19.d.
2013 / 01 / 09 ( Wed )
開始の合図が過ぎても数瞬の間、何の動きもなかった。ゲズゥは剣の柄を掴むだけで、自分からは仕掛けなかった。
頭領の真っ黒の両目を見ればわかる。表面では野獣に見えても、知能を内包した人間だ。
「かしらぁああ! 行けー! そんな奴ぶっ潰せー!」
「フルボッコ! フルボッコ!」
「おい若造、おれはお前に賭けてんだよ、一泡吹かせてやれ!」
観客は思い思いに声援をあげている。その間、ゲズゥは視線を逸らさなかった。
奴は大きな口を広げ、黄ばんだ歯が剥き出しになるほどに笑い――次の瞬間にはこちらに向かって突進していた。エンの言った通り、予想を超えるスピードで。
対するゲズゥは右から緩やかな弧を描くように走り出した。回り込めれば儲けものだが、そう簡単には行かない。
巨体を楽々と駆使して頭領は体の向きを調整し、長い戦斧を薙いだ。
ゲズゥは横に跳んでその一撃をかわした。
今度は正面からの強力な一突き。これを、ゲズゥは剣で横へ払った。
奴の右脇が空く――。
蹴りを入れようと一瞬脳裏を過ぎったが、それは叶わなかった。頭領は斧を構えたまま素早く両肘を引き、脇をしめたのである。かと思えば足を踏み出し、また斧を横に薙いだ。
受けずにゲズゥは後退した。あの攻撃を何度も受けていてはこっちの腕がもたない。必要でなければ避けるべきだ。
誰かの、逃げてばっかりじゃつまんないぞー、みたいな声が聴こえたかもしれないが、どうでもいい。
やはり奴は己の弱点を熟知している。隙を狙って打ち込むことは困難。
もう一つだけ試したいことがあるので、ゲズゥは攻めに入った。
こちらの速さにさほど押されずに、頭領は最小限の動きを使って一撃ずつ受け止めた。余裕を持っているからか、無駄が無い。ゆえに速さではゲズゥに多少劣っていても対応し切れている。
ゲズゥは攻撃を止め、一歩引いた。これは誘いだ。
「そういえばてめぇ、ヴィーナに手ェ出したらしいじゃねーか」
笑顔のままだが声色から怒りが滲み出ていた。
誘われているとわかっているのかいないのか、頭領はこちらが待ち望んだ正面の一突きを再び繰り出した。
奴の右腕が真っ直ぐ伸び切るより早く、ゲズゥは宙を跳んでいた。
剣を振り上げた。左肩めがけて振り下ろす。
が、またしてもそれは叶わなかった。上体を捻り、頭領は斧を斜め左上へ振り上げて大剣を打った。その威力に巻き込まれ、ゲズゥも飛ばされる。
両足で着地はできたものの、勢いが余っている。ゲズゥは剣を地に立てて体勢を保った。ギリリ、と鉄が砂利を掻く音が響く。
誘いを誘いで返された。
観客が嬉しそうに騒いでいる。
「人様の女に、いい度胸だなぁ」
歓声のためか、この会話はゲズゥにしか聴こえていないらしい。会話と言っても自分は答えないので一方通行ではあるが。
――誰に聞いた?
ついでに思考を巡らせてみる。知っているのは当事者のアズリと、偶然居合わせて状況を察したエン。ミスリアはそこまで考えが及ばなかっただろう。後の二人が頭領に話すことは考えにくいので、おそらく、教えたのはアズリ本人。
昔から、事態をかき乱してややこしくするのが好きな女だった。思い出して、ゲズゥは納得した。
そんなことより。
この男に隙が全く無いと確認できた以上、早くも次の手を考えねばなるまい。いっそ怒りで我を忘れてくれればいいのに、敵はそんなに容易ではなかった。
――走り回ったりして持久戦に持ち込み、疲れさせて隙を作る?
戦闘種族なら普通より持久力はあるだろうけど、こちらの血の濃さが本当に上ならば試す価値のある作戦――とはいえ血筋など、そんな不明瞭なものに頼るのは得策ではない。最悪、自分が疲れるだけだ。
――第三者を利用する?
これも頼れない手段。唯一手を貸してくれそうなエンは、審判として会場の端に陣取っていて動かない。そもそもこうも大勢の目に晒されていては誰の手を借りることも難しい。
――左目を使うか?
普段なら絶対に使わない手を思い、すぐに断念した。
リスクばかり高くて、事態が好転する可能性が低い。
こちらが距離を取り、考えあぐねている間にも頭領は自信満々に近づいてくる。
考えても答が出ないならば、仕方ない。
すうっ、と静かに息を吐いた。
ゲズゥは全身の筋肉に意識を集中し、強張らせるのとリラックスさせるのとの中間程度に、緊張感を満たした。大剣の刃が上を向くように両手で構え、踏み込む。
そうして己の直感と闘争本能と反射神経に、総て身を委ねた。
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