3-1. c
2018 / 10 / 01 ( Mon ) (なんだろう。織元さんのかな)
もし大切なものだったら雨に濡れては困るだろう。そっと手の平で包んで、屋内に持っていこうと考える。 俄かに視界が明るくなった。 背後の天空を稲妻が駆け抜けたのである。 遅れてやってきた轟音に驚いて、唯美子は大きく肩を震わせた。小瓶を取り落としてしまうほどに。 転がりゆく小瓶を急いで追う。瓶は把手がない形であるため、妨げられることなくどんどん先を行った。ひょっとしてこのまま山からも落ちるのではないかと焦る。 さすがにそんなことにはならなかったが、唯美子の見ている前で、瓶は樹の根元に激突して割れた。 (そんな……) 落胆を胸に、瓶の残骸を覗き込む。大小さまざまな破片となって砕けてしまい、きれいに繋ぎ合わせて復元するのは難しそうだ。 幸いにも中身は空っぽで―― ――空っぽだったのか? 唯美子の視覚は、立ち上る微かな霧をとらえた。雨粒が地面に弾けてできた霧ではないと断じたのは、色がついているように見えたからだ。 己のうかつさに気付かずに、破片のひとつを拾い上げる。 「熱ッ」 指が焼けるようだった。痛みに身じろぎをした一瞬の間に、破片は霧と化した。 紫色の霧が渦を巻いて濃くなる。 ――取り込まれる! 悲鳴ごと、空間から切り取られたような感覚があった。 次に意識が浮上した時には、肌を細やかに打つ水の感触が消えていた。 雨が降っていない。それどころか、振り仰げば、多彩な雲が散らばる晴天だった。湿気や気温は秋というよりも春か夏に近いものがある、と唯美子は奇妙に思いながら辺りを見回す。 そんなに長く意識を失っていたのだろうか。そもそもどうして意識が途切れたのだろうか。 わけがわからずに一歩、二歩と足を踏み出す。 眼前を覆い尽くす藪をかき分けると―― まったく見覚えのない景観が少し坂下にあった。 見渡す限りの、水田。 等間隔に植えられた瑞々しい稲を包む水は穏やかで、明瞭に空の模様を映し上げている。時折響く蛙の鳴き声が、いい雰囲気をつくり上げる。 美しい景色だ。美しいが、感心している場合ではなかった。 (え? え、なんで?) 一気に混乱がこみ上げてきた。 (ここはどこ? いま何時? なんでわたし……さっきまで茶屋にいたはずじゃ) 水田はひとりを除いてほぼ無人だった。ひとりの男性が、叫べばかろうじて声が届くような距離にいて、稲の様子を確かめていた。 三角笠と丈の短い着物を着た青年だ。 (このひとに訊ねてみよう) 体を動かそうとして、しかしうまくいかなかった。何度試しても、意識して手足を繰ることができない。さっきは歩けたのに、何故――? 声も出せない。 やがて青年がこちらに気付いて、近寄ってきた。そのことが不思議とうれしかった。 変な気分だ。まごうことなき自分自身の感情と受け入れるほどに自然に沁み込んで、けれども心のどこかで、これが自分の心情ではないことを俯瞰して知っているようだった。 おかしなことばかりだ。金縛りがとけたのか、藪から飛び出し、青年の元に行こうとした。 彼が笠を右手の親指でくいっと持ち上げた瞬間、唯美子はふたつの意味で驚いた。 (ナガメ……!?) 三角錐の笠の下から現れたのは、確かに見知った顔だった。新たに驚いたのは、その表情が怒っていて、或いは不機嫌そうに見えたからだ。ナガメのこのような表情を見るのは初めてだ。 まるで別人のように、「人間臭い」顔だと思った。 男性の唇が開きかけるのを認めた。 かと思えば、視界がぐるんと反転した。気が付けば再び藪の中に戻り、身を隠すようにして、青年の様子を窺っていた。 「ラムさーん!」 水田の向こうから呼ばわる声がある。女性の声だった。 「ハーイ、いま行きマス!」 これはまた驚いた。確かにナガメと同じ声帯だったが、使い方がずいぶんと違った。喋るトーンはいくらか高く爽やかで、言葉の節々にぎこちなさが――訛りがあった。 別人のようではなく、別人なのだ。 ラムと呼ばれた、ナガメと瓜二つの青年は水田の間のあぜ道を駆け下りて、女性に向かって会釈した。 |
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