15.b.
2012 / 08 / 22 ( Wed )
自分らしくない考え事などやめて、ゲズゥは足音一つ立てずにその場を離れることにした。
広場から数えて三軒目の素朴な石造りの家が今夜の宿泊先だ。長老の次男の家だと聞いた。素朴とはいえ集落の数少ない二階建ての家である。
中に入ると、長老の孫娘が台所で一人忙しなく家事をこなしていた。
「ようこそいらっしゃいました」
ゲズゥを認めて、十代後半ぐらいの歳の少女が振り返った。鮮やかな赤い髪を大きなリボンでまとめ、膝丈のワンピースにエプロンという出で立ちだ。ここの他の娘たちに比べると際立って肌が白い印象がある。
「お夕飯でしたらもうすぐ出来上がりますので、くつろいで待っていてくださいね」
はにかむ少女には返事を返さずに、ゲズゥは二階の客室へ向かった。階段を上り始めたところでまた話しかけられた。
「あ、あの! 一晩だけでよろしいんですか? 明日出発と言わずにもう少しのんびりしてからでも……。何もないところですが」
精一杯おもてなしします、と消え入るような声で孫娘が続けた。
一応足を止めていたゲズゥは、話がそれだけだとわかってまた動き出した。
「――本当に! ほんとに、ユリャン山脈を越えるつもりなんですか? あそこは危ないんですよ!」
娘は今度はいきなりわけのわからないことを訴えた。
つもりも何も行路を決めるのはミスリアだ、とゲズゥは割り切っている。彼に主体性が無いという訳では決してない。意見は勿論必要ならば出すが、それでも大抵の決断は委ねる気でいる。この旅はこれで良いと、いつの間にか自分で判断していた。おそらくは命を拾われたあの日に。
やはり答えずに、ゲズゥは部屋の方へ進もうとした。
その時、タイミングよく玄関が開いた。
「山脈の向こうに行かなければなりませんので、仕方ありません。迂回すれば一ヶ月以上は余分にかかります」
入ってきたミスリアがたしなめるような口調で言う。
「……聖女様。そう……そうですよね。過ぎたことを言ってごめんなさい」
「いいえ。お気遣い有難うございます」
しおらしく謝る孫娘に対して更に、ミスリアは宿や食事など色々と世話になることへの礼を言った。ミスリアの方が孫娘よりも年下だろうに殊勝なものだ。
二人の少女をよそに、ゲズゥは二階へ上がった。
狭い客室にベッドが一台あって、その他の家具といえば小さな鏡台が一台だけ。窓もまた一つしかなく、ガラスにも網にも覆われていない。壁には燭台がある。
ゲズゥは背中から剣を下ろしてベッドに背中を預け、床にあぐらをかいた。
「お疲れ様です」
扉が開き、ミスリアが姿を現した。疲れるようなことをしていないのにお疲れと言われるのは変だと思いつつ、
「戻るのが早かったな」
とゲズゥは返した。
広場のあの様子ではまだまだ働かされそうだと勝手に予想していた。
他と隔絶された集落であるだけに、住人は最初こそはゲズゥたち余所者をしっかりと警戒していた。ところがミスリアが聖女という身分を明かした途端に歓迎されたのである。聖女・聖人どころか医術に通じた人間すら滅多にお目にかかれない辺境の地だという。
「はい。『もう休みたいです』みたいなことを言ったら解放して下さいましたよ。そりゃあ疲れてるだろうしお腹も空いているだろう、って長老様の一声で皆も納得しました」
ふぅ、とミスリアは声に出してため息をついた。心なしかふらついた足取りでベッドに歩み寄り、腰をかけた。ゲズゥからは腕を伸ばせば簡単に届く距離である。
「……血って、どうしてあんな色なんでしょうね。もっとこう、瞼の裏に残らないような無難な色であればいいのに」
「…………」
例えば人間の体内から淡い水色の液体が漏れるのを想像してみたが、それはそれで気色悪い気がする。そもそも瞼の色に残らない色というのがわからない。
目を擦るミスリアの投げやりな呟きを聞いて、何かに思い当たった。朝のうちに目撃した男が刺し殺される場面、そしてその死体の有様――臭いごと、否応無く脳裏に焼きつく類の映像だ。一日に何度でも思い出すような。
ゲズゥとてふとした時に思い出すが、そういった場面に既に何も感じなくなって久しい。これでも子供の頃は、生理的な拒否反応やら嫌悪感があった。
「血の色が赤なのを理由付ける神話でもありそうだが、知らないのか」
気を紛らわせられるかもしれないと踏んでくだらないことを訊いてみた。
「あるとしても私は知りません」
苦笑い交じりにミスリアは答える。
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