七話のあれ
2017 / 09 / 13 ( Wed ) |
紫に偏りすぎている
2017 / 09 / 11 ( Mon ) 私の個人ツイッターを見ている人はご存知でしょうけど、先週ちょっとお絵描きをしていました。宣伝用に口絵的な何かが欲しくて三話の場面をね。
変遷↓ 三番目と四番目はPaintschainerを使いました。どれもちょっと好きでちょっと物足りなく思っていますw つたない線画なのでいないと思いますが、塗ってみたいよって人はどうぞどうぞ。 ついでと言ってはなんですが、黒赤をアルファポリスのファンタジー大賞にエントリー中です。応援してもいいよって方は以下のURL先の左側の投票ボタンからどうぞ。私は、まあ作品が多いので、貴重な三票を大事に取っているんですけどねw まだ誰に入れるか未定。 https://www.alphapolis.co.jp/novel/783140241/360118997 |
九 - g.
2017 / 09 / 10 ( Sun ) 強く押し付けられたのは刹那のことで、唇は間もなく離れた。 「必ず、帰る。私は果たせない約束はしない」「うん」 それきり、幸せはするりと腕の中から抜けていった。もう少し、と望んでも、冷たい風が吹き抜けるだけだ。 去り行く者はやがて馬上の人となり、兵と共に一列に防壁の門に向かって降りていく。 (あは。これか、恋愛感情) この局面で自覚してしまうとは、何と悲しく切ないことだろう。セリカは掌で額を押さえた。 (世の中の皆さんは、どうやってこれを抱えて生きていけるの) 女の一生は忍耐――母が昔そう言っていたのは、こういう意味だったのだろうか。よくわからない。 袖で目元を擦ると、セリカは顎を引き上げた。今は感傷に浸るべき時ではない。 「あの塔で間違いないのね」 未だ陰に潜む女性に向かって問いかける。女性は音も立てずにセリカの傍に来ると、頭を下げて答えた。 「はい。表向き、アダレム公子はご気分の優れない母君に付き添って部屋から出ていないという話になっておりますが、我が同胞が調べましたところ、塔にて幽閉されていると判明いたしました」 密使の彼女が革手袋に覆われた指を指す。塔は防壁の角に位置しており、門からもそう遠くないように見える。 「わかった、行きましょう。段取りはあなたに任せるわ」 御意にございます、と密使は小声になり、潜入する為の作戦を綴った。 ――兄弟を嫌うのに深い理由は要らない。 自分よりもよくできた姉妹を少なからず妬みながら育ってきたセリカには、その言葉の意味が身に染みてよくわかっていた。しかし嫌う感情だけでは、相手を死に至らしめるまでに行動するには至らない。 その二つの事項は容易に結びつかないはずである。いわば、憎しみの進展が必要なのだと思われる。 ではハティル公子の、弟を害したいという感情のふり幅はどこにあるのか。少なくともアダレムが生きている限り、それが希望になる。 しかもアダレムはまだ柔軟な年頃だ、命まで奪わずとも如何様にも誘導・洗脳できうる。ハティルは、ただ一人の弟を飼い殺しにするつもりかもしれない。 (本人を誘導できても、背後にいるはずの母親や親族はどうだろ。アダレムとハティルは母親が同じだから、いざとなったら母親はどっちに味方するかしら) 人望がどうと言うには二人の公子はまだ幼い。逆に、傀儡化できそうな公子を担ぎ上げるのが妥当と考えられる。 (まあいいわ。誰が立ちはだかっても、あたしはやるべきことをやるだけよ) セリカは密使の方を向き直った。互いに、一分の隙も無い黒衣に身を包んでいる。 「殿下が門を通る隙を狙って、潜入します。私に続いてくださいませ」 彼女の手にある道具はゼテミアンでは見たことのない類の物だ。武具、なのだろうか。腕にはめる何かのからくりのようで、先端に大きな三つ又のフックが付いている。 その道具と長い縄を持って彼女はすたすたと急勾配の方へ歩いた。大木に縄の端を縛り付け、残りを空いた腕で抱える。これらで防壁に至るまでの「橋」を架けるのだそうな。 後はエランが門番と話し込む頃合いを見計らうだけだ。その間に密使の横に立って、セリカは口を開いた。 「ところで、呼び名が無いとやりづらいわ」 「では私のことは、ハリャ、と。あとこちらをお持ちください」 無機質に言ってハリャは腕の仕掛けを解放した。フックが空を切り、遥か遠くの壁の縁に引っかかる。 かしゃん、とからくりが大きな音を立てた。かと思えば、ハリャは地を蹴っていた。 振り子の要領で彼女は山と防壁の間を見事に超えて見せた。 だが油断はできない。 セリカは視力が良い方だ。運悪く屋上通路を通りがかった兵士が気付いて駆け寄り、ぶら下がる彼女を蹴り落とそうとしているのが見える。 弓に矢を番えつつ、自分に射抜ける最長距離を思い浮かべる。正直ちゃんと届くのか、ちゃんと狙えるのか、ここからでは怪しい。 弓弦の張力を全身で感じる。手が微かに震えている――当然だ、人を狙うのだから。 束の間、瞑目した。 再びハリャの危機を視界に入れ時には、セリカは賭けに出る為の覚悟を決めていた。 狙い、放つ。矢が僅かな風切り音を背負って飛ぶ。 余韻に震えながら息を止めていた。警備兵が仰け反り、倒れるのを見届けるまで。 次に、人を殺したかもしれないという事実に怯え、狼狽した。 そんなセリカの葛藤などお構いなしにハリャは壁をサッサと登りきる。手頃な突起を見つけて縄を縛り付けると、こちらに向かって手招きしてきた。 戦々恐々と例の縄を見下ろした。 太くて頑丈そうだった。セリカ一人の体重くらい、支えるに足るかもしれない。 そして先ほど「お持ちください」と渡されたのは曲がった小さな鉄塊。両腕に嵌めて使うものだと、ハリャに教えられた。 心の中で神々と聖獣に短い祈りを捧げ、大きく息を吸い込む。 (こんなこと! 絶対! 二度としないからね!) 風が衣服を激しくはためかせる。手足がひどく重い。 落ちる。落ちる、そのことを意識したくなくて目を閉じたら余計に気分が悪くなり、空を仰ぐことにした。疎らに煌き始めている星々の輝きが慰めだった。 ――味わった恐怖は度を越えすぎていて、状況を楽しむ余裕も無くて、後に思い出したり語ったりしたくないようなものだった。 転がり込むようにして着地した。打った後ろ首をさすりながら、セリカはなんとか起き上がった。 ハリャがひとりで数人倒したのだろう、そこには既に戦闘の痕跡があった。セリカが射た者含め、皆ぼそぼそと呻いている。誰も殺していなかったことに、こっそりと胸を撫で下ろした。 「こちらです!」 彼女が先導する方へ続く。二人でしばらく通路を進み、塔へ入り、階段を駆け上がった。カビの臭いがどんどん濃くなる。 (生きていてよ。無事でいて、お願い!) 果たして、最悪の結末を撥ね退けられるかは知れないが。 アダレムはエランが怖いと言った。だから彼を迎えに行く役目は、セリカが請け負うことになった。 息も切れ切れに、セリカは思い浮かべる――リスを追いかけていた天真爛漫な幼子のことを。 ただ一心に、あの元気な在り様が保たれていることを願った。 Ziplineを嗜む系プリンセスw 鉄塊は手首っていうか腕を支える良心的な仕掛けなので脱臼しません(ファンタジー)でもしょせん次の日は全身筋肉痛。 ついに恋愛らしい恋愛に踏み出しました二人ですが、そこですかさず水を差すのが作者です。 九話は一応ここで終わりのつもりです。いきなり気が変わって構成いじりたくならない限りw 十話からは多分視点がくるくるします。乗り物酔いにご注意ください。 |
拍手御礼ログ 16~20
2017 / 09 / 07 ( Thu ) 間が空きすぎ問題。(滝汗
ものすごく久しぶりに拍手お礼を替えたいと思ったのよ。 そういうことなのよ。 あ、黒赤9話は多分あと残り1、2記事で終わるんじゃないかなって思ってる。もしかしたらgが異様に長くてそのまま終わるという可能性もw では続きはログになります。 |
九 - f.
2017 / 09 / 06 ( Wed ) 腹の決まった者に向けて「行かないで」とも「連れてって」とも、ねだってはいけない。 足を引っ張りたいわけではないのだ。それでは、共に歩む伴侶たりえないだろう。人々が遠ざかる。送ってくれるという密使の女性は離れた位置の木陰にいつの間にか身を潜めていて、セリカはその場に取り残されたように立ち尽くした。 言葉にできない、悶々とした想いを持て余している。急に頭を覆う布が暑苦しく感じられた。乱暴に脱いで、手癖で髪を解いて結い直す。 己の長い髪すら煩わしく思えてくる。それゆえか、ひとり戻ってきた青年が不満そうな顔をしているのを見て、セリカは彼が何を考えているのかすぐにはわからなかった。 「そんな風に引っ張ったら傷む」 「構わないわよ、傷んだら切ればいいし」 「そう言ってやるな」 なんとエランはどこからともなく大きめの櫛を取り出した。そんなもん持ち歩いてるの、と訊ねている間に背後に立たれた。 「髪、触っても」 「いいわ」 こちらが答えるが早く、軽やかな音が頭蓋に響いた。木製の櫛だ。くせだらけのセリカの髪を優しく梳く感触は心地良く、絡まった箇所を解く手付きは手慣れている。 ――あのリューキネ公女と比べたら毛が太く扱いづらいだろうに。 「持ち歩いているというより、道中で買った」 今頃になって質問の答えが落ちてきた。 「髪短いのに櫛なんて使うんだ」 「使わない」 「え」 間があった。一方、セリカは首筋をくすぐる感覚に身震いしないように必死だった。 「お前の為に買った」 「そうなんですか……ありがとう……?」 またモヤモヤとした感情が胸の奥で渦巻く。嬉しいのに喜べない、その原因は知れているのに。 伝えなきゃと思えば思うほど、息が苦しくなる。 「って、ちょっと。編んでませんか」 気が付かない内に、梳く感覚が何か違うものになっていた。 「ついでだ」さすがに彼は手慣れている。三つ編み一本を作り上げると今度はそれをくるりと巻いてまとめ上げ、仕上げに櫛を挿して固定した。「これなら動きやすいだろう」 満足そうに笑んでいるエランに、セリカは苦笑交じりに礼を言った。それから深呼吸する。 「じゃ、気を付けて。また後で、ね」 後でどこで合流するかは、実は定まっていない。 次があるのかわからないという誰かとの別れに、こうも後ろ髪を引かれる想いをしたのは初めてだ。望めば腕が届くようなこの距離に、空気感に、浸るようにしてセリカは青灰色の瞳を見つめた。 「ああ。お前の方こそ気を付けてくれ」 絡まった眼差しは、ほどなくして切れた。 裾がたなびく。足音がする。数歩と歩き出した背中に、セリカは衝動的に呼びかけた。 振り返った顔には、これといった感情が映し出されていなかった。 「あ、あのね! あたし、嬉しかったよ」 つっかえそうになる言葉を頑張って押し出した。 宵闇の中、無表情に僅かな驚きが射しこむのが見える。 「あんたがあたしの運命で――うれしい」 その想いを口にした時、胸の中でたとえようのない温かさが広がった。次いで微笑んだのも、きっと衝動だった。 ――伝わって欲しいのはこれだ。 巻き込んだと、彼は思わずにいられないのだろう。巻き込まれて、嫌な感情が全くなかったとセリカには断言できない。 けれどもそれを凌駕する何かがある。困難に一緒に立ち向かうことに、充足感のようなものが伴うのだ。他の誰でもない、この人の戦いに。果てまで付き合いたいと、今なら言い切れる。 瞬間、より深い驚きが青年の面差しを埋め尽くした。 かと思ったら、セリカの視界の中で布が動き、影が近付いた。 両肩を圧迫する力にハッとなる。抱き締められたのだと気付いて、呆気に取られたこと、数秒。 「あまりそういうことを言うな。離れがたくなる」 耳元で囁いた声は掠れていて熱っぽい。つられて熱に浮かされそうだ。 「……反省します」 寂しいのは自分だけじゃなかった、エランも何かを我慢していたのだ、と思い知った途端に肩の力が抜けた。セリカに同等の腕力は無いが、負けじと強く抱き締め返す。自然と瞼が下りた。 これ以上にないくらいに相手を近くに感じられる―― ――これ以上は、ないのか? 脳裏に奇妙な疑問が沸き起こったのと「もっと触れても」の問いが耳朶に届いたのは、ほぼ同時だった。 セリカは自身がどう答えたのかを知らない。喋る為の器官が動いて何かを答えたらしいのは、わかる。 唇を閉じる寸前、そこに柔らかく温もりが重なるのを感じた。 ほぼ二年ぶりって具合に拍手お礼を更新しました。 何故こんなに間が空いたのかはもはや謎です。 |
九 - e.
2017 / 09 / 04 ( Mon ) 何を、と問おうとして、途中で考え直す。なんとなく心当たりがあった。 「怖いの?」「……ひとりの人間が全てを捨ててまで寄り添う甲斐が、自分にあるとは思えない」 「それを決めるのは、あたしだからね」 エランから「結論」を言い渡された朝の記憶がまだ新しい。それは結論であり、申し込みだった。 ――ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクス姫。私がこれから歩もうとしている先に、希望があるのか破滅が待つのかは知れない。私の持ち札はあまりに少ない。与えてやれるものは何も無いし、幸せにしてみせるとも約束できない。 ――それでも共に歩んではくれないだろうか。泥の中を這うような人生でも、お前が居てくれるなら、耐えられそうだ。 「手かして」 ありったけの威圧を込めて右の手の平を差し出した。エランは躊躇いがちに応じた。 重なる手の温かさに、ほっとした――時にそれはどんな不安や恐怖をも忘れさせ、時にごく平凡な風景をも輝かせる。セリカは被り物の下で頬を緩めた。 「なんにもないって、そればっかり……正直すぎよ。ま、好きだけどね。そうやってかっこつけないとこも」 指を絡めて、握る。捕まえた青年の指はまず強張った。次第に解れて、握り返してくる。 「あたしの気持ちは変わらないわ。後悔なんて、しない」 「…………」 「あ、今笑ったでしょ。見えなくて残念だわ」 目尻の雰囲気が柔らかくなったのは確かである。 「こんな顔で良ければ後でいくらでも見せてやる。飽きるまでな」 答えた声はいかにも可笑しそうだ。これから一生付き合うのに、飽きたら困るなあ――とセリカがポツリと漏らせば、エランは声に出して笑った。 ________ ムゥダ=ヴァハナに連なる裏山にて夜を迎える。 セリカは手頃な樹木に片手をついて支えとし、これより向かう先を眺め下ろした。曇り空のため、日が暮れ切っていなくても辺りがやたら暗く感じられる。 都を守る強固そうな防壁は、思いのほか高くなさそうだ。角の物見やぐらにのみ明かりが灯っていて、壁際の通路は基本的に暗い。巡回する衛兵の装備や数を遠目に確認した。 「片手で数えられる程度しか居ないわよ」 振り返らずに、背後から現れた気配に向けて話しかける。 「ああ。ほとんど矢狭間(アローループ)が設置されていない。こちら側から攻め入られる可能性が極めて低いと認識されているからだ」(アローループまたはスリット=外敵に矢を射る為の隙間) セリカの隣に並んで、青年はそう付け加えた。 全て想定した通りだ。都の裏手の山は険しく、遠回りとなったが、その代わり虚を突くことが叶う。エランはこの山を抜けた経験が何度もあるらしく、最も効率良く進む道を熟知していたのである。 第五公子は変装をやめて、以前の様相に戻っている。ターバンから垂らした布で顔の右半分を覆い、動きやすそうな服装に着替えていた。 ――別れて行動する刻限が迫っている。 そのことを思うと、セリカは落ち着かない。気を紛らわせたくて肩にかけた弓を指先で撫でたりした。 「人を射たことはあるか」 ふいにエランが問いかけた。 「ない、と思う」 「そうか。これからもそうであれば、いいな」 「うん……」 労わるような優しい声にたまらなくなり、目頭に涙が滲んだ。 怖い。けれどそれ以上に、離れるのが嫌だった。別れたらそれが最後になるのではないか――。 ほどなくして暗い視界の端に一層黒いものが浮かび上がった。「彼女」はいつぞやのようにエランの前に跪いて、報告をする。大公、ハティル公子、それにアダレム公子についてわかったことを。 「アストファン公子に動きが見られませんが、監視に気付いて敢えてそうしているようにも解釈できます」 「……わかった。監視の目をかいくぐられるかもしれないのは気がかりだが、仕方ない」 エランは頷いて、踵を返す。イルッシオに借りた兵の方へ足を運び、支度をするように呼びかけた。 「お供いたしましょうか」 密使の申し出をエランは即座に断った。 「いや、必要ない。ハティルが父上の『見舞い』に行っているというなら、私がそこに向かうのも便宜上は問題ない。それよりお前は、セリカ公女を送ってくれ」 「承知しました」 黒づくめの女性がこちらに向いて頭を下げる。 セリカの胸の内に焦燥感が沸いた。ここ数日ですっかり見慣れてしまっていた横顔が、もはやこちらを見向きしない。 深い青の耳飾が揺れるのを目で追った。「待って」の一言が、喉でつっかえる。 |
九 - d.
2017 / 09 / 01 ( Fri ) 先にイルッシオが両手で長剣を振るう。 セリカは本能的に後退った。あれは刃物としては鈍い分類で、敵に叩き付けるようにして切るのが主流だ。軽装備のエランにまともに当たったら、骨折はまず免れない。 「やめてよ!? ああもう、お兄さんのバカ! 脳筋!」 停止を呼びかける悲鳴、むなしく。セリカの目前で火花が散った。 (熱っ……!) 頬に、刹那的な熱が弾ける。それとひどく耳障りな音が響いている。 鉄と鉄が擦れる音だ。 左手に持ったナイフを長剣の側面に滑らせながら、エランがイルッシオの懐に飛び込む。 (左手?) セリカが疑問に思った一瞬の内に、黒い衣がしなった。それは鞭のように甲冑の騎士の両腕に巻き付き、動きを封じる。剣先が地に突き刺さった。 すぐに布を手放して、エランは左足でイルッシオの腕を踏み台にし、右膝で顎下を蹴り上げた。衝撃音と共に、土埃が舞う。 (何今の!? すごっ! 超かっこいい!) 不謹慎ながらセリカは興奮した。弟の実力を知っている姉としては、イルッシオがこんなに早く倒されるのを見るのは新鮮である。 「あの体勢から飛び蹴りって、やりますね。隻眼も身長も体格も不利だとわかってて他で補うとか、潔くていいっすね」 と、イルッシオがのんびりと称賛する。立ち上がろうとする彼に、エランは手を貸した。 「まぐれです。膂力も体力もあなたに敵わないと踏んで、早々に奇策に出させていただきました。十回勝負すれば、九回はそちらが勝つでしょう」 「ご謙遜を、義兄(あに)上。今の一回が全てだったんすよ」 二人は何食わぬ顔で向かい合う。始まりと同じくらい唐突に、終わってしまった。 「あんたって右利きな気がしてたんだけど」 ふと思い出して、セリカは先ほどの疑問をエランに指摘した。 「生来そうだ。片目になってから不便で、左もある程度使えるようにした」 「へえ。努力家ね――……じゃなくて、もう決着でいいわけ?」 どうも二人ともこういったことの勝敗にこだわらない性分らしい。セリカの問いに、イルッシオは肩を竦めた。次に、エランが口を開く。 「ひとつ訊ねても」 「何すかね、義兄上」 「あなたの一行には武装した兵が何人いるのでしょうか」 「重装備の騎兵が八人、練度は上の下ってとこですかね。何故?」 「貸していただけないだろうかと」 イルッシオはゆっくりと瞬きだけを返した。セリカも、何言ってるの、と視線でエランに訴えかける。 「ルシャンフはともかく、私は公都に兵を置いていない。宰相の手助けにどれほど期待できるかわからない現状、選択肢は多く持った方が賢明だ」 と、エランはこちらを見て答えた。 「浅慮じゃないっすか。他国の人間だからと言って、貴殿のお家騒動に手を染めていないって言い切れないでしょう。俺が敵と手を結んでたらどうするんです」 「はて、姉の無事を確かめる為だけに馬を急がせた公子が、そんなことをしますか。あなた方にとっての『きょうだい』は、私の知るそれとは性質が違うように感じます」 「そうでしょーね」イルッシオは首を左右に巡らせて、バキボキと鳴らした。「でも他国の兵を引き連れて都に入るのは外聞悪そうですよ」 「落ちるほどの評判を持ってません」 今度はエランが肩を竦める。イルッシオは値踏みするように目を細めた。 「アウグロン兄上はかわいい妹姫が妙な輩に誑かされたと心配で気が気じゃないみたいですが、俺は人を見る目はあるつもりっす。姉上は、誑かされるようなお人じゃない。貴殿を随分と信頼しているようだ」 そう言って彼は右の籠手(ガントレット)を脱ぎ、指笛を吹いた。二分ほど経つと、複数の馬蹄の音が響いた。 「てことで、いいですよ。貸します」 「待ってイルッシオ、あんた自身は護衛どうするのよ」 「大丈夫ですよ。他に練度・上の上の精鋭が二人居ますんで」 彼は親指で背後を差した。なるほど、指笛の呼びかけに応じた騎兵の数は先ほど聞いた「八人」ではなく、十人だ。 そうだった、この男はこういうしたたかさを持ち合わせているのだった。最初からこの人数を連れて来たのにも、意図があったかもしれない。 話はあっという間にまとまり、別れの挨拶に移った。 「ご安心ください、姉上。父上たちは何も知らないままです。うまくごまかしますから」 「お兄さんによろしくね」 「はい。身の回りが落ち着いたら、ぜひ二人で挨拶に来てくださいよ。バルバも兄上も待ってます」 「必ず行きます。ありがとうございました」 と、エランが深く礼をした。 去りゆく三騎と一羽を見送った後に、セリカは大きく息を吐いた。すると隣の青年から気遣わしげな視線を受けた。 「目まぐるしくてちょっとついていけない。行き当たりばったりだわ……」 「臨機応変と言ってくれ」 「そうね。エランってリーダーとしては混乱の時代をうまく乗り切りそうだけど、平穏には向かないかもね」 「大公やってみたら? なんて言ったら、怒るぞ」 「言わない言わない」 否定に手を振る。エランは黒い布を頭から被り直し、目だけをこちらに向けた。青灰色の瞳に、深刻そうな光が宿っている。 「気が変わったか」 「え?」 訊き返すと、いつになく弱気な声で彼は「後悔しているか」と囁いた。 長髪美形=悪 に続き、 弟=曲者 という謎公式まで…。ち、違うもん、イルッシオはリーデンとは違うもん(;'∀') |
九 - c.
2017 / 08 / 29 ( Tue ) 他に何て言ってやればいいのかわからない。気を揉んでいる間に、エランが口火を切った。 「顔の傷痕がどうやってできたか、聞きたいか」不意打ちだ。セリカはどもって答える。 「き、そりゃ教えてくれるなら、もちろん知りたい……けど、あ、後の方がいいんじゃないかしら。移動が先決よね?」 言い終わってから、急かしているように聞こえただろうかと気がかりになった。 「それもそうだな」 ところがエランはあっさり同意した。ほっと胸を撫で下ろして、セリカも支度にかかる。 もっと休んでいたいと駄々をこねる馬を宥め、まさに騎乗しようと鐙(あぶみ)に足をかけた瞬間。また、鳥の鳴き声が響いた。 無視して出発できれば良かったのだが、エランの首は既に声のした方を向いていた。渋々とセリカも同じ方向に注目する。 隼に猛追するのは、コンパクトな外観の白馬と、甲冑姿の騎手。その男は真っすぐにこちらを目指して駆ける。 馬蹄が土を散らすさまをぼんやりと見つめ、どうしたものかと一考する。ここまで迫られてはもう選択肢が限られている。 ある程度の距離を開けたまま、男が馬を降りた。その時を待っていたかのように、隼が彼の腕に華麗に降り立つ。 「ご婦人方。お訊ねしたいことがあるんですが」 男は会釈し、毅然とした態度で問いかけて来た。無意識にセリカはエランの背中側の裾を掴んだ。 (エランが答えたらご婦人じゃないってばれる) 敵意が無いとの表れだろう、男は鉄兜を脱いで見せた。 そこに、しばらく目にしていない類の顔立ちが現れた。四角い輪郭と太めの首、白い肌と色素の薄い唇。全体的に彫りの深い印象で、眉骨がやや吊り上がって見える。短く整えられた濃い茶色の髪は、巻き毛よりもくせ毛という表現が似合う。 ヘーゼルに彩られた目は直線を繋いだみたいな角ばった形で、そう、ちょうどセリカ自身のそれと雰囲気が似ている。 「イルッシオ」 しまった、と口元に手をやった時には遅かった。名を呼ばれた青年は複雑そうに目を眇める。 「面白い格好ですね、姉上」 「うっ、うるさいわね。これにはランディヴァ湖よりも深い理由があるの。それより何であんたがいるのよ、オクタヴィオが飛んでたからお兄さんが来たかと思ったじゃない」 身内だとわかった途端に互いに口調が崩れた。 ちなみにセリカに指をさされたオクタヴィオは、くりっと鳥類特有の動きで首を傾げてから、我関せずといった具合に嘴で羽を整えている。 「まさか。アウグロン兄上はご多忙の身っすよ、だから代わりに俺が迎えに来たんじゃねーですか」 「あんたひとりで?」 「他は離れた場所で待たせてるっす。ぞろぞろ大人数を連れて現れたら、姉上は話も聞かずに逃げ出すでしょ」 「さすが我が弟、よくわかってるじゃないの」 「姉上は我が強いですから、大抵の使者には聞き耳持たずに追い返してしまうからと、わざわざこの俺が出向いたわけです。愛されてるっすねー。兄上も人使いが荒いですよ。これじゃあいつまで経っても、遊んで暮らす夢が実現できない」 「またそんなこと言って……お兄さんにパシられるの楽しいくせに」 「楽しくなんてねーです、よっと」 イルッシオはふうとため息をついて、腕から隼を飛び立たせた。彼の視線が残る黒づくめの人物に流れる。 「『迎えに来た』……?」 呟きながら、その者は被り物を脱いだ。明らかになった面貌は、考え込んでいるように深刻だ。 「あ、エラン、帰るわけじゃないから」 反射的にセリカは弁明を試みる。 「『エラン』? では、貴殿が姉上の」 イルッシオがその名に鋭く反応を示した。あろうことか、腰の鉄剣をスラリと鞘から抜いて構えたのである。 「ちょっとイルッシオ!? どういうつもり!」 「バルバティアが帰国しまして」 剣先がエランの顎下に触れた。セリカは、ひゅっと心臓が縮まる想いがした。 当のエランは瞬きひとつせずに冷ややかに応じる。 「侍女殿は、何と?」 「バルバの話はどうも要領が得られなくて……それは置いといて。要するに、我が国の大公世子は頭より筋肉でものを考える傾向にありましてですね。姉上が体を張ってでも傍に居たかった御仁を――そうするに値する人間かどうか、見極めて来いと俺に命じたわけです」 「…………わかりやすくて何より」 気が付けばエランまで、あの曲がったナイフを抜き放っていた。 |
九 - b.
2017 / 08 / 25 ( Fri ) 「第六公子の動向を見張れ」
「第六公子殿下を、ですか?」 エランの言い渡した指示に対し、思わず、といった具合に彼女は復唱した。もしかしたら、その名が挙がったこと自体に驚いているのかもしれない。 「そうだ。特別な行動に出る必要はない。我々が到着したら、それまでに観察した一切を教えてくれればいい」 承りました、とその者は深く一礼する。 「ではこれにて失礼いたします」 「ああご苦労だったな」 黒づくめの女性が立ち上がると、思い出したように「ところで密使の者」とエランが呼びかけた。何でございましょう、と彼女が応じる。 「どうやって変装を見破った?」 「……見破ったというのは正確ではありません。私は一度聴いた声は忘れませんので」 つまり人が多く通りそうな場所に目星をつけて、通行人の中にそれらしい体格の人物を見つけて、当たり障りなく声をかけたという。 地道な作業だ。それを何でもなさそうにこなすとは、大したものである。 「なるほど、合点がいった」 「はい。ご帰還を心待ちにしております。どうか良き旅路を」 密使は颯爽とその場から立ち去った。 エランは無言で再び馬を走らせる。風景とも呼べない色の羅列が、うねりながら過ぎ去る。 (期待してた遠乗りじゃないなー) 密かに苦笑いした。滅多と経験しない馬の二人乗りだが、そこに心躍るような要素は何もなかった。 道行く人々をいちいち敵と疑いながら進める旅だ。目の前の青年にしがみつくのは甘い感情からではなく、そうしないと振り落されるから――否、不安に飲み込まれるからである。 やがて開けた場所に出た。 先の丘の上に廃屋が見える。そこで休憩を取ることになった。 エランが草むらでひと眠りしている間に、セリカは食料を探して回った。 まずは小屋の中を探す。残念ながらそこは人の気配がとうに失われた、文字通りの廃屋だった。キノコが少しばかり生えているが、セリカにはそれが食べられるものかどうか判断が付かない。 外に出ると柱に繋いだ馬と目が合った。艶やかな毛並と長距離走に耐えうる屈強な身体を誇る、上等な馬だ。扱いやすい気質で、あっという間に新しい乗り手に馴染んだ。 (そうだわ。毛づくろいをしてあげよう) セリカは荷物の中からブラシを取り出し、おもむろに馬に近付いた。察したのか、嬉しそうに鼻息を漏らしている。 時たま優しく声をかけてやりながら、丁寧にブラシをかけた。それが終わると、馬は穏やかな息遣いに戻って草を食んだ。 タバンヌスに貰った賃金はこの馬と、兵を幾人か雇うことに費やされた。 兵が請け負った仕事はベネフォーリ公子への伝令だ。エランの推察では、第一公子がこの時期に州へ呼び戻されたのは、偶然ではなくおそらくアストファンの手回しだと言う。 彼を都から遠ざけて、なおかつ秘密裏に始末する為に。 実直なベネフォーリは何も疑わないだろう。 伝令を伝えるついでに、傭兵たちが少しでも彼の戦力の足しとなれれば幸いだ。 (間に合うかしら) 他に、果たされていない条件がまだ幾つも残っている。 草の上に寝そべるエランを見やった。 (あれくらい騒いでも起きないか……疲れてるのかもね) 疲れているのは自分も同じだ。思い出したように立つのがだるくなり、セリカは小屋の影に腰を下ろした。 瞼が下りかける。 遠くからは、鳥の鳴き声がする。鷹か―― ――違う! カッと目を見開いた。鷹の甲高く伸びやかな鳴き声に比べると、か細い印象を受ける鳴き方である。 「やばっ! 今度こそお兄さんの隼!?」 油断した、と遅れて気付く。人気が無いのをいいことに、被り物を脱いでいたのだ。暑苦しいのだから仕方ない。 そして隼は視力が良いが、嗅覚はそれほどでもない。身を隠していれば見つかることもなかったはずだ。 慌てて身を起こした間に、鳥影は消えていた。もしかして「止まり木」の方に戻ったのではないか。 (急かしたくないけど) エランを起こして、そろそろ移動しようと提案したい。 草むらまで歩み寄って、ふと止まる。彼の方は被り物を脱がなかったので表情こそ見えないが、呻き声が聞こえた気がした。それに何度か寝返りを打っている。 (うなされてる?) 睡眠の妨害をする口実ができた――という邪な思考を頭の片隅に追いやり、セリカは手を伸ばした。 そっと、肩を揺すってやる。 「エラン。起きて。どしたの、嫌な夢でも見たの」 息を呑む気配があった。次いで、長いため息が吐かれる。 「……そうだな。これまでの人生にあった嫌なことがまとめて夢に凝縮された感じだ」 「わ、うわあ。オツカレサマです」 |
九 - a.
2017 / 08 / 22 ( Tue ) 一に、大公の身を確保すること。 二に、第七公子アダレムの身を確保すること。三に、第一公子ベネフォーリが州に戻っている間、奸計により命を落とすのを防ぐこと。 四に、第二公子アストファンの持つ武力をいなし、本人の動きを封じること。 五に、第四公子ハティルを説得すること。 それらの条件の過半を満たせれば、ある程度の安定は得られるはずだ。しかし果たせなかった場合、或いはそれでも流れが止まらなかった場合。 最後の手段で、私が大公に即位するしかないだろう。 そう言った青年の顔は――右頬の傷跡が威嚇に身を捻っているように見えるほど、苦かった。 ________ 定まった速度で進んでいた乗り物が急激に止まった。それゆえセリカは揺り起こされた。 (なになに) 重い瞼を開けると、覆面の人物が眼前で跪いていた。 (あれ、あたし一瞬ウトウトしてた?) 馬上で眠ってしまったとは我ながら恐ろしい。が、腕はしっかりと騎手の腰を捉えたままなので、とりあえずよしとする。 前方に乗っているその騎手が、地上で跪く人物を見下ろして何かを言っている。 大陸の共通語ではなくヌンディーク公国の言語だ。セリカは苦労して内容を聞き取った。 「宰相殿の密使か。信じさせてもらうぞ」 「偽りなき真意です。我が主から、殿下を探し出してお力になるように仰せつかりました。探し出すのに、少々手間取ってしまいましたが」 宰相の密使だという覆面の人物は中性的な声の持ち主だ。全身をくまなく黒い布で覆っているが(目の部分だけ細く網が張ってある。当然、声はくぐもっている)、胸周りの膨らみから女性と思われる。 「理由を、お前は宰相殿から聞いているのか」 「はい。主は我が国が貿易から繁栄するのが、最たる道だと考えておいでです。四国の間で突出したくとも、兵力・軍事力では帝国や隣国のゼテミアンに敵わないでしょうと」 「事実だな。ヤシュレに攻め入ろうにも、すぐに他二国をも同時に敵に回してしまう。綱渡りだ」 それでも渡り切れるだけの策を、ハティルなら考え付くかもしれないが――と、エランは使者に聴こえないような小声で呟いた。 「私が公都に戻ると、どうやって気付いた」 「殿下の従者という者から話を……それで公子方の中で最も意が合うのは、きっと第五公子殿下であると主は判断されました」 その返答に、セリカはエランと一緒になって息を呑んだ。そうか生きていたのか、という安堵と、転んでもただで起き上がらないどころか暗躍までするとは大した男だ、という感嘆が沸く。 曰く、陰に動き回っていたタバンヌスを、宰相の私兵が捕らえた――結果的には保護した――らしい。彼はしばらく口を割らなかったが、事前に宰相の立ち位置を理解していたためか、最終的に賭けに出たという。 「彼の者より伝言を預かっております」 「わかった。聞こう」 「では――『陛下は身辺に人が増えすぎて現状どうなっているか生死不明』、『並びにアダレム公子の生死と行方も不明』とのことでございます」 瞬間、エランの身が強張るのを衣服越しに感じた。 「我が主も手持ちの駒を動かしておりますが、殿下が戻られるまでに何がどこまで進展するか、保証いたしかねるそうです」 「了解した。力になってくれると言うが、お前は何ができる」 「陰より殿下の護衛を務めさせていただく心積もりでした。が、あなたさまは既に巧みに身を隠しておられるようで……。ご随意に」 密使の言う通り、今日まで追っ手に見つかることなく馬を進めていられるのは、入念な変装のおかげだった。幸いなことにヌンディーク公国は被り物を自由に着用していられる文化だ。 ――目しか出さないほどに布を着込んでも、誰も呼び止めなければ振り返りもしない。 それは一般的に女性にのみ見られるスタイルだ。 エランの背格好なら、喋りさえしなければ十分に誤魔化せる。セリカのこの地域では珍しい赤髪も、こうして隠されたのである。 (覆面黒づくめの人間が三人も一同に会するのは、なんだかシュールだけど) 背に腹は代えられない、というわけである。 「なら、ムゥダ=ヴァハナにとんぼ返りしてもらっても構わないか」 「問題ありません」 彼女は指示の続きを求めるように、頭を下げたまま黙り込んだ。 |
ツイッターで満足しちゃうからさー
2017 / 08 / 21 ( Mon ) |
八 - h.
2017 / 08 / 17 ( Thu ) 「回り出した歯車を止められるかはわからない。やれるだけのことをやってみる」
「うん」 「幾つかの条件を四、五ほど満たせれば、流れは止まるはずだ」 エランは一拍挟んで、再び口を開いた。 「どれかは、お前に手伝ってもらうことになるだろう。頼めるか」 「……やってやろうじゃないのよ」 何をやらされるのかまだわからないのも要因だが、セリカは相変わらず「任せて」と言い切れない。 (自信も何もあったもんじゃないけど……) 不安を抱えたまま走り抜けることはできる。そういう意思表示として、拳を握って見せた。 その拳に一度視線を落としてからエランは、微かに笑って顔を上げた。 「お前は、いい女だな」 ――急に何を言うのかと思えば。真っすぐな目で褒められては、こそばゆい。 セリカはチラチラと目線を合わせたり外したりしながら答える。 「ありがと。あんたも、いい男だと思うわよ」 「そうか。なら、似合いだ」 「…………そうね」 極めつけに青年は、爽やかな笑顔を浮かべているではないか。気恥ずかしさから逃れたくて思わず同意を言葉にしたが、それはそれで恥ずかしい。 髪を指で梳きながら、話題を変えるとっかかりを探した。目に入ったのは、丈の長すぎるチュニックだった。 「それ、邪魔そうね」 「タバンヌスが数年前に着ていたものでも大分布が余るな」 「結んであげようか」 ちょうどセリカの手元に髪紐があった。自身の髪はまだ乾かしていたいので、結わないつもりだ。 その紐は人の腰を一周できるくらいに長い。じゃあ頼む、と言ってエランは緩慢に両腕を持ち上げた。 彼の背中側に立って、紐を緩く巻いた。それを境目に、腹や腰周りから裾を引き上げて折り返す。 小刻みな振動が指先に伝わった。そうか脇腹も弱点か、とセリカはほくそ笑む。 「さっきの話だが」 息を整えたらしいエランが、沈黙を破った。 「え?」 「足手まといだとか、個人では価値が無いとか」 「あ……まあ、うん」 「とんだ思い違いだな。お前は誰にも物怖じしなくて、勇敢だ。聡明で情に厚い。更に挙げるなら……いつもいい匂いがするし、柔らかいし、抱いて眠ったら気持ち良さそう――」 「なっ! に、を真顔で抜かすのか、この男は! ていうか最後のは別にあたしじゃなくても、他にも当てはまる人がいるでしょ!?」 勢いに任せて紐をぐっと締めた。ぐえっ、と呻き声が上がった。 ――柔らかいってナニ!? 人の感触を、いつの間にか確かめていたというのか。負ぶってもらった時など、心当たりが無いわけでもないが。 「ひとつずつの性質は、他の誰かからも見つけられるだろう。だが全部揃っていて、尚且つここまで私を気にかけてくれる娘は、なかなかいない」 そう言われてしまうと否定できない。セリカは結び目を作る手をつい止めてしまう。 それに、と続けてエランが振り返る。青い耳飾りの涼やかな硬さが鼻先をかすった。 「大好きと言ってくれるのも……私の為に大の男を締め落としてくれる女も、大陸中を探してもきっとセリカだけだ」 「し、締め落とすって、あの時!? 意識あったの」 「途切れ途切れにだ。何の記憶かは、後から思い出した」 あの必死な命のやり取りを目撃されていたのかと思うと複雑な気持ちになるが、今のセリカには、それ以上に気になる事項があった。 「顔、近いんですけど」 怯むまいと気を張りながらも、訴える声は僅かに震えた。 「近付けているからな」 率直すぎる答えだった。反論したいのにこれではしようがない。 青年の輪郭が月明りを遮っているため、視界が暗い。それでも、表情の動きを感じ取れるくらいには、近い。 「お前が自分で自分の魅力を見出せなくても、私にははっきり見えている。だから安心しろ」 素直に「はい」と応じられないのは、照れ臭さゆえか。単に動けないだけなのか。 その笑みは、見る者を魅了する類のものだった。そういう意図の下に、あるものだ。 見事に術中にはまっている気がして悔しいが、同時に酔わされているような心地良さがある。頭の奥が甘く痺れる。 「紐、結び終わったか?」 色気の欠片も無い台詞も、こう至近距離で発せられては吐息がかかってしまう。湿った熱が皮膚を撫でる。唇、を。 どうにかセリカは平常心を取り戻して指を動かす。 手を放すと、エランは数歩離れてからタガが外れたように笑い出した。それは脇腹のくすぐったさを堪えていた反動か、こちらの反応を面白がってのことか――後者のような気がしてならない。 「やっぱり紐返して。あんたも締め落とされたいみたいね」 ずい、と掌を差し出す。 「怒るな。約束は守っただろう」 「約束って、『許可なく触るな』ってやつ? そんなもん、吐息が触れたからアウトよ!」 「そう言うなって」 また笑い出している。なんとなく腹立たしい。二、三発叩いてやろうと思って追いかけたら、向こうもなんとなく逃げ出す。 こうして追いかけっこをしながら帰路を辿った。 (いい年した男女がこんな時間に何をやってるんだか) 呆れ半分、楽しさ半分。 (さも当然のように遊び相手になってくれてるなぁ) ふと、遠乗りの約束を思い返す。共に過ごせるはずの未来を―― ――考えさせてくれ、と彼は答えた。 明日になって、たとえどのような結論が言い渡されたとしても。 出会う以前にはもう戻れないのだと、セリカは静かに悟っていた。 八話は終わりだよ(・∀・)! どう、爆発しそう!? セクハラ発言! いろんな意味で作者のメンタルは限界だよ☆彡 今回エラン視点長引かせちゃっていいのか感はあるけど、まあそういう自問自答は後回しにします。 笑い転げる系男子が新鮮です。拓真久也はともかく、ゲズゥは大笑いとかしないタイプでしたから…。 では九話でお会いしましょう! |
八 - g.
2017 / 08 / 14 ( Mon ) 「末子相続と言っても線引きは必要だ。ハティルが誕生してから六年、大公世子として即位式が行われ、世に披露されるはずだった前日に……予定よりも二週間早く、アダレムが産まれた」
視界の端に動きがあった。畳んで重ねられていた服――借り物のチュニック以外は使い回しだ――が減っていく。 「迷うべきではなかった。あのままハティルを世子にするべきだった。だが父上は新たな『末子』の成長をしばらく見守りたいと言い出した」 しばしの間があった。衣擦れの音が、間を埋める。 「こう言っては聞こえが悪いが、父上は自分に似た子供を贔屓する傾向にある。アスト兄上よりはベネ兄上、ハティルよりはアダレムだ。年を重ねるほどに、アダレムが後継者に選ばれるであろうことが明らかになった」 「末子相続の伝統にも則っているしね」 「それもある。ただ、比較対象がいけなかった――三歳で字の読み書きを身に付けたハティルに比べると、アダレムは未だ遊び盛りの普通の子供だ。現時点でどっちが大公により相応しいのか向いているのか、論じても無駄だとは思うが」 「……公宮内で対立が生じるだけの材料があったってわけ」 「誰がどの公子を担ぎ上げたいかに、利己的な理由も混じっているだろう」 なんてことのない、よくある話だった。あらましを聞いただけでもセリカは嫌気がさしていたが、まだ肝心な部分が語られていないことに気付く。 これらの問題がエランとどう関係しているのか、である。 「正式に世子が立てられれば大抵の人間は反意を表せなくなるが、知っての通りの状況だ。そこで、大公世子が空席のまま大公が逝去した場合……成人している公子の内、最も継承順位が高い者が即位することになる」 一通り衣服を着終わったらしいエランが、正面に回ってきた。 セリカは無表情な青年をぼんやりと見上げて考え込む。 成人している公子は上からベネフォーリ、アストファン、ウドゥアル、そして。 『ヌンディーク公国第五公子、エランディーク・ユオンです。公位継承権は、三位となります』 あの夜の自己紹介でエランはそう言っていた。つまり―― 「…………あんたじゃないの」 「そうだ。アダレム、ハティルに続いて、私は継承順位が高い。忌々しいことにな」 彼は心底嫌そうに顔を歪めてみせた。 「で、でも、あんたを消しても繰り上がりでウドゥアル公子が即位するだけじゃないの?」 「そうでもない。死が確認されていない『失踪』であれば、大公は空席のまま、その間に政が回るように複数人で代理が立てられる。期限は三年だ」 「三年経ったら死亡宣告されて、結局ウドゥアル公子が即位するんじゃ」 頭を捻っているセリカの前でエランがしゃがんだ。じっと見つめる青灰色の瞳に、心臓が勝手に高く鳴る。 「ハティルは、十二歳だ」 「……!」 合点がいった。この大陸では一般的に女児は十四歳、男児は十五歳からが成人である。 三年後にハティルが「成人している公子」の筆頭となれば、事情は大きく変わってしまう。 「何もせずに機を待ちながら、ほとんど諦めていたはずだった。それが幸か不幸か条件が揃ってしまった。こうなっては、病床の父が息絶えるのを待つまでもない」 「暗殺を仕掛けるかもしれないってこと……!? えーと、待って、ハティル公子を利用したいのは第二公子? の、一派……?」 セリカは無意識に腰を上げ、その場をうろうろした。 「どうだか。ハティルは謀(たばか)られるような奴じゃない。首謀者側だろう」 「でもあの朝あんたの居場所を訊いた時、本当に何も知らないみたいだったわ」 「私を牢に投げ込んだのは間違いなくアスト兄上だ。共謀していても、いつ行動に移すかを細かく打ち合わせてなかったと考えられる」 セリカはふいに立ち止まった。 「……標的にされてるっていうのに、冷静ね」 「公家の世界はそういう奴らばかりだとわかっていた。別に、嘆くほどでもない」 それが現実だとしても、セリカは彼の代わりに一抹の寂しさを覚えた。改めて今代(こんだい)のゼテミアン大公家がいかに平和であったのかを思わせられる。 「きょうだいを嫌うのに深い理由なんていらない。自分の方が優秀なのに選ばれないことに納得できないのも、自然な流れだ。ただ……」 エランは初めてそこで言葉を濁らせた。 「あいつが本心からこの国を愛し、国の未来を想っているのも知っている。誤る前に止めてやりたい。血族殺しの罪を犯した君主は、いずれ歪んでしまう――というのは私の見解に過ぎないが」 「言いたいことは、わかるわ」 「それにアスト兄上が関わっている以上、流れる血はきっと私と父上に留まらない。刹那的というべきか、後先を考えないで欲望や衝動だけで妙な方向に踏み出す人だ。だからこそ扱いやすいとハティルも考えたかもしれないが」 「一年は都に帰ってないのに、よくそこまで気付けるわね」 「きな臭さに敏感なのは保身の為だ。根が実直・善良なベネ兄上と違って、私は誰も信用しない。人は皆まずは敵だと思うことにしてる」 「それが賢明かもね」 けれど誰も信用しないと明言している割には、こうして出会って数日の人間に頭の中身を語ってくれている。心の距離が縮んだ証のようで、セリカはこっそり嬉しくなった。 前に使っていた「公太子」表記を「大公世子」に改めました。 |
八 - f.
2017 / 08 / 11 ( Fri ) 「恋愛感情というものへの不勉強さなら、私も同じだ。だが二度と会えなくなって平気かと問われると……つまらなくなりそうな、予感はする」
それがありのままの心だった。 惰性で公子人生を送って来たエランディーク・ユオンにとって、初めて見かけた時からこの女性は――「彩り」だ。地下牢の闇すら照らせるような、光。 表情豊かで、素直で。初めて知る力強い美しさである。 縁談が無くなったら手放せるのかと、改めて一考する。例えば、別の男と笑い合っている姿を想像する。 ――嫌な図だ。 だからと言って我侭で彼女を己の傍に縛り付けて、結果的に怪我をさせたり死なせたりしたら、永遠に自分を許せないだろう。そのような結末への恐れの方が、圧倒的に強い。 覚悟を改めるまでの時間が必要だ。 「少し、考えさせてくれ。せめて明日まで」 「……ん。いいわ」 セリカは要求にあっさり頷いた。すると髪のひと房が、肩からはらりと流れ落ちた。 瞬間、常よりも布の開けた胸元に眼差しが吸い寄せられたのは不可抗力と言えよう。すべらかそうな肌の白さから、赤い髪が行き着く溝から、目が離せなかった。 目が離せないのなら身体ごと向きを変えるしかない。エランは必要以上に素早く立ち上がり、踵を返した。 「あんたも浴びてくでしょ? さっきヤチマさんに着替え貸してもらってたわよね」 引き留められた。ので、首を巡らせて答える。 「チュニックだけだ。お前とハリマヌの体格は近いが、私とタバンヌスでは差がありすぎる」 ヤチマが保管していたのか、あの家には十代前半の頃のあの男の衣類がほんの数着あった。それでも現在のエランには大きいくらいである。 苦笑交じりにセリカは自身の着替えを終えて上着を羽織った。髪を乾かしながら、脱ぎ捨ててあった服を回収している。 「荷物見ててあげるから入ってくれば」 そう呟いて逸らされた頬は仄かに赤い。何故か、は考えない方が良いだろう。 冷水に全身を浸からせる――それは複数の理由でいかにもありがたい案だった。 エランはペシュカブズを鞘に収め、危険そうならこれを投げて来るようにと言ってセリカに手渡した。既に抜き身だった点に気付き、不穏な気配でもしたのかと彼女が訊ねる。その問いを、エランは「訊くな」と強引に振り払った。 それからゆっくりと岸へ歩を進める。水辺の縁に立つと、何ら疑問を抱かず脱衣し始めた。 「ちょっとォ!? 脱ぐなら脱ぐって一言断ってよ! あっち向いてるから!」 必死な抗弁に、我に返る。この時点ではもう上半身が惜しげなく夜風に晒されている。 「あ、ああ。悪い」 考え事をしていて気が付かなかった。制止の声をかけるにしても、もっと早くなければ無意味だろうに、と思っても口には出さない。 「……傷痕、結構あちこちにもあるのね」 「胴のは大体どれも『度胸試し』の痕だ」 「度胸試しぃ? 男ってそういうの好きよね」 「体を張って得られる信用もあるということだ。いつか機会があれば――」 言いかけて、止めた。セリカをルシャンフ領に連れて帰る未来があるのか判然としないのに、いつか機会があれば部族民に諸々の逸話を聞くといい、なんて言えるわけがなかった。 実はとんでもない岐路に来ているのではないか。そう考えるとゾッとした。 無心になる。エランは口を噤んで水浴びに専念した。 (水がこんなに冷たくてセリカは大丈夫だったろうか) 川底の石は藻のぬめりに覆われていて、柔らかい。この域は流れが緩やかだ。座り込めば胸まで浸かることができた。 冷たさに心臓が慣れた頃に、サッと頭まで潜った。寒くて仕方がないが、刺激で頭が冴える。汚れが洗い流されていく手応えに、人としての尊厳を取り戻せたような感覚がする。 長い息を吐いた。 ねえ、と背後から声がかかる。 「訊いてもいい? エランは何で、何の、標的にされてるの」 「…………」 核心を突く疑問に、俄かに答えることができない。 ――これも分岐だ。 知識と認識は、よほどの手段を使わない限り、簡単に無かったことにはできない。 教えていいのだろうか。話して自分が楽になりたいだけではないのか。重荷を分かち合って、後悔を生むだけではないのか。 振り返り、一見ほっそりとした後ろ姿を眺める。 実際は弓を引けるからにはそれなりに力強いのだろう。身体的な観点だけではなく、箱入り公女の内には、誰にも踏み消せないような炎を感じた。 覚悟の有無を問うのはもはや失礼か。 何も背負わぬつもりであったなら、そもそもセリカは今頃まだ宮殿で愛想を振りまいていたことだろう。 その様子を脳裏に思い描くと、自然と唇が笑みの形を作っていた。 どうせくだらぬ一生を作り笑いを浮かべて過ごさねばならないのなら。 隣に、この娘が居てくれればいい―― _______ 手元の武具は鞘から柄、果ては刀身までにも細かい装飾が施されていて、冷徹な美しさを讃えていた。返事を待つ間、セリカはそれを隅々まで鑑賞して暇を潰した。 (なかなか答えてくれないのは、やっぱりまずいことを訊いたからかしら) 掌が冷や汗で湿った。今夜は緊張しっぱなしである。 数秒後、大きな水音で、青年が岸に上がったのを知る。気配が近付いて来た。 「現大公――父上は為政者としての腕は悪くないが、優柔不断なところが昔からあった」 そうして彼は淡々と語り出した。 傷痕の絶対数でいえばゲズゥの方が三倍は多いですが(結構薄れているのも)、エランはところどころ派手なのがある感じです。属領の民との逸話は多分本編中に語られないので、気長~に番外編か続編をお待ちくださいw |
八 - e.
2017 / 08 / 08 ( Tue ) (薔薇の香り……香油なんて持ってたか?)
石鹸を持っていたようにも見えなかったが、懐に収めていたのかもしれない。 背後から、カタカタと硬いものがぶつかり合う音――おそらく寒さに歯を鳴らしているのだろう――が聴こえた。声をかけていいのか逡巡した。衣擦れがするので、まだ着替え終わっていないのだろう。 待つしかなかった。セリカの育ちを思えば、不慣れな衣装をひとりで身に付けるのに時間がかかっていても仕方がない。 「六日」 しばらくして、静寂が破られた。 「六日?」 微動だにせずに訊き返す。 「あんたと出会ってから六日経ったわ。三日目に公都から逃げ出して、移動に丸二日かかって」 「もっと長いように感じていたが、短いな」 「明日から、どうするの」 心なしかその問いには、責め立てるような響きが含まれている。ここ数日の不機嫌の原因はこの辺りにあるのかもしれないとエランはふと思った。 先のことにまつわる不安をどうすれば払拭してやれるのか。嘘偽りなく話す以外に、思い付かない。 「遅れて悪かった。安心してくれ、お前は必ず無事に送り返す。傭兵を雇って」 「あんたは、どうするのよ」 何故かセリカが苛立たしげに言葉を被せて来た。 「必要なものが幾つかある。手配でき次第、ムゥダ=ヴァハナに戻るつも」 「戻るの!?」 再び、被せられた。 「放っておけない。亡命は最初から選択肢に無かった」 「危険でしょ。また誰かが消そうとするんじゃないの」 「逃れえぬ死に向かっていても、たとえ無駄な足掻きだとしても、行くしかない」 エランは知らず握り拳を作っていた。命をかける覚悟は、既に決めている―― 「どうしてそう考えが捨て身なの! もっと自分を大事にしてよ! 国の為なら自分ひとりの命なんて安い対価だとか思ってる? どんだけ生きる意欲が無いの!?」 突然浴びせられた怒号に、首筋が強張った。現状を忘れて振り返る。 着替えも半ばの薄着姿だが、幸い、首から下がちゃんと隠れていた。 「また誰も知らない場所で独り、血を吐くことになってもいいの!?」 「――――」 絶句した。濡らしたままの長い髪を振り乱しながら、セリカは泣いていた。 「そりゃあたしじゃ何の役に立てないかもだけど、一緒に行っても足手まといだろうけど! だったら、行かないでよ! 馬鹿! 無謀!」 「……私は怒られているのか、心配されているのか……?」 「心配だから怒ってるのよ!」 セリカはその場にしゃがみ込んで、組んだ腕に顔をうずめる。 弾みで水滴が顔にかかった。頬を打った冷たさに、目が覚める想いだった。 (国の為なら自分ひとりの命は安い対価、そう感じていたのは否定できないな) くぐもった罵声が更に畳みかける。 「エランのばか! だいきらい!」 「だっ――大嫌い、か……」 驚愕して、オウム返しになった。 言葉が突き刺さるとはこういう現象だったのか。存在を否定するほどの暴言をアストファン辺りによく吐かれた人生だったが、あれはどうでもいい相手の吐くどうでもいい戯言として容易に受け流せたものだ。 どうでもよくない人間からの苦言の、なんと痛いことか。悪くない感情を抱かれていると自惚れていた己を恥じた。 吐き気がしてきた。謝ろうとして口を開くが、声が出ない。 沈黙がやたらと重い。 やがて、小さく「ごめん」と呟く声があった。 「……うそ。ほんとは、大好きだもん」 継がれた言葉に、またもやエランは驚愕して絶句するしかなかった。 「こういうのが――世に言う、恋愛感情なのかはわかんないけど……あんたが楽しそうにしてると、見てるこっちもなんか和むのよ。変に理屈っぽいとことか、だるそうな話し方とか、子供に怖がられるのにリスには懐かれるとことか……面白い。もっと見ていたい。近くに、居たい。独りで死んじゃうのかと想像すると、どうしようもなく、つらい……」 嗚咽交じりに明かされる想いが、静かに染み入る。 「でも『連れてって』なんて言えるわけない。縁談がなければ出会わないような、か細い縁よ。国同士の事情を取っ払ったら……個人としてのあたしには、リスクを負ってでも一緒に居るほどの価値が――」 セリカはしゃくり上げながら顔を上げた。目が、合った。 「ねえ。エランはこのまま帰って、二度と会えなくなっても、平気? あたしは……平気じゃない、気がする」 ――処理能力が追い付かない。 嫌いなのか好きなのか、どっちだ。今しがた聞いた新情報の数々に対する感想が思考回路をぐるぐる回る。その中に罪悪感があった。誰かにこれほど辛い想いをさせていながら気付かずにいた自分を、殴りたい。 「エラン?」 髪と同じ赤紫色の長い睫毛に縁取られた瞼が、瞬く。涙の滴が月明りに煌いて綺麗だ。 「あ。もしかして、この前みたいに思考停止した?」 次いで、表情が打って変わって輝き出す。泣き止んで欲しいと切に願っていたから僥倖だ。しかしこの至近距離で好奇心に満ちた瞳を向けられるのは居心地が悪い。座ったままで後退った。 「お前は相変わらず、忙しないな」 やっと喋られたかと思えば。我ながら、間抜けな第一声だ。咳払いをして、やり直す。 |