56.f.
2016 / 05 / 10 ( Tue ) リボンの糸がほつれてますよ――前を歩く彼にそう声をかけたのは、ミスリアだった。 噛み切ってくれ、とエザレイは無機質に応じた。何もおかしな話ではなかった。服などからほつれた糸を手っ取り早く噛み切るのは日常の中でよくやることだ。だからその時も、ミスリアは深く考えずにグレイヴの柄に結ばれた灰色のリボンに手を伸ばしたのだった。 糸を歯に引っ掛けた先から何があったのか、よく思い出せない。 とりあえず件の糸に注目する。古びて汚れていて、ところどころ色が違っていた。灰色でないところは、敢えて言うなら灰銀色である。元の色が日に焼けて褪せたか、汚れを吸って濃くなってしまったのか。 (もしかして、残留思念) 白昼夢に出た青年は、ミスリアの知る「エザレイ・ロゥン」とは人物像が異なっていた。面影は濃かったものの、今よりもいくらか若々しく、生命力に溢れた顔つきだった。髪色も一致しない。けれど背中を覆い尽くす火傷の痕を思えば、同一人物で間違いないのではないか。 他の二人についても、彼らに関する記述は姉カタリアの報告書にあったものの、詳細な外見描写までは書かれていなかった。 (リボンに付着した、お姉さまの――――未練の欠片) 糸一本でこれでは、リボンそのものを検証したらどうなるのか。広がる未知の可能性に、震えた。 「あのっ、エザレイさんは何処に!?」 いつの間にかその姿が消えていたことに、やっとのこと気付く。すると護衛たちは顔を見合わせた。 「音が気になるから調べに行くって、走ってっちゃったよ。でも変だよね」 リーデンがゲズゥに目配せする。それを受けて、ゲズゥが小さく頷いた。 「何も聴こえなかった」 「そうなんだよ。僕も兄さんも結構な地獄耳なのに、何も音なんてしなかったよ。引き止める暇もなく疾走しちゃった」 「え……」 リーデンが指差した丘の向こうへと目を凝らすも、森が佇むだけだった。後は町の方から流れてくる祭の音楽や歌が微かにするくらいで、おかしな音なんてしない。 「戻って来ます……よね?」 「う~ん、あんまり期待しない方がいいんじゃないか――」 な、とまで言って、リーデンは素早く首を巡らせた。 どうしたんですか、とミスリアは訊こうとする。しかし言葉が喉から滑り出るより先に腹部が圧迫され、未然に息を吐かされた。 瞬く間に視界は一転し、地面ばかりとなっていた。 愕然としたのは一瞬。すぐに状況が飲み込めた。担ぎ上げてくれた肩を掴んで、振り返る。 「敵襲ですか!?」 「……ああ。問題は、数」 ぐっと眉間に皺を寄せたゲズゥが答えた。 「奥の森に向かう途中で邪魔されることは予想の範囲内だったけど、これは予想以上のお出迎えだね」 呆れたようにリーデンが言った。 町へと戻る坂の下から、じわじわと迫る松明の灯り。森へと続く丘の方からは、馬の蹄と――笛の音? 極め付けは胸に生じた冷ややかな手応え。つまり、魔物の気配が、近い。その予感を裏付けるのか否か、獣の咆哮が横手の木々の間から轟いた。 「最悪の事態だと思って臨もうか。その方が油断しないし」 「同感だ」 「一に魔物、二に森の住民、三に町民、四に熊。森と町の住民がグルで、魔物と熊を飼い慣らして使役してる、ってのがサイアクの事態かな」 町人たちは、祭の最中でありながらこっそりと抜け出す自分たちの姿を見咎めて不審に思ったかもしれない。 森の住民は――熊の縄張りに人が居たのは意外だけれど――踏み込んだ自分たちを敵視しても仕方ない。 猛獣と魔物は言わずもがな。 それぞれの勢力が襲って来ることは想像に難くなかったとはいえ、よもやこうして一斉に矛を向けてくるとは思わなかったのだ。リーデンの言葉に誘導されて、忽ち恐ろしい絵図が頭の中に出来上がる。 「さて問題は『五』に僕らが連れ回していた泡沫のオニーサン、もといエザレイ・ロゥンまでもが、グルだったのかなぁってとこ」 「そんなっ! ありえません! 違います、彼は」 森の民と町の人々と馴れ合うはずが無い! ミスリアは反射的に抗議した。何せ彼は厭われた赤い髪の持ち主で、そのことをちゃんと教えてくれた―― (……――どうして、エザレイさんは赤い髪が嫌われることを知っていたの) 出会って日の浅い人間の何がわかるかなんて、たかが知れている。それでも信じたい、信じなければならない。 |
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