45.f.
2015 / 07 / 16 ( Thu ) 「上の集会所では、大勢の人間が集まっている。『呪いの眼』の持ち主を祭り上げる為にな」
「祭り、あげる……どうしてそんなことを」 思わず返事をしてから気付いた。上から降りかかる男性の声は、南の共通語を使用している。共通語、しかも南のを話せる者はこの周辺ではかなり珍しいのではないか? 「利用したいからに決まっている」 「!?」 男性の応答とは無関係に、ミスリアは驚愕して口元を手で覆った。スカートの盛り上がりがもぞもぞと動いたからである。狭い檻の中で後退ると、ころんと何かが衣の下から転がり出た。 瘴気を微かに立ち昇らせる白い球体。 小型の魔物――最初に浮かんだのはその可能性だった。が、この檻の中は眩い陽光に満たされている。魔性の物が実体を保てる環境ではない。 ミスリアが息を潜めて見つめる中、球体は震えた。たとえるならば、輪郭を変えて「足」を作ったようだった。その足で網を掴み、全体の向きを変えた。 前後反転したそれには見覚えがあった。 (目玉?) 白い色の中には細かい赤筋が見て取れる。同じ白でも外周より澄んだ白が中心で円を成しており、そこに散らばる金色の斑点、そして深い切り込みのようにも見える、縦長の黒い瞳孔。 何故目玉が自力で動き回っているのか、何故形状変化ができるのか、疑問は多い。けれども何よりも注目したいのは、眼球に見覚えがある点に他ならなかった。たった今話題に挙がった「呪いの眼」である。 恐ろしさよりも好奇心が勝る。ミスリアはゆっくりと手を伸ばした。 そんな時、檻の上の人物がまた話しかけてきた。 「お前の連れの中にもう一人、呪いの眼の持ち主が居たとはな。あの銀髪は見たところ強(したた)かそうだ。人違いであっても、うまく祭り上げられるやもしれん」 頭上の声が移動し始めている。 深く考えずにミスリアは眼球を掌に包んで背の後ろに隠した。肌に伝わる感触はねっとりとしていて、意外に温かい。不思議と気持ち悪いとは感じなかった。 謎の人物は鉄格子の間に長靴の踵を嵌め込んで足場とし、降下してくる。右手で鉄格子を掴みながら、左腕は何故かだらしなく垂れている。 彼の体重が移動している所為で檻が大きく揺れ出した。明らかに男性はミスリアよりも重い。 こちらも空いた手で鉄格子を掴んだ。そうでなければ檻の中を投げ飛ばされたり振り回されそうである。 「人違いって何のことですか」 「なんだ。ゲズゥに聞いていないのか」 右手の中で目玉がぴくりと動いた。もしかしたら見えなくても会話が聴こえているのかもしれない。理屈はきっと、考えてもわからない。 (それより今の感じって……) 男性の、何気なくゲズゥの名を呼ぶ悠然さには覚えがあった。今となっては遠い昔みたく感じられる、邂逅の日を思い出す。 降りてきた男性は砂色のフードとマントに身を包み、鼻から首までもを同色の布で覆っていた。窺えるのは褐色肌と、刺すような藍色の双眸――。 「……オルトファキテ殿下?」 囁きで問いかける。男性の目元の緩みからして、笑ったようだった。 「此処ではその名に意味など無い。長ったらしいだろう、端折って呼べ」 「は、はあ。では、王子」 ミスリアにとっては精一杯の譲歩である。まさかゲズゥみたいに「オルト」と呼ぶには恐れ多いというか、単に恐ろしかった。得体の知れない人間との、得体の知れない場所での再会を喜ぶ気にはなれない。 オルトファキテ王子は顔の布に指を引っ掛け、そのまま引き下ろした。以前会った時と何も変わらない顔が露になる。 彼は一つ不敵に笑った。 「ここから出してやろうか」 |
45.e.
2015 / 07 / 14 ( Tue ) _______
聖女ミスリア・ノイラートは狭い場所で目を覚ました。 むくりと上体を起こして、寝ぼけ眼を上下左右に向ける。 (六角柱の……檻?) 細い鉄格子と、六角形の天井がぼやけた視界の中で色付いた。 さて床はどうなっているかなと思って視線を落とすと―― 「ひぃっ!?」 下は網だった。問題はその点ではなく、網目の向こうに見えた景色だ。深い谷を見下ろす形になっている。 ――とてつもなく、高い。 いつの間にやら網に立てていた両手の爪が、ガチガチと音を立てて震える。寝ぼけていた頭など一気に冴え渡った。 (なんで、何でこんな所に) 檻の中には自分しか居なかった。他の皆を捜し求めて視線を彷徨わせ、そうして少し離れた場所にも檻を見つける。 「イマリナさん!」 力なく項垂れている女性に幾度か呼びかけたがまるで起きる気配が無い。 ごうごうと吹き抜ける風に撫でられて、ミスリアやイマリナが納められている檻が揺れる。崖の縁(ふち)からぶら下げられているようだった。一体誰が、何の為に。 (ゲズゥやリーデンさんは……) おぼろげな記憶の中では二人の護衛は力づくで昏倒させられていた。駆け付けようとしたところで記憶は途切れている。 (どこ――?) 思考がまとまらない。膝を抱え込んで、押し寄せる恐怖の波に耐えた。しかし一分としない内に耐え切れなくなり、叫んだ。仲間たちの名前を順番に呼ばわる。次第に誰でもいいからと返事が欲しくなり、切羽詰まった悲鳴をあげた。 「誰か! 誰かいませんか!?」 声は反響することなく、谷に飲み込まれる。その時になって首周りをまさぐったのは、無意識からだった。 ――無い。またアミュレットを失くした。 ならば更に希少価値のあるアレはどうなったのか。 胸を押さえつけ、内ポケットに収容されている小物を探す。すぐに硬い感触が指に伝わった。 (よかった、水晶だけでも無事で) 聖獣の鱗であったこれには、持つ者への強い守護を期待できる。手元にあるだけで安心した。それでも、なお不安要素が多すぎるが。 もう一度大声を出そうと、息を大きく肺に吸い込んだ瞬間―― 「叫んでも無駄だ。仲間にも、捕えた者らにも、届きはしない」 ――ガシャン! 大きな音と共に、檻が激しく揺れた。質量の多い何かが上に飛び乗ったと受け取れる。人語を発したからには、きっと人間だ。 (檻ごと落ちる!?) 全身を硬直させ、ミスリアは知らず青ざめた。胃の中身が渦巻いている。 こんな時になんだが、自らのスカートの裾が一箇所、不自然に盛り上がっているのが目に入った。まるで丸い小石が中に隠れているかのようである。 「いい格好だな。聖女」 ――誰? 吐き気を堪えつつ、真上からかけられた挨拶を不審に思った。聖女の特徴的な白装束ではなく一般的な部屋着しか着ていない上、アミュレットも身に着けていない。教団の象徴を象ったアミュレットを盗った当人でなければ、ミスリアの身分を知っているはずが無いのだ。 |
45.d.
2015 / 07 / 09 ( Thu ) ――あっという間に景色が流れる。 気が付けば縄を外され、足の下には大地があった。黄緑色の低い草が疎らに群生しているが、察するにこの土地はあまり潤ってないようだ。下半身の血行は流石にまだ回復しない。立つのが困難なリーデンを、左右から他人の腕が支えたけれども、礼を言う気は起きない。そんなことよりも周囲をじっくり見渡すことにした。 (へえ。居住区があれ以上にもっと高いとこにあったとはね) 岩陰からにょきにょきと生えるキノコ、と言えば最もイメージが似ている。木板で組み立てられた、やぐらにも似た印象を受ける家がそこかしこに建てられている。木材は別の場所から運んできたのだろうか? やがてリーデンは、二十軒ほどの家をつり橋で繋いで中心を広場にしたような、不安定な場所に連れられた。中央近くの座布団を勧められ、そこにありがたく胡坐をかいた。砂を詰めたみたいなずっしりとした座布団である。 囲う人だかりから、女が歩み出た。白髪の割合が高い髪を後ろ首で団子にまとめ、他の民と同様に口や鼻を布で覆っている。 光の加減によっては緋色と見間違いそうな、濃い茶の瞳と艶やかな睫毛が美しい。女は顔の布を顎下まで引き下ろして一礼した。改めて見ると、五十代に突入していそうな者だ。それなのに衰えをまるで感じさせない佇まいと顔つきには素直に感心した。 女は片手を挙げてざわめく民を静まらせた。真っ直ぐにこちらを見下ろしたかと思えば、目前まで来て片膝をついた。 「失礼致しました、ヴゥラフ」 「へえ、君は共通語が話せるんだね」 条件反射で、リーデンは非の打ち所のない笑顔を返した。 「はい。これまでのご無礼をどうかお許し下さい」 「じゃあ訊くけどさ、あんなとこで僕らをぶら下げたのは何で?」 「余所者は不運を運んでくると言い伝えられています。都市部に招き入れる前に、風の女神サルサラナに清めていただく為、一時間から八時間ほど谷風に晒すのです。かける時間はお相手の態度次第になります」 女は流暢な北の共通語で惜しみなく答えた。 「それは旧信仰?」 「いいえ。我が国は教団のみ教え通りに聖獣を崇め奉っております。昔ながらのいくつかの習慣が、生活の中に残っているだけなのです」 「ふうん」 「それから、女性は逆さに吊られないのでご安心を」 「あっそ。あの子たちが無事ならそれでいいよ。後で会わせてね」 内心では相当にほっとしていたが、周りに悟らせない程度に軽く応じた。 「勿論でございます。お慈悲のほど、ありがとうございます。ヴゥラフ」 女は胸に手を当てて頭を深く下げる礼をした。 「さっきから気になってたけど、その呼び方なんなの」 「ヴゥラフは、ヴゥラフでございます。我らを圧した者たちから解放して下さった主、ゆえに解放主(ヴゥラフ)です」 「解放主、ね。どう考えてもそれって僕のことじゃなくて……ん? 解放? そこんとこもっと詳しく」 「あなたさまはかつてこの都市に圧政を敷いた憎き敵を滅ぼしたお方なのでしょう? 我々カルロンギィ渓谷の民は解放主にお目にかかったことがありませんが、白と金の、龍のような鋭い眼を持った、若い男性だと聞き及んでいます」 「ああなるほど。そういうこと」 そこまで聴いてリーデンは合点が行った。なんてことはない、別々だと思っていた噂が実は同じ出来事を指していたというわけだ。 「それはわかったけど、今になって『解放主』相手にこんなに騒ぎ立ててるのは何故?」 「あなたさまのお力を再びお借りしたいのです。新たなる敵からこの地を解放してくださいませ」 「いわゆるお悩み相談ね」 またまたリーデンは納得した。これで事態の把握はほぼできた――彼らは過去に自分たちを救ってくれたらしい人物が再び苦難の時期に姿を現したことを、偶然ではなく運命の導きだと解釈したのだ。 (本人ですら忘れていた縁か。都市国家カルロンギィ、俄然興味が湧いてきたよ) 見知らぬ土地で生き延びる上で、恩を売る機会ほど都合の良いものはない。とんでもない面倒ごとが待ち受けていたとしても、ここは乗るのが最善策とする。 「現時点で僕に何ができるか、一つとして保証はしない。でも相談には乗ってあげるから、遠慮なく話してみなよ」 リーデンは頬杖ついて微笑んだ。 「ありがとうございます、解放主」 女が涙ながらに一層礼を深くする。その背後では同じように跪く人間や歓声をあげる人間と、とにかく全員が心から嬉しそうにしている。 こちらにしてみれば愉快な光景だった。 生殺しはまだ続きます、サーセンw 同じ恩を売る目的でも、ここでゲズゥだったら人助け「めんどくせー」に尽きるけど、リーデンは「めんどくさいようなおもしろいような」となるのが兄弟の性格の違いってとこですかね。 |
45.c.
2015 / 07 / 07 ( Tue ) 突発的な声に男たちはぎょっとなり、警戒気味にこちらに視線を走らせた。が、そんなことは丸きり無視して記憶の中を漁る。 一体どの時点で眼球は失われたのか。遠くからミスリア一行を見つけて声をかけた時はまだ距離があったし、ハッキリ確認した気がしない。出会い頭に相手の両目が揃っているのかどうかをわざわざ確認する方が稀だ。(兄さん前髪また伸びてるし……そりゃあ遠くからじゃわかんないのも当然だよね) たった一つの異変を除いて、外傷の痕らしき痕が無い。血などが乾いた痕跡ですら見当たらない。まるで眼球だけをどこかにポロッと落としてしまったかのようだ。 (まさか目玉が自分で足を生やして逃げるわけでもなし――いや、そうとも言い切れないか) 呪いの眼と呼ばれるモノは、魔物を人体に取り込もうとした実験の成れの果てである。リーデンがその事実を知ったのは比較的最近だが、知っている以上、あらゆる不条理な可能性をも考慮すべきである。魔物とは元よりそういう存在だ。 こうして考え込んでいる間に男たちが隣の空いた鎖を取った。ゲズゥをも逆さ吊りにする気だ。妨害をしても無駄だと判断し、ガチャリと嵌められていく足枷をリーデンはぼんやりと見つめた。 そこで一つの発見をする。 近くにあると思っていた兄の「気配」は依然動かぬままだ。即ち、近くにあるらしいが、少なくとも半径15ヤード(約13.7メートル)以内に居ないように感じるのだ。それだと目の前の男は、この矛盾はどうしたものか。 (僕らを繋ぐ見えない「糸」の支点が左眼だとするなら、その繋がりが眼と一緒になくなるのはわかる。でも――) 繋がりは活きている。ただその端点が目の前にぶら下がる男に無いだけだ。これは本気で、眼が独立した状態で活動していると考えねばなるまい、とリーデンは珍しくげんなりしていた。 「こっちこそが――――だ!」 手ぶらになった男たちの注意が再度こちらに向いた。 「そうだな。白いな。お前の言う通り、コイツが――――かもしれない」 男たちは一つ、リーデンに聴き取れない単語を使った。 「は? 何言ってんの君たち」 北の共通語で話しかけてみたが、奴らは興奮していて聞く耳持たない。あろうことか岩壁を伝って近付いてきている。 「ヴゥラフよ、歓迎する」 「失礼をした、ヴゥラフよ」 相変わらず意味は知れないが、何度目かで発音を聴き取ることができた。 「ちょっと、どういうこと? ヴゥラフ? って何それ」 と問いかけても返事が無い。 男たちはせっせとリーデンの足枷を外してくれている。次いで肩を掴んだり腰に縄を巻いたりと、少なくとも枷を外してそのまま谷底に落とすつもりは無いようだ。 自由になれることに対する期待が生まれたと同時に一つの焦りが浮かんだ。これでは多分、兄と話す機会が失われる。 そうとわかれば即決した。唯一届きそうな右脚を伸ばす。 「起っきろォ!」 距離や体勢の関係で、蹴りは腕をかする程度の衝撃しか与えられなかった。それでも逆さの兄をぐるぐると横に回転させるだけの勢いはあった。これで意識が戻らなかったら唾を吐きかけるくらいしかもう策が――。 幸い、数秒後には瞼が震えた。ちょうどその頃に回転も収まった。 「に、い、さ、ん? 君はー、僕にー、色々と説明しなきゃなんないコトがー、あるんじゃないかなぁ?」 黒い右目の焦点が合うより先に、リーデンは毒気を吐きつけた。 「…………同意だが、後に回すしか無さそうだな」 状況をざっと見回したゲズゥがやはりげんなりとした様子で応じた。こちらのやり取りなどお構いなしに捕獲者たちがリーデンを抱えて上へ上へと引き上げている。 「しょうがない! 今の表情(カオ)が面白かったから、それに免じて許してあげよう!」 下方に遠ざかる兄に向けて、ほんのちょっぴり上機嫌になったリーデンが叫びかけた。 |
おへんじおへんじ
2015 / 07 / 07 ( Tue ) @45.b. みかんさま
あそこの「ハァ?!」をぜひ声に出して読み上げてくださいませw @44.d., g., j. ミスリア親衛隊さま >水中で電波受信 そしてそのまま天に召されかねない…が、背に腹は代えられない! 頑張れ世界の聖人聖女たち! >相性 一応本体は人間(笑)として聖気は普段受け付けられるんですが、聖獣から採れる原料の水晶などとは反発しあう感じです。微妙に人間に定着しちゃった所為か、その辺の魔物みたいに浄化されるわけでもないみたいですね。難儀な子です。 >ゲズゥさんに何かを恥じる繊細さがあったのに吃驚しました。 恥じる繊細さw あのデカブツにはいじらしい面もあった…のか…… …? まあ、多分大部分は「自分でも説明できないからしたくない」のでしょうけどw 殊勝に育ってきて可愛いやつですよ。 >太く短くの傾向 出世したら寿命が縮むとなると、上へ行きたがる人が少なくて、ある意味では野望を叶えるにはもってこいですね…。殉教覚悟で就任したクレイジーな同僚ばかりにならないと良いですね( > 世 の 中 や っ ぱ り 顔 か! 真……理………!? いやはや、いつもながら感想ありがとうございました。突っ込みきれるか心配でした。 まったく、顔の良い若者とは困った生き物です(?) |
アクリルたわし
2015 / 07 / 06 ( Mon ) 本編が非常にワロスな状態なまま、手芸とかやってたのは私です。 カフェキッチンさんの糸がやっと手元に届いたので、早速編んでみました。 初めてのたわしにしては上出来ってところかしら。 右のはちょっと尺が余って、ゆるゆるになってしまいました。既に使ってみたあとなので濡れております(色が濃いのはそのため) 使い心地としては、まだ何とも言えず。な、るほど…? きれいになったといえばなったけど、臭い残りそうな気が…? 巻く? スタイルのたわしは写真で見てて興味があったので最初に手を付けたんですが、作り終わってから素直に円状に編めばよかったのでは、と考え。その結果色々検索してみたところ、ポップコーンスティッチを使って左のヤツが出来上がりました。とりあえず、かわいい。でも実用性については未知数ww |
45.b.
2015 / 07 / 03 ( Fri ) (こいつはひどいや)
ゆっくり元の体勢に戻った。岩棚と言っても真下には足場が無いし、反対側の側面はここからの距離が目測できないほどに遠い。仮に鎖から自由になれたとしても、逃亡は難しい。 (そもそも、どうやってこんな所に運ばれたんだろうね) 一応、この場にはリーデン一人しか居ない。左右を見やると空いた足枷が何個かぶら下がっている。人を捕え置く為の場所なのは間違いないが、まだわからないことだらけだ。 これは次なる展開を大人しく待つしかないのだろうか。 どれくらい放置されてたのかによるが、当分はこの体勢でも生きていられると推測する。似たような拷問方法を見たことがあるため、若く健康な人間であれば最も危惧すべき問題が脱水症状であることはわかっていた。とはいえ、それはあくまで生死のみの問題であって、どこかしら血栓ができたり、心臓が過労に蝕まれたりしないとは限らない。 などと考えていたら、上方から人の気配がした。瞬く間に、何か大きな荷物を二人がかりで抱えた男たちの姿が現れる。二人とも腰に縄を巻いて降りてきているらしい。服装は麻布でできた砂色の簡素なもので、顔には鼻と口を覆う布を巻いている。 (なんじゃこりゃ。ぶら下がる系文化?) かろうじて考え付くのは、横取り対策だ。捕えた獲物を屋外で処理・保管している間、他の野性動物に盗られない為の措置とも考えられる。しかしそうだとするなら、自分はおそらく食用として保管されていることを意味する。 いかに広い大陸でも、食人の習慣を良しとする国は存在しなかったはずだ。では他の用途があると仮定して色々可能性を探るも、思いつかない。未だに何もかもが謎だ。 男たちは巧みに岩壁に沿って降下し、手荷物を抱え直した。確かめるまでもなくそれもやはり人間であろう。そいつも今からリーデンと同じ目に遭わされるのだ。 別段、誰何や抗議の声を上げようとも思わず、リーデンは無言でその作業を眺めた。 すると男の一人が視線に気付いた。布越しに何かをぼそぼそと相方に呟いている。何故か二人は色めき立っていた。 四、五回の言葉の応酬を経て、ようやく取っ掛かりを見つけた。舌を巻くなど訛りがが濃いが、単語は北の共通語と、文法はシャスヴォルの言語と似ている部分がある。「白い」「トカゲ」「目」と言ったのはわかった。 「しかし、こっちの黒い男は聞いた通りの見た目だったのに目が違ったぞ」 脳内翻訳の的確さはともかく、リーデンにはそう言ったように聴こえた。 「銀髪の男なんて聞いてないな。だが白い、トカゲの目だ」 「さっきは緑だったぞ!」 「見間違いだ。今は白い!」 ――この男たちはもしや呪いの眼を探しているとでも言うのか。 どうして、という疑問も沸いたが、それよりも少し前の発言の方が気になった。 (目が違った?) 奴らが抱えている荷物の正体はもうわかっていた。うつ伏せにされていてもわかるあの濃い肌色、引き締まった筋肉、硬そうな漆黒の髪、やたらと大きな図体――それらが揃っていればもう兄に相違ない。しかしどうやらそちらはコンタクトを落としていなかったのか、目の色が正しく認識されていないようだ。 「ならこっちも見間違いだったのか?」 「いや? ほら、やっぱり。この黒い方の男は、左目が無い」 ゲズゥをうつ伏せから転がして、得意げに指差す男。 「ハァ?!」 リーデンは素っ頓狂な声をあげた。 何故なら指差された兄の左の眼窩は――本当に眼球がお留守の、ただの空洞となっていたからだ。 |
45.a.
2015 / 07 / 02 ( Thu ) ――充血している。 頭蓋骨の中の圧迫感と不快感に引きずられるようにして、リーデン・ユラス・クレインカティは目を覚ました。薄暗い場所だった。己の居る位置に陰がかかっているがゆえに暗く感じるけれど、視界の中には青空のものと思しき明るさも入っていた。なのに、どこか釈然としない。 (ああそうか、青い色が「下」にあるからだ) それでいてこの不快感と、足首に食い込む無機質な硬さ。何故こうなっているのかは全くもって不明だが、鎖に繋がって逆さに吊るされているらしいことだけはわかった。 (逆さである必要性がわっかんないんだけどー。股間のパーツも重力の餌食になってて不快だなぁ) 身ぐるみ剥がされたのか、最も内なる層を除いて衣服が丸ごと消えている。つまり腰周り以外の肌が自然の脅威に晒されているのだ。 リーデンの場合は、これをスッキリしたとは感じずに、心もとないと感じる。肌寒さは当然のこと、愛用の武器や暗器も奪われたのだ。 (んん、違った。一つ残ってた) 鼻の前にぷらん、と黒い石の首飾りが揺れているのが目に入った。この黒曜石のナイフが唯一手元に残っていて何よりだ。いざとなったらこれで敵の目玉をくり抜くなり首筋を掻っ切るなりできそうだ。ただし、相手が一人であった場合に限るが。 それにしても寒い。 春の風とは思えないほどの強風が吹き抜けている。空気の匂いや轟音からして、ここは高い場所なのだろう。 記憶が途切れる前まではカルロンギィ市国の渓谷に向かっていたはずだ。一度単独でヤシュレ公国に寄ったリーデンは渓谷の手前でミスリアたち三人と落ち合う手筈であった。まさに合流寸前、数ヤード先から顔を見合わせて声をかけたところまでは憶えている。その直後に何があったというのか。後頭部の鈍痛と関係がありそうだ。 とりあえずは、兄の気配を探ってみた。意識は無いようだが、近くに居るらしい。素直に安堵した。 残るミスリアやイマリナの身を心配しても現状はどうしようもないため、リーデンは次に状況を把握すべきと判断した。 (ここは谷の側面かな) 風や雨から守られたこの空間は洞窟と呼ぶには浅く、ちょっとした岩棚か谷肌を抉ったみたいな地形に思えた。 (逆さじゃわけわかんない、な) 改めて映像をもう一度分析せねばなるまい。 ふと目の乾きを潤わせようと何度か瞬いて、カラーコンタクトをいつの間にか紛失していたことに気付く。 瞼の下の感触を頼りにそう感じているだけで、指を使って確認できるわけではない。腕は背中側に縄で縛り付けられていて動かせないのだ。 身じろぎしてみた。他人には決して悟らせないが、リーデンはこう見えても筋力の鍛錬を怠らない。腹筋のみを用いて逆さ吊りの体勢から反転するくらい造作も無いのである。上体を捻り、周囲を見回そうと試みた。 「おふ」 真実の「下方」が見えた途端に思わず変な声が出た。ちょうどその時、鼻水が一滴落ちた。すぐにそれは大気の一部となって消えた、ように見えた。 地面が落ちてなくなったのかと疑うくらいに遠いのである。 そこでこの吊り方――高所恐怖症でもない、むしろ高い所は割と好きなリーデンでさえ、意味不明な嗚咽が漏れる程度にはとんでもない状況だ。捻った姿勢を解く為に腹筋から力を抜こうにも、慎重にやらねば気絶しそうだった。 |
最近いただいた絵まとめ
2015 / 07 / 01 ( Wed ) リレー絵第二弾、イメージは第二章の表紙風。とてもファンタジーな時間でした。
左はつまようじ様彩色バージョン、右はナルハシ様彩色バージョンになります。 ここに至るまでの詳しい経緯はこちらで語っていますのでどうぞ~。 http://12167.mitemin.net/userpageblog/view/blogkey/6444/ そして謎のエンリオブーム到来。 まずはナルハシ様にこちらのおすわりキュートボーイをいただきました。 次につまようじ様がキュートボーイを宙返りさせて下さいました。しかもなんだこの爽やかな新時代の冒険譚みたいな背景! かっこいい! 詳しいメイキングなどはこちらで語られています。 http://9874.mitemin.net/userpageblog/view/blogkey/6492/ 同じくつま様からミニキャラなどもいただいてました。 レティカに引っ付くエンリオw かわいいw 最後に、色のついたレティカ様! 美人だのぉ(デレデレ)。何気に彼らが絵にされたのは今回がお初でございました。 以上になりますが、「その絵は紹介しないで欲しかった」或いは取りこぼしがありましたら、遠慮なく叫んで下さい! |
拍手返信
2015 / 06 / 29 ( Mon ) >44 あとがき
@みかん様 むふふふ。そろそろ進展して欲しいところですよねー★ カイルは遠い空の下でも絶えず頑張ってます! 多分私たちの知らないところで一人で冒険していることでしょうw 露骨な命への危険度はミスリアたちよりちょっと低いくらいですが、駆け引きや陰謀やらが渦巻く世界を綱渡っているかもしれないww らぶらぶ…!? とりあえず44書いてて思ったこと「ゲズゥはなんて丸くなったのだろう」 兄弟揃って随分主人公に懐いてくれて嬉しいけど、もうちょっと社交性スキルも身に着けて欲しいなと母は思うのだよ! ではでは、45でお会いしましょう~ |
44 あとがき
2015 / 06 / 28 ( Sun ) おわったよ!
いつも拍手ぽちりや感想、ありがとうございます。これらは総て私の血肉となって再び作品に吐き出されますのでじゃんじゃん送ってください<生々しい 執筆が停滞した時などに読み返して気合入れてます。 >>>聖女さまは新アイテムをGETした<<< 次号、新展開! (割とマジで) 以下からあとがきです。 |
44.j.
2015 / 06 / 27 ( Sat ) 「他人の言いなりになってたのは馬鹿だなと思うけど……守りたいものの為に他の誰かを踏みにじるのは、当たり前の選択でしょ。でないと結局何も守れなくなる。そこに罪が生まれるならそれは君だけのもので、子供たちが背負うもんでもない」
「一緒に背負おうとしてくれたわ。デイゼルは」 「そーだったねぇ。じゃあ一度思いっきり『やったー!』って叫んでから、元の生活に戻りなよ」 彼らしい提案だとミスリアは思った。たとえ話で、護衛として彼らが死んでも「思いっきり泣いた後は僕らの屍を踏み越えなよ」みたいなことを過去に言われた身としては、くすりと笑いを漏らさずにはいられない。 軽薄そうな反応と捉える人も居るだろう。ミスリアにはそうは思えなかった。リーデンは彼なりに、相手の想いを汲んでいる。ティナたちが何気ない日常を取り戻すことを、きっとデイゼルは何より望んでいる。 ようやっと部屋の中に戻ろうと足を踏み出した。だが聴こえてきた次の一言に、不意を突かれてつまずきかける。 「ねえ。リーデン・ユラス・クレインカティ。あたし、あんたのこと好きみたい」 当然のことを当然のように告げているだけ――そんな声で始まり、語尾に向けて勢いが抜けて行った。思いがけない真剣な響きに、ミスリアは打たれたように硬直した。 (え!?) これこそ盗み聞きしていい会話ではないのに、足が凍り付いて動けない。 「それはどーも。僕もティナちゃんのことは、結構好きだよ」 あまりに気安い応答だった。意味に食い違いがあったのかと思ったら、まだ続きがあった。 「好きだけど――必要ない。君のような我の強い子を傍に置きたいとは思わない。だから君とどうこうなることもない」 「あら、そう。なるほどね。まあ予想していたよりはまともな返事だったわ」 「僕は都合の良い人間にしか興味無いから。そーゆーこと」 足音がしたかと思えば、あっさり遠ざかった。 (え……な、に……いまの) 俯き、額を掌で押さえた。何か大事なやり取りが交わされたのを聴いてしまった。それなのに感想の一つも浮かばない。 「ミスリアちゃん」 「ひゃあっ!」 間近な場所からティナの声が降りかかってきた。跳び上がって身構えたのは不可抗力である。 視界に入ってきた凛々しい女性の表情は、意外にも晴れやかだった。こういう時はもっと落ち込んでいるのが通常なのではないか? と、疑問に思った。 「聴こえてたのね」 ティナは小さく舌を出した。 「すみません、立ち聞きしてしまいました」 「別に構わないわよ。勝手に廊下なんかでそんな話始めちゃったあたしが悪いんだし」 「はあ……」 次の言葉に詰まったが、何かを察したのかティナがふわりと微笑んだ。 「あたしなら大丈夫。こんなことでミスリアちゃんと気まずくなるのは困るわ」 返事の代わりにミスリアはぶんぶんと頭を振った。 「なんていうか、結婚相手とか恋人に欲しいって思ってたわけじゃないのよ。言えただけでよかった」 青緑の双眸は澄み渡っている。心惹かれる色だった。 ふいに、その光の奥にあるものをもっと突き詰めたいと思った。 「お訊きしても良いでしょうか。リーデンさんの、どこを好きになったんですか?」 「どこでしょうねえ。会うといっつもイライラしたし」 「は、はい」 ほぼ顔を合わせる度に言い合いになっていたことは周知の事実である。 「あんなに全力で誰かと接したのって、珍しいことだったわ。しかも思いっきりブチ切れた後、何故かいつもスッキリと後味がいいの。アイツ、気まぐれだし人を適当にあしらってばっかだけど。よく考えたらそんなに適当でも無いのかなって、見透かすような言動ができるのはちゃんと見てくれているからなんだなって、後になって気付いちゃったりして。そしたらなんだか楽しくなってきちゃった」 ミスリアはころころと百面相するティナの話に黙って聴き入った。 いいなあ、本当に楽しそう、と少しだけ羨ましくなる。 「恋なんて曖昧なものよ。実際には人を好きになるのに理由なんていらないわ。ある時気になり出して意識してた、ってだけでもいいの」 「理由は、いらない……?」 「でも、好きでい続けるには理由がいると思う」 彼女は笑って首を傾けた。 「理由付けっていうか、努力かな。長く続いた恋人なんて居たことないからよくわからないけど。ミスリアちゃんは、しっかり頑張ってね」 「頑張るって、何をですか?」 「ああもう、可愛いなあ! そこまでは教えてあげない」 「!?」 何故かティナはそこで抱き着いてきた。良い匂いがするが、苦しい。 「また帝国に来ることがあったら、絶対ルフナマーリに寄ってね。あたしは、これからもここで暮らしてくから」 締め付ける力が少し弱まったので、なんとか答えられた。 「約束します。友達ですから」 「ありがとう! それまでにそっちが進展してるか見物だわ!」 「むぐっ!」 またしても締め付けられた。柔らかい金髪が頬をかすって、くすぐったい。 どこか、彼女のこの明るさは度が過ぎている印象がある。或いは心の内を誤魔化す為の空元気ではないかと疑念が沸いた。 (落ち込むくらいには、やっぱり本気の恋だったのかな――) はしゃぐ声と圧迫する腕の力に気を取られて、ミスリアはそれ以上何も考えられなくなった。 |
44.i.
2015 / 06 / 26 ( Fri ) なんとか助けてあげたい、と思う。なのにその気持ちに後ろ暗い部分があるように感じるのは、気のせいとは思えない。 ゲズゥに生きていて欲しいと願うのは、果たして彼自身の為か、それとも自己満足か――。(まだ他に何か) あるような気もする。無いような気もする――とにかく、かつてないほど自分の気持ちがわからない。 どこからか沸き起こる動揺を自覚し、戸惑い、苛立ちを覚える。そんな調子で悶々としていたら別の思考が割り込んできた。 (……そういえば、魔物を身体に取り込んだ実験って) そちらの問題についてもまだ整理が足りない。かの左眼が魔物と関連しているとなると、前に瘴気が漂っていたように見えたのも説明がつく。 昔ながらの迷信か言い伝えかとしか思っていなかった「呪いの眼」が、もっと現実味を帯びた身近な存在に感じられて、これまた複雑な気分にさせてくれる。 考え込んでいる内にうっかり針を刺す位置を外した。糸を引き抜いて、やり直す。 「ハサミ」 前触れもなく話しかけられた。危うくミスリアは再度手元を狂わせそうになった。 「あ、はい、どうぞ」 ずっしりと重い布きりバサミを空いた左手で取って、隣の青年の掌にのせた。その拍子に、指同士が触れる。 「ごめんなさい」 反射的に手を引いて謝った。遅れて、何も謝る理由が無かったのではと、と思い付く。 (どうして……) 落ち着かない。肌色の濃い、錆に汚れた無骨な手を凝視した。異性の手なら、ついさっきカイルと手を握り合わせたばかりだと言うのに。何が違うというのだろう。 手を凝視している自分の顔が凝視されていることを、やがて感じ取った。黒い右目と視線が交錯した。こういった、無言で観察される回数は出会った当時から数知れないだろうに、今になって気にかかってきた。 「あの、私の顔に何か、ついてますか」 つい視線を逸らした。 「…………いや。ついてはいない」 それきり、静寂が舞い戻る。ここぞとばかりにミスリアは静かに深呼吸をして、心を落ち着かせた。 それから何分作業したかはわからない。下着につけるポケットが三枚ほど完成した頃には、いつの間にか武具の手入れを終えていたゲズゥが今度は靴や鞄などの手持ちの革製品を磨いていた。なんだかんだでマメな性格だ。 「もう行くの?」 突然、声が聴こえてきた。ミスリアはパッと振り向いた。アクティビティ・ルームの中に他の人の姿は無いので、廊下にひょこっと顔を出してみる。突き当たりの角の向こうに誰か立っているらしい。横を向いた姿の中でも背中半分しか見えないが、金色の髪が目に入った。 「週明けには発つ予定だけど」 済んだ青年の声。質問に受け答えした相手はリーデンのようだ。 「そう。残念だわ」 ティナの声だった。 そういえば彼女は最近、恩師である司教さまや都中の教会によくご奉仕をしに来る。料理の差し入れだったり、力仕事の手伝いだったり。合間に用心棒の仕事は未だに引き受けるようだが、贖罪の一環でまだ労働も残っているしで、とにかく忙しそうだ。 孤児院の管理権限は教団に移ったものの、ティナはそこに住んで子供の世話を続けることを許されている。忙しそうだけれど、幸せそうでもある。まるで内に抱えていた曇りがやっと晴れ渡ったかのように。 「……あんたはさ、あたしのこと愚かだったって思ってる?」 「えー、いきなり何訊くの」 「もうすぐ会えなくなるんだから他にいつ訊けばいいってのよ。あの男の言いなりになってたことよ。それで、人を恐喝したり襲ったり……無垢な子供の未来の為に、手を汚すなんて」 彼女の口調には自嘲する重みがあった。 盗み聞きはいけないと思いつつも、ミスリアは部屋の中に戻ることはできなかった。というより、戻ったところでやはり聴こえてしまいそうな気がする。 「いいんじゃないの、別に。君のしたことは人間の倫理観の中で正しいわけじゃないけど、細かいことをいちいち気に病んで何もできなくなったら、本末転倒でしょ」 「慰めてるの?」 「そんなワケないじゃない。僕は自分の考えをそのまま口に出してるだけだよ。それを聞いて君が勝手に元気を出そうが落ち込もうが、どうだっていいよ。ま、この僕が倫理観なんて語っても滑稽なだけだけどねー」 「そうね。あんたはそうなんでしょうね」 一拍置いて、リーデンはまた口を開いた。 注:本当はあまり素手で錆に触るもんじゃないですが、げっさんの皮膚はそれなりに分厚いので気にしません。 |
44.h.
2015 / 06 / 25 ( Thu ) (なんて言ったんだろう)
イマリナは「声」が不自由なのであって聴覚は普通に機能している。そのためか彼女に話しかける人間は居ても、話を聴こうとする人間はそう多くない。 ミスリアは何かあれば大体筆談を要求している。しかし本来ならば、なるべく相手にとって楽な手段で話しかけてあげるべきだ。イマリナは字も決して下手ではないけれど、手話の方をより速く繰り出しているし、気持ちよさそうに使う。 そこまで思いやれない自分はまだまだだな、とミスリアは苦笑した。今度からリーデンやイマリナに簡単な言葉だけでも教えてもらおうと決意する。 挨拶が済んだ後、カイルを教会の玄関前まで見送った。 「それじゃあ、またね」 「はい。またお会いしましょう。どうかお元気で」 「君たちもね」 そうして聖人カイルサィート・デューセは去った。背筋は真っ直ぐに伸びて歩みには気品が漂うが、そこには無理に型にはまろうとしている緊張感は無く、あくまで自然な動作だった。 (また会う時までに頑張るから) 不思議な余韻を――高揚感を抱いたまま、ミスリアは跳ねそうな足取りで先程のアクティビティ・ルーム(=子供たちの遊び場など、大勢が集まって様々な用途にあてがえる公共スペース)に戻った。イマリナの姿は忽然と消えていて、ゲズゥだけが窓際で黙々と作業を続けている。 (あ、私もあれ今やろうかな) ミスリアにも取り掛かるべき手作業があったので、一旦寝室に戻ってあらかじめ買った材料をかき集めた。クローゼットから座布団を取り出し、 「お隣よろしいですか」 と青年に声をかけた。ゲズゥはこちらを一瞥して頷いた。既に彼は大剣から短剣の手入れに移っている。 座布団を敷いて、ぽすん、とミスリアは座り込んだ。膝上に衣類と布数枚を広げ、ハサミと縫い針の準備をした。 先日手に入れた水晶を収める場所を作るのである。カイル同様、司教さまも「その水晶は聖女ミスリアが持っているべきです」とおっしゃったのだ。自分の手で手繰り寄せられた分、聖獣からのお守りとして特別な幸をもたらしてくださるのではないか、と想定して。ならば大切に預かろう、と覚悟を決めるしかなかった。 まずは薄くて柔らかい麻布を四角に切って端々を縫い合わせ、引き紐を通して小さなポーチとした。次いで、数着の下着の内側に、ポーチを丸ごと収めるポケットを作った。 (ボタンは、一個で足りるかな。ううん、二個にしよう) ミスリアは一度教団に賜ったアミュレットを取り落とした経験があったため、すっかり用心深くなっていた。それよりも更に貴重な水晶には、たとえ逆さに吊るされても激しく揺さぶられても落ちないくらいの入れ物を用意したい。 一針、二針、生地に細い鉄の針を通す。糸を引っ張るリズムと一緒に、物思いに耽った。 (ゲズゥはこの旅が終わったら――) いつかは彼とも道が別れる時が来るのだろうか、とふと思考が過ぎり、ミスリアは隣の男を盗み見た。ちょうど短剣を鞘に入れ直しているところだ。青年はこちらの視線には気付かない。 (また処刑台に立たされるのかな……) 旅が終われば対犯罪組織ジュリノイも動き出すだろうし、「天下の大罪人」なんて大仰な二つ名を持ったゲズゥは遅かれ早かれ裁かれねばならない。それがどういう形に終わるのかは、まだ皆目見当もつかないけれど。 (やっぱり火刑かな。それとも断頭台かな。なんだか……嫌だな) もやもやとしたこの感情は何だろう。人の一生が終わる瞬間を想像したから気分が悪くなっただけとするには、どうも違うようだ。 |
44.g.
2015 / 06 / 24 ( Wed ) 「カイルに断言していただけると本当にそうなりそうで、心強いです」
「なるよ」 亜麻色の髪の青年は爽やかに笑って立ち上がった。風通しの良さそうな白い上着をふわりと肩にかけて袖に腕を通す。 再会した頃に比べてすっかり春の服装になっているのが印象的だ。 「さて。帝都を出るのは数日後だけど、お互い慌ただしくなりそうだし、今の内にお別れの挨拶をしよう」 「そうですね」 自らも席を立ち上がり、ミスリアは元は同期であった友人と抱擁を交わした。 以前、ユリャン山脈付近で別れた時のような悲観は無い。そう遠くない未来でまた会えるような気がするからだ。会えない日々がまた始まっても、彼は彼なりに遠くで元気で頑張っていくのだろうと、そう思えば心は軽かった。 やがてミスリアから離れると、カイルは居間の窓の隣まで歩み寄った。そこには始終無言で何かの作業に没頭するゲズゥが床に座り込んでいる。近付いて来た青年の影を追って、黒い瞳が動いた。 「あれ、鞘変わった?」 膝に手を当て、ゲズゥの手元を覗き込むようにカイルが問う。なんとなく興味を惹かれてミスリアもその隣に並ぶ。 護衛の青年は自身の最大の持ち物である湾曲した大剣の手入れをしているようだった。そしてバネで開閉する仕組みであった鞘は壁に立てかけてあり、青年の手によって拭き磨かれている品は全くの別物だった。 ミスリアにも見覚えの無い、暗くて深みのある赤茶色の木材でできた一品だ。剣の研ぎ澄まされた刃の部分だけにぴったり重なる、同じく湾曲した形。 「ナキロスで手に入れたアレは軽量化した鉄ではあるが、長く使うならそれ以上に軽い方が良いと……新調した」 「なるほど。さすがは帝国の技術ってところかな」 カイルが感心したように言った。 木製の鞘は二つのキャップのような役割を果たすパーツでできている。刃と柄近くの鋸歯部分を覆う片方、そして逆側の鋸歯部分を覆う方。左右のパーツは剣に合わせて非対称的、形も長さもかなり違う。 両半分は剣の大きさに合わせた絶妙な幅を保っている。二つを繋ぎ合わせる鉄のフレームみたいなものは、大した重量を加算しないであろう、ハーフインチ(約1.27cm)と無い細い棒で組まれている。 ゲズゥは鞘を剣には嵌めずに、装置の仕様を見せた。 フレームは圧力に応じて開閉するらしい。上から押すと、がちゃりと左右のパーツの幅が一気に広がった。もう一度押せば引き寄せられて元に戻る。 「自分で考えたの?」 「まさか。抜剣のアクションを短縮したいと店に頼んだだけだ」 「君のそういう静かな向上心、いいね」 「…………」 ゲズゥは半眼になって何も答えない。 「まあ要するに、ミスリアを頼んだよ。弟くんにもよろしく」 そう言って、カイルは右手を差し出した。ゲズゥは握手を求める手をじっと見つめた後、自分の両手に視線を落とした。錆やら油やらで目に見えて汚れている。 「あはは。ごめん、間が悪かったね」 行き場の無い右手は、胡坐をかいたままの青年の肩へと流れた。ぽんぽんと二度親しげに叩き、そして最後には指先だけで軽く握った。その間、ゲズゥは拒絶の素振りを見せなかった。 一瞬後には裾を翻したカイルに対し、低い声が浴びせられる。 「……死ぬな、と言っておく」 ミスリアは目を見開いた。まさか彼が他人への心配を露にするなど――。 「ありがとう。その言葉はそっくりそのまま君にも返すよ」 カイルは左肩から振り返り、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。足を止めることはしない。 次には部屋の隅で静かにハンカチを畳んでいたイマリナの前に歩み寄った。彼女はきょとんとした様子で細面の聖人を見上げた。 彼女の使う手話をいつの間にか学んでいたのか、カイルが何か手を動かす。イマリナは満面に笑みを浮かべて応じた。 |