50.l.
2015 / 12 / 10 ( Thu ) ゲズゥの提案に、ミスリアは首を傾げた。 とりあえず文字通りに爪先を足にのせるように促す。ミスリアの右足がゲズゥの左足に、左足が右足に、向かい合う形で重なった。それを心地良い圧力と呼ぶべきか、踏まれてもほんのりとした重量しか感じない。後は上体を安定させるため、少女の後ろ肩と腰にそれぞれ手を回した。 曲も変わり目だ。ミスリアは未だにきょとんとしているが、早速踊り始める。 「わっ」 急な動きに驚いたのか、柔らかい手がゲズゥの二の腕にしがみついた。 流れて来る曲は軽快なテンポである。ある者はシタールという弦楽器を指で弾き、ある者は高らかな歌声を夜気に響かせる。向こうに見える現地の人間は隣の相手と向き合って手拍子を打ったり、片足を蹴り上げて跳んだり、縦笛を吹いていたかと思えばそれを天高く振り回したりと、何をしているのかよくわからない。わからないので、こちらはこちらで適当に踊った。曲が一際盛り上がったところで少女を足にのせたまま、逆時計回りに回転する。 「ふっ――あはは! 回るっ。すごい回りますね。は、速いです」 一瞬、目を瞠った。生真面目なミスリアが声に出して笑っているなど滅多にない光景だからだ。あどけなさが目立って、微笑とはまるで印象が違う。 衝撃は波紋のように胸の内に広がった。温かい感覚だ。嬉しい、のだろうか。 「楽しいけど――も、ダメ……目が」 目が回る、と言わんとしているのに気付き、ゲズゥは足を止めた。ミスリアは胸元を押さえて笑っている。つられて笑いそうになるくらいに解放的な笑い方だった。 やがて少女は呼吸を整えて背筋を伸ばした。しゃらん、と頭の飾りが音を立てる。 「そういえば王子はもう発たれたそうですね」 「次の日には出ていた」 「そうでしたか。たくさんお世話になったんですから、ちゃんとお礼がしたかったです」 「奴は好き勝手やってただけだ。恩に感じる必要は無い」 オルトが出発した時にミスリアは居なかったのだ。ゲズゥは去り際に交わした会話を思い返し、語り聞かせることにした。 ――聖獣を手に入れる、か。その言葉を言い放った時、私は割と本気だった。気が変わったのさ。理由は二つある。まず、言っただろう? 御せない力は要らない。 ――言っていたな。 ――あくまで噂に過ぎないが、聖獣には「性格」があるという。獣と言っても、神話からは機械のような、ただの神々の意思の代行者のようなイメージだったが、自我があるとのことだ。 ――なるほど。扱いにくく、思惑に従わせるのが困難ということか。 ――そうだ。息災でなければ利用価値は減る。しかし滅ぼさずに意識を操る方法がわからない。私はソレを探すだけの手間をかけたいとは思わないわけだ。 ――二つ目の理由は? ――横槍が入る可能性とでも言い表すべきか。調べたところ、聖なるモノの傍には常に魔が寄り添うらしいな。聖女は『魔物信仰』と呼んでいたか? そこまで言えばわかるな。聖獣に近付くなら、連中が食いついて来るとの話だ。まあ、推測を繋ぎ合わせた曖昧な情報ではあるが。 ――…………。 ――お前たちも気を付けるんだな。 最後にオルトは「それに、古い知り合いから助力を求められた。しばらくはそっちに時間を割く予定だ」みたいなことも言っていた気がする。流石に自分たちとは関係ないため、話すまでも無いが。 「興味深い情報ではあります。それにしても、気まぐれな方ですね。ちょっとだけ羨ましいです。正直に生きるって、清々しいんでしょうね」 せっかくあんなに笑っていたのに、ミスリアはもうすっかり難しい顔になっている。些か残念だ。 「……お前が何を悩んでるのか――」気が付けばそう声をかけていた。「言いたくないのなら、無理に話せとは言わない」 ミスリアは目をぱちくりさせた。 「が、言いたくなったら聞く者が居るのだと、忘れるな」 途端にミスリアの表情が凍り付いた。栗色の上睫毛がゆっくりと落ちる。 「どうしてそんなに優しくしてくれるんですか」 「――――」 ゲズゥは不意を突かれた。反応があったとしても、いつもと変わらない礼の言葉が来るのかと勝手に想像していた。理由を問われるなど予想外である。 しかしながら、自然と答えは見つかっていた。 「強いて言うならお前が俺に優しくしたからだろうな」 「……っ」 くしゃっと、ミスリアは泣きそうな顔をした。そしてすぐに何かを追い払うようにふるふると頭を振る。 「私は――自分が正しいと信じているものが、必ずしも他の人にとっての最善じゃないのは、よくあることだと承知しているつもりです」 察するに、これが例の悩み事の相談だ。ゲズゥは口を挟まずに続きを待った。 「あの研究室には、『混じり物』の残骸がたくさんあったのですね」 「ああ。男の思想に賛同していた者は他にも何人か居たらしい」 「魔物を『力』として追い求める心も、死者を捜して彷徨う想いも。私はわかろうとしました。でも、どうしてもそこに伴う苦しみと破滅を肯定することはできません。彼ら自身がいくらそれを良しとしていても、あってはならない方向性だと思います」 俯いていた少女はパッとこちらを振り仰いだ。 「押しつけがましいでしょうか。結果的には『殲滅』となんら変わらないかもしれませんが、彼らを世界中から残らず浄化したいと願うのは私の我侭でしょうか」 ここで言う「彼ら」とは、混じり物だけでなく魔物をも含んでいるのだろう。 「私にできるのは根源を絶つことだけでしょう。たとえその所為で……解け、てなくなる……人が居たとしても……」 ミスリアは顔を苦痛に歪ませた。明らかに双子やヤン・ナヴィの最期を思い浮かべている。 どうしてか居たたまれなくなった。ゲズゥは膝をついて目線を合わせた。月夜の薄闇に煌めく涙を、右手の親指で拭う。 「俺たちには、彼我(ひが)の線引きが危うい」 「線引き?」 「『呪いの眼』も穢れている。生きた人間である割合が多いだけで」 「!」 「…………先祖が魔に魅入られさえしなければ、一族は無残に殺し尽くされることも無かった。そう考えるとお前が魔を世界から滅する為に動くのは、悪くない」 今後同じ末路を辿る種族が出る前に、魔の領域に手を出す者をもっと早くに挫折させられるなら。そういう運動は支持する価値がある。 ミスリアはぐっと唇を噛んだ。瞳の奥にどんな葛藤が秘められているのか。 構わずに話を続ける―― 「正義とやらを押し付けがましいと感じるかどうかは、相手への印象次第だ」 それが本心であった。出会った当初はあんなにも偽善っぽくて鬱陶しいとすら感じた聖女は、蓋を開けてみれば、やることなすこと全てが慈愛に基づいている。 ゆえに――やっていることを無駄だとか愚かだとか思う点は同じでも、嫌悪は感じなくなったのだ。 「それがお前の願いなら」 頬に触れていた手を離し、今度は肩にのせるに至った。布越しに伝わる熱をそっと撫でるように。 「俺は手伝おう」 ――成就するまで寄り添おう。 今この場で決めたに過ぎないが、不思議と頭の中は晴れ晴れとしている。自分の罪の贖いよりも何よりも、ただミスリアの為に旅を続けたい。それが、何処(いずこ)へ向かう旅だったとしても。きっとリーデンたちも異存が無いだろう。 「どうして……」 一度は止まったはずの涙が、今度はぽろぽろと大粒で流れた。どこに涙腺決壊のきっかけがあったのやら、すこぶる謎である。 「動機なら、そうしたいから、しか持っていない」 などと答えたら抱きつかれた。小さな身体にしては恐るべき勢いだ。 ゲズゥは抱擁を素直に受け入れた。 「私にもゲズゥのような強い精神があれば……ほんの、数割でもいいのに」 「必要ない。人を思いやる心がお前の強さだ」 「ありがとうございます」 次いで、くすりと笑う声が間近に聴こえた。 「貴方でよかった」 耳打ちで「道連れにしたのが」と追加される。突然の囁きは耳朶を打って脳を揺さぶった。 「私はもう迷いません。貫いてみせます」 腕を解いた頃にはミスリアはまた表情が変化していた。それはまた、見たことのない笑みであった。 年が明けた頃の記憶がふと脳裏を過ぎる。 最早これは、姉の幻影を追う己を空っぽな人間だと思い込んで、涙した少女ではない。 目的を新たに抱いて立ち上がった女だ。その微笑みに、茶色の双眸に、宿った光は苛烈だった。 「ではゲズゥ・スディル氏、これからもよろしくお願いします。私が目的を果たすまで、どうか傍にいてください」 「引き受けた」 なんとなく今度はこちらから抱き締めてやった。 小さな身体が腕の中でくすぐったそうに悶えても、簡単に放す気は起きない。 その時、瞬いたのはただの生理現象からであった。 ふいに浮かんだ、別れの瞬間への予感。 その日は近いのか遠いのか。 聖女ミスリア・ノイラートと道が別れる時がどんな場面か――何も明確なイメージが浮かばずに、ただ果てのない闇が瞼の裏にあった――。 |
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