2-3. c
2018 / 08 / 16 ( Thu )
 黄金色の巨大ナマズ。囁くように、キーワードを復唱してみる。
 次いで瞼を下ろし、過去へと連なる記憶の糸を手繰り寄せた。
 すぐには映像が浮かばなかった。
 先によみがえったのは匂いだった。土や泥、瑞々しい草木と、水場特有の香り。それから、音がきた。話し声や虫の音、遠くに響く他の家族が連れた犬の吠え声――。

 水の匂いは、唯美子にナガメを連想させた。たったひとりの友達がこの場に居ないことがつまらなくて、何かにつけて思い出していたのも事実だ。
 大人たちがテントを張ったり食事の準備をする間、唯美子に手伝えることは限られていた。遊んでていいのよと笑顔で母に言い渡され、ひとりうろちょろしていたのをおぼえている。

 旅行中はどんな天気だったのか、日焼け止めを塗ったのかそれとも傘を出したのか、その辺りは思い出せない。視覚情報は依然としておぼろげだ。
 突如、冷水に包まれたような感覚がした。

 追体験だ。察した頃には既に肌が濡れた感触を思い出し、呼吸器官が存在しないプレッシャーにもがき苦しんでいた。
 溺れていた。鼻が反射的に空気を求めて収縮しても、冷酷に流れ込んできたのが水だった。

 パニックに陥るまでに数秒とかからなかった。それからどんな行動をとったのかは詳細におぼえていないが、冷静に対処できていなかったのは間違いない。
 ――直前までの自分に、湖に入る気はなかったはずだ。
 水着は持参していたし、折を見て親の監督のもとに泳ぐつもりはあったのだと思う。でもあれは、そういった意識的に取り組む遊びとはかけ離れた出来事だった。

 溺れた時の記憶は、親に聞かされた話も合わせて、もともと断片的に持っていた。
 欠けているのは、前後である。

(服を着たまま、湖に「落ちた」の?)
 不慮の事故が原因で、今現在に及ぶほどの水泳への苦手意識を植え付けられたというのか。
(でも怖かった。死ぬほど怖かったな、あの時)
 湖の中は緑色によどんで、ほの暗かった。他に何を見たのか――否、その前に、どうして落ちたのか――

 縁におかしなものを見た気がする。黄金色、そうだ、あれは金色だった。たまに雑誌やニュースで観る黄色っぽいものではなく、体中に砂金がひっついているみたいな黄金に光り輝く表面をしていた。
 そこからして既におかしい。水底や岩陰にいるはずのナマズが水面にあがってきたのも、派手な金色をしていたのも不自然だ。言わずもがな、幼い唯美子を丸呑みできそうな大きさであったのもだ。

 けれど最も異様だったのは、見た後のことだ。その魚は巨大なひげを震わせたのだった。まるで伝えたい言葉があるように。案の定、「言葉」が唯美子の神経に届いた。
 ――新たな水の精が現れたんだってぇな。ニンゲンの小娘に取り入って、この近くに住み着いたってぇ話だ。

 ――いまおさかなさんがしゃべったの? みずのせーってなあに?
 ――むすめっこ、おめぇに恨みはねぇ。けどな、ここは昔からおらのナワバリだってぇんだ、勝手な真似されちゃあ困るんでぇ。

 ぽくっ。
 腕にそれが噛みついた音はどこか間が抜けていて、けれども腕が訴えた鋭い痛みが、ことの重大さを知らしめた。悲鳴を上げられるより早く、引きずり込まれた。
 そこから先は、悪夢だった。湖の中心まで連れ込まれ、しかも死なないように時折息継ぎをさせてもらえたのだ。人の目の届かない絶妙な加減で、時折水中に潜ったりなどして。

(あれ? 息をさせて「もらえた」って)
 どうやらあの獣には人質を取るという知恵があったようだ。そうしているうちに溺れて失神したのだろうか。
(ううん、まだある。まだ、思い出せる……)
 欠落した記憶の隙間を飛び越えて。ひとつ、ちらつく場面があった。

 三日月のように反り返り、ぐったりとした黄金色の巨大ナマズ。
 周囲の水に暗く淀んだ帯のようなものがひらひらと舞い広がるさまはひどく不吉で。臓腑をかき乱されたような、気分の悪さが付いて回った。
(血――!?)
 本当に忘れねばならなかったのは果たして何であったのか。じわじわと体力を奪われながら溺れた体験でも、怪物にさらわれたという異常事態でも、なかった。

 己を上回る体格の生き物にまったくひるまず噛みつき、顎の後方に生えた牙で獲物を毒して撃沈させられる化け物がいた。これまた異様に大きく、深緑と黄色の鱗に覆われていた。長くてうねうねしているだけでも唯美子には気持ち悪いのに、胴体には四本の短い足がついていた。
 水中を伝って耳朶に届いた音は、残虐極まりなかったように記憶している。ただの、思い込みかもしれないが。

(全長十メートル……! じゃあ、あれは!)
 ――あの黒く無感動そうな双眸の主は――。
 喰われた加害者《ナマズ》を、かわいそうに感じるべきかどうかはわからない。助けてもらったとはいえ、ナガメの所業を咎めるべきかどうかもわからない。縄張りを侵されていると他者が感じないように事前に防ぐ手もあっただろうに。

(気持ち悪い)
 目を見開き、口元を両手で抑えた。隣の青年は解せないものを見るように訊ねた。
「ものほしそうにこっち見てるけど、どした?」
「物欲しそうじゃなくて、助けてほしいんだよ……!」
「助けてって?」

「た、体調悪いの。見てわからない」
「体温上がってるなー、はわかる」
 彼は背中をさすってくれるわけでも、自販機から飲み物を買ってきてくれるわけでも、手を握ってくれるわけでもなかった。なるほど確かに、労わり方がわからないようだ。
「も、いい……少し静かにしてれば治まるよ」

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