五 - f.
2017 / 05 / 21 ( Sun )
「ほんと? 楽しみにしてる!」
 頬が緩むのがわかる。遊び相手となることを、彼は承諾してくれた。好きなものを好きなままでいいと、暗に伝えているようだ。
 ああ、と頷いたエランの表情も心なしか柔らかい。

 上機嫌にセリカは膝を下ろして座り直した。言いたいことを言い切って胸の内が軽くなり、後は大人しく答えを待つだけである。いつまでも待っていられそうな気がした。
 とはいえ、待たされた時間は三呼吸ほどだった。微かに甘い息で青年は語り出す。

「男児の宿命は野望大望を抱いてこそ果たされる、とアスト兄上は言った」
「……憶えているわ」
 まさに昨夜の晩餐会でそんな談話をした。宴の席で第二公子は「ディーナジャーヤ帝国に刃を向けて、属国をやめよう」と発言をしたのである。平和な時代に生まれ育ったセリカにしてみれば、肝が冷える思想だった。

 他の公子たちにとってもそうだったのだろう。確か第一公子ベネフォーリは「他の者が聞いたら派閥争いの種だ! 軽々しくそんな提案をするな」と注意し、第三公子ウドゥアルは「今から自立するの大変だろー?」と面倒臭そうに聞き流し、第六公子は「後先考えずに喋らないでください」と頭を抱えた。

(そういえばエランの反応はかなり冷ややかだったわ)
 例の作り笑いを浮かべてこう言ったのである。
 ――属国をやめるのは、四国間の協定から抜けるのと同義。アスト兄上は国土を血の海で浸したいのですね。
 ――まさか! 私は血なんて大嫌いだよ。でも、見てみたいと思うだろう? 己が国が大帝国を打ち負かす未来を――
 思い出しただけで、背筋がすうっと冷える。難しい話はわからないが、危険な考え方であるのは間違いない。

「何が宿命だ。公都に居れば公子、所領に帰れば領主……こんな人生でも、たまには心穏やかに過ごせる場所が欲しい。幸いにも、妃となれば堂々と連れ回せる」
 かくして野望の話題が、伴侶の話と繋がった。
(張り合いが無くても重圧はあるのね)
 第五公子であり第三公位継承者という立場に、セリカは同情を覚える。

「あたしは……喜んで連れ回されますよ」
 狭い世界で送る日々に辟易していたセリカには、むしろ移動させられるのは願ったりである。
「そうだろうと思っていたが、お前の口から聞けて安心した」
 セリカは相槌を打ち損ねた。留意すべき点は「心穏やかに過ごす場所」という表現ではないか。柔和な性格をした淑女ならともかく、自分に到底務まるような役割ではないように感じられる。

「つまるところ私は――……甘える相手……が、欲しかった……」
 歯切れの悪い告白の後、青年はまた顔を逸らして唇を噛んでいた。多分照れているのだというその所作を、何度も瞬きながら眺める。
 そこであることに思い至って、セリカは口を挟んだ。

「つかぬことをお訊きしますがエランディーク公子さまは今年でお幾つなのでしょうか」
「……去年の秋に十八になったが」
 訝しむ視線が返る。
「そうでございますか」
「歳がどうかしたか。後その改まった口調はどうした」
 なんでもない、とセリカは頭と両手を振った。

(年下だった)
 わけもなく衝撃を受けた。半年程度なんて大した差ではない、そう自分に言い聞かせる。
 束の間の沈黙を置いて、エランは新たに話し始めた。
「十五歳になった時、成人祝いと称して父上が私の寝間に女を呼びつけた」
「そ、そう」

「それからも宴の度に誰かがそういう者を手配している。断ってもややこしくなるからと、楽しめるだけ楽しんではいたが。名も知らない女ばかりだった」
「…………」
「遍歴はそんなものだ。私は、特別な相手を持ったことは無いし、持とうと考えたことも無い」
「ん?」
 黙って聞いていたセリカは、ふと引っかかるものを感じて首を傾げた。
 青灰色の瞳が靄の向こうからじっと見つめてくる。蝋燭の光がちらちらと映る様子が妖しく、見入った。

「さっきの話だ。国の政略で結婚させられるであろうことは、遥か以前から理解していた。なら、側室も愛妾も必要ない。いずれ与えられる妃の為に取っておきたかった」
 取っておいたのが何なのかまでは名言されなかったが、なんとなく伝わった。

(ああそうか。エランがあたしに構うのは責任感からじゃなくて……誠意、なんだ)
 セリカは微笑混じりに息を吐く。すとん、と腑に落ちるものがあったのだ。
「すごい。誠実なんですね」
「……? どうも」
 疑問符を飛ばすエランに向けて、気が付けば頭を下げていた。絨毯の上で両手を揃え、その上に額をのせる。

「ごめんなさい」
「待て、私は何を謝られている」
 心底わからないと声音が訴えかけてくる。セリカは平伏の体勢を維持した。
「それに比べるとあたしは全然ダメね。どうせ親が決める結婚相手だからって、諦めがあったの。まだ見ぬ伴侶との将来を大事にしたいとか、ちゃんと向き合おうとか、考えてもみなかったわ」
 一拍置いて、締めくくりの口上を述べる。

「ここに誠心誠意、これまでの非礼を詫びます」
「…………」
 数秒間、うるさく鼓動を打つ心臓の音だけが頭の中で響いた。
 ――なんとか言ってよ。
 そう、心中で念じてみたりもした。やがて静かな笑い声が降ってきた。

「お前の言い分はわかった。それは絨毯に額をこすりつけるほどのことか?」
「ほどのことだと思ったのよ」
 そう言い返せばやはり笑い声がした。
「顔を上げてくれ、セリカ」
 乞われた通りに上体を起こして、驚きの発見をする。

(おや、いい笑顔)
 嫌々口角を上げて作られたものではなく、本気で楽しそうに笑っている。半分しか見れないのが惜しいと思った。
(いつかは素顔見せてくれるかな。いつか、でいいわ)
 二度と無理強いをしたくないのだから。

「著名な哲学者が、赤を真心や情熱の色とたとえていたな。そんなに身に着けていれば大丈夫だ」
「心構えに、色関係ある?」
「どうだろうな。それにしてもお前は私を面白い人間と評したが、私にしてみればお前の方がよほど面白い」
 これにはセリカも笑うしかなかった。

「エランの期待に応えられるかわからないけど、これからはちゃんと歩み寄るわ。差し当たり、遠乗りに連れて行ってくれるのよね」
 そうだ、と彼は首肯した。
「約束よ。絶対だからね」
 ゴブレットを差し向けて、乾杯しようとの意を示す。青年は瞬時に意を汲んで、自らのゴブレットを持ち上げた。

「わかっている。私は果たせない約束は最初からしない」
 ――キン。
 鉄同士が接触し、小気味いい音を響かせる。余韻がまだ耳朶に残る内に、セリカはひと思いに中身を空けた。

 それから先、意識が曖昧となった。くだらないことを口走ったかもしれないし、睡魔に襲われてだらしない姿を晒したかもしれない。何にせよ――
 とても、満たされた気分だった。

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