九 - f.
2017 / 09 / 06 ( Wed )
 腹の決まった者に向けて「行かないで」とも「連れてって」とも、ねだってはいけない。
 足を引っ張りたいわけではないのだ。それでは、共に歩む伴侶たりえないだろう。
 人々が遠ざかる。送ってくれるという密使の女性は離れた位置の木陰にいつの間にか身を潜めていて、セリカはその場に取り残されたように立ち尽くした。

 言葉にできない、悶々とした想いを持て余している。急に頭を覆う布が暑苦しく感じられた。乱暴に脱いで、手癖で髪を解いて結い直す。
 己の長い髪すら煩わしく思えてくる。それゆえか、ひとり戻ってきた青年が不満そうな顔をしているのを見て、セリカは彼が何を考えているのかすぐにはわからなかった。

「そんな風に引っ張ったら傷む」
「構わないわよ、傷んだら切ればいいし」
「そう言ってやるな」
 なんとエランはどこからともなく大きめの櫛を取り出した。そんなもん持ち歩いてるの、と訊ねている間に背後に立たれた。

「髪、触っても」
「いいわ」
 こちらが答えるが早く、軽やかな音が頭蓋に響いた。木製の櫛だ。くせだらけのセリカの髪を優しく梳く感触は心地良く、絡まった箇所を解く手付きは手慣れている。
 ――あのリューキネ公女と比べたら毛が太く扱いづらいだろうに。

「持ち歩いているというより、道中で買った」
 今頃になって質問の答えが落ちてきた。
「髪短いのに櫛なんて使うんだ」
「使わない」
「え」
 間があった。一方、セリカは首筋をくすぐる感覚に身震いしないように必死だった。

「お前の為に買った」
「そうなんですか……ありがとう……?」
 またモヤモヤとした感情が胸の奥で渦巻く。嬉しいのに喜べない、その原因は知れているのに。
 伝えなきゃと思えば思うほど、息が苦しくなる。

「って、ちょっと。編んでませんか」
 気が付かない内に、梳く感覚が何か違うものになっていた。
「ついでだ」さすがに彼は手慣れている。三つ編み一本を作り上げると今度はそれをくるりと巻いてまとめ上げ、仕上げに櫛を挿して固定した。「これなら動きやすいだろう」
 満足そうに笑んでいるエランに、セリカは苦笑交じりに礼を言った。それから深呼吸する。

「じゃ、気を付けて。また後で、ね」
 後でどこで合流するかは、実は定まっていない。
 次があるのかわからないという誰かとの別れに、こうも後ろ髪を引かれる想いをしたのは初めてだ。望めば腕が届くようなこの距離に、空気感に、浸るようにしてセリカは青灰色の瞳を見つめた。

「ああ。お前の方こそ気を付けてくれ」
 絡まった眼差しは、ほどなくして切れた。
 裾がたなびく。足音がする。数歩と歩き出した背中に、セリカは衝動的に呼びかけた。
 振り返った顔には、これといった感情が映し出されていなかった。

「あ、あのね! あたし、嬉しかったよ」
 つっかえそうになる言葉を頑張って押し出した。
 宵闇の中、無表情に僅かな驚きが射しこむのが見える。
「あんたがあたしの運命で――うれしい」
 その想いを口にした時、胸の中でたとえようのない温かさが広がった。次いで微笑んだのも、きっと衝動だった。

 ――伝わって欲しいのはこれだ。
 巻き込んだと、彼は思わずにいられないのだろう。巻き込まれて、嫌な感情が全くなかったとセリカには断言できない。
 けれどもそれを凌駕する何かがある。困難に一緒に立ち向かうことに、充足感のようなものが伴うのだ。他の誰でもない、この人の戦いに。果てまで付き合いたいと、今なら言い切れる。

 瞬間、より深い驚きが青年の面差しを埋め尽くした。
 かと思ったら、セリカの視界の中で布が動き、影が近付いた。
 両肩を圧迫する力にハッとなる。抱き締められたのだと気付いて、呆気に取られたこと、数秒。

「あまりそういうことを言うな。離れがたくなる」
 耳元で囁いた声は掠れていて熱っぽい。つられて熱に浮かされそうだ。
「……反省します」
 寂しいのは自分だけじゃなかった、エランも何かを我慢していたのだ、と思い知った途端に肩の力が抜けた。セリカに同等の腕力は無いが、負けじと強く抱き締め返す。自然と瞼が下りた。
 これ以上にないくらいに相手を近くに感じられる――

 ――これ以上は、ないのか?
 脳裏に奇妙な疑問が沸き起こったのと「もっと触れても」の問いが耳朶に届いたのは、ほぼ同時だった。
 セリカは自身がどう答えたのかを知らない。喋る為の器官が動いて何かを答えたらしいのは、わかる。

 唇を閉じる寸前、そこに柔らかく温もりが重なるのを感じた。




ほぼ二年ぶりって具合に拍手お礼を更新しました。
何故こんなに間が空いたのかはもはや謎です。

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