五 - e.
2017 / 05 / 18 ( Thu )
(口説かれているのだとしても……)
 検証の仕方がわからないのが本音である。これまでの人生を振り返ってみても、異性にこんなことを言われたのは初めてだった。
 それもそのはず、公女という身分が壁となっていたのだ。兄弟の友人も、宮殿に仕える使用人も役人も、たまに会話してくれた兵士や護衛ですら、一線を引いて接してきた。

 引き合いに出せるものと言えば、経験ではなく聞いた話か架空の物語。しかしそこからも役に立つ情報は得られない――相手の真意を測る為に欠かせないとされるのは「顔」で、この場合は、赤面をしているのか否かだ。
 残念ながら元々エランは褐色肌で顔色が窺いづらい上、もう日はほとんど暮れてしまっていて暗い。蝋燭の明かりの中では、誰であっても赤みを帯びているように見えよう。

(水蒸気も邪魔ね。払いたいけど、手で煽いだら挙動不審か)
 残された手段は言葉で本意を引き出すくらいである。
 いくら歯に衣着せぬセリカでも直接訊くのはさすがに憚れる。けれども、喋って欲しいと彼は言った。この機会に思い切ってひとつ核心に迫る問答をしてもバチは当たらないのではないか?

「……あのね。だったらあんたに……訊きたいことがあるわ」
 目線を彷徨わせて呟く。
「何だ」
 靄が僅かに薄まった。こちらに首を巡らせた青年は、いかにも答えてくれそうな姿勢を見せている。

 セリカはすぐには言葉を組み立てることができず、膝上に両手を握らせたり、貴金属の腕輪を触ったりした。
 沈黙が重い。
 間を置けば置くほど言い出すのが難しくなりそうだ。意を決し、勢い込んで声量を上げる。

「こ、この際だからはっきり教えて。エランは結婚相手に、何を求めてるの」
 青灰色の瞳を真っ直ぐに見つめて訊ねた。
 不意を突いたらしい。あれほど穏やかに続いていた呼吸が突如として乱れ、青年は二、三度咳き込んだ。散った水蒸気からタバコの甘ったるくて濃密な香りが漂う。他人の吐いた息をそっくりそのまま自分の中に取り込んでいるみたいで、セリカは落ち着かない心持ちになる。

「……――いきなりそれを訊かれると答えづらい」
 その声がどこか恨めしそうに聴こえたのは、気のせいだろうか。それとも噎せて息苦しいだけなのか。
「そうかしら」
「ならお前はどうなんだ」
 矛先を向けられて、セリカは怯んだ。

「う、わ……わかったわよ。じゃああたしから話す……から」
 今更ながら、なんて話を切り出してしまったんだと後悔した。相手に求める分だけ、己も本心を明かすのが道理である。
(ええと、何を求めているか、ね。あたしは婚約者にどうして欲しいんだっけ)
 言葉を探る。恥ずかしさに眩暈がする――酒が回ってきたからかもしれないが。やっぱりこの話は無かったことにしようかと、一瞬迷って、思い直す。

 ――取り消せない。だって自分は、知りたいのだから。
 そして多分、知って欲しくもあるのだろう。

「あたしは、ね。リューキネ公女が愛妾って名乗った時……まあ仕方ないと思ったわ」
 視界の端でエランが眉を吊り上げたのが目に入った。構わずに話し続ける。
「親が決めた婚姻だもの、不都合ばかりだろうなって最初から予想してたのよ。だから婚約者に、他に腕に抱きたい相手がいても……夫婦間に愛が育めなくても、義務を最低限果たせればそれでいいかなって」

 ここまで言って、空しさを覚える。
 セリカは膝を抱えて丸まった。宵闇を見上げて小さくため息を吐く。

「ほら、あたしってこんなだから、女社会にほとんど溶け込めないでいるわ。だからせめて結婚する男とはわかり合ってみたかった。恋愛じゃなくても良好な関係を――つまりあたしが欲しかったのは…………遊び相手? って言い方は、なんか変ね。えっと……相手をしてくれる人。姫らしさがどうとか言わずに、一緒に色んなことに付き合ってくれないかなって、ちょっと期待してた」

 愛情や友情が無くてもいい。足並みが揃わなくてもいい。時々構ってくれれば、それで充分だ。

「対等な関係じゃなくても我慢するから、女友達が付き合ってくれない遊びに――」
「何故、過去形で語る」
「え」
 反射的に視線を右横へ向けた。すぐ近くでエランは呆れたような顔をしていた。

「まるで望みを捨てたみたいに話すんだな。それくらいなら叶えてやれるが」
「え?」
 この独白は、笑い飛ばされるか流されるものかと思っていた。真剣に取り合ってもらえるものとは思わなかったので、セリカは間の抜けた返事しかできなかった。

「武術の稽古がしたくても、私は止めない。共に弓を引くのは無理だが……そうだ、遠乗りにでも行くか」
「ええ、遠乗り!? いいの!」
 食いつかずにはいられない提案である。思わず身を乗り出した。が、すぐに鼻先の近さに仰天して後退る。
 エランは苦笑して話を続けた。

「ルシャンフは限りない空と、雄大な大草原の地だ。馬を走らせると爽快だぞ。お前の知らない『自由』を見せてやろうか」
 挑戦的とも取れる笑み。
 対するセリカは、子供みたいに心が躍るのを自覚した。それはきっと双眸に、声や表情に、滲み出ていることだろう。

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11:42:57 | 小説 | コメント(0) | page top↑
五 - d.
2017 / 05 / 15 ( Mon )
「元から、突然体調が崩れることがあった。今回が特に危険かはわからない」
 無感動に彼は語る。「常時この城に専属医が居るように、聖人聖女もひとり雇いたかったようだが……彼らはそういう依頼を受けないらしい」

「そうでしょうね」
 聖人または聖女とは――このアルシュント大陸の中北部に拠点を置く唯一にして最大の宗教機関、ヴィールヴ=ハイス教団が育て上げている特殊な聖職者の称号だ。傷や病を不思議な力で治せる貴重な人材であり、いくつか他にも重要な役割がある。セリカも一度や二度は会ったことがある。

 天性の素質と厳しい訓練の両方が欠かせないため、その数は極端に少ない。「人類の宝」とも称される彼らは、その特殊能力を大陸の民になるべく平等に――時には最もそれを必要としている地域に――もたらす為に常に旅をしているらしい。為政者だからと優先的に治すことは、教団の道徳観にそぐわないのだろう。

(怪我と比べて病気への効力はムラがあるのよね、確か)
 であれば、どのみち常駐の者がいたからと言って助かるとも限らない。
 難儀ね――とセリカは小さく感想を漏らした。隣の公子は何も反応しない。
(病だけじゃなくて人間関係も難儀みたい)
 正面を向き直り、果実酒を更に喉に流し込む。初めはまろやかに感じていた喉越しも、量を経る内に次第に辛いような気がしてきた。

 空の色合いが翳ってきて魅惑的だなあ、などとぼんやり思い始めた頃。ふいに空気が動き、蝋燭の炎が揺らめいた。
 エランが立ち上がって寝床の脇を漁りに行ったのである。しばらくして、見覚えの無い道具を持って戻ってきた。

 奇妙な形の器だった。黄銅でできた管のようだが、最下部と最上部は幅広くて丸い。最下部の丸みからは細長い管が枝分かれて突き出ている。
 天辺の蓋をパカッと開けて、エランがこちらを一瞥する。

「吸ってもいいか」
「構わないわ。ていうか喫煙具だったのね、それ」
 ゼテミアン公国で見てきた煙管の類とは大分違う――彼がその器具を準備する手順を、興味深く眺めた。
「ここではガリヤーンと呼ぶ。濡れたタバコを用いた吸い方だ。まあ、人が集まれば大抵誰かが引っ張り出してくる」
 各部位は取り外し可能らしい。最下部に水を入れ、上の方にはぬちゃっとした、おそらくタバコである塊を詰めている。

「昨夜は見なかったけど」
「女子供の比率が高かったからだろう。そういう場では、あまり褒められたものじゃない」
「どうして?」
「知らん。かつて誰かが言い始めたからそうなったんじゃないか」
「伝統って時々いい加減よね……」

「吸ってみたいのか」
「ううん、興味ないわ」
 エランが一個の石炭に火を点けた。トングで挟んでガリヤーンの最上部にのせ、蓋をする。それから数秒ほどして、枝分かれしている方の管に口を付ける。

「あんたは好きなの?」
 長い息を吸って、吐いて、やがて青年は答えた。
「それなりには」
「ふうん」
 喫煙している時の音や臭いに不快感は無く、ただなんとなくエランは今くつろいでいるのだという印象を受けるだけだった。片膝を立てて空を仰いでいる姿勢からも、気が緩んでいるのがわかる。

 先ほどまでにこの屋根上を満たしていた緊張感はいずこへと消えていた。セリカも幾分くつろげた気分になっている。酒の効果もあって、ふわふわとした温かさが手足を駆け巡っていた。
 目を細めて夜の風を頬に感じる。被り物をしていなければもっと気持ちよかったのかな、でも寒かったかも、と緩やかに思考を巡らせ――

「何か喋ってくれ」
 その一言は、ともすればせっかくのくつろぎ空間を台無しにしかねなかった。無意識に口を尖らせる。
「無理して会話を続けなくてもいいでしょ。静かに座ってるだけの時間も、あたしは嫌じゃないわ。気になるならこの前みたいに笛を……って、吸ってるんだからダメか」
「私も別に、静寂が嫌ということはない」

「じゃあ何が」
「静寂は好きだが、お前の声も話も結構好きだから、もっと話してくれないだろうかと思って」
 遮ってまで被せられた言葉は、意外なものだった。
 もやぁっと水蒸気が辺りに広がる。セリカは靄を見つめたまま絶句した。

(公子サマ、それはどういうアレですか。口説いてるんですか)
 相手の表情が見えないので、ひたすらに悶々と考える。

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06:30:13 | 小説 | コメント(0) | page top↑
五 - c.
2017 / 05 / 09 ( Tue )
「カーネリアンとガーネットも似合ってはいるが」
 青灰色の瞳が見つめる先は、セリカの首の下から胸元を飾る豪華な装飾品だった。
「これは大公陛下からいただいたものよ?」
 ゴブレットを卓に下ろし、首下に連なる宝石を無意識に撫でる。ケチをつけられようにもセリカの好みとは無関係なのだ、との無音の抗弁のつもりだった。
 青年の表情が瞬時にむすっとなる。

「その父上の見立てが、いまいちだと言っている」
「そんなこと知らないわ。何であんたが眉間に皺を寄せるわけ」
 文句があるなら本人に申し立てればいいでしょ――とは言わない。父と子を隔てる身分という壁が、分厚いのはわかっていた。
 青年が顎先のちょっとした髭を撫でて返事を組み立てる間、セリカは一度手放した果実酒の容器を再び持ち上げた。

 液体の表面から立ち上るクローブの香りが、鼻孔をくすぐる。それから果実の甘さ、酸っぱさ、包み込むように濃厚な味わいが、かわるがわる舌を撫でていった。
 想像以上に強い酒だ。ツンとした刺激が脳髄に走り、意識を揺さぶった。

「父上はお前の肌と瞳の色と合わせたつもりだろうが、私に言わせてみれば、安易な選択だな。赤い髪に大量の赤を添えれば、さすがにくどい」
「陛下はあたしの髪色を知らないんでしょ」
 なんとなく大公を庇うような反論をする。

「知ろうとしない、の間違いだろう。下女に訊けば済む話だ」
「だから何であんたが不服そうなのよ」
 要領を得ない応酬にセリカはしびれを切らした。責め立てるようにしてゴブレットを向ける。
 その仕草をどう受け取ったのか、青年は己のゴブレットからぐいっと豪快に酒を一飲みした。更に短く息を吐いて、答えた。

「――もったいないからだ。カヤナイト……ラピスでもいいな。青と緑を使ったほっそりとした型のペンダントの方が、きっとお前の美しさを際立たせる」
 静かな声が、頭の中で反響する。
 さぞや呆気に取られた顔をしていることだろう。不意を突かれて、次の言葉がなかなか出て来なかった。

(あたしの何をなんだって……?)
 礼儀も忘れて公子の横顔をまじまじと見つめるが、先の発言を掘り下げて欲しいと願い出るべきか決めかねている間に、彼はひとりでに話を続けた。
「モスアゲートは調和と自己表現を象徴する。ものによっては白地の内に描かれる深緑の模様が……影だったり森だったり、海に見えたりする」

「へ、え」
 少しだけ興味が沸いてきた。自分を着飾ることにそれほど執着しないセリカだが、美しいものは見てみたい。
「宝石としての価値がガーネットやラピスに劣っても、見栄えはするぞ。今度、取り寄せておく」
 そこでエランはこちらを突然に振り向く。目先で大きな涙型の宝石が揺れるのを、つい視線で追った。

「青にラピスラズリって、あんたの耳飾と一緒になるわね」
 言い終わってからセリカは唇を「あ」の形に固定した。
 ――間違えた。無難なお礼の言葉を返すつもりだったのに。
 語調がきつくなかっただろうか。お揃いが嫌だと主張しているように聞こえただろうか。どうやって取り消せばいいのかわからなくて、微かに身震いした。

 が、杞憂に終わる。

「これはラピスマトリクスというバリエーションだ。一緒といえば、一緒になるか」
 エランは左手の指の間に耳飾の宝石を挟んだ。それを瞥見した瞬間の微妙な表情筋の動きに、セリカの直感が働いた。
 大事なものなの、と問いかける。母の形見らしい、と彼は答えた。

「らしい、って」
「直接手渡されたわけじゃないからな。私が生まれた記念に母が用意したそうだ――いつか成人したら付けるようにと。母は私が成人する前に逝ったから、乳母が内密に預かっていた」
「乳母を信頼してたのね」
「母はヤシュレから嫁いできた時に、最も信頼のおける使用人一家を連れてきた。いや、祖国では奴隷の身分だったか」

「......そっか」
 続ける言葉が思い付かなくて、相槌だけを打った。話は一旦そこで途切れた。
 どうやらエランの母の身の上は今のセリカと似ていたようだ。子への贈り物を異国の地の人間ではなく祖国から連れてきた供に預けた心境も、わかる気がする。

 それからもう一つ、得心した。
 兄弟と言っても母親が四人もいれば子が互いに似ていなくても仕方がないと思っていたが、エランの頬骨や顎は、他のヌンディーク公子に比べて明らかに丸みが無い。彼らよりも鼻の形が細くて、肌の色素もやや薄い。

 加えてエランは、父親にもあまり似ていなかった。すらりと角ばった輪郭はどちらかというとタバンヌスのそれに寄っている。
 目や眉骨や鼻の形など、大公の顔の部分的特徴は、第一公子ベネフォーリと第七公子アダレムが一番引き継いでいるように思えた。

「大公陛下はどこか悪いの」
 物思いの果てで、その質問に至った。「容態が悪化したって話だけど、見舞いに行かなくていいの?」



まだ明日までは絶賛家族孝行タイムですが、昨日ふいに時間が取れたので更新しちゃいます

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22:29:58 | 小説 | コメント(0) | page top↑
どうやらタイムリミット
2017 / 05 / 05 ( Fri )
のようですねぃ。

この後飛行機に乗ってびょーんします。実家にパソコンはあるのですが、家族孝行メインになるため、多分書く時間が取れません。

変なところで区切ってしまいましたねw 続きはまた来週にて! 金曜日とかになると思いますがご勘弁を。

待ってる間がひまだよ! ってもし思われましたら、私の最近のお気に入り作品などをどうぞお読み下さい。ご存知かもしれませんが、バスカヴィル家の政略結婚ってやつです。

好きすぎて布教しちゃう★
http://ncode.syosetu.com/n9274dh/

これ読んで思ったのですが、私はやっぱり人の多い話って書けないんだなーと。上記の物語では政略結婚ひとつにも関わる人物が多く、婚約披露とか新聞掲載もあるのに、セリエラの閉塞感と言ったらw 新聞の無い世界だとはいえw 見えないところで人はいるのですが、私が書くのが苦手なだけです。むしろ書く以前に人ごみとか人が苦手です(ぇ

未熟だった頃はずらずら人物を並べて書いたりもしたんですよ。調子にのってたなぁ。今の私は一場面で六人までが限界なのです… そう、あの晩餐会はキャパオーバーでしたw


ではまたーノシ

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03:21:10 | 挨拶 | コメント(0) | page top↑
五 - b.
2017 / 05 / 03 ( Wed )
「食後酒、飲むか」
 いつしかエランはゴブレット二個と酒瓶らしきものを手にしていた。そういえば自分のことに気を取られて相手の様子を確かめていなかったが、同時に食べ終わったのだろうか。それとも向こうが調整して合わせてくれたのだろうか。
 どのような気遣いがあったのかはわからない。ただ、この場から逃げるべきではないとセリカは判断した。

「いただくわ」
 答えるやいなや、彼は食卓を引き寄せて時計回り九十度に回す。そして手際よく酒瓶とゴブレットを卓に並べた。
「自分で何でもするのって新鮮な感じがする」
 ふとセリカはそんなことを思い、口に出した。
 この場からは決定的な何かが不足している。そう、食器まで自分で片付けねばならなかったのは、使用人の影が全く無いからである。

 二人で食事をすると言っても、こうまで徹底して人払いをするものとは思わなかった。セリカまで、倣ってバルバを階下に待機させたほどだ。
 それに対するエランの答えは、どこか翳っていた。

「人の気配に囲まれるのは好きじゃない」
 しばし、酒がゴブレットに流れる音だけが響いた。
 セリカは躊躇いがちに訊ねる。
「あんたの側に仕えてるのって、あの強そうな人だけなの」
「タバンヌスのことか?」
 訊き返され、頷いた。

「あれは私の乳母の長男、つまり乳兄弟だ。今でこそ従者と主人みたいな形に収まっているが、元々は血の繋がった家族以上に近しい存在……あいつの妹も交えて、本物の兄弟のように育った」
「そう、なんだ」
「まああいつだけで大抵のことは間に合っている」
 ――乳兄弟。
 溢れんばかりの忠誠心だと思っていたものは、案外もっと身近な感情と混ざっていたのかもしれない。

「じゃあこの場所を指定したのは人の気配を感じなくて済むからなのね」
「それもあるが、本命の理由はあれだ」
 酒を注ぎ終わったエランが卓の前にどかっと胡坐をかいた。指差す方向は、セリカのにとっての背後となる。
 試しに振り返ってみた。

「えっ、きれい……!」
 思わず感嘆の声が漏れた。
 西の空が赤い。
 山の向こうに沈まんとする輝かしい円が、まだその圧倒的な存在感を放っている。それを覆う薄い膜のような雲には太陽の橙色が伝い、多様に渡る濃淡を描いている。

 言葉では讃え尽くせないほどに美しい一面だった。

「ここから望める落日は格別だ」
「うん、こんなの初めて見るわ」
 同意しつつセリカは逡巡した。せっかくだから、座ってゆっくりとこの見事な風景を堪能したいし、食後酒も味わいたい。
 それら両方の願望を叶える為には――。
 食卓の長辺はかろうじて二人が並んで座れるほどの幅がある。

 類稀なる景色を観賞する為だ。この男の隣に座ることくらい、受け入れるべきだろう。
 そう自分に言い聞かせて、なるべく自然に腰を下ろした。意図的に「自然」を装うことなどできないとわかっていながら。
 いざ座り込んで、足の向きなどを調整している間に、実感する。

(近い! 塔の上でも隣に座ったけど、今が断然近いわ!)
 黙って静止していると、隣の青年が発する熱すら感じ取れそうだった。気温がやや冷えているだけに。
(べ、別に深い意味はないのよ)
 熱は熱でも、それは人間が生きている限りずっと持っている微熱のことだ。セリカとて常に発している。特段、互いに気が動転して体温が上がっているのではない――はず。

 ぐるぐると制御の利かない思考を持て余した。
 このままでは景色を眺めるどころではないと思い、鉄のゴブレットを持ち上げる。ひんやりとした感触、装飾の手触りなどに意識を向けて、心を落ち着かせようとした。
 そうして果実酒が唇を僅かに浸した瞬間、すっかり聴き慣れてしまったあの声が耳朶を打った。

「モスアゲート」
「え?」
 エランの突拍子のない発言に、ゴブレットを傾ける手が止まる。


女子は14、男子は15からお酒が飲める世界観だよ!

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06:22:54 | 小説 | コメント(0) | page top↑
五 - a.
2017 / 05 / 01 ( Mon )
 ――緊張する。
 平常心とはどのようにして保つものだったか、或いは取り戻すものだったか。落ち着け、焦るな、とセリカラーサ・エイラクスは軌道を見失いつつある思考回路をたしなめる。

(しっかりしなきゃ)
 異性と二人だけで向き合って食事をするなど――かつて百を超える群衆の前で楽器の演奏をさせられた際や、初めて馬の背に乗った際に比べたら、全然大した状況ではないはずだ。しかも昨日は二人だけで塔を上ったというのに。
 こんな風にいくら記憶を辿って比較したところで、今この瞬間の緊張は解消されなかった。

(夕食になったのがいけないんだわ。あたしは陽の高い内に、気楽に済ませられそうな朝食に誘ったのであって。妖しい空気が漂う夜を狙ったんじゃないのよ)
 不公平なことに、向かいの席に座すエランディーク・ユオンは顔の右半分を布で隠している。無意識の習慣に組み込まれるほど長い間そうしてきたのだろう、彼は実にさりげなく表情に影をかけたりしていた。これを想定して蝋燭の位置まで計算したのなら、大したものである。

(あたしだって、できることなら布のかかってる死角側に座りたかったわよ。その方が目を合わせなくて済む……って、あれ。もしもだけど、わざわざ顔を隠しやすいように工夫したなら……)
 エラン公子もセリカと同じ心境であることを示唆する。
(う、わあ。違う違う、そんなわけない)
 妙だった。相手が同じ気持ちであると想像すれば普通は安心できるものなのだが、この場で二人して気もそぞろなのだと考えると、益々身体が強張った。

 それにしてもおかしい。
 広大なムゥダ=ヴァハナの公宮内でこれまでに利用してきた食卓のどれもがやたらと大きかったのに、この夕餉に限って、卓は小さかった。まさしく、最大で二人分の食事しか並べられないようなささやかな長方形である。
 いっそ、この場所の何もかもがおかしい。

 セリカにとっては勝手のわからない宮殿だ、食事をしたくてもどこがいいのかなんてわからない。相手に任せっきりにしたら、なんと提案されたのは屋根の上だった。
 ――エランが寝泊まりしているという例の屋根の上である。
 寝床は清潔で片付けられているものの、間仕切りが立てられていない。空間自体は丸見えだった。

(見られて困るようなものは無いんだろうけど。むしろ殺風景だけど)
 先日感じた通り、どうやら彼はこの辺り大雑把なようだ。寝床を人に見られて恥ずかしいという発想すら持っていなそうだった。
(昨日はあたしも、こいつに部屋を通らせたわ……ううん、ベッドに天蓋がかかってたし、暗かったからいいの!)
 脳内で無理矢理自分を納得させる。

 ぼとり。何かが落下した音でセリカは物思いから抜け出した。パンに挟んでいた細切れの肉が、いつの間にかすり抜けて落ちたらしい。
 視線を感じた。
 落ちた肉を指先でかき集めながら、早口でまくし立てる。言わなくてもいいことまでをペラペラと。

「じ、実は手で食べるの、得意じゃなくて。あんまりキレイにできないの。昨日は頑張ったんだけど、気を張りすぎて味がわからなくなるのよね」
「なるほど。気が回らなくて悪かった」
 エランは立ち上がって近くの小型の食器棚を漁り、スプーンを持って戻って来た。ほら、と言って柄から差し出してくる。

「落ちた分は後で宮殿の飼い猫にやる。食べなくていい」
「ありがと」
 最初から皿の外に落ちた食べ物を食べるつもりなんて無かったが、それは言わないでおく。
 エランに相談すればきっと過ごしやすいようにしてくれる――ベネフォーリ公子が自信ありげにそう告げたのを思い出した。あれからずっと、セリカはもやもやとした感情を拭い去れないでいる。

 雑念を抱えたまま手を伸ばした。
 勢い余って――否、距離を目で測り損ねて――指と指が触れた。

「ごめんっ」
 考えるより先に手を引いた。一拍後、謝る必要なんてなかったのではないかと気付いて、改めてゆっくりとスプーンを受け取る。
「……いや」
 向かいの席の青年は僅かに顔を逸らして唇の端を噛んでいた。その仕草がどういう感情を表しているのか、考えてもわからなかった。

 なんとも微妙な空気の中、皿の上に残る食べ物を平らげた。おそらく、通常よりもずっと早く食べ終わったことだろう。ものの見事に味はあまりしなかった。
 ごちそうさまでした、とセリカは手を合わせた、が。

(しまった! 食べ終わったからってそのまま逃げちゃだめよね)
 むしろ緩慢と食べていれば、口が一杯だから雑談はできませんみたいな暗黙の了解を押し通せただろうに。

 視界からパッと皿が消えた。消えた軌道を目で追うと、エラン公子が使い終わった食器を自ら重ねて片付けていた。かちゃん、かちゃり、との音に呆然となった。
 すぐにセリカも席から立ち上がって、食器を盆の上に積むのを手伝った。



結局更新しちゃったよー☆
今週は帰省する予定ですが、それまでにあと1、2回は更新できると思います。たぶん。

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05:34:35 | 小説 | コメント(0) | page top↑
もう! 弄ばないでよ!
2017 / 04 / 28 ( Fri )
昨日はダウンかと思ったら今日はアップ(?)↑です。

人生ってマジでままならねーな。

相変わらず気持ちジェットコースターみたいな日々が続くと思いますが、人は長い一生の中で絶対にやめないことってありますよね。私にとってはそれは運動だったり音楽だったり、創作です。なので更新ペースが乱れまくることはあっても、完全に止まったりはしないでしょう。ご安心ください。

ストック溜まってません あっひゃー! 

宣言どおりに30日にするか、ちょいと延ばすかは、また考えます。


あ、私自身は大丈夫です、ご心配なく。弄ばれているのは心だけなので。私はゲズゥ側でして、良くも悪くも、身体は自動回復です。家族が大変だというのに自分は今日も快眠(?)快食快便ですよチクショウw

何で私だけこんなに元気なんだろうねむかつくwwwww


ふう。ちょっと黒い感情を吐き出したらマシになりました。個人ブログだし、別にいいよね。気分を害された方がもし万が一にもおりましたら、ブラウザを閉じて三秒で忘れてくださいまし。

わすれろーわすれろー(念

さて、仕事がんばろ。


また次の更新にてお会いしましょう~

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22:45:26 | 挨拶 | コメント(0) | page top↑
ふっひゃああああ
2017 / 04 / 27 ( Thu )
(記事タイトルに深い意味はない)

この頃はリアルのアップダウンが激しく、色々と忙しいけどなんとかタイムマネージメントをがんばってやりたいことを順にやってます。とりあえず今は黒赤をガンガンストック溜めたい。できるかどうかは別として、溜めたいのである。<進捗:1記事半w

で、五話以降に入る前に再度念を押したいのですが、これは恋愛モノです!
なので、恋愛以外の要素のツメが甘くてもあんまり石投げないでくださいね!(とても不安なのです)


まあなんていうかこれはセリカとエランを愛でるお話なので、そこをひたすらにがんばります。

今後もゆる~くお付き合いいただけると嬉しいです。

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23:22:21 | 挨拶 | コメント(0) | page top↑
四 あとがきと補足
2017 / 04 / 26 ( Wed )
おつでーす! よみおわったら どーぞー↓↓




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00:01:04 | 挨拶 | コメント(0) | page top↑
四 - h.
2017 / 04 / 25 ( Tue )
「どうした、タバンヌス」
 リューキネの髪を結い終えたらしいエランが、振り返った。
「ベネフォーリ公子殿下がお呼びです。エラン公子、セリカラーサ公女ご両名にお伝えしたいことがあるそうで」
「わかった。すぐに向かう」
 目配せされた。その意図を汲み取り、セリカはカップに残る茶をひと思いに飲み切る。食器をなるべく静かにまとめて、使用人に手渡した。

「ごちそうさまでした。リューキネ公女殿下、席を立ってもよろしいでしょうか」
「ええ。いってらっしゃいませ、セリカ姉さま。エラン兄さまも。髪、ありがとうございました」
「リュー、あまり風に当たりすぎるなよ。無理は禁物だ」
「わかってますわ。でも今日は本当に気分がいいんですのよ」

「そうだな。いつもより食欲もあったようだな」
 エランは妹姫の被り物を丁寧に直した。それから別れの挨拶を済ませてその場から立ち去る。
 セリカも後に続こうとして、しかし服を引っ張られてたたらを踏んだ。振り返ると、神妙な顔でリューキネが見上げてくる。

「ひとつ忠告させてくださいませ」
「忠告?」
「――殿方の事情に、姫君が興味を持つべきではありません」
 眼光を鋭くして、リューキネは声を潜めた。

「わたくしたちは非力です。想いのままに口を挟んで大事(おおごと)に巻き込まれても、誰も助けてはくれませんのよ。女が出しゃばったのがいけないのだと、笑われるだけですわ」
「なんであたしにそんな話を……」
 問い質してもリューキネは「さあなんででしょう」と曖昧に笑うだけである。そのまま彼女は手を放して、こちらに背を向けた。
 追及するべきではないと悟り、セリカは会釈をして踵を返す。

_______

 鞍上のベネフォーリ公子は深刻そうな表情を浮かべていた。
 彼はこれからムゥダ=ヴァハナを発たねばならないと言う。簡易的な旅装に身を包み、最低限の荷物を馬の背に積んで、護衛も僅か数人を従えている。

「困ったことになった。私が統治する州にて暴動が起こったらしい。発端はまだ突き止められていないが、戻って様子を確かめに行かねばならない。すまない、エラン。結婚式には出席できなさそうだ」
「お気遣いなく。事態が速やかに解決しますように、兄上のご幸運を祈ります」
「ありがとう。それと困ったことはまだある。父上の容態が悪化したそうだ。もしも明日の朝までに良くならないようなら、式は延期されるだろう」
 ――式が延期に?

 花嫁でありながら今日、何の予定も入れられなかった点を思い返す。準備が滞っているように感じられたのは気のせいではなかったらしい。きっとこうなることを見越して誰かが進行を遅らせたのだろう。
 結婚が先延ばしにされる可能性が、セリカを複雑な気分にさせる。
 エランの三歩後ろで頭を下げたままとにかく静聴を続けた。

「それもお気遣いなく。場合によっては、ベネ兄上が戻って来れるほどの猶予を得られるかもしれませんね」
 と、エランは殊勝な返事をした。きっと今頃は長兄に向けて例の作り笑いを見せているのだろうとセリカは予想する。
「そうだといいな。……公女殿下、少しよろしいですか」
 ぶふん、と馬が鼻を鳴らす音が聴こえた。ベネフォーリを乗せた馬が近付いてくるのがわかる。

「何でしょうか」
「すみません。度々、ご迷惑をおかけしています。それに、この国に着いたばかりで不安もあるでしょう。希望があれば何でも気軽にエランに相談してみてください。人には淡白な印象を持たれがちですが、責任感が強い者です。きっと公女殿下が過ごしやすいよう、尽くしてくれるでしょう」

 ――第一公子はヌンディーク大公と似たようなことを言う。
 この時セリカは、もしかしたらまたエランが嫌そうな顔をしているのではないかと気になった。現状、確認する術は無いが。
 それらしい礼の言葉や挨拶で応じてから、二人でベネフォーリ公子の少数の一行を見送った。

(責任感、か)
 件の青年の横顔を盗み見る。
(こいつがあたしに構うのは「責任感」からなのかしらね)
 考えてみれば、会ったばかりの人間に特別な感情を抱いたりはしない。間を埋めるのは礼節や気遣い――ちゃんとした礼節さえあるのかどうか、両者ともに怪しいところだが。

「それならそうと……無理、しなくてもいいのに」
 無意識に呟いていた。
「何か言ったか」
「なんでもないわ」
 セリカは頭を振る。

 面白くないのだろうか、自分は。何か不満なのだろうか。
 森で出会ったのは迎えに来てくれたからではなかったのだと知った時と同様の、気持ちの沈みを自覚する。
 ――これはあてがわれた相手、形式上の関係だ。期待をするような要素は何処にも無い。

 心の中の確たる一線を、セリカは再度認識する。



あとがきは多分明日に…。ねっみい。

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03:24:18 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - g.
2017 / 04 / 23 ( Sun )
「三つ編み四本でいいか」
「お願いしますわ。セリカ姉さまはそこに座って、お茶とお菓子でもどうぞ……姉さまと呼んでもよろしくて?」
 彼女の上目遣いでの問いに内心では「気が早いのでは」と思いながらも、構わないわ、と頷いておいた。
 それにしても、まだ昼食を消化し切っていないというのに菓子を勧められるとは思わなかった。茶だけでもいただこうと、セリカは座布団を引き寄せ、絨毯の上に腰を掛ける。

 四角い卓の向かい側にリューキネが座る。ヴェールを脱いだ彼女の後ろにエランが膝立ちになった。
 少女の、絹の如く細やかな黒髪が露わになる。腰に届く長さのそれは束ねてもあまり厚みが無いように見えるが、その分クセもなくて手触りが良さそうだ。こまめに梳かないと何かと暴走しがちなセリカの髪とは、勝手が違うのだろう。

(あぶれ者ってどういう意味か、訊いてもいいのかしら)
 どこからともなく現れた使用人が小振りのティーカップに茶を注ぐ間、しばしセリカは考え込んだ。
 さすがに踏み込みすぎだ、より無難な角度から攻めた方がいいだろう。たとえばどうして昨夜の晩餐会にリューキネ公女は来なかったのか。けれども答えが「呼ばれなかったから」である場合を想定して、やはり何も言えなくなる。

 こちらが悶々と思考する間にも、三つ編みは着々と出来上がっていく。口では何と言っていても、よほど仲が良いらしい。髪を触らせるのは信頼の証であり、エランの手際の良さも、幾度となく頼まれたからだと推測できる。
 手持ち無沙汰なセリカは、茶と菓子をゆっくりと堪能した。
 三つ編みも残りあと一本となった。途端に、リューキネがニヤリと笑う。

「あなたも気の毒ですわね。こんな、焦土のような男と添い遂げなければならないなんて」
 ぐいっと彼女の頭が後ろに引っ張られた。
「誰が焦土だ。大概にしないと、この髪、とぐろを巻かせるぞ」
「いやー! 下品ですわ兄さま! そんなモノをうら若き娘の頭の上で象ろうだなんて!」
「いい気味だ」

 またおかしな方向性の掛け合いが始まった。正直ついていけない。
 そんなことよりもセリカは「焦土」というキーワードに気を取られていた。焦土の別名は黒土。涅(くろつち)、涅(くり)色、泥の色――。

「ねえ、川底の泥みたいだって言ったのってもしかして」
 ふと思い当たり、訊ねてみる。主語を抜いたのは一応配慮したつもりである。それだけで、彼には十分に伝わった。
「それはアスト兄上だった」
「アスト兄さまが仰ることなら、わたくしも同意見ですわ。何の話かわかりませんけれど」

「話がわからないのに何故入り込もうとする」
「わたくしがいながら夫婦で内緒話なんてするからです」
「それって、あたしが悪いってこと」
 苦笑い交じりにセリカは自分を指差した。
「そうなりますわねー」

「リュー……お前の相手をしていると疲れるな。この宮殿にいながら、人を振り回す稀有な女だ」
 妹の後頭部に向けて、エランがまた大袈裟に嘆息する。
「疲れるだなんて。病弱美少女の世話を、楽しんでらっしゃるくせに」
「病弱美少女らしさがあれば、或いは楽しめたかもしれないが」

「身体が弱いからって気も弱くなければならないなんて誰が決めたんですの? わたくしは生まれ付いての貧血持ちで、今後もきっと子供を産めません。嫁ぐことなく一生を此処でしか過ごせないのですもの。窮屈な人生、せいぜい人で遊んで楽しませていただきますわ」
「ああ。お前はそれでいい」
 そう肯定した青年は、微かに笑ったようだった。

 瞬間、セリカは冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。
 強い語気で言い切ったリューキネ公女を見つめる。こんな風に強気に笑えるようになるまでに、彼女はどれほど苦悩しただろうか。

 生まれた境遇を悲観してばかりの己を恥じた。
 少なくともセリカは健康な身体を持っている。公女としての役割を与えられ、異国の地を踏む機会も与えられた。だからと言って現状に盲目に満足していいわけではないが、もう少し感謝の念を抱いて生きよう、と決意を新たにする。

「あなたの言う通りね、リューキネ公女。静かに儚げに過ごすことないわ」
「まあ、話のわかる方ですのね。嬉しいですわ、セリカ姉さま」
 少女は嬉しそうに両手を叩き合わせた。
 その時――バルコニーの入り口に大きな人影が現れた。失礼いたします、と彼は跪いて声をかける。

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04:48:12 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - f.
2017 / 04 / 19 ( Wed )
 ぶわっと紺色の布がなびく。エランが素早く首を巡らせたのである。
 青灰色の瞳が、激しい怒りに燃えていた。冷たく燃えるという現象が可能なら、こう見えるだろう。
 思わずセリカは立ち竦んだ。

「おい、気色悪い冗談は止せ。この口は戯言(たわごと)しか吐けないようだな、リュー?」
 あろうことか青年は少女の愛らしい口の両端に親指を突っ込んで――先ほど頬をつねった時とは比べものにならないほどの勢いで左右に引っ張った。
「いひゃい! いひゃいでふぁ、いいひゃー」
 少女がバタバタと手を振り回して抗う。

「な、に、が、愛妾だ! おぞましい。私に朝食を戻させたいのかお前は!」
 容赦ない怒号を浴びせかけてから、ようやっと彼は彼女を放してやった。
 非常に話しかけ辛い。それでもセリカは頑張って小声で訊ねた。
「えっと……愛妾じゃないのね」
 青年の心底げんなりした顔がこちらを向く。

「頼むからその単語は二度と口にしないでくれ。コレは妹だ。イモウト」
「あんた妹が居たの」
 驚愕してセリカは僅かに仰け反った。言ってから、昨夜の晩餐会で「公女」の母であると名乗り出た大公妃が居たと思い出す。
(大公の子が揃って男ばっかりなわけないか)
 それならば何故、昨晩は晩餐会に来なかったのだろうか。

「んもう、兄さまったら! 公女の顔を弄り過ぎではありません? それと女性の前で何度も嘔吐を話題にしないでくださいな」
 リューキネは乱れたヴェールと髪を手で直しつつ、不平を並べた。
「うるさい。誰の所為だ」そんな彼女にエランはにべもなく言う。「反省したなら、セリカへの挨拶をやり直せ」

「ええそうですわね。改めまして、リューキネ・ヤジャットですわ。嘘を吐いたこと……お許しくださいましね。エラン兄さまがいたく気に入ったという姫君にお会いできたのが嬉しくて、少しからかってみたくなったのですわ」
 美少女は優雅に一礼した。腕も伸ばせば触れられるこの距離からだと、はためいた衣装の裾から微香が漂う。石鹸の名残か、それとも香油か。柑橘類の香りが少女の明るい色の服装とよく合っていた。

 セリカは返答に窮する。いたく気に入ったとは、またどういった冗談なのか。
 許すも何も、怒っているわけではなく驚いていただけであって――

「ん……ヤジャット? どこかで聞いた名だわ」
「ええ、ええ。あの豚の眷属ことウドゥアル・ヤジャットとは、残念ながら母を同じくしています」
 今度はリューキネが嫌そうな顔をした。長くて広がりのある袖で口元を覆い、吐き気を抑える素振りを見せている。
「ぶ、豚の眷属って」
 言い得て妙だが、自分の兄に対してひどい言い様である。

「否定できまして? ああ、あのような醜い男と出所が同じだなんて、信じられませんわ」
「…………」
 改めて相対すると、リューキネの人形のような愛らしい美貌は目に入れただけで二の句も告げなくなるほど見事だった。造形の美しさはもちろんのこと、装飾品や化粧も狂いなく整えられている。

(鼻ピアスから耳飾が細いチェーンで繋がってるのも、綺麗。エキゾチックというか、色っぽいというか)
 やはり真似できそうにない。
 あのだらしない第四公子とは柔らかい輪郭――丸顔ともいうが、リューキネの方は小顔だ――や垂れた目が似ているが、それだけだ。

「あの男はともかく。せっかく兄さまたちが戻ってらしたのに、なんだかつまんないですわー」
「つまらないって、どういうこと?」
「大した意味じゃない。こいつはアスト兄上に相手にしてもらえなくて拗ねているだけだ」
 傍らのエランが先に答えた。

「どうしてアスト兄さまは構ってくださらないのでしょう?」
「諦めろ。いくら軽薄なアスト兄上でも守備範囲というものがある」
「まあ! わたくしこれでも十四歳ですわよ」
「だが血縁者だ。どう可愛がられたところで兄妹の域を出ない」
「わたくしは、それでもよかったですわ。アスト兄さまは息をしてくださるだけで尊いんですもの。わたくしの兄は、アスト兄さまだけで十分です」

 脚本で組まれたみたいな会話である。
 慣れた様子で展開される掛け合いを前に、セリカは顔を引きつらせた。自分も家族とはこうだっただろうか。今となっては、思い出せない。

「と、この通り、リューは見てくれはいいが中身は単なるアストファン・ザハイルの崇拝者だ。いや、兄上の顔の崇拝者か。お前も気を遣わずに適当に接すればいい」
 ぽすん、とエランは自分より頭一個分は小さい少女の肩に肘をのせた。
「仲が良いのね」
「あぶれ者同士、仕方なく一緒にいるだけですわ。あ、エラン兄さま、髪結ってくださいまし」

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21:27:41 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - e.
2017 / 04 / 17 ( Mon )
「んまあ、ひどい! ちょっとしたお戯れではありませんか」
 リューキネと呼ばれた少女は眉根に皴を刻み、唇を震わせた。怒り方までさまになっているというか、可愛らしい。たとえセリカが真似したかったとしても、到底できそうにない。
「そうか。私はてっきり、急に体調を崩したのかと」
「ご心配ありがとうございます。今日は気分がいいんですのよ」
 彼女は得意そうに鼻を鳴らし、頬をつねる手を優しく握った。

「ならいいが、無理するなよ」
 存外、エランの態度が柔らかい。客観的に分析して、セリカへの対応よりもずっと優しい気がする。
「大丈夫ですわ。せっかくお忙しい中、わたくしに時間を割いてくださったのですもの。頑張って起きてますわ」
 これに対する青年の返答は、セリカにはよく聴こえなかった。ただ、握り合っていない方の手で少女の頭を撫でるのだけが見えた。

(ふうん……孤立してるかと思ったのに。親しい人、居るんじゃないの)
 しかも自分は何を見せつけられているのだろう。親し気な二人に感じる、この違和感は何なのか。
(ああ、そうか。距離感に厳しいこの公宮で、妙齢の男女があんなに積極的に触れ合ってるのが意外なんだ)
 思えば、昨夜セリカに気安く触れてきたのにはどういう意図があったのか。
 あの男にとって「妃」の枠は特別でも何でも無く、誰に対してもああなのだろうか。

 或いは、リューキネという少女こそが特別枠に収まっているという可能性もある。
 ――釈然としない。が、他人は他人でしかなく、心の内を知ることなんて、永遠にできないかもしれない。
 セリカは今度こそ踵を返してその場を去ろうとした。

「そういえばリュー、お前何で共通語」
「あら、あちらにいらっしゃる方はあなたのお妃さまではなくて?」
 突然張り上げられた少女の声。
 逃げ道を塞がれた。

「お前、セリカに会ったこともないくせに。適当なことを言うのもそのくらいに……」
 言葉が繋がれるごとに、声が迫ってくるような錯覚を覚えた。おそらく――彼が振り向いたことによって、音の投げ出される方向や角度が変化したからだ。
 居心地の悪い沈黙があった。背中に、視線が注がれているのがわかる。

 ここで聴こえない振りをして逃げ出せたならよかった。けれど、できるわけがなかった。
 ゆっくりと二人の方を向き直る。姿勢を正し、作り笑いも整えて、少女に向かって「ごきげんよう」と一礼する。

「ごきげんよう! どうぞお上がりくださいな」
 座ったままでお辞儀を返してから少女は破顔した。自分の隣に来いとでも言いたげに、絨毯を軽く叩いている。予想だにしていなかった歓迎っぷりだ。
 貴重な二人の時間を邪魔したくないとか、単に通り過ぎるところだったとか、使いうる断り文句が幾つか超速で脳裏を駆け巡った。本当は彼女がどういう心で誘っているのかを確かめたい気持ちが強いが、己を抑制して黙り込んだ。

「わたくし、あなたにお会いしてみたかったのですもの」
 少女が更に呼ばわる。すかさず「何で?」と訊ね返したい衝動を、セリカは生唾と一緒に飲み込む。
 途方に暮れてエランの方を見やると、彼は卓に頬杖をついて大袈裟なため息をついた。
「上がってくれ、セリカ。こいつの我がままに付き合わせて悪いな」
 あくまで少女の味方をするつもりらしい。完全に断り辛い空気になってしまった。

 ――もうどうとでもなれ。
 従順な公女の仮面を被って、バルコニーまで静かに足を運んだ。階段から廊下に上がったところでタバンヌスとすれ違っても、彼は一切の反応を示さない。相変わらず好かれていなさそうだ。
 招かれた場所は、正確にはパティオバルコニーであった。柱に支えられていて二階からしか行き着けない点ではバルコニーだが、ゆうに八人は座ってくつろげそうな広さである。屋外で団欒する為の場所ならば、パティオでもある。

「ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクスです。初めまして」
 踏み入れて、まずは頭を下げて挨拶をする。限られた視界の中で、少女が青年の腕を支えにして立ち上がるのが見えた。
「リューキネですわ。エランディーク公子の、愛妾です」
 あの音楽的な声で、少女はさらりと自己紹介をした。

「アイショウの方でしたか。よろしくお願いいたします」
 顔を上げずに、セリカは平淡な相槌を打った。
 不可抗力だ。咄嗟にどう思えばいいのかわからなくなって、声音から感情を省いてしまったのである。
 セリカとて大公家の人間だ、上流階級の習慣は知っている。たまたま自分の親は相性が良くて子宝にも恵まれ、浮気などせずに一夫一妻で長年良好な関係が続いているが、それは少数派の事情であろう。
 咎める気は全く起きない。

(妾かぁ……事実だとすると一気にややこしくなってきたな。子供が生まれたら、序列とかどうなるんだろ)
 ほとんど他人事のように受け止め、億劫な気分で顔を上げた。

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09:21:41 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - d.
2017 / 04 / 14 ( Fri )
 セリカはしばしの間、公子の言葉を咀嚼した。
(遠くを見ていて一緒じゃないのが怖い、って家族として足並みが揃わないことへの不信感? それとももっと別の意味が?)
 子供の言うことだ、鋭い洞察眼で深いことを言っているのかもしれないし、的確な表現が出て来なくてこの言葉で代替しているだけかもしれない。

 足並みが揃うかどうかなんて話は、そもそもこの兄弟にとってはあまり意味を持たないような気がする。皆個性の強い者ばかりで、普段は離れて暮らしているのだから。

(この子の感じているものは、あたしが感じた印象とはどう違うのかしら。そりゃ、一日やそこらで人の何がわかるわけでもないけど)
 結婚すれば、一生をかけて知り合う時間がある。考えても仕方ない気がしてきたので、止めた。

「よくわからないわ」
 セリカは諦観じみた感想とため息を漏らした。それを聞いて、アダレムがまた唸り出す。
「ぼくもよくわかりません」
「そ、そうよね、変なこと訊いちゃってごめんなさい」
 子供相手に気まずい空気を作ってしまったことを自省する。
 そこで見計らったかのように、腹の虫が大きく鳴った。セリカは誤魔化すでもなく自然に笑う。

「あたしもそろそろ行かないと。またね、アダレム公子」
「はい! また、ですー」
 アダレムは元気いっぱいに両手を高く振った。会釈して、セリカは溜め池から離れた。
 やがてさりげなく合流したバルバティアが、意味深に口角を吊り上げていた。目の奥の煌めきが、彼女が全てのやり取りにしっかり聞き耳を立てていたことを示唆している。

 ――恋か。恋の話がしたくてたまらないのか。話が膨らむような、大した材料も無いのに。
 侍女の考えに勘付いていながら、セリカは敢えて何も言い出さず、そして彼女にも何も切り出す暇を与えずに足早に朝食に向かった。

_______

 あれから数時間後、過ぎた満腹感をほぐそうと、宮殿の建築物を鑑賞しながら散歩をしていた際に。
 あの男の声が耳に入った。辟易するしかなかった。

(用も無いのにナゼ……! 狭いの? この広々とした宮殿って実は見た目より狭いの!?)
 どう考えてもそれはあり得なかった。ムゥダ=ヴァハナの公宮がいかに贅沢な面積を誇っているのか、昨日から何度か散策しているセリカにはよくわかる。
 それにしても、数秒聴いただけでエランの声だと判別できてしまう己の耳にも驚いた。
 いくらこの地での知り合いがまだ少ないとはいえ――空しくなってくる。

(ともかく、顔を合わせたくないわ)
 つい避けてしまうのは、こう何度も鉢合っていては暇人と思われそうなのが不本意だからだ。そして夜に食事を共にする約束をしている身で今も会ったりすれば、まるで――
(まるで待ちきれないみたいじゃない)
 断じて、そのような浮き立った感情はない。

 セリカは自分が今しがた回るところであった建物の影にて足を止め、一呼吸の後、身を翻そうとする。幸いと今は一人で行動しているので、急な方向転換をしても不審がる供が居ない。
 ふいに風が吹いた。さわり、と優しい音を立てて草花を揺らす。春の暖かさをのせたその風はセリカの被り物のヴェールをも撫でて行った。

 それが通り去るや否や。
 女の子の声がした。抑揚の付け方が音楽的で、可愛らしくも気品のある印象を醸し出す。つい聞き惚れて、聴き入ってしまった。
 共通語ではない。確かこれは、ヌンディーク公国の古くからある言葉だ。初めて聞いた時は喉の奥から絞り出すような音素が多くて粗暴そうな言語だと思ったが、少女が流暢に話すそれは、花の底に秘められた蜜のように甘やかに響いている。

 顔を上げたら、常緑樹のような色合いの双眸と目が合った。すぐさま目を逸らす。足の方は、縫い付けられたように動かない。
 バルコニーに敷かれた絨毯上の卓を、二つの人影が囲んでいた。背を向けている方が会いたくない男のそれで、こちらに身体を向けている方は――目を疑うほどの美少女だった。

 異国の公女を想像しろと言われたならば、こんな姿を思い浮かべたかもしれない。
 明るいレモン色のヴェールの下から覗く陶磁器のようなきめ細かな肌や艶やかな黒髪が、まず目を引いた。垂れ気味の大きな目や長い睫毛にはあどけなさが残っているが、本人から滲み出る品格は、身に着けている耳飾や首飾りなどの煌びやかな装飾品を従えさせているかのような存在感を放っていた。

 また一瞥してしまう。するとふっくらとして桃色の唇が綻んだ。こころなしか茶目っ気を含んでいるような形に見えた。
 少女は卓の縁を滑るようにして身を乗り出した。細い腕を伸ばし、向かいの席の青年にもたれかかる。

「やっとお会いできて嬉しいですわ。わたくし、寂しくて死にそうだったんですのよ! 夜は一睡もできなくて――ずっとずっと、お会いしとうございました。もう絶対に離さないでくださいましね」
 いつの間にか北の共通語に切り替わったらしい。一言一句、漏れることなくその言葉はセリカの脳に届いた。
 考える余裕は無かった。ただ、どこか冷めた心持ちになってゆく自分を自覚した。

「リューキネ……」
 少女の熱烈な求愛行為に対して、青年はそっと華奢な肩に触れ――
「どうした。急に気持ち悪いことを言うな」
 次いで少女の頬を思い切りつねった。「山羊の乳か? ヨーグルトか? 腐ったものを飲み込んだなら、早く吐き出せ」



リューキネは平野綾っぽいですかね。
「蜜」が「響く」って表現的にどうなのよと思っていますが、代替が思い付かないので今はこのままでw

どうでもいいですか副垢つくりました https://twitter.com/kino_eudo

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12:31:15 | 小説 | コメント(0) | page top↑
四 - c.
2017 / 04 / 12 ( Wed )
 リスをのせた掌が、幼児の顔に寄せられた。
 アダレムは一瞬の逡巡を見せたが、すぐに毛並への欲求に屈して手を伸ばした。おそるおそる、頭から撫でている。彼が「ふわあ! ほんとにもふもふです!」などと感心している間、セリカは小声で問う。

「何をしたらそんなに仲良くなれたの」
「別に何もしていない。数日前だったか、私がベンチに横になって昼寝をしている間に、そいつに足蹴に……景色の一部と認識したかはわからんが、乗っかられた。驚かさないように動かないでやったんだが、その日以来、慣れられた」

「へえ」
 セリカは詳細にその時の光景を思い描いてみた。人気のない庭園で無造作にベンチの上に横たわる若き公子。昼寝を邪魔する小さな生き物。
 せっかくの仮眠を邪魔されていながらも、青年は黙って微動だにせず、小動物の為に我慢する。
 するとセリカは自分の想像を通してあることを発見する。それは、現在の状況と合致するように思われた。

(あら……優しい、のね)
 つい昨夜、魔物から救われた顛末を思えば、驚くほどのことでもないはずだ。驚きはしないが、ではこの感情が何なのかと訊かれても、答えを持ち合わせていない。
「あっ! おひめのおねえさまも、さわってみますか!」
 と、濃い茶色の双眸をキラキラさせるアダレム公子。そうね、とセリカは手を伸ばす。

 当たり前ながら、かくして指先が触れたものの手触りは毛皮製品と似て非なるものだった。血の通った生き物を覆う毛は――暖かい。
 こちらが何やら得した気分になってしまっている間、当のリスは頬袋を落花生で一杯にする。つぶらな瞳がチラチラと見上げてきた。破壊的な可愛さである。

「そうだわ、エラン。朝食まだなら一緒に食べる?」
 微笑ましい光景に目線を落としたまま、なんとなくセリカはそう切り出していた。
「せっかく誘ってもらっておいて悪いが。先約がある」
「あ、そうなの。ならいいわ」
 間を置かずに戻ってきた返事に更に返事をする。一拍後、意識せず落胆が声に滲み出ていたことに気付いた。
 気まずさを覚えて、そっと目を伏せる。こんな思いをするくらいなら訊かなければよかった――

「昼も予定がある。夕食でよければ、空けておくが」
「へ? あ、うん。夕食ね、わかったわ」
 断られた後の続きがあるなんて思ってもいなかったので、面食らう。とりあえず目を合わせずに承諾した。
(……あれ、あたしってば今、わざわざ何の約束を取り付けたの)

 しかしその時、庭園にまたしても新しい来訪者が現れたため、思考は遮られた。リスが今度こそどこぞへと逃げ去ったが、代わりに文官らしき男性が歩み寄ってくる。
 セリカは反射的に一礼して顔を伏せた。それを受けて、文官は短い挨拶を口にした後、エラン公子に話しかけた。どうやら用はそちらにあるらしい。

「エランディーク公子、お時間よろしいでしょうか。所領について幾つかお聞きしたい事柄がございます」
「ああ、歩きながらでいいか。待ち合わせに遅れるとアレがうるさい」
「承知いたしました」
 二人分の足音が響く。その間、顔を上げずに大人しく待った、が。

「セリカ」
 急に呼ばれて、心臓がドキリと大きく跳ねる。
「はい」
 動揺を押し隠して応答した。
「また後で」
「……はい」

 足音が完全に遠ざかるのを待ってから、止めていた息を吐き出す。
 ――むずがゆい。
 別になんてことはないのに。誰かと食事をするのも、その約束を前もってするのも、当たり前の日常だ。なのに、この奇妙な高鳴りは一体なんだと言うのか。
 考えるのが段々と面倒になり、セリカは別のことに強引に意識を向けた。

「アダレム公子は、エランが苦手なの?」
 傍らの男児に微笑みかける。ところが「苦手」の意味がわからないのか、アダレムは目をぱちくりさせるだけで答えない。
「えっと。怖い、のかしら」
 言い換えると、アダレムはびくりと身じろぎをした。

「こわい……です」
「そうだったのね。具体的には、じゃない、エランのなにが怖いのかしら」
「なにが? なに?」
 幼児が頭を抱えて深刻そうに唸る。数分経っても、思い当たる節がないようだった。
 これはもしかしたら、理由なんて無いのかしれない。

 ――お前は初対面の人間に叫ばれたことがあるか。顔を見せただけで子供に泣かれたことは?

(まさかね)
 こちらの邪推をよそに、幼児はしばらくして顔を上げる。
「えらんあにうえは、いつもとおくを、みています。いっしょじゃない……かんじが、こわい、です」
 たどたどしい口調で彼はそう答えた。

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