぼことした表面。

(うろこ……へび? 蛇はちょっと、もうしわけないけどおことわりしたいな……)
 南米のアナコンダならいざ知らず、日本の海にこうまで太い蛇がいるはずがなかった。きっと錯乱している。錯乱ついでに、抗う力が沸かずにぐったりとされるがままになった。

 じきに、水の呪縛から解き放たれた。
 気が付けば仰向けに倒れていた。背に当たる大地の確固たる手ごたえが、いまだかつてないほどに愛しい。
 砂を手で握りしめながら泣き笑いした。この瞬間に我が身に広がった安心感を、今後も忘れることはないだろう。

 やがて、はっきりしない視界の中に何者かの輪郭が浮かび上がる。肩幅の広さからして成人男性――浜へいともたやすく唯美子を引き上げてくれたのだ、男性の腕力でこそ可能といえよう。
 腕力――お腹と膝を抱いていたあれは、人の腕だったのだ。そう、無理やり自分に言い聞かせた。

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