55.d.
2016 / 04 / 15 ( Fri ) _______
外から漏れる声は、車輪や蹄の音などにほとんど掻き消される。時折その隙間に流れる話し声の内容を、ゲズゥは意に留めることなくぼんやりとしていた。 向かいの席では一枚の毛布を共有した女二人が肩を寄せ合って眠っている。一時期は揺れが激し過ぎて眠るのは到底無理な話だったが、それも大分落ち着いたものだ。このくらいの規則的な騒音ではかえって眠さが誘導される。 その点、仮眠を取りたいのはゲズゥも同じだが、そこまでの眠気は無かった。とりあえずただ静かに過ごして思考を休めている。腕を組み、瞼を下ろして。 馬の鼻息がした。その直後には、不思議な静けさが続く。もしかしたらこの時ばかりは柔らかく平らな地を走っているのかもしれない。 「奥の森には何があるの」 いつになくはっきりと馬車の壁を越えてきたリーデンの声に、思わず片目を開ける。 「わかりません。何故そこに行かねばならなかったのか、も」 「町に入ったら、思い出せそう?」 ――がらがらがら。 静寂の時間が終わった。車輪の音に掻き消されて、シュエギと呼ばれる男の返事は聴き取れない。 ふいに、馬車の中に動きがあった。 顔を上げると、向かいの席で眠り込んでいた二人の内、小さい方の人影がもぞもぞと動いている。 少女の大きな茶色の瞳は影がかかっていてよく見えない。少なくとも視線がこちらを向いているわけではないのは感じ取れるが、ならば何を気にかけているというのか。 「……ミスリア」 小声で呼びかけたものの、応答は無い。少女は異様にゆっくりと、静かな息を立てている。まるで目を開けておきながらも眠っている状態が続いているかのようである。 「――――」 桃色の唇が分かれ、その奥から声が漏れた。それはゲズゥの耳には不慣れな言語だった。 独り言にしては抑揚が濃い。 ――何を見ている。誰と、話している? この感覚には覚えがある。たとえば魔物を相手にしている時、心を砕いて歌いかけてあげる時。または聖地と対面した時の――現世を離れたような、曖昧な気配。 聖女ミスリア・ノイラートは紛れも無い生身の人間でありながら、それが漠然と疑わしくなる時もある。 いつの間にか彼女のそういった性質に慣れてしまっていたが、これは本当に「正常」なのか。いや、血縁者と目玉だけを通して謎の通信ができる自分がそれを問うのはおかしいか。 聖なる役割の者の宿命とは、末路とは―― わからない。何がわからないのかもよくわからない。これ以上考えるのは時間の無駄に思えた。 右手を伸ばした。 「おい」 「――――」 少女と目に見えないモノとの交信は、未だに途絶えない。 指三本の先で頬に触れても、反応がまだ無い。痺れを切らして、掌全体を白い柔肌に押し付けた。 「おい」 今度は反応があった。びくりと身じろぎした後、ミスリアは何度も両目を瞬かせた。 「ふ!? あ、え……なんでしょうか……この手は、あの……?」 落ち着かない眼がゲズゥの手と顔を行き来する。 「…………戻ったか」 いつの間にか止めていた息を、そっと吐き出す。 するとミスリアは真剣な眼差しになった。 暗い空間の中、確かに柔らかい手の温もりが手の甲に重なるのを感じた。 「心配、ありがとうございます。大丈夫ですよ。私はここに居ます」 非常に引っかかる言い回しだ。大丈夫と断言されて、より一層安心という気持ちが遠ざかった。 |
55.c.
2016 / 04 / 13 ( Wed ) いくつかの坂を上ったり下りたりして数十分。唐突に、ズゴッ、と音がした。御車席の二人はすかさず馬を停止させる。 「ちょっと止めるねー」 降りて馬車の中に声をかけると、わかりましたとミスリアの返事が返る。反対側ではシュエギが既に車輪を確かめていた。どうやら車輪と軸の間に棒切れの形に似た石が挟まってしまったらしい。シュエギはそれを、車輪を傷付けないように注意して抜き出している。 あれくらいなら一人でも十分対応できるだろうと思い、リーデンは御車席に戻った。そしてふと、視界の左端に異物を見つける。数フィート先の木の幹にぐったりと寄りかかる人影、汚れた衣服――しかしながらそこに命の気配は無かった。 (ありゃ、死体か) 餓死したのか襲われたのか。 (聖女さんが知ったらわざわざ埋めてやりたいとか言い出しそう) 見たところそれは白骨からは程遠く、生前の息吹がまだ色濃く残っている段階だ。 必要以上に足を止めたいとは思わないし、ここは素通りしてしまうのが得策であろう。顎に手を当てつつそのように決断する。 あの者が獣や魔物に襲われて一生を終えたのだとしたなら、尚更この場に長居するのは気が進まない。 「生者は常に死者に囲まれているのに、一番会いたい相手に限って二度と巡り合うことができません」 御車席に戻るなり、シュエギは例の死体の方を向いて呟いた。口ぶりはどこか思慮深く哲学的だったが、内容は現実問題を噛み砕いていた。 「この地上に溢れる死者の魂を少しでも減らしてあげることが……生者の未練を取り除くことになって、救済に繋がるのではないでしょうか」 「急にどうしたの」 「さあ、私にもわかりません」 「それってオニーサンが考えたの?」 問われて、白髪の男はゆっくりと頭を振った。 「いいえ……」 呻くように答え、こめかみを指先で揉んでいる。奥深く沈めた記憶を呼び覚ます行為は頭痛が伴うのだろう。 「ふうん。出発するよ、ちゃんと手綱握って」 馬車の中にも一言「出るよー」と声をかけてやった。 そうして二頭の赤茶の馬に引かれてがらがらと動き出す。通り過ぎる瞬間、死体をもう一度だけ瞥見した。 (……「救済」かぁ。受け売りかな) 都合の良すぎる解釈かもしれないが、この男が聖女に聞いた話ではないだろうか。何せ、教団の教えに沿いそうな言葉ではあった。 灰銀色の瞳はまたどこともなく遠くを見つめている。こうしている今も、蘇る記憶があるのかもしれない。 優しい緑色の景色の中をしばらく何事もなく馬車が転がった。 やがて日暮れの時刻が近付く頃に、リーデンは改めて隣の男に話しかけた。 「ねえ、君の場合はどんな感じ? 思い出せない記憶を思い出そうとするのは。怖いとか、イライラするとか?」 「踏み入ったことを訊きますね」 ぐるり、虚ろな目だけがこちらを向いた。 「だって気になるから」 リーデンは口元を綻ばせた。微笑みかけたのは警戒を解かせる目的もあったが、純粋に興味があったのも一因である。 ちなみにかつての自分の場合は外的要因によって記憶を封じられていたため、思い出そうとする過程はひたすらに苦痛であり何もかもが腹立たしかった。壁や家具を壊すまでの癇癪を起こしたのは二度や三度ではない。 泡沫と呼ばれる男は、小さくため息をついた。 「何年も終わらない悪夢を――同じ霧の中をぐるぐると回っていたのに。あなた方と出会ってからは、たまに何気なく記憶が戻る瞬間もあります。自分が何者であるのか知らなくても、これまではなんとも思わなかったのに」 もう一度大きくため息をついてから、シュエギは続けた。 「悲しい、のですよ。失った過去を取り戻すこともですが、これまで大切な人さえ忘れて生きてきた日々を想うと…………どうしようもなく、つらい。全て思い出したら悪夢が終わるのでしょうか」 ――過去を取り戻すのが悲しい? もう少しそこを掘り下げてもらおうかと思案した途端、急にシュエギが勢いよく顔を上げた。 「町中が祭騒ぎに熱中している今の隙なら、奥の森に行ける、と」 「はいぃ?」 断片的で、いかにも要領を得ない。一体何の話題なのかと、リーデンは付いて行こうと必死に思考回路を回す。 「手を打ち合わせて、そう言ったんです。若い女の人が」 「それが何」 「それが私が、サエドラについて思い出せた唯一のイメージです」 |
こうして
2016 / 04 / 11 ( Mon ) 通常運転の生活に戻ってきたわけだが、驚くほどやる気が出ない。たった数日休むとこれだから長期休暇なんてやばいんだろうな…。
ていうかなんか身体がだるいっす。 これだから人の多いところはだめだ。空港とか飛行機とか空港とか。なんかうつったらどうしてくれよう。 人類と接しない生活が一番だ! 仕事したくないでござる! パートに転向したい! というくだらない話はそこらへんにして。 休みのあいだ、「空棺の烏」って本を読みました。和風ふぁんたじぃ、熱い。私にもう少し和の知識があったなら一本書きたいくらいですが、今のままではせいぜい短編が精一杯でしょう。 シリーズの他の既刊は未読であり、アマゾンレビュー以上の中身は知らないです。最初は視点のまわりかたによって複数主役ものかな? と思ったら、ゆきやんが主人公だったんですね。割と好きなタイプではあるんですが…最後の方にならないと欠点が浮き彫りにならなかったので、この巻だけでは途中まで胡散臭かったです。ある種のTUEEEなのか。 気になったのは、会話の口調がどうも統一されきれてない感じがして、会話文が並ぶと誰が喋ってるのかたまにわからなかったところ。あと主語が抜けてる文とかがひとつあって、四回くらい読み直して誰のことだったのか汲み取ったのが一箇所…誤字脱字が最後のほうに2,3箇所…<編集がんばって とまあ、1-3巻を買いたいかどうかは微妙(文庫になったらまた考慮する)として、続刊には興味がありますね。期待してますぜー で、ミスリアはと言うと、今日~明日には更新すると思われ。 |
この時期は毎年
2016 / 04 / 08 ( Fri ) 帰省してます。
アラサー甲姫から サー・甲 になりました、こんばんは。 ふふふふふふ 最近は久々に書籍の読書などしているのですが、やはり世界観描写だけ凝ってても人物描写に手を抜いてはいかんな、と実感しています。気を付けます。 |
55.b.
2016 / 04 / 05 ( Tue ) 徒歩での長旅は女性には辛いからと、馬車を手に入れた。 そうして首都を発って二日目、リーデン・ユラス・クレインカティはシュエギと並んで御車席で馬の手綱を引いていた。 この地帯は坂が多い。鋭い上り坂が続くと馬が疲弊するため、速度を調整しつつ進んだ。 サエドラの町までの道のりはまだ遠く、はっきり言って退屈だ。夜はともかく、昼間は賊に出くわすことも無ければ対向車ともほとんどすれ違わない。 牧歌的なほどに緑豊かでのどかな景色もしばらくすれば見飽きてしまう。 知っている鼻唄を一通り出し切った後、リーデンは暇潰しに、記憶喪失の男に適当に話しかけた。 「泡沫のオニーサン、髪縛って髭剃ったらめっちゃ見違えたね。髪の色を別とすれば、二十代っぽいよ。第一印象だと三十とか四十って思ったのに」 「はあ、ありがとうございます」 男もやはり適当に受け答えをする。光沢を全く放っていない灰銀色の双眸は一体何を映しているのやら。 このまるで生命力を感じさせない顔も、隠れているよりは見える方がずっといい。伸び放題の髪を紐でくくって前髪を横に流し、髭を剃ってしまうと――あらふしぎ、意外に男前と呼べそうな顔立ちが現れた。これで表情にもうちょっと彩りがあれば、それなりに人目を惹けるかもしれない。 (別に聖女ミスリア一行に目立ち要員はこれ以上要らないけどー) 要らないが、顔面偏差値が高いのは悪いことではない。むしろ、随所で利用できるものなので歓迎する。 「オニーサンってホントは幾つなんだろうね。なんなら一緒にお祝いしようか」 ここでリーデンは、首都でバタバタした所為で流れかけた「生誕祝い」の案を掘り返す。 「お祝い?」 「こんな世の中だとさ、一年生き延びるだけで偉業だと思うんだよね。それをお祝いしようってわけ。生まれ月も時期も皆バラバラだから、全員分をまとめて祝おうって話」 「いい考えですね」 「でしょー」 シュエギが本気で感心しているのが声色からわかった。自身の誕生月などわからない者には、こういう祝い方の方が嬉しいのも頷ける。 「それはそうとサエドラは今頃は平和と慈愛の女神イェルマ=ユリィへの祭事で慌しいかもしれません」 さらりと、男は情報を落として行った。 リーデンは一度硬直した。手綱が引っ張られる感触で我に返り、何と返すべきか迷った末―― 「……よく知ってるんだね」 と声音を低くした。 シュエギがサエドラについて何か知っているらしいのは明らかだったが、これまでは問い詰めても成果が芳しくなかった。町が聖職者に風当たりが悪い話も風聞で得た知識と言った。 ならばこの情報はどこから来たのか。少なくとも昨日今日の話題に上っていない。隠していたのか、それとも今思い出したのか。 「はて……。昔の記憶にあったのでしょうか」 「じゃあ訊くけど、君の中にそのお祭の視覚的イメージがあったりしない?」 「…………」 今度はシュエギが硬直する番だった。 (聖女さんたちはこの人をあんまり刺激しないように決めたみたいだけど、僕はちょっと意見が違うんだよね) リーデンは嬉々として隣の男の反応を窺った。表情筋に動きは無いが、眼球が二度、素早く動いた。 「……ありません」 ようやく零れた答えはため息のようだった。 「うっそだー。浮かびかけて、すぐに消えちゃったんじゃないの」 諦めずに突いてみる。 「あなたの鋭さは……少々、気味が悪いですね」 「ありがとう。そしてごめん。自重はしないよ」 「はあ」 そこで話は一旦区切られた。 ちょうど上り坂がまた始まったので、二頭の馬に喝を入れる。 みんな覚えてるーw?? 慈愛の女神イェルマ=ユリィの名前は前に一回だけフォルトへが口にしてるよ! 超どうでもいい! ちなみにジェルーチ&ジェルーゾの家名が「イェルバ」なのももしかしたら神々との縁を意識したものかもしれないけど、私には真相がわからないよ!? |
55.a.
2016 / 04 / 03 ( Sun ) 「一人で行かせたぁ? やばくないか、それ」
青年は中身が半分しか残らない水筒の底を見つめながら声を裏返らせた。聖女カタリア・ノイラートの姿が見えなくなってから五分経った頃、怪しく思って連れのハリド兄妹に問い質したのである。カタリアは用を足しに行ったのかとなんとなく思っていたが、どうやらちゃんとした用事があって離席したらしい。 ハリド兄妹は道端のベンチでくつろいでいる。兄のディアクラは仮眠を取る気なのか、横になってヘッドバンドで目を隠している。その兄に平然と膝枕を提供する妹は、やすりで爪の形を整えている。そんなものを気にするくらいなら弓矢使いなんて辞めればいいのに――と思っていても、報復が怖いので口に出したりはできない。 「大丈夫ですわ。聖女さまだって子供じゃないんですもの」 妹のイリュサが、視線を指先に集中させたまま答える。 「けどあいつ極度の方向音痴だろ」 「たかが往復十分の距離ですよ。昼間ですし治安も問題ありません。アナタ、私たち以上に心配性ではないですか」 今度はディアクラが答えた。わざわざこちらに呆れた眼差しを見せる為に、ヘッドバンドを親指でぐいっと引っ張り上げている。 「や、だって初めて会った時、狭い町中を二時間もさ迷ってたって言うもんだから」 青年が抗議すると、ディアクラは不快そうに目元を歪め、上体を起こした。 「そんな人が居るはずないでしょう。聖女さまは誰かと一緒だと気が緩んで周りを見ないそうですけど、一人で歩く時はちゃんと事前に地図を確認しますし、迷ったら通行人に道を訊ねます」 「んだと、ディアクラ。俺が嘘吐いてるって言いたいのか」 青年は水筒を握る手に力を込めた。不快なのはこちらの方だ―― 「ではアナタでないなら聖女さまが嘘を吐いたとでも? それこそありえない!」 「お待ちくださいな、兄さま」 食ってかかりそうな兄の肩にイリュサが制止の手をかけた。どことなく楽しそうに黄金色の瞳を輝かせている。 「そうではなくて、聖女さまの方が少々脚色をしたのかもしれませんわ」 「なんでそんな必要があるんだよ」 「きっとアナタに構って欲しかったのではなくて?」 イリュサが得意げに巻き毛の黒髪を払いのける。 青年には全く意味がわからなかったが、ディアクラはどこか納得した様子で再び横になった。 「つまり誰でもいいから手を貸して欲しくて、実際よりも話を大きくしたのですね」 「そうに違いありませんわ。根拠はこのわたしの、女の勘です」 「はあ? お前ら何言ってんだ。あいつがそんな計算するかよ。いっつもぽわわーんとお花畑から喋ってるような奴だぞ」 「あら、それはどうかしら。聖女さまだって人の子ですもの。『寂しい』という想いの強さは決して侮れませんことよ、エザレイ・ロゥン」 ふふん、と美女は鼻で笑う。腹が立つことこの上ない。 (…………上から目線かよ) 厳密に言えば上目遣いだ。相手と言動が違えば可愛いと思ったかもしれない仕草である。 しかし言っていることは否定できなかった。イリュサが自称する女の勘とやらは何かと当たるし、今回も何故か腑に落ちるものがある。 (要するに俺はあいつのことを、思い違いしてたと) きっかり五分後に満面の笑顔で帰ってきたカタリアの姿を認めて、エザレイは己が抱いていた認識に自信を失いつつあった。 _______ |
こっちで紹介するの忘れてた
2016 / 03 / 29 ( Tue ) |
54 あとがき
2016 / 03 / 27 ( Sun ) |
54.i.
2016 / 03 / 27 ( Sun ) 倒れてからも奴は一週間昏睡し続けたため、成り行きで宿に置いて様子を見ることになった。リーデンの従者の女に言わせてみれば、長らく不規則な生活で無理をしていた反動、疲れは一旦堰を切るとなかなか回復に向かわないと言う。不安定な精神の影響もあるのか、聖気をもってしても意識は戻らなかった。 その間、事件の事後処理で役人に長々と証言をした他、枢機卿からの使者が書物を持って訪ねて来た。 使者が去った後も開封する心の準備がなかなかできないらしいミスリアは、紙束の前で難しい顔をして正座している。かれこれ何十分もだ。 買い出しに出かけたリーデンと女を除いて、ゲズゥたちの他にはその部屋には昏睡した男しか居ない。息が詰まるとはこういうことなのかと、柄にもなくため息をつく。 「外に出るぞ」 お前も来い、と顎をしゃくった。 「え? でも……」 「気になるなら何枚か持ち出せばいい」 「は、はい」 慌ててミスリアは紙束を封じる印を切り、一番上と下から何枚かを抜いて手の中で丸める。 外と言っても向かうのは屋上だ。 廊下の突き当りで扉を開き、建物の外面に沿った階段を上がった。ウフレ=ザンダの首都は、建物をあまり高く造っていない。三階建ての宿の屋上から望める街並みは、色も形もどこか平坦な印象を受ける。 ミスリアは物憂げな顔で屋上の手摺りに肘をのせる。組織の連中のことはきっと、もう思考を占めてはいないだろう。整理する時間が十分にあったはずだ。 その隣でゲズゥも手摺りに寄りかかった。 「風が気持ちいいですね。部屋から連れ出してくれてありがとうございます」 「ああ」 曇り空を滑らかに横切る二羽の鳥を眺めつつ、次の行き先について思案した。元々一直線ではなかった道のりが、最近になって益々曲がりくねってしまったように感じられる。 人生もまた、こんなものかもしれない。目的地をあらかじめ決めたつもりでも、行き当たりばったりに突き進んでは幾度となく方向転換を強いられる―― カサリ。紙が擦れる音で、物思いから現実に引き戻された。あれほど目を通すのを渋っていたのに、気が変わったらしい。 懐から取り出した書類を、ミスリアが小声で断片的に読み上げ始める。俗に言う「斜め読み」と呼ばれる手法を取っているのか、ページを捲る速度がかなり速い。と言っても文章を読めないゲズゥにはよくわからないが。 『――こうして、私はハリド兄妹と合流できました。ところが魔物狩り師連合拠点まで案内してくれた人物の名を口にすると、彼は昨日まで連合に登録されていた魔物狩り師だったと言うのです。私は改めてその者を探し出し、仲間に加えようと決心しました』 しばしの間を置いてからミスリアは手持ちの紙束を後ろの方まで飛ばし読んだ。 『エザレイは反対しましたけれど、私たちはサエドラの町を通って、聖地を目指すことになり――』そこまで読んで、ミスリアは眉をしかめた。「三人目の護衛の名は、エザレイといったのですね」 しんみりと呟いたものの、ミスリアがその名を例の記憶喪失者に問い質すことは無いだろう。 奴に不用意に刺激を与えることは避けたい。その点はリーデンたちも含め、全員の意見が一致した。 「お姉さま……聖女カタリア・ノイラートが提出した報告書は、サエドラの町からが最後だったようです。行ってみた方がいいかもしれませんね」 「――」 相槌を打とうと口を開いたが、ふと階段を上る足音に気付き、注意がそちらに流れた。 「シュエギさん! 目が覚めたんですね」 「……おかげさまで。少し話が聴こえたのですが、聖女さまがた、サエドラに行くんですか。冒険者ですね」 白髪白髭の男が、弱々しい足取りで歩み寄ってくる。いつにも増して幽鬼のようだった。 「あの町は教団の関係者を疎んじます。旧き神への信仰ゆえに」 「そうなんですか」 ミスリアが返事に困っている。半端な笑顔を張り付けたまま、目を泳がせた。 ――どうにも嫌な予感しかしない。 「シュエギさんも、一緒に来ませんか。サエドラまで」 歩く不安要素みたいな男をミスリアが何気なく誘うのを聞いて、ゲズゥは顔を逸らした。これは不用意な刺激、干渉になるのではないか。 とはいえ気になるのは仕方ない。これほどの危うさを目の前にちらつかせられて放っておけるほど、聖女ミスリア・ノイラートの庇護欲――或いは母性――は易くない。 「私は、人と行動を共にするのが苦手だった気がします」 男は目の焦点をミスリアに当てて、囁いた。 それはどこか言い訳じみた断り方に思えた。記憶がはっきりしない人間に、好き嫌いも得意苦手も無いはずだ。しばらくして、灰銀色の瞳がぼんやりと雲の動きを追っていった。 「ですがこうして借りができてしまった以上、断るのも失礼でしょう。ご同行させて下さい、聖女さま」 「ありがとうございます。えっと、私のことはミスリアと、名で呼んで下さっても構いませんよ」 「ではよろしくお願いします。聖女ミスリア」 男は微かに笑った。その瞬間だけ、髭も髪も皴も関係なく、一気に若返ったように見えた。 ――中身の知れない箱を開けんとする時の感覚と似ている。 開けてしまえば、見ないままで居た方が幸せだったかもしれないモノを見てしまう恐れがある。ところが開けぬままで居れば、もしかしたら知りたいモノを手に入れられたかもしれない未来と永遠に繋がらない。 内なる葛藤を続けるミスリアの傍らで――部外者のゲズゥは箱から何が飛び出るのか、まだ見ぬ真相に用心と共に純粋に期待した。 |
54.h.
2016 / 03 / 26 ( Sat ) 男の投げた槍のような物が、ゲズゥにまとわりついていた敵の片方を弾いた。肉を裂いたのではなく鉄を打った音がしたので、致命傷ではないだろう。 この隙にゲズゥはすかさずもう一人に斬りかかった。相手の反応速度を上回り、防御として上げられた腕の籠手に溝を刻む。強烈な打撃の果てでは骨に当たる手応えがあった。やられた側は何やら叫んでいる。意に介さずに膝蹴りで追い打ちをかけた。 同刻、ミスリアの傍へは新たに現れた第三者が先に到達していた。手負いの青年が振るう剣を、短めの棒のような何かでことごとく受け止めている。 「いいか。自分が異端なら異端で、他人を巻き込むんじゃねえ」 第三者の男は、魔物の体液を身体中から滴らせていた。近くで退治していたのかもしれない。 「お説教なら聞き飽きてますよ。彼女からの分だけで満腹です」 と、青年は苛立たしげに答える。 「どうせ最終的に正義ってやつは、勝った方が決める権利を勝ち取るんだ。俺はお前らの方がくっだらねえと思ったから、こっちに加勢した。悪く思うなよ」 ――突如、頭上から葉擦れと獣の鳴き声がした。 青年の方は反射的に顔を上げた。相対する男は手持ちの武器に体重をかけ、拮抗していた力の秤を傾けさせた。青年の剣を押し切り、鳴き声の主を探すのに意識を移している。 予感がした。 これは一年近く共に旅をした経験から生まれるものだ。ゲズゥは魔物が本能的に求める標的――聖女を、抱き抱えて跳んだ。 大地に振動が炸裂する。足がもつれ、倒れ込んだ。 「ギェエエエエエエ」 ミスリアを腕に抱いたまま、落下してきたモノを見据える。尖った鉄塊が地に刺さっていた。言わずもがな、鉄の塊が叫びわななくわけがないのだから、後は察する通りであろう。 青白い燐光の中、鉄塊に浮かぶ人面を撲滅する物があった。それはリーデンの長靴に仕込まれたナイフであったり、第三者の男が振り回すメイスでもあった。反撃する間も無く鉄塊は粉々にされ、更には聖気によって浄化される末路を辿る。 ようやく場が静まり返る頃、当初の脅威であった組織の連中は残らず動けなくなっていた。全員を念入りに気絶させてから、リーデンが首都の役人を呼びに行った。 「シュエギさん?」 ぼんやりと空を見上げて佇んでいる男に、ミスリアが躊躇いがちに声をかける。男はゆっくりと虚ろな眼差しを巡らせた。 「もはや奇縁ですね。こう何度も出くわすとは」 与えられた「泡沫」の呼び名と同じで、男の記憶だけでなく人格自体が不安定なのか。現れた時とは打って変わって、言葉遣いも雰囲気も豹変している。以前会った時もこんなことがあった気がする。 「どうしてここに」 心底不思議そうにミスリアが茶色の大きな目を瞬かせる。これまであったイザコザに掻き乱されていた気持ちも、この男への好奇心によって忘れ去られたようだった。 「私は魔物を狩っているだけの流浪の者です。定住もせず、毎夜魔性を追っている内に、気が付けばこんなところに来ていました」 「そこまでして貴方は……魔物を狩るだけってどういう――……」 ミスリアの問いは、尻すぼみになった。何を訊きたいのか自分でもわからなくなったらしい。 シュエギという男のそれは、凄まじい執念だ。なのに人格と記憶の不確定さゆえか、痩せた顔に感情が表れない。全て無意識の行動なのかとも疑える。 ならばついさっきの熱弁は何事だったのか。語った信条や投げ出した攻撃の烈度は、今の状態とはやはり別人のようだった。 「魔物を狩るのは償う為です」 「償うって、何を? と、訊いてもいいでしょうか」 「わかりません。憶えてませんから。でも……私は、償わなければ、生きている意味が無い」 「――――!」 その時ゲズゥは、ミスリアのすぐ後ろに立っていた。 シュエギという男は未だ信用ならないと考えたゆえに、華奢な背中にほとんど密着して控えていたのである。 男は俯いていた。身長が低いミスリアと目を合わせる為に見下ろしていただけかもしれないが、とにかく首をやや下に曲げていてゲズゥからは表情が見えなかった。 だからミスリアが何を目にして怯えたのかは、わからない。小刻みに震え出したのが、衣服越しに伝わるだけだ。 「償わなければ……私は、この命に価値など……俺があいつらに――償わないと、魔物を、一体でも多く、やらないと……」 しきりに低い声で呟き、そしてシュエギという男は膝からくずおれた。 _______ |
54.g.
2016 / 03 / 25 ( Fri ) 「ゆる……された、人殺し……!?」
「私は自分がいつから『こう』だったのかは憶えていません。私は同志を求めた。次には、合法的にコレを楽しめる居場所を探し――そしてみつけた」 青年は薄気味悪い笑い声をくつくつと喉から上げる。奴の仲間たちも同じように楽しそうだ。 「世界中の役人や処刑執行者だってきっと私と同じ心持ちです。殺しても構わない者を、率先して殺せることに、悦びを得ているでしょう」 真面目な役人が聞いたら憤慨しそうな断言を、奴はサラッとする。ミスリアは耳の中に毒を入れまいとするように、激しく頭を横に振った。 「違います。構わないなんて……社会は彼らを切り捨てたりは――罪を犯した過去は、必ずしも同様の将来に繋がりません」 「元死刑囚を連れ歩いていながら、よくそんなことが言えますね。一度は『要らない』と判じられた人間が存在する証ですよ」 なるほど自分がミスリアにくっついて回る現状をそういう象徴と解釈することもできるのか、と他人事のようにゲズゥは納得した。 勿論、聖女ミスリア・ノイラートの解釈はその真逆であろうが。双方の論は行き違うばかりである。 「全ての人間には等しく――やり直す機会が、与えられて然るべきです!」 「そう思わない民の方が過半数ではないですか? 貴女のしたことを耳に挟んで、喜んだよりも悲しんだ人が、憤った人が、或いは嘲笑った人の方が多かったはず」 「多数・少数の問題ではありません。人道の話です」 「大多数の人間が受け入れていない人道など、説く意味があるでしょうか」 「意味はあると、私は信じてます。他の誰が何と言おうと、私は最後まで彼らを信じます」 ――空気が変わった。変えたのは、いや変わったのは、ミスリアの心情か。 ほんの瞬きの間、ゲズゥの動きが止まった。それが生死を決定する過ちになりうるとわかっていても、そうせずにはいられなかった。小さな聖女の言葉は、己に酔ったつまらぬ連中と違って、素直に感じ入るものがあった。 「結構な美談ですが、だからと言って我々は行為を止(や)めるつもりはありません。ここであなたがたを潰しておけば、誰にも知られず、糾弾されることもない!」 「がっ」 小さな喘鳴。 青年がミスリアの首を片手で絞めあげたのだ。 しかし銀の輪がその手めがけて空を切るのも目に入ったので、ひとまずゲズゥは意識を別方向に向ける。すぐ近くに二人の人影が、リーデンの方には一人まとわりついている。確実に振り払うのが先決だ。 そうして敵の一人が繰り出した蹴りを、剣の腹で往(い)なした。続けざまに斬り付けてきた斧もかろうじて避けるが、頬を掠ったのか、鋭い痛みが走った。 「ありがとう。他の誰が何と言っても、僕と兄さんだけは最後まで君に寄り添うよ」 さく、さく、とチャクラムが的に繋がる音が数度に渡る。今度は青年が呻き声をあげるのが聴こえた。 「だから安心して」 リーデンはくるりと身を翻し、目前の敵の脇下を仕込み刀で斬った。血の臭いが散る。 「…………ああ。潰されるのは、こいつらだ」 これはミスリア本人に向けた言葉であり、もはや連中の存在は居ないものと扱う。 だがまだだ。ゲズゥは剣を逆手に持ち直した。まだ、突破口は無い。 深手を負わされた青年は逆上し、剣を抜いた。このままでは―― 「迷惑なクソガキどもだな」 ふいに馴染みの無い男の声が、急速に近付いてきた。その者から漂う魔物臭は組織の四人組を越える濃さである。まるで実物のようだが、気配や地を踏む足音には「混じり物」に感じたような違和感はなく、人間そのものに思えた。 「破壊願望を持て余してんなら枕に砂利でも詰めて殴ってろ。優越感を味わいたいなら、他にいくらでもやりようがある」 奴からも飛び道具が発せられた。しかもリーデンの扱う戦輪よりはずっと質量を伴っている。 それが転機だった。 |
54.f.
2016 / 03 / 23 ( Wed ) だが言っているそばからもう遅かった。 ちょうど雲が去って、星明かりがより鮮明に地に降り注いだ瞬間。後ろに控えていたはずの小さな聖女が、忽然と消えたことに気付く。静電気のように、肌に弾ける焦燥感。 探した。ミスリアは夜目には見つけづらい深紫色の外套を身に着けていたが、あの色白い肌なら―― 横から飛び掛ってきた少年を視界から払う。 突然の強風が吹き荒む。 少し離れた先に、連中のリーダー格の青年が居る。青年は正面の影を見下ろすように首を傾けていた。 見下ろしているのは人影である。風に弄ばれている波打つ髪の向こうに、細い首が覗く。目を凝らさずともそれが目当ての人だとわかった。 いつの間に敵に接近したのか。ゲズゥは冷や汗が額に浮かぶのを感じた。 「どうしてあんなことをしたんですか!」 ミスリアは唾も飛びかかりそうな勢いで青年に食ってかかった。小さな身体にここまでの怒声を吐き出す力があったのか、と思わず驚いたほどに。 「あんなこと?」 返事はあくまで落ち着いている。 「地下に追い込んだ罪人のことです!」 「あれですか。どうしてと訊かれましても」 青年は嘲笑した。そして三人の仲間たちを見やる。 「どうしてっつったらなーあ」 リーデンと斬り結んでいた少年が代わりに言った。 「楽しいから」 「に、決まってっだろ! 他に理由なんているかよ」 「テメェらだって、人殴ンのは好きだろ? 他人を踏みにじる優越感がイイんだよ。痛みつけた分だけ叫び声が大きくなったりしてさ」 三人が口々に答えた後、僅かな時間、場に沈黙が落ちた。 同意を求められても感じ入るものは何も無い。ゲズゥはただ煩い蝿を叩き落す要領で無言で剣を繰った。少女が巨大な鉤(かぎ)状の刃物を振り回してくるので、不規則な攻撃に対応するのは困難になりつつあった。 ――優越感? 殴るのが好き? などとは、欠片も思わない。暴力は手段であり、必要ならば振るう、その程度にしか捉えていない。 四人組の言葉にはこれといって興味が無かった。弟は同意見ではないようだが、それでも本心を表に出すことなく淡々と凶器を投げ続けている。 「そんな、理由で、彼らは苦しまなければならなかったんですか。目的すら持たない拷問にかけられて、誰も知らない場所で死ななければならなかったんですか」 「何故感情移入をするのかわかりませんね。所詮は罪人。社会が既に『要らない』と切り捨てた部分です。殺しておくことに感謝こそされても、恨まれる筋合いは無いはずです。まさかあなたは、罪人にも人権があるのだと言いたいのですか」 ミスリアの詰問に、青年は不愉快そうに答えた。どこか雲行きを怪しく感じる。 かと言って割って入るには、他三人の妨害が激しくて距離が一向に縮まらない。 「あります。当たり前です!」 「ありませんよ」 「貴方たちだって人殺しという罪を犯したではないですか!」 「違いますよ。我々は、社会に『許された』人殺しをした。その為に組織に入ったんですからね」 |
54.e.
2016 / 03 / 20 ( Sun ) 「絶対防壁の弱点、みーっけ。この狭さなら、魔物が偶然見つけて侵入する心配も無いかな」
目に見えない亀裂の大きさを測るように、リーデンが切り株の隣に片膝ついて宙に手を浮かせている。指先で縁を撫でたり、こじ開ける動作などをなぞったり。事情を知らぬ者が傍から見れば、相当な奇行に映ることだろう。 「そうですね」 「けど、結界の内側で新しく発生する魔物相手には無意味だね?」 「……はい」ミスリアは苦笑を返した。「それを見越して、日中はできるだけ瘴気を浄めていきます。ただ、彼らのしていることは――異例、ですので、原因を取り除かないことには防ぐのは難しいかと」 「うんうん。君の憂いの元はちゃんと駆除するから、大丈夫だよー」 「そ、そんなに憂えているように見えましたか」 ゲズゥとリーデンが異口同音に「見える」と答えると、ミスリアはどこか気まずそうに笑った。 「でもさー、そもそもよく見つけられたよね、こんな穴。結界って新しく張る度に綻びの位置も一緒なの?」 「丁寧に手順を踏めば張り直されるはずです。同じ場所に何度も出るなら、術者のクセでしょうか……」 近くにあった綻びはこれだけだった。奴らはここを通ったと仮定できよう。 次にはゲズゥは草をかき分けて足跡を探った。指を地に這わせて触覚のみを使うのは、なるべく明かりを使いたくないからだ。星の輝きを頼って進むのは時間がかかったが、運の良いことに痕跡を見つけるに十分とかからなかった。 そうして次に向かうべき方向を定め、静かに、慎重に進む。三人の会話の糸は途切れたまま再び結ばれることはない。 いつしかゲズゥは大剣の柄に右手をかけて歩いていた。 深夜特有の不気味な静けさが――風の気配が、まるで後ろ首に吐息をかけているようで、落ち着かない。 ――果たしてどんな刺激が最初に五感を突くのか。 先刻のような、相手の無防備な場面に遭遇するのはまずありえないだろう。追われることを警戒しているのなら、逆に待ち伏せをしている可能性も―― ――チャッ! ゲズゥは大剣の柄を押し込んで木製の鞘から解放した。 ――右回りに薙ぐ―― 脳が勝手に発した神経信号。身体はそれ以外の命令を要さなかった。 このような場所でこのように異様な汚臭を放つ存在が、まともであるはずが無い。嗅覚が拾ったのは魔物の腐臭か、鮮血の異臭か。ゲズゥにはどちらでもいい。 結論は一瞬後に得られた。 「うおっとぅ!」 驚く少年の声、金属同士の衝突音。右腕に走る手応えの質量、それから。 「お待ちしていましたよ」 闇夜に躍る、別の青年の嗜虐的な笑い声。 「さしずめ僕らは君たちの次の玩具に抜擢されたってとこかな」 リーデンが冷静に言い放った。 「あなた方ならきっと来て下さると思っていました」 「あははは! 光栄だよ」 まるで引けを取らない嗜虐的な笑い声が、鉄輪に乗って銀色の弧を描く。 俄かに勃発した四対二の交戦状態の最中、なんとか短い会話を挟んだ――。 ――愚弟。 ――何かな、愚兄。 ――ミスリアの動向に気を付けろ。 ――わかってるよー。 |
54.d.
2016 / 03 / 19 ( Sat ) 「はい」
「で、お遊びが僕らにバレちゃった以上、あの子たちは首都を出るはずだよね。まだまだ遊びたいお年頃だから、玩具のいなさそうな方を行かないと考えて、大きい道に絞ろう」 つまり、人の出入りが比較的少ない道は眼中に無い。 首都の外郭から伸びる主な道路は五本。南西の一つを排除するように、リーデンは石をのせた。 「某組織の正確な位置は不明だけど、すぐ南西、山岳地帯のこの辺じゃないかな。上司の目に付きそうな方角へは逃げないと思うね。北は果ては教団に行き着く道だから、それも選ばない気がする」 「確かに、悪事が露見しそうな道は避けそうですね」 「そ。残るは西、東、と南東に行く道。特に南東は人の出入りが多い。僕らもこっちから首都に来たもんね」 都市国家群やヤシュレ公国からの貿易商が多く使っている道だ。 「西は可能性が低いとして、後は東か南東ね。僕は南東だと思う。両方見に行って外郭の兵士に話が聞けたら一番早いけど、ちょーっと協力してもらえるか怪しいよね」 「一刻を争うなら、今選べと言うのですね」 「そーゆーこと。どうする、聖女さん?」 枢機卿と多少話し込んだとはいえ、今ならまだ十分に追いつける。奴らは首都から出ても、獲物を求めてまだ近くに居る可能性が高いのだとリーデンは主張する。 「一晩の内にそう何度もやるのか。狙いを定める時間や準備は必要だろう」 ふとした疑問を口に出した。 「どうだろうね。一度は邪魔をされたから、俄然やる気出して新しい獲物を急いで捕まえに行くかも。夜はまだまだこれからだし、本人たちも若さゆえに体力あるんだし、何度でもチャレンジしそうじゃない?」 「…………」 ゲズゥは反論しなかった。鬼畜な連中の思考を読むことに関して、この弟に敵うはずがない。 沈黙の中、リーデンの従者の女が心配そうな顔で地図を眺めている。箪笥の上の小型時計が秒刻みにカチカチ鳴るのが、やけに大きく響いた。 やがて三人の視線が少女の元に集まる。 ミスリアは応えるように頷き、決定を言い渡した。 「南東に向かいましょう」 「わかった」 「オッケー。五分以内に支度するよ」 そうして魔物退治ならぬ悪者退治に出かけたわけだが――自分が退治される側でない現状に、相変わらず皮肉を感じるのだった。 _______ あふ、とミスリアが欠伸を掌で塞ぐのを横目で見た。直後に小さく震えたのは欠伸の反動か、それとも寒いのか。 「すみません。気になりますか」 視線に気付いて、ミスリアがこちらを振り向いた。 「別に」 夜の屋外活動に備えて昼寝をしたわけでも無いのだから、眠いのは当たり前だ。 それきり、静かに歩を進めた。いつもは口数の多いリーデンも、黙って周囲に神経を張り巡らせている。 外郭から出て数分、振り返れば首都の灯りも点滅して見えるくらいに離れている。 今のところ、首尾は悪くない。夜中にこんなところを出歩いていたことも、魔物退治の為だとミスリアが説明するだけで衛兵はすんなり納得した。 通行止めをくらっても仕方のない状況だった。何せ夜は更けつつある。それでも首都を覆う結界の範囲から抜け出たいなら自己責任で踏み出すのみだが、為政者は民の安全を守るのだと言って出入りを制限している。その辺りこちらは正当な理由を用意してあったので、管理者もあっさり結界を解いてくれた。 曰く、日暮れ以降に南東から出て行く者は他に居なかったと言う。 首都の結界はたとえ目に見えなくても、超えがたい防壁である。自然と導き出される解答、それは奴らが結界の綻びから抜け出たということ。 そこまでわかれば後は該当する箇所を見つけるだけだ。 そしてそれは、何の変哲も無い切り株の傍にあった。 |
54.c.
2016 / 03 / 18 ( Fri ) 「リーデンさん?」
「ちょっと気になったんだよねー。教団の人手が少ないってよく聞くけど、具体的には何人ぐらいいるの? 機密事項?」 その質問には枢機卿が応じた。 「機密事項ではありません。お答えしましょう。修道士課程を終えてなお存命である者の数は私が先月に確認できた時点で九百八十二名、うち百五十七名は聖人課程を経ています。その中の三十六名が過去二十年以内に聖獣を蘇らせる旅に出て、未だに旅を終えていません」 「ふーん、じゃあその中で生きてるって確認できてるのは?」 「報告書は任意ですが、生存確認としての定期連絡は必須。過去一年の間で連絡が途絶えていない者は僅か九名です。聖女ミスリア・ノイラート、貴女を含めて」 旅を中断した聖女レティカは、その頭数に入っていないと言う。 ――流石に少ない。 リーデンも同じことを思ったらしく、眉をしかめた。 「聖人・聖女の全体数でも四、五分の一程度しか聖獣を目指さないんだね。意外」 「それは仕方のないことです。一概に聖気を扱えるからと言っても年齢や力量に個人差はありますし、旅や冒険やらに向いているとも限らない。大陸には治癒と浄化の力を今すぐに必要としている地も多い。巡礼にもさまざまな形があるのですよ」 「にしても、二十年で三十六人ねぇ。一年に二人と輩出されないのは妥当、なのかな」 「既に死を確認できた者は数から差し引いてあります。旅に出ただけで言うなら、もっといました」 「んんー……それで未だに聖獣が蘇る兆しが無いってのはどうなの……」 まだ引っかかる点があるのか、リーデンは目線を逸らして考え込んだ。しかしそれ以上は何も口に出さない。 「ともかくして、姉君の記録の件は任せなさい。なんなら本部まで足を運ばなくても、使者を送って模写を持って来させます。私の権限であれば持ち出しは可能です。一週間以内には必ず」 「そんな」 ミスリアが抗議できるより先に、枢機卿が手を差し伸べた。 「遠慮は不要です。此処でお会いできた縁を記念して、受け取りなさい」 「ありがとうございます、猊下」 ミスリアは伸ばされた手を取り、厳つい指輪に口付けを落とす。 「どうかあなた方の旅路に神々と聖獣のご加護があらんことを、聖女ミスリア・ノイラート」 「同じく、あなた様の往く道に大いなる存在のご加護があらんことを。グリフェロ・アンディア枢機卿猊下」 聖職者同士で儀式的な挨拶が交わされる。或いは聖気も交わされたのかもしれないが、そこまではゲズゥにはわからなかった。 そうして枢機卿は去り、一同はあてがわれた寝室に戻った。 パタン、と部屋の戸が閉まりきった途端に、リーデンが小声で言った。 「聖女さん、本当はあの子たちのこと追ってお仕置きしてやりたいんじゃないのー?」 「……お」 お仕置き、とミスリアはうわごとのように復唱する。あの地下で見せた激情の片鱗が少女の面(おもて)に再び浮かび上がっているのに気付き、ゲズゥはなんとなく距離を詰めた。 「お前は奴らの行先に目処が付いたのか」 と、リーデンに向けて問う。弟の含みのある眼光から察するに、考えはあるのだろう。 「当たるかは別として、予想することはできるよ」 リーデンはウフレ=ザンダの地図をどこかから取り出して膝上に広げてみせた。現在地である首都に指を滑らせ、図書館の場所にガラスのペーパーウェイト(=文鎮)をのせる。 「僕らが出会ったのはココね。ちなみに枢機卿さんが行く定例会も多分首都圏内かな」 |