2-1. e
2018 / 06 / 30 ( Sat )
「名づけた人の趣味がすごかったって話。あれ、あなた小学校にもあがってなさそうなのに、漢字で書けるのね」
 手帳から目線を上げて、マキがふさふさのまつ毛に縁どられた目を意外そうに瞬かせる。つい注視してしまいたくなる動きだ。

 そんな折、青と茶の軌跡が視界の端で踊るのが見えた。
 彼らの知らせがなくとも、ミズチにも伝わっていた。まだ遠いが、相当な速度で近付いてきている。

「それより『まきちゃん』、ゆみを呼んだな」
「へえ! なんでわかったの。エスパーみたいよ」
 女が端末の画面をこちらに向ける。長い爪が邪魔だが、画面に己の姿が収まっているのがなんとか見えた。マキが会話の合間にさりげなく撮っていたらしい。ブレていて見づらいが、背格好や服装で丸わかりである。邂逅して間もなく送りつけたのだろう。

 続いた数秒の間で、ミズチは速やかに判断した。
 鉢合うまでここで待っても構わないが、この場合、様子を見たほうがいいだろう。

「保護者同伴なんて嘘なんでしょ。まずその格好、パジャマっぽい」
「きがえるの忘れてた」
 寝間着で外を出歩くのは人間の感覚では恥ずかしいことなのだと、指摘されてから思い出す。道理で何かと他人の遠慮がちな視線を感じていたわけだ。

「なに、喧嘩でもして飛び出したの? お姉さんに相談してみなさい」
 マキがニヤニヤ笑いながら両手を組んだ。だがこちらはもう去るつもりである。
「いらねー。じゃあな、あと、あやしいやつに気をつけろよ」
「ちょっと待って!」

 待たない。女の制止の声も伸ばされた手もかわし、ミズチは鉄紺と栗皮を連れて人込みの中に一旦身を隠す。数分も経つと物影に移動し、そこで自らの周りの水滴を浮遊させ、薄く膜を張った。姿を認識されなくする術だ。
 そして息を切らせた唯美子が駆け付けたのと合わせて、物影から踏み出た。何かにぶつかると術が解けてしまうため、慎重にマキの席の後ろに回る。

「ナガメ!? あ、真希ちゃん、連絡ありがとね」
 唯美子は空いた椅子の背もたれに手をのせ、ぜえはあと苦しげに呼吸を繰り返した。探し人の姿がないことに眉の端を下ろし、きょろきょろと辺りを見回している。
 ――なぜ彼女は走ってきたのだろう。
 急ぐ理由などどこにもなかったはずだ、むしろ、吉岡由梨と談笑していたのではないのか。汗に濡れた前髪をかきあげる唯美子を、ミズチは奇妙な心持ちで眺めた。

(いいにおい)
 ひそかに。当人に気づかれずに、近くで観察する。
 唯美子をかぐわしいと感じるのは、捕食衝動とは別のところから生じているように思う。数百年生きてきてニンゲンを喰らったことは確かに何度かあったが、美味いとはまったく感じなかった。今でも、ニンゲンよりも食べたいものはいくらでもある。

 生物が同族の異性をかぐわしいと感じるのとも、おそらく違う。敢えて言葉にするなら、彼女が心から発する優しい波動が、好きなのだと思う。
 傘を置いて行ってくれた日からだ。
 彼女だけの呼び名を聞く度に、よくわからない感覚をおぼえる。うれしい、のかもしれない。

「やっほー、いいってことよ。でもごめん、ついさっき逃げられちゃったわ。なんなのあの子? あんたが来るの、前もって気づいてたみたいだけど」
 マキが気さくに応じた。まあ座りなよ、と手の平で示している。唯美子は促されるままに腰を下ろした。
「逃げたの……。ううん、気にしないで。あの子はひとりでも大丈夫だから。いつものことだよ」

「そうみたいね。ねえ、ゆみこって親戚にハヤシさんがいたのね。初耳」
「木が二つ並んだ字のハヤシさんのこと? いないよ?」
 そうなの、と訊き返したマキの声が明らかに驚いていた。唯美子もまた驚いた顔をしている。
 これが何の話かは、ミズチにはいまひとつ掴めない。

「名前、なんていうのって聞いたらこう書いたんだ。この字で『ナガメ』は、読めなくもないな」
 マキが手帳を開いて見せると、唯美子は上体をテーブルの上に乗り出し、真剣な面持ちでページを見つめた。納得の行かないような顔だ。
 自信があったのに、それほどまでに変な字だっただろうか。

「ゆみこさー、電車乗ってきたんだよね。わざわざ来たんだし、今から映画観ない? 実は今日、デートの相手にドタキャンされちゃって。チケットおごるよ」
「うーん。お母さんが家にいるんだよね」
「ちょっとくらいいいじゃないー」

「そうだね、あの人は放っておいても自由に動き回るだろうし、とりあえず訊いてみるね」会話にしばしの間があった。唯美子の端末が鳴るまでの数十秒だ。「好きにしていいよだって。晩ごはんまでに戻りさえすれば」
「やったー!」

 そこまで聞いて、ミズチはその場を足早に立ち去った。映画館となれば二人は少なくとも数時間は一か所に留まることになる。
 ――その間に探してみるのもいいか。
 指を軽く振って眷属の二匹に合図を送った。
 追跡すべきは、特定人物に向けられた『悪意』だ――。



いつにもまして漢字vsひらがな表記が不安定な今作ですが、生ぬるい目で見守っていただけるとうれしいです…(;´Д`)

2話でお会いしましょー☆彡

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08:21:07 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2-1. d
2018 / 06 / 25 ( Mon )
 深く考えずに、香立ての前であぐらをかいた。割と最近に誰かが来たのだろう、新鮮な花が飾ってある。
 ミズチは頬杖をついて物思いにふけった。
 自らに、死者に語りかける習慣があるわけではない。墓石をつくるという慣習はニンゲンだけのものだ。死者を悼むことからして、地球上のどこを探しても、ニンゲン以外に取り組む種がいない。

 失った家族を恋しがる動物ならありふれている。寂しさにとりつかれて後を追うように衰弱する事例は広くあるし、植物にもそれがないとどうして言い切れよう。だが、複雑なシステムを作り上げてまで「去った者を能動的に思い出す」のは、ニンゲンだけのように思える。
 そうする行為に意義を見出すのは遺された生者だけかと思っていたが、案外そうでもないのだと過去に教えてもらった。

 不思議だ。
 忘れないでくれ、時々でいいから思い出してくれ――そんなわがままな願いを、愛する者に投げつけながら逝くのも、ニンゲンだけではないだろうか。わかったよ思い出すよと口約束をしてやるだけで、死ぬ時の表情がまるで別物になるのだ。
 命を次世代に繋ぐ術を持たない獣には不可解なことばかりだった。

(二ホンに戻ったんだから、あいつのとこにも行ってやらないとな)
 胸中に浮かぶ感情をなんと呼ぶのか、ミズチはまだ知らない。別段、知りたくもない。
 ぼんやりと仏花の色合いを脳内で評価していると、ふわり、慣れ親しんだ生命の波動が頭上を旋回した。頭頂部の髪が僅かに乱れた。

「どした? 鉄紺」
 大型アオハダトンボの雄の飛び方に動揺が表れている。ただならぬ事態が起きたのかと懸念した。
 主と眷属に音声言語は不要だ、意思の矢印みたいなものを拾い合うだけで事足りる。思念を丁寧に受け取り終えると、ミズチは脱力して姿勢をだらりと崩した。

「そんなん、おいらに言われても。ニンゲン同士で解決すればいいじゃん」
 声に出して返事をするのは、他者との「会話」のしかたを反復練習するためだ。
 鉄紺は飛び回りつつ、自身が持ち帰った情報の重要性を再度主張する。
「あー、あー……そりゃほっとけねーかな。わーったよ、様子を見るだけなら」

 どうせ今日は暇だ。
 呟きながらも足を高く蹴り上げる。次に両足を勢いよく蹴り落として腰を浮かせ、ぴょんと跳ね起きた。

     *

 県内で何番目かに大きい駅にふさわしく、にぎやかな場所だ。近辺にはニンゲンが好む娯楽施設――カラオケやら映画館やらバーやら――が幾つも並んでいた。
 土曜日の朝は人通りが多いのか、横断歩道の信号機が緑色のアイコンに変わる度に、人がうじゃうじゃと動き出すのが見えた。

 行きたいところもなしにミズチはそんな駅周辺をうろついていた。
 やがて、どこぞのカフェの屋外の席にするりと身を収める。
 先にそのテーブルに座っていた長髪の女が、驚いたように手の中の端末から顔を上げた。テーブルの上には手帳とシャーペンが、もう片方の手には、飲み尽くされて氷しか残らない何かのドリンクの抜け殻があった。甘ったるい残り香は、あいすかぷちーの、のそれかもしれない。ミズチは思わず嫌そうな顔をした。

「なに、あなた」女も嫌そうな顔をした。すぐに表情が移ろい、化粧っけの濃い顔に認識の色が広がる。「もしかして、ゆみこが預かってるっていう遠い親戚の子じゃないの。この前写真で見せてもらったわ」
 アパートでじゃれていた時に携帯端末で撮られた画像のことか、と得心する。

「そーゆーおまえは『まきちゃん』だ」
 肩の開いた派手な服装、目元を強調した化粧。それだけで特定したのではない。というよりも、ミズチは見た目で判別しない。
 もともと蛇は視覚より嗅覚に頼る生物だ。擬態に際して視覚の機能を多少向上してみたものの、興味のないニンゲンは基本的にみな同じに見えてしまい、誰が誰なのか断言できなくなる。
 識別する材料は匂い、そして気配(これもトンボたちの方が精度が上だが)に限る。

「こら。年上のお姉さんに『お前』はないでしょ。生意気ね」
「…………」
 断じてこの個体はミズチよりも年数を経ていない。が、それを口にするわけにもいかず、首を傾げるだけだにした。
「あなたの家庭の事情はよくわからないけど、しばらくゆみこのところで厄介になるんでしょ? 大変ね、あの子も」

「ふーん。どうたいへんなんだ」
「どうって……」
 マキの顔にはいかにも「がきんちょに教えても無駄」と書いてあったが、一応答えることにしたらしい。
「世話する手間はもちろんのこと、遊びに行く時間も減るし。彼氏だって――あれ? そういえばあなた、ひとりで出歩いてるの」

「ひとりじゃない」
「ホントに? 保護者は?」
 疑惑いっぱいで、ピンク色のケースをはめた端末を口元に当てながら、マキがこちらを窺う。瞬く睫毛が不自然なまでに長い。たぶん、偽の毛を取り付けているのだろう。
「こう見えてどーはんしてるよ。おまえのしんぱいには及ばねー」

「難しい言葉を知ってるのね……」
「それよりカレシがなんなんだ。別にゆみに男ができよーが、おいらには関係ねーんじゃん」
「関係ないわけないでしょ。あなたに居座られてると、デートに出かけられないのよ。家にも呼べないし」
「なるほど、相手ができても交尾できないって話か」

「こうっ……!? あなたんちの親はどういう教育――……そういえば、あなた名前なんていうの? ゆみこに聞いてなかったわ」
 呼びづらさに今更気付いたのか、マキが端末を下ろして改めて聞いた。
 ミズチはまずその爪先に目をやった。ピンク色の爪がやたらと長いが、形が均一だ。これも作り物か。

 テーブルの上を舐めるように眺めてから、手帳とシャーペンを手に取る。後ろの方の空いているメモページに三文字書いて、持ち主に返す。
 開かれたページを顔に近付けて、マキは口元をひくつかせた。

「……キラキラネーム?」
「なんだそれ」
 聞き覚えのない単語に、またも首を傾げる。

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08:26:54 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2-1. c
2018 / 06 / 23 ( Sat )
「ああ言えばこう言う! いけ好かない奴だよおまえさんは」
「ひよりに好かれたいと思ったこたぁないなー」
 そう返してやると、女は額を押さえて深くため息をついた。動きにつられて、かんざしの先についている金色の扇子を模した部分がしゃりんと揺れる。一瞬そこに視線が釘付けになった。こういった細やかに動きは、つい目で追ってしまう。

「おまえたち人外は厄介だよ。『蛟』ほどの個体ともなれば、悪意や真意を悟らせないようにうまく隠せるだろ? まあ……ゆみが気に入ってる時点で、たぶん悪意はないのだろうね。あの子には、そういったモノが視えてしまうから」
「わかってんじゃん」
 ミズチは数歩の距離を保ったままに、中庭でごろんと横になった。逆さの視界の中で、ひよりを見上げる。

 目の前のこの和服女は、おそらく既に己の寿命の半分以上は生きているという。その面貌には皺もあればシミもあり、笑っていない間は、全体的に皮膚が緩やかに垂れているように見える。
 大抵の生物には当たり前に訪れる、老い、というものの一環だ。老化現象に取り残されたミズチには掴みづらい概念だが、どうやら漆原ひよりはそれなりに老いているらしい。

 それが能力の衰えと同義かは知れないが、少なくともこの家を囲って張り巡らされた微かな結界の糸はなおも頑丈だ。術者と命をかけてやり合う気がなければ、簡単に破れるものではない。
 ゆえに、術者の許しを得るか唯美子が自ら出てくるまで待つしかない。いつものことだ。よほど目を凝らさなければ見えないこの銀色の糸は、許可なく入ろうとする侵入者を拒むが、内から出ようとする住人をあっさりと通す。

「どうして、そんなにしつこいんだい」
「ゆみが好きだからじゃねーの」
 と、感慨のない声で答える。
「信じられないね。獣《ケモノ》が何の見返りも求めずに、自分よりずっと弱い生き物に愛着が沸くものかね」
「さー」

「おまえさんのそれは、庇護欲じゃないか」
「なんだそれ」
 ぐるんと反転し、肘を支えにして上体を起こす。ひよりは縁側に座したまま前のめりに身を乗り出し、胡散臭いものを見るような目で言った。
「ゆみを愛玩動物《ペット》みたいにかわいがってるつもりなんだろ」

「ペット? ってなんだ。眷属みたいなもんか?」
「いや。上下関係はあるけど忠誠とか家族じゃなくてもっと生活の上で依存した……ああもう、どうせわかりゃしないのに、説明がめんどうだね」
 女は諦めたように膝の上に片手で頬杖をつく。

「よくわかんねーけど。なんびゃくねんの生の中でニンゲンに善意をもらったのは二度目だ。もっと観察してみたいと思ったのも、な」
 さわっ、と木の葉が風に揺らされてこすれ合う音がする。
 放たれた言葉の意味を咀嚼する間、女は値踏みするような目でこちらを見下ろした。

「いいじゃん、あそぶだけ。おいらがついてんだ」
「おまえさんはそれでよくても、ゆみには異形にかかわってるだけでも危険なんだ。理由はわかっているくせに」
「けどあいつ他にともだちいないだろ。ほっといたら夏中家からでないんじゃねーの」

 ひよりは何か言い返そうとして口を開き、一拍して、唇を閉じた。事実であるから、反論を持っていないのだろう。
 そのうち、家の中から「おばあちゃーん」と呼ばわる少女の声が響いてくる。
「……仕方ないね」
 迷いの残る目で、ひよりはこちらから視線を外した。


 回想はそこで終わりだ。
 あの頃と同じ姿のミズチは、黒い墓碑の前で頭をかいた。

「踏んでも平気そーなやつだったのに……『がん』かあ」
 病気というものは、頭では理解できても真に実感を抱くことはできない。
 ひよりが息を引き取って間もなく、あらかじめ設定してあったらしい式神が発動して、ミズチの元まで飛んで彼女の死去を報せてくれた。術式とはいえ遠く離れたギリモタン島までは時間がかかり、更にミズチ自身が日本まで来るのにもそれなりの時間を要した。

「遅れてわるかったな。おまえとのやくそくも、ちゃんとまもるよ」

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22:08:28 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2-1. b
2018 / 06 / 18 ( Mon )
 その問いに対して、母が重くため息をつき、少年は舌をべっと突き出した。
「ながめ? ――ああ、おまえが化け物につけた名ね。もちろん知ってるわ。昔、こっそり唯美子を遊ぼうと誘い出しては、傷や泥だらけで連れ帰ってきた嫌なやつよ」
「そうだっけ?」

 正直、唯美子が思い出せたのは雨の中で出会った最初とその次の邂逅だけである。
 チラリと当事者の方を見やるも、彼は目線をあさっての方向に飛ばして、何も語るまいと唇を引き結んでいる。

「そうよ。百歩譲って遊ぶのはいいとしても、ミズチみたいな化け物には人の労わり方も思いやり方もわからないの。何度も無自覚に危ない目に遭わせたでしょ。唯美子が風邪をひいて帰ってきたのは一度や二度じゃないわ。湖で溺れた時だって――」
 ひと息にまくしたてながら、母は押し込むように入ってきた。慣れた手つきで古びたスニーカーを脱いで揃える。

「吉岡由梨にはかんけーねーだろ」
「関係ないはずがありますか。母親ですよ! 一生心配するし、小言も言わせてもらうわ」
「んなこと言ったって、おいらにはよくわかんねーよ。オヤってーのは」
「わかるはずがないでしょう。化け物だもの」
「わるかったなー、ニンゲンじゃなくてー」
 応酬は一向に止まりそうにない。これではいけない、と唯美子は駆け寄った。

「ね、立ち話もなんだし、二人とも中で落ち着いて」
 ところがナガメの方がくるりと踵を返した。一度閉まったばかりの扉をまた開けている。
「どこ行くの?」
「てきとーにその辺。そいつが帰るまで、もどらない」

「残念だったわね、今日は泊まっていくわ」
 母が、自身が引いて来たキャリーケースをぽんぽんと叩く。
 少年はそのまま無言で出て行った。晩ごはんどうするのと訊く暇もなく。
(いいのかな……)
 実際、心配する必要はないのだった。彼は以前言った通りに、週に数度何かを口にしただけで十分らしく、睡眠ですら毎日とらなくてもいいらしい。放っておいても自力で生命活動を維持できるだろう。

 何も心配はいらないというのに、胸の奥に沸き起こるこのモヤッとした感触はなんなのだろう――。
 ふと、母の視線と視界の中でひらひらと振られているものに気付いた。薄緑色のふっくらとしたパックだ。

「ちょっと前の旅行のお土産。お高い煎茶らしいわ。これで、お茶にしましょ」
「いいよ」
 破顔し、唯美子は湯飲みや急須を用意した。次にトラの印がついた給湯ポットに向かった。
 二人でちゃぶ台を囲んで、高級煎茶を堪能する。猫舌気味の唯美子には80℃でもまだ少し冷ましたいくらいなので、のんびり飲んでいる。

「大丈夫だよお母さん。ナガメはあんなだけど、わたしを危険に巻き込んだりしないよ。むしろ何度も助けられてる」
 ふう、と急須に軽く息を吹きかける。九月とはいえまだ暑く、水で淹れられなかっただろうかと今更ながらに思案した。これを飲んだら余計に汗をかきそうだが、こうなっては致し方ない。
 母はなかなか言葉を継がなかった。

「……それなら、いいけど」
 今の間は何だったのだろう。色々と訊きたいことができたものの、「仕事どう?」と先に質問されたのでひとまずミズチの話は打ち切られてしまった。

     *

 在りし日の漆原家が住んでいた家は、山麓の住宅街にあった。地価の安い県だ、一般家庭が買えるレベルの一戸建てでも快適に広い。
 当時は三世代で暮らしており、仕事で出払う他の大人たちに代わって、漆原ひよりが孫・唯美子の世話をすることが多かった。唯美子と知り合って間もないミズチも、既にそのことを知っていた。

 ひよりは、こちら側に踏み込んでいるニンゲンだ。漆原に嫁いだ彼女は元からそういった素質を秘めていたらしく、そのことを自覚して、己の潜在能力を引き出す修行をした。
 彼女とは顔見知り程度に面識があったが、それが雨の日に出会った少女の祖母だと知ったのは、より最近の話である。

 ある夏休みの日のことだ。
 蛙狩りに行こうと唯美子を誘いにやってきたら、うかつにも気配を消すのを忘れていた。
 和室の縁側でくつろいでいた和服姿の女が、素早く目を見開いた。

「おまえ……ミズチ、また来たね」
 おう、とめんどくさそうに返事をする。
「帰りなさいな。あたしの目が黒いうちはゆみに手出しさせないわ」
「じゃあ、ひよりが死ぬのを待てばいい?」

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07:01:04 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2-1. a
2018 / 06 / 09 ( Sat )
 九月に入ってから二度目の土曜日、ようやく唯美子は壁のカレンダーを放置していたのだと気付く。ぺらりと片手でページをめくりあげ、カレンダーは夏の風景から秋の風景写真に入れ替わった。紅葉が舞う部分になんとなく指先を滑らせたりもする。

 時の流れはあっという間だ。会社の同僚と海に行ったのがまるで遠い昔のように感じる。
 いつの間にか、いたはずの人物がひとり消えて、どこの記録や誰の記憶にもその男が存在した痕跡が残らなかった。末恐ろしい話だけれど、それはそういうものだという。後始末や裏工作が得意だからこそ、彼らはヒトの警戒網から逃れ続けてきたわけだ。

「わっ!?」
 考え事をしながら薄闇に包まれた居間を片付けていたのがいけない。いきなり柔らかいものにつまずいてしまった。
 ちゃぶ台が眼前に迫る。咄嗟に腕を突き出して、倒れ込むのを阻止した。

(あぶなかった)
 自身をつまずかせたものを探り、ちゃぶ台の下を覗き込む。そこに、十歳未満の少年が座布団の上にうつ伏せになって寝ていたようだ。突然の衝撃に起こされて、眠そうに唸っては頭をもたげている。

「ごめん、今日ここだったんだね」
 ところかまわずに横になる彼にも非はあるが、蹴ってしまったことにはすかさず謝っておいた。
 小鳥が陳列した赤いパジャマを着たこの少年は、不定期に唯美子のアパートに遊びに来ては、いつの間にかいなくなっている日もあれば、朝までよくわからないところで寝ている日もある。昨夜は後者だったようだ。

「うー……もう朝かぁ」
「午前八時だよ。ナガメ、起きたのなら顔洗ってうがいしてきて。それで、ちょっとここ片付けるの手伝ってくれる?」
「ぬー」
 嫌そうな声を出しながらも、彼は半分だけ目を開ける。ボサボサの黒髪を指で梳いて、のっそりと起き上がった。

 半目のままではあるが、ナガメは望まれた通りの行動をとった。彼は寝起きの時が一番素直なのかもしれない。
 そして少々、無防備だ。
 カーテンの隙間から漏れる朝日が、ちょうど少年の右腕を照らした。そこに、ぬらりと、鈍く光を反射する部分があった。

 鱗である。
 人間の七歳ほどの男児とほとんど見分けがつかない姿をしていながらも、ナガメは人間とは異なる存在だった。では何なのかと問われても、唯美子は完全に答えることができない。
 以前、質問にはゆっくり答えてやると彼は言った。その割にはお盆の季節に何も言わずにふらりといなくなるなど、未だに見えない一線を画されている感じはする。

 結局ナガメは自分のことはあまり教えてくれなかったが、自分たちの性質については教えてくれた。
 数百年の生を経て龍の位階に登った蛇、わかりやすく呼んで、蛟《ミズチ》。彼のような異形は人間が認識している以上に数多く、ひそやかに人に紛れて暮らしているという。

 妖怪の類と混同されることもあるが、彼らは実体を持っていて生物寄りだ。その辺りの説明は、学生時代の生物の授業をあまりおぼえていない唯美子には難しかった。
 ――生物でありながら、既存の生物の枠からはみ出たもの。

 いつだったか、誰かが獣《ケモノ》と呼び始めた。
 通常、遺伝子がタンパクに翻訳され肉体を構築していくはずだが、獣においてはその過程に謎のあやふやさが、柔軟性がある。なんと言っても変化ができるのだ。しかしいくら変容した彼らを調べたところで、元々属していた種の遺伝子と大した違いが見られないらしい。

 一方、生殖能力は確かに失われている。代わりに「精神力」と「生命力」を軸として、長い長い時間を生きられるそうだ。
 そんな彼らの本質が瞳に浮かびあがる瞬間を、何故か唯美子には視えるらしい――

 ――ぴーんぽーん。
 呼び鈴の間延びした電子音が、思考を中断させる。
 思っていたより到着が早い。両手いっぱいに雑誌を抱えていた唯美子は、玄関とナガメを見比べた。出てくれる? と目で訴えかけると、少年は意を汲んで出入口へ向かっていった。

 その間に雑誌を縛って隅にやった。背後では、ガチャリと扉が開く音がする。ナガメは無言で来客に応じたのか、しばらく沈黙があった。
 次いで鋭く息を呑む音が重なる。

「げっ、吉岡由梨」
「あんた!? まさか、『みずち』……! カンボジアとかに行ってたんじゃないの!」
「インドネシアな」
「どっちでもいいわ! なんでいるのよ! お義母さん――じゃなかった、ひよりさんが追い払ってくれたと思ったのに! また唯美子につきまとう気!?」

「はあ? 別においらは、ひよりに追い払われたんじゃねーし」
 いきなり険悪だ。唯美子は玄関付近を振り返った。二人の間に入って言い合いを止める決定的なひと言が放てたならよかったが、驚きの方が勝ってしまった。
 唖然となって二人を順に指さす。
「……お母さんとナガメって、知り合いだったの?」

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13:36:42 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1-3. e
2018 / 05 / 15 ( Tue )
「え? そんな怖いこと考えてないよ。ただ、あの人たちは悔い改めも償いもしないのかな、って」
 ナガメは不可解なものを見るような顔をした。子供の姿の時の表情をそっくりそのまま大人にしたようで、不思議だ。普通は、誰かが年を重ねる前後の姿を見比べる機会は写真や映像の中でしかない。

「たとえばコモドオオトカゲが人里に降りて人を喰い殺した時、その個体に悔い改めて欲しいと思うか」
「なんでそんなマニアックなたとえなの」苦笑する。「えっと、思わないかな」
「な、人を喰った動物は退治するか、遠くに追い払うかするだろ。害獣だっつって。種をまもりたいなら、不安要素は放っておけない」
 ――言われてみれば、そうだ。

「でもコモドオオトカゲとは意思疎通ができないよ」
「さっきのやつらとだって、言葉が通じても意思疎通ができるかはわからないぜ」
 それで遠くへ追い払ったのかと思えば、どこか納得できそうだった。でもこの場合は唯美子にとっての遠くであって、人里に届かないようなところではない。また犠牲者が出ることは十分に可能だ。そう漏らすと、ナガメは二匹のトンボたちを指先にのせて遊びながら、実にどうでも良さそうに答えた。

「人類のことは人類がどうにかすればいーだろ。俺がまもるのは、ゆみだけだ」
「そ、そう」
 感覚の不一致に、越えられない溝を感じる。先述の通り、言葉が通じても理解し合えるわけではないのだと思い知らされているようだ。
 けれど彼は助けてくれた。今はそれだけに、感謝すべきだろう。

「ナガメ、ありがとう。ごめんね忘れてて。十七か十八年前のことだから」
 難しいことを考えるのはやめだ。昔そうしてもらったように、今度はこちらから彼の手を握る。
 握り返してきた指は記憶の中のそれと違って骨が太く、慣れない感触だった。心臓が二、三度大きく跳ねる。
 作り物の温もり――ぬるま湯のようで、触れているとなんだか気が楽になる。
 ニヤリ、青年は片方の口角だけを吊り上げた。

「やーっと思い出したか。まあ、思い出せなかったのもたぶん、ひよりの術のせいだろーな」
「また、おばあちゃんの術――」
 タイミングを見計らかったかのように、地鳴りのような低い轟きが響いた。と言うのは大げさで、実際はただの腹の虫だったが、恥ずかしい。いいかけていた言葉を飲み込み、唯美子は耳元の髪を指先でいじった。
 歩いて帰らないかと提案する。ナガメは手を振って却下した。

「何時間かかんだよ、それ。川でも使った方が早くね」
「川を使うという発想がまずよくわからないのだけど。あ、そうか! きみ、蛇の姿にもなれるんだよね」
 そう言ってぽんと手を叩き合わせた時、何かもうひとつ大事なことを思い出しそうになったが、空腹のせいかうまく頭が回らない。

「ん。『蛇』は手の平サイズ、『蛟』だと全長十メートル。ミズチっつってもその単語が一番わかりやすいから使ってるだけで、記録の中の蛟と比べて、独自の生態があるから」
「自分のこと、生態とかいうんだね」
「生態は生態だろ。だから、蛟の姿なら川」
「待って。きみが何を言おうとしているのかわかってきた。やっぱり、タクシー呼ぼう」

 両手を突き出して制止を呼びかける。いくらナガメが一緒とはいえ、水辺や鱗はできれば触れずにいたいものだ。
 ふいに静寂があった。もしや、断ることで傷付けてしまったかと焦る。
 唯美子が少し上に目線を上げると、そこには、難しい顔をして額を押さえる青年がいた。どうしたのと問いかけると、ナガメは歯切れ悪く言った。

「いや……たくしぃってなんだっけなって。車の種類なのはおぼえてるけど。うーうー鳴るやつか?」
「タクシーは鳴らないよ。お金を払って車で快適に送り迎えしてもらうシステム……?」
 乗ればわかるから、と唯美子は思わず笑って返した。

     *

 外食は節約の敵だ。多少の空腹を我慢することになろうとも、自炊がベストの選択と言えよう。
 残り物のご飯に冷凍野菜を加えてサッと炒飯に仕立て上げ、卵でとじる。後は豆腐とワカメたっぷりのみそ汁でたんぱくを補えば事足りる。
 ごはんできたよと呼ばわりながら振り返ると、なんとちゃぶ台の前に、七歳くらいの少年がちょこんと座っていた。危うく皿を取り落しそうになる。

「いつの間に縮んだの!」
「体積を減らすへんげは四十秒でできるぜ。外皮は特殊仕様でみずにとけるから、トイレにながしとけばすむし」
「うわあ……」ドン引きだ。この話題はあまり引きずりたくなかった。唯美子は散らばってた雑誌や新聞紙をちゃぶ台の上から落として、皿を下ろす。「きみも食べるよね」
 訊くと、黒い目線がぐるんとこちらを向いた。

「きょう何曜日だ」
「金曜日だけど、それがどうしたの」
「じゃーくわなくてもいいや。小さいときは、省エネだし」
「なに言ってるの。少しでいいから食べないと」
 半ば強引に小皿とスプーンを持たせ、ついでに「いただきます」などの挨拶について教え込んでおいた。こうなってしまえば、意外に彼は素直だ。咀嚼音とテレビの音が、しばらく続いた。

「ごちそさま。しってたか、ゆみー? ヘビの舌って、ほぼ味覚がねーんだよ」
「えっ」
 この時にして、もしかしたら本日一番の驚きに出会ったかもしれない。驚く点の多い一日だったのだから、相当だ。
「なんとかソン器官のほうに、舌でひきこむんだよ」
 思わずスマホで検索した。厳密にはヤコブソン器官というらしい。

「それで『多分おいしい』なんて感想になるんだね」
 スマホから顔を上げた唯美子は、あれ、と目を瞬かせた。少年の朗らかな笑顔に、違和感をおぼえたのである。その源を特定しようとして、さんざん見つめることとなった。
 歯だ。前歯の欠けている部分が、大人の時と子供の時とで違うのだ。欠けた歯の種類も、位置も合わない。そう指摘した。

「こっちは子供の歯が抜けた穴で、あっちは大人の歯が殴られて折れたんだよ」
「うん? 脱皮して変化してるのにそういうの関係あるの」
「まあ、いいじゃねーか。細かいことは」
 あからさまにはぐらかされた。
 そして追究する間もなく、にゅっとナガメが唯美子の腕の下をくぐり、懐に入ってきた。きゃ、と反射的な悲鳴を上げる。
 腹部に小さな背中が当たっている。嫌ではないが、変な感じだ。

「ナガメは、大人の時と子供の時とでちょっと雰囲気違うね?」
「おう。ニンゲンのたいどって相手の見た目によってかわるから、こういう姿なら、あまえほーだいなんだろ」
「……なんか作為的だね」
「うけうりだけど。そーゆーもんじゃねえの」
「たぶん根っこのところではみんなそうなのかも……そんなこと考えながら生活してるのって、計算高い感じがするけど」

「ケーサン?」
 少年がぐりっと頭を後ろに傾けた。双眸に光る黄色い環は、時折現れては消える。それは「ミズチ」の非人間的な本質を象徴しているようだった。
 この子は、人間を冷静に分析していながら、さらなる一歩を踏み込む気がないのではないか。計算高いのではなく、本当に素直に、誰かに言われたことを実現しているだけに思える。

「ううん、気にしないで。それよりきみはいつまで居座る気なの」
 流れで夕食に誘ってしまったが、彼にも帰るところがあるのではないか。
「ゆみが死ぬまでかなー。だってほっとけねーし」
「……それってすごく長くない?」
 困った顔で問い返すと、ぶかぶかの服に着られている少年はニッと笑んでみせた。

「おまえもききたいこといっぱいあんだろ? ゆっくりこたえてやっから。これからめんどーな目に遭うんだしな」
「でも」
「おいらは長寿だ。不死じゃないけど、不老なの。ゆみひとりの人生に付き合ったって、何も減らないどころか暇が有り余るんだな、これが」

「わたしの生活費が……というよりきみの食費……」
「一週間に一度食えりゃたりる。そんなにかさばんねーとおもうぜ」
 安心しろ、と彼は舌を歯の間にちろちろと出し入れしてみせた。ちゃんと人間の舌の形をしていたそれは、蛇である時の動作をそのままクセにしたようなものだという。
 唯美子が思い悩んだ時間はそう長くなかった。

(可愛いから、いっか)





長くなっちゃってサーセンッ
ミズチの擬態はいい加減なとこもあって、蛇の構造を人型のまま使ってたり、人間の構造を真似ているところもあります。自分ではうまいと思っているけど微妙に化かし切れていなくて、血が出ないのは雑さの表れみたいなものです。

これにて第一章は終わりです。いざ書き終わってみるとあまり言うことがないですね… 次でお会いしましょうとしか…w

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12:33:02 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1-3. d
2018 / 05 / 07 ( Mon )
 さかのぼったのが数日分か、数週間分かは定かではない。
 ――けがしてる……。
 ひとつの思考をきっかけに、場面が断片的に再現される。
 その日も雨が降っていたが、唯美子は傘を手にしてしゃがんでいた。視線を注ぐ先は、地面でうごめく小さな生き物。

 ――あめ、しみちゃう。でもながくてうねうねしてるの、きもちわるいなあ。さわりたくないなあ。
 小さな生き物をどこかへ避難させてやりたかったが、運ぶ手段が問題だ。下敷きか何かで拾えただろうに、その時は思いつかなかった。

 触りたくないけれど、雨に降られているのがかわいそうだ。結果、傘をあげることにした。後に母に「ずぶぬれじゃない! ちょっと目を離した隙にどうやって傘をなくしたのよ!?」とひどく叱られたものだ。
 ――へびってなにたべるのかな。

 呟いても、答えはなかった。大人の手の平に収まりそうなほど小さい蛇は、弱々しく頭をもたげようとするだけだ。
 ――はやくげんきになってね。
 せめてものエールを送るつもりで、唯美子は蛇に笑顔を向けた。

     *

 建物がひしゃげてつぶれるような凄まじい破壊音の連鎖で覚醒した。
 浮遊感に、息が詰まる。寝ぼけた頭が発するそれではなく肉体全体で感じ取れる重力の欠如――つまりは落下が始まる予兆である。
 恐怖は抱かなかった。唯美子を包み込む気配が、安心をもたらすものだからだ。

(…………ナガメ)
 これが偽りの温もりだと言われても、俄かには信じがたい。自身の肩を握りしめる大きな手も、膝を支え上げる力強い腕も、作り物だとは思えなかった。あるいは真偽のほどは大して重要でないのかもしれない。信頼できると直感できるなら、それで十分だろう。
 着地の衝撃はほとんどなかった。

「先達に敬意を払えって、習わなかったのかあ? こいつの糸を引いてたのって、あんただな」
 成人男性の姿をしたナガメが、毒を含んだ声で言い放つ。
 数秒ほどの沈黙。さきほどまで喫茶店であったはずの瓦礫の下から、先にマスターが這い出て、恐縮したように深く頭を垂れた。

「まさか近くに上位個体がいたとは気付かず……礼を欠いてしまい、申し開きもありません」
「おう。わかりゃーいいんだよ」
「これからどうするおつもりですか。我々はニンゲンの法では裁けない。顔を変えることも、DNA鑑定をごまかすことだってできます」
「おとなしくどっか遠くに消えるんならどうもしないぜ。俺は別に、餌場荒らしがしたかったわけじゃねーし」

「慈悲を与えてくださり、感謝」
「はは、お前も大変だな。ニンゲンの味をおぼえた獣《ケモノ》は、大抵は餓え続ける。俺たちは確かに新鮮な内臓を喰えば生命力が跳ね上がるけど、喰った相手の思念も己の血肉に吸収されるからな。その業を消化できるほどの精神力がなければ、狂った化物と化すだけだ」
 次のひと言は、マスターの後方からゆらりと立ち上がった影に向けられていた。

「ニンゲンの思念は、重くて粘っこいだろ。案外ギリギリのとこで理性保ってんじゃねーの」
「せっかくの、すごく、うまそうな、エモノ! じゃまを――するなぁっ!」
 影は威嚇するように呼気を吐いた。察するにこれが笛吹の本性なのだろう。「これ」と会話して食事をしていたとは、なんと不気味な……。
「頭冷やせって。もっかい吹き飛ばしてほしいみたいだな」
 唯美子はただ息を呑み、悠々としているナガメにしがみついた。
 そこに、マスターが間に入って手を突き出す。

「ご心配には及びません。力ある眷属を育てたかったのですが、いつの間に勝手に食の範囲を広げて、収拾がつかなくなってしまいました。この個体はいずれ、私の方で『処理』します」
「おー、ぜったい半径百キロ以内に戻ってくんなよ」
「はい」
 二つの影は瞬時に折り重なり、突風を伴って消えていった。悔しそうな雄叫びも一緒になって遠ざかる。

 今になって振り返ると、笛吹秀明が真に経理課の先輩だったかどうかに自信が持てない。初めて会ったのがあの合コンで正しいのか、またはいつから勤めていたのかを思い出そうとしても、頭の中に靄がかかったように判然としない。

 これまでに得た情報を疲れた頭でかき集めると――彼は、彼らは、人間ではないもので。この周辺で(死体を隣の県に捨てたりして?)、人に害をなしていたのだという。
 非日常感が強すぎてなかなか理解しきれない。自分は死にそうになっていたのか。食べられるところだったのか。
 騒ぎを聞きつけた者が駆け付けるよりも早く、ナガメもあっという間にその場を後にした。サイレンの反響から離れられたところで、やっと地に下ろしてもらった。

「泣いてんのか、ゆみ。よしよし怖かったな」
「……違うの。わたしは助かったけど、助からなかった他の女の人たちがどんなに怖かったのかと思うと、ほんとにこれでよかったのかなって」
 ふと頭を撫でる手が止まった。
「報復したいって意味か?」



グロ派手人外バトルを描こうか迷いましたけど、今回は導入部でソフトスタート(唯美子にとっても)なのでおいおい行きます。書く前に抱いていた悪役像が結構あやふやだったので、書きながら勝手に進化していったのが面白かったです。

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23:46:14 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1-3. c
2018 / 05 / 03 ( Thu )
「ひどい。なんでわらうの」
「ごーめんって。ほら、やってみろよ」
 彼はもう一度両腕を広げた。加えて、目を閉じ、雨に感じ入るようにして顔を天に向ける。
 そうすることに何の意味があるのか。

(やってみればわかるかな)
 とりあえず真似をしてみた。本音では自分も、怖いという気持ちを捨てられたら楽になれるだろうなと思う――
 瞼が下りた瞬間。ぐらりと、上体を支える体幹が傾いだ。パッと目を開け、姿勢を調整する。
 一方のミズチは相変わらず瞑目して雨天を仰いでいた。しかも水を飲むように口を開けている。

 水。喉が渇いていたことを唐突に思い出して、唯美子も彼に倣う。
 舌に弾ける雨粒がくすぐったい。冷たい感触が喉の内を伝い落ちる。寒さと潤いを同時に感じて、身震いした。
 雨は飲めるのだと思い出し、心の中で、あんなに恐ろしかった自然現象がただの水になった。ただの、日常的で身近なものだ。

 ――捨てる。
 余計な思考も感情も、被った布をするりと脱ぎ捨てるように手放せた。恐怖の対象だった雨とひとつになっているのが、妙な気分だ。
 なるほど、とても開放的で、楽しい。
 うっとりした。数十秒経つと、くしゃみの衝動で我に返る。

「はっくしゅん!」
「そろそろ川を見にいくか」
「やだ、かえりたい。かぜ……かぜひいちゃうよ」
「しょうがねーな。じゃあ、つれてってやるよ」
 涙目で訴えてやると、ミズチは渋々承諾した。まるで寒さを感じていないのか、平然とあくびをしている。

「かえりみち……」
「わかるわかる。あと、おいらは夜でも見えるから」
 少年の瞳が黄色い環を描いて光っていた。妖しくて、きれいだ。黒目の部分はやはり縦に細長い。
 唯美子は、思いついたままに喋った。

「ね、おなまえないなら、メナガってどうかな。めがながいってかんじで」
「やだよかっこわりぃ。それ、なんかの虫の名前じゃねーの」
 即刻、提案が跳ね返された。めげずにまた考える。
「じゃあじゃあ、ナガメ」
「それも虫……ふーん。ナガメ、な。悪くないひびきだな。くっさい虫とおなじなのはきになるけど……わかった、ゆみだけ、呼んでいいよ」

 いしし、と少年は口角をいびつにつり上げて笑った。喜んでもらえたのが嬉しくて、唯美子は水を弾けさせながら飛び跳ねた。
 話がついたところでようやく帰路についた。

 奇妙な少年に手を引かれ、勢いの引きつつある雨の下を、二人でトコトコ歩く。道は濡れていて危ない。どうしても、暗闇を急いでかきわけることはできない。
 山は異様に静かだった。動物の音も気配も一切しないのは、みな雨宿りしているからだろうか。

 ――知らないひとについてっちゃだめよ。
 母の警告がどこかから聴こえてきた。それに対し、もう知らないひとじゃないからいいよね、とひそかに自答する。

「きみ、ほんとはなんなの」
 先導する背中に問いかけた。
「そうだな……」彼は振り返らずに答えた。ぽたぽた、との継続的な雨音に覆われて、へたすると聞き逃しそうになる。「二ホンの昔話にあるだろ、ツルのおんがえし的な? そーゆーあれだよ」

「ぜんぜんわかんない」
「まあいいじゃん。今日は、うねうねしてないからさわれるだろ」
「え?」
「おいらの『ギタイ』すげーだろ。ちゃんと、体温までまねしたんだ――」
 暗くて、振り返った横顔はよく見えない。
 薄っすらと浮かび上がる白い歯の隙間に視線が吸い付けられる。右手に絡んだナガメの手の温みを、唯美子は急に強く意識した。

     *

(……違う。初めて会ったのは、あの時じゃない)
 不安定な子供の記憶を、大人の脳の処理能力でさかのぼる。なぜか今は不自然なほどに明瞭に呼び覚ませる。
 彼は確かに擬態と言った。人の姿を、うまく真似ているのだと。ならば、ヒト型ではなかった時のミズチは果たしてどんな姿であったのか。

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23:48:01 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1-3. b
2018 / 04 / 29 ( Sun )
「ぜに……? めい、よ? なんのはなし……きみ、だれ?」
 安心というよりは困惑が勝る。けれどひとりではなくなったことに、ひそかに喜んでおいた。手を握る感触には確かに勇気づけられるものがある。
 見ると、少年は袖なしのシャツと半ズボンを着ていた。偉そうな口ぶりの割には、何の変哲もない格好をしている。金持ちの家の子、というわけではなさそうだ。

「おいらは、みずちだ」
「ミズチくんっていうの」
「んにゃ、個体名でなければ種族名でもない。数百年の生を経て龍の位階に登ったから、蛟《ミズチ》だ」
 聞いたことのない言葉が一気に並んで、唯美子は目を回した。「いかい」は異世界のことだろうか。異世界に登った龍の一族がなんとかかんとか……。

「りゅうっておそらをとぶ、あのひげのながいやつだよね。じゃなくてドラゴン?」
「空はまだとべねーなー。最低でもあと八百年かかりそう」
「とべるの!?」
 びっくりして大声になる。洞穴の中でこだまして、変な感じがした。興奮のあまり、唯美子は少年が先ほど述べた数字を聞き逃していた。

「まだだっつーの」 
「でも、とべるんだ!」
「はいはい。いつかとべるようになったら、雲の向こうに連れてってやるよ。もうともだちだし」
 少年は目を細めて笑った。
 胸の奥を突き刺す単語に、唯美子は手を引いた。知らず、目元に涙がたまる。

「……わたしといたらこわいことがいっぱいおきるんだよ。いたいことも。だからだめ。ともだちはだめ」
「はあ? 知ってるし、んなこと」
 デコピンされた。
 痛むおでこを押さえながら、近所にこんな子いたっけ、と唯美子は不思議に思った。こちらの事情を把握しているのだから、きっとそうなのだろう。

「知ってて、いってんだよ。だめとかはナシだぜ。おまえに拒否権ねーから。よし。川を見にいこーぜ」
「よるのやまはうろついちゃだめだっておとなたちがいってたよ」
「だいじょうぶだって」
「まいごになったら、たすけにきてくれないんだよ」

「ふーん、薄情なんだな。いくら夜が危険っつってもいなくなったのがガキじゃあ、捜索隊ってやつ、だすんじゃねーの」
「そうなの?」
 思いもよらなかった可能性に、しばし唯美子は言葉を失くした。ハクジョウの意味はわからないが、ソウサクタイはなんとなくわかる。

「知らんし。どうなんだよ、まわりのおとなは」
「くる……かなあ。わかんない」
「ま、どっちでもいいや。心配すんな、おいらが家に帰してやる」
「でも――」未だに及び腰の唯美子を、彼は力づくで洞穴から連れ出そうとする。膝に力を込めて抵抗を試みたが、少年の腕力には勝てなかった。「あ、雨にぬれちゃう」

 雨滴が皮膚に跳ね、服に吸い取られていく。濡れた土と草木の匂いが、むんと鼻孔に飛び込んだ。気持ち悪さと寒さに全身が強張った。
 外の世界は暗かった。完全なる暗黒が刻一刻と迫り来る予感に、竦み上がりそうになる。悪天候の山中にて確認できる僅かな熱源は、ミズチの手のみだった。
 その事実を実感した時、出会ったばかりの少年の腕にすがりついていた。

「なあ、ゆみ」
「な、なに……」
 くっつきすぎだと文句を言われるのかと思って、身構える。
 こちらを見下ろす双眸は愉快そうに光っていた。光っているように見えるのではなく、実際に黄色っぽい燐光を発している。しかも黒目の部分が細長い形で、動物みたいだった。

「ちょっとさ、うで、ひろげてみろよ。たのしいぜ」
「た、たのしくない……よ。さむ、さむいよ」
「いいから。いちど『こわい』っておもったらさ、からだぜんぶで怖がるんだ。だからその『こわい』ってきもちを手放してから帰らないと」
「てばなし……?」

「そ。こうやって、ばーん! って手をひろげて、余計なもんをすてるんだよ」
 ミズチは唯美子の拘束をするりと逃れて数歩下がり、口にした通りに、両手を思い切り広げてみせた。
 刹那、周囲が眩い光に照らされ――続いて、激しい轟音がした。

 唯美子は悲鳴を上げて顔を覆った。雷鳴がさらに数回響く。骨の髄にまで届きそうな振動だった。
 その場に成すすべなくうずくまる。次に目を開けたら雷に打たれて焼け焦げた新しい友達の姿が見えるはずだ。きっと、そうだ。

 泣いて怯える唯美子の耳は、やがて妙な音を拾った。
 ――笑い声。
 おそるおそる顔を上げる。なんと、ミズチは無傷どころか笑いの発作に身もだえているようだった。馬鹿にされているらしいことがひしひしと伝わってくる。


一次選考を通過したのがうれしかったので、拍手御礼を特別に入れ替えてます。

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08:25:12 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1-3. a
2018 / 04 / 21 ( Sat )
 かつて、雨音を怖いと思っていた。
 あの唐突さがいけなかったのだろう。いついきなり激しく窓を叩くとも知れぬ雨粒や風、気まぐれに降りる騒音が、幼い唯美子を度々震え上がらせた。
 ゆえに、雨の時に外で過ごした思い出は極めて少ない。自身が雨天での外出を頑なに拒んでいたのだ。

 そんな数少ない記憶のひとつの中に、いままさにとらわれている――
 乾いた唇に、軽く舌を滑らせた。冷えている。抱いた膝も、腕に直接触れている箇所以外は、ひどく冷たかった。ガチガチと歯を鳴らし、どうしてこんなことになったのかと、自責の念に占められる。

 ああ、そうだった。きっかけは近所の子たちだ。
 何人かが隣の家の庭で追いかけっこをしているの聞きつけ、勇気を出して、まぜてほしいと願い出たのだった。彼らは渋々ながらも「いいよ」と言ってくれた。
 最初のうちは普通に楽しかった。

 雲行きが怪しくなったのは、皆の跳び回る影が長くなり始めた頃からだ。頭上の樹から大きな枝が落ちてきたり、一見ただの芝生の上を走った子の足が穴にはまったり、ゆみを捕まえようとした子が何もないところで転んだりした。
 ひとつひとつを不幸な事故と受け取れなくもないが、そういった「不幸な事故」と異常な頻度で結び付けられるのが漆原唯美子なのだと、近所では既に評判になっていた。その時も、子供たちの雰囲気が一変するまでが早かった。

『ゆみこのまわりだけいっつもおかしいんだよな』
『あたしやっぱり、いっしょにあそびたくない!』
『もう、うちにこないでほしいんだけど。ごめんね』

 気が付けば、脱兎のごとく駆け出していた。
 ――誰も悪くない。わかっていたはずだった。
 何を言われても気にしちゃだめよと、母はいつも元気付けてくれる。自分のせいではないはずなのに、自分が人として欠陥しているように思えてきて、苦しい。

「どうしてゆみだけ……わたしだけ、いつもこうなの……どうして……」
 ぼたぼたと大粒の涙を腕に落とし、鼻水を垂れ流しながら、うわごとのように繰り返す。
 今日は、まだよかった方だ。もっと危ない目に遭ったこともあるし、もっとたくさんの人に迷惑をかけたこともある。他人と付き合っていけそうな境目を探りつつなんとか友達を作ろうとしてきたが、どうにもうまくいかない。

 七歳の唯美子には、これ以上何をどううまくやればいいのかが、わからなかった。親戚の中にも煙たがる者がいるくらいだ。
 死ぬまでひとりで遊ぶしかないのか。早くも悲観して、諦めかけている。
 自分と一緒にいるせいで誰かに傷付いてほしくなんてない。でも、ひとりは、嫌だ。

「さみしいよぉ……やだよう」
 がむしゃらに山道を走って見つけた洞穴の中――帰り方がわからずに、この上なく心細い思いをしていた。
 雨が降りしきるほどに絶望が深まる。

 外は宵闇の刻となっていた。あまり遅くなっては誰も捜しに来てくれない。夜の山に分け入るのが危険すぎるからだ。母は、お隣さんの家で遊ぶなら安心ね、と言い残して「パート」というところへ行ってしまった。唯美子がいなくなっていることに、しばらく気付かないかもしれない。

 体育座りの形にうずくまって助けを待つのみだ。喉が渇いても、お腹が空いても、我慢しなければならない。
 どれだけの間そうしていたかはわからない。涙が渇いて頬が嫌なざらつきを持ち始め、完全に夜のとばりが落ちる前だったように思う。

 にわかに気配がした。ぎょっとする。
 相当近づかれるまでに、気付かなかった。それもこれも雨音のせいで足音が聴こえなかったからに違いない。

「らっ、だ……」
 誰、と問いたかったが震えがひどく、舌を噛みそうになる。怖くてまともに呼びかけることができない。
 熊だったらどうしよう。狼でも、野犬でも嫌だ――!
「みぃつけた」「ひゃあ! たべないで、おねがいたすけて」
 上機嫌なそれと、怯えきったそれ。重なった二つの声は全く別の方向に向いたものだった。
 だが共に、紛れもなく日本語だった。咄嗟に頭を抱えていた唯美子はゆっくりと顔を上げる。

(おとこのこ……?)
 よっ、と元気いっぱいな声をかけて、雨に濡れた少年は洞穴の低い入り口をくぐった。
 同い年くらいの彼はこちらの様子をじろじろと見下ろしては、無遠慮に距離を詰めて来た。呆然としていると、強引に手を掴まれた。

「あのう、きみ、なに」
「ニンゲンはあったかいと安心するんだろ」
 少年は欠けた前歯を見せるように、にかっと笑った。
「『善意』を向けてくれたニンゲンは、おまえがふたりめだ。名誉におもえよ。ともだちになってやる。きょうは、それをいいにきた」



(たぶん)ふっかーつ。「ゴミしか出ないな」文章から「やっぱり自分が出すものは好きだ」文章に。

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08:16:34 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1-2. i +あとがき
2018 / 04 / 17 ( Tue )
(いまのセリフ……夢の)
 一歩踏み出した瞬間、遅れて既視感がやってきた。夢の中の声とミズチが発したばかりのそれが、折り重なるようにして頭の中で再生される。
 ありえない。けれどあの子を中心に、ありえないことが次々と起きているのもまた事実だった。

 再び店内に踏み出すと、気のせいだろうか、部屋の温度が少し下がっているように感じられた。寒気に身を震わせた。唯美子の着ている長袖ブラウスは、冷房をあまり強くつけない職場に合わせて薄めの生地のものを選んでいる。

「お待たせしました。そろそろ出ましょうか」
 以前よりもいくらか落ち着きを取り戻して、唯美子は挨拶をした。席に戻るなり、マスターに勘定を頼む。
「そうだね」
 笛吹は組み合わせた両手で口元を隠している。微笑んでいる、ように見えた。

 しまったと思った時には遅かった。無警戒に目を合わせたのだ。
 今度は、はっきりと何かをされた手ごたえがあった。
 視界が歪み、口を開いても舌が痺れて動かせない。テーブルに腕を置いて身体を支えようとしたが、それも遅かった。
 ゆらり、景色が反転する。
 体の右半分が地を打ったはずなのに、何も感じない。

「あの旅行の時に漆原さんは『かかりやすい』のだとわかったよ。女性全員に術をかけてみたけど、最も素直だったのはきみだ」
 靴音が近付いて来る。
 声が出ない。遠くに浮かぶマスターの輪郭に向かって、たすけて、と唯美子は唇を動かした。しかし黒のエプロンがよく似合う彼は、こちらのことなど興味がないとでもいわんばかりにカウンターで忙しなく動き回っている。
 行きつけの店。ああそうか――彼らはグルだったのか。

「今更だけど、あの質問に答えよう。好みのタイプは……内臓がほどよく柔らかそうな、それでいてコシがあるような、若々しい女性だ」
 内臓。その言葉を最近聞いた気がして、ぞっとした。どこで聞いたのか。思い出したくないけれど、思い出さねばならない……。
「きみを抱き起こした時に感じた。きっと、いい腎臓をしているだろうなと」
 怪しく光る瞳を見上げた。

 恐怖に喉が収縮する。それでなくとも、喋れない。動けない。
 髪に触れられたような気配があった。直後、男の手が離れた。それを追うように、細かい空気の振動がちょこまかと宙に踊っている。
 翅が発する激しい振動は、青いトンボと、茶のトンボのものだ。

「また虫か。強い生命力の波動がついて回っている……貴様ら、誰の眷属だ」
 笛吹が鬱陶しげに鉄紺と栗皮を払おうとするのが聴こえた。吐き捨てられた言葉の意味はわからない。ただ、二匹が護ってくれようとしているのはわかった。恐ろしさは潮引かないが、少しばかり心強い。

(四分……経ったかな……)
 気を失うこともかなわず、心を強く保つしかなかった。待つしかできないのがもどかしい。トンボたちが乱暴に床に叩き落されても、何もできない。
 それでも確信はあった。あの子はきっと、見捨てない。
 よだれを垂らした恐ろしい形相で、端正な顔の男が振り向く。
 心臓が縮み上がった。せめてもの抵抗に、睨み返す。

 ――爆音がした。
 大量の水しぶきが飛び、唯美子は反射的に瞬こうとしたが、瞼は緩慢にしか動かない。視界が濡れて滲んだ。

「なあ、ゆみ。おぼえとけよ。野郎ってのはな、例外なく餓えてるんだよ。ま、コイツが欲しがってるのは雌としてのおまえじゃなくて別のもんだろーけどさ」
 水柱の向こうから、滑らかに低い、大人の男性の声がした。またもや既視感に頭が混乱した。
「浜辺の夜から、異質な気配の残滓がしたと思えば。貴様、獲物を横取りするか」
 殺意のこもった笛吹の威嚇は、口調からしてもはや別人のもののようだ。

「横取りもなにも、ゆみはもっとずっと前から俺んだし」
 話し方が少し違うが、「ゆみ」の独特のイントネーションが一緒だ。この男性は、トイレにいた子供と間違いなく同一人物だ。
 もう驚く力も沸かなかった。
 男性は唯美子をかばうようにして仁王立ちになっている。

「ならば致し方ない。どちらかが死ぬのみだな」
「おう、いいぜ。やりあおうか。ここはこれから、俺の縄張りになるんだからな」
 二人の会話は、そこまでしか聞き取れなかった。
 唯美子の息はすっかり浅い。水に濡れて、髪が受ける微風がやたら冷たく、頭の奥がじんじんと痛む感覚が不快だ。

 ――そうか。この声、浜辺での――
 あの夜のみならず別の古い記憶の蔵が揺さぶられた。彼の言う通り、もっとずっと前に共に過ごした時の。
 何かが思い出せそうだ。



またお待たせしました<(_ _)>すみませぬ
先週はちょっと書きあぐねて(?)いたんです。自分が思い描いている物語と書き出す力が追いつかなくて、あぎゃー してました。全然抜け出せてないんですが、次の回想シーンが楽しみなので、頑張って書きます。

余談。
「おいらは」いいんだよ、「そいつは」ダメだ、の意味がわかりましたでしょうか。
同族嫌悪ってほどじゃないんですけどね。同族だからこそ警戒。

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06:19:36 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1-2. h
2018 / 04 / 10 ( Tue )
 ――そいつは、ダメだ。
 扉を閉めた後の束の間の静寂。扉に向かってうなだれた頭の中には、昨夜の警告がよみがえっていた。
(どうしよう)
 タクシーを呼んでも、到着するまでにどれくらいの時間がかかるのかは予測不能だ。逃げ場がない。

「イヤならイヤって、ガッツリいわなきゃダメだぜー」
 ついさっき脳内に浮かんだのと同じ声が耳朶を打った。びくりと、大げさなほどに両肩が跳ねた。
 なぜ。どうやって。神出鬼没そのものではないか。

「ミズチくん、ここトイレだよ! 鍵かけたけど!?」
 涙目で振り返る。洋式便器の蓋を下ろして、その上に子供が頬杖をついて腰かけている。
 今日は金魚柄の赤いTシャツにカーキ色の短パンという洋服姿だが、上下どちらもぶかぶかでまったく丈が合っていない。裾をひたすらにまくって無理やり着ているようだった。

「けっこーまえからいたし」
「……疑問が多すぎて逆に言葉が出てこない」
 深いため息をついて、ゆみこはその場にしゃがみこんだ。
 目線が低くなった途端、少年の脛辺りに五センチほどの切り傷をみつけた。その傷どうしたのと訊くと、忍び込んだときにやったんだろ、と彼はなんでもなさそうに答える。
 かなり深く切れているのに血が出ていない。そう指摘してやると、ミズチは楽しげに傷口を広げてみせた。

「この姿のときはえぐってもめくってもなにも出ねーぜ」
「きゃあ!」
 咄嗟に目をそらした。たとえ血が出ていなくとも、皮膚下の様子は生々しくていけない。くらっとした。抉っても捲っても、と彼は言ったのだろうか。

「そんなことよりさー。たすけてやろうか。おまえが望むなら、だけど」
「……やっぱりあの人、なにかが変なんだね」
「さっすが、ゆみにはわかったか」
「だって目が光ったし、死人みたいに冷たいし。怖いのに、怖がってたことがすぐどうでもよくなっちゃうの。さっきも栗皮ちゃんが来なかったら、ぼーっとしたままだった……」

「じょうできじょうでき。むかしよりも危険察知能力が発達してて、なによりだ。これにこりたらもうへんなやつについてくなよ」
 まるで子供にするように、子供に頭を撫でられた。不思議と、嫌な感じはしない。
 思い切って訊いてみた。
「きみにあの人をどうにかできるの」

「できる」不敵な笑みと、妙に説得力を感じるひと言だ。「おまえは四分ちょい、じかんをかせげ」
 唯美子はしゃがんだままでうなずいた。何ゆえ四分なのかとか具体的に何をするつもりなのかとか、疑問がなくなったわけではないが、彼の言葉を信じてみようと思った。

「ねえ、どうして助けてくれるの」
「ゆみが望んだから」
「なんでわたしが望めば、助けてくれるの……?」
「ないしょ。ゆみがじぶんでおもいだすまでは、おしえねーよ」
 そう言って、ミズチはデコピンしてきた。予想外に痛い。

「……きみの瞳も光るのに、なんでかな。こわくないよ」
「んー? そうかあ? こわがってくれてもいいぜ」
 少年は屈託なく笑った。欠けた歯が惜しげなくあらわれる。
「そんなにかわいく言われたら、ますますむりかな」
「じゃあ役得ってやつだ」
「なにそれ」
 ミズチが「えへへ」と笑うのでつられて笑い返す。
 唯美子は膝に両手を当てて、立ち上がった。

「あの、めんどうかけて、ごめんなさい」
「いーってことよ。おいらが、ゆみをまもるから」
 小さな体のどこにこれほどの力があるのか、力いっぱい背中を叩かれて、唯美子はたたらを踏んだ。


お待たせいたしました。誕生日に親が遊びに来たのであちこち行って遊んでました(
そんな属性をつけたつもりはなかったんですが、どうやらミズチは変な柄のシャツが好きなようです。

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05:41:27 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1-2. g
2018 / 04 / 04 ( Wed )
「そこまで言うなら、わたしもまずブラックで味わってみます」
 セラミック製の小型の水差しを手放し、マグカップを両手で持ち上げる。
 黒い液体は顔に近付けるにつれて芳香さを増してゆく。しばしためらっていると、鼻先が湯気で湿気った。

「無理することないんだよ」
 返答の代わりに唯美子はひと口飲んでみた。
 苦い。知れたことだが、混じり気のないコーヒーは苦い――落胆して顔をしかめたところで、思わぬ甘やかな後味が舌を撫でた。もう一度口を付けてみる。もっと多く飲み込んでみると、今度は苦さのインパクトと一緒に、別の味が舌を打った。

「フルーツっぽい……?」
「チョコレート・ラズベリーだって。味付きのコーヒーは僕はそんなに好きじゃないけど、女性には人気らしいね。どう、いける?」
「はい、これなら何も加えなくても飲めそうです。フルーティと言っても甘いだけじゃなくて酸っぱいようなコクがあるような」
「気に入ってもらえてよかった」
「笛吹さんのは違うんですか」

「スマトラブレンドだよ。飲んでみるかい」
 差し出されたマグカップを、間接キスにならないように、さりげなく回してから口に触れさせる。
 結論から言って強烈な味だった。ついでに変な匂いがする。口元を震わせながら、カップを返した。

「わたしには早すぎたみたいです」
「あはは、気にしないで。口直しにケーキを食べるといいよ」
「そうさせていただきます」
 イチゴがのったチーズケーキを堪能する傍ら、他愛のない話をいくつか交わした。お盆の予定はあるのか、海で日焼けをしたのか、ペットは飼っているか、などと。

 車内と比べるといくらか自然に、リラックスして会話ができた。
 笛吹は動物に嫌われる体質らしく、道行く野良猫にもれなく襲われるのだという話をした時は、お互いに声に出して笑ったほどだ。
 次第に、マグカップの底が見えてきた。壁にかけられたアナログ時計を瞥見し、既に店に入ってから三十分が経っていることを知る。お開きにするべきかもう一杯頼もうか、唯美子は迷った。もう少し話していたい気もするし、やはりそれはやめた方がいい気もする。
 ふいに、目が合った。

(この人も一瞬、光って……?)
 黒い瞳の奥に、炎のような激しさを見た気がした。それは決してありきたりの光景ではないはずなのに、視線を交えていると、脳の芯が溶けるようで何も考えられなくなる。
 すべてが些事だ。陶酔感が、胸に広がってゆく。

「きっかけは不穏だったけど、こうして二人で会う機会ができてうれしいよ。きみとは気が合いそうな気がしていたんだ」
 そんなことを言われたのは初めてだった。何と返したらいいかわからない。
「この後、食事に誘ってもいいかな。イタリアンなんてどう」
 意図せず点頭しかける。

 了承し終える前に、邪魔が入った。茶色の翅をしたトンボが弧を描いて飛び過ぎ、唯美子の手の甲に停まったのである。
 昆虫の足が触れたくすぐったい感触に、我に返った。どもりながらも声を出す。

「う、いえ、今日この後はちょっと都合が悪くて。すみません」
 金曜で明日は仕事も休みだ、都合が悪いという断り方は、無理があるかもしれない。
 けれども、いくら話が弾んできたと言っても、食事のムードはまだ無理だった。むしろどうして「はい」のひと言を舌が発しそうになったのかがわからない。どうかしている。
「その虫――」
 トンボと笛吹が睨み合っていた。心なしか、男性の形のいい切れ長の双眸が、強い感情に歪んでいる。敵意だ。

(栗皮ちゃん?)
 ふと唯美子は、店内が未だにガランと空いていることを意識した。
 嫌な予感がする。
「すみません、お手洗いに行ってきます」
 相手の反応を待たずに、バッグを鷲掴みにして席を立った。

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01:06:45 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1-2. f
2018 / 04 / 01 ( Sun )
(都会の電車なんて三分ごとに停まったりして、効率が悪そう)
 会話と関係ない思考がよぎったのは、落ち着かなさゆえだろう。
「へえ、ひとり暮らしなの」
「そうです。笛吹さんは?」
 質問されてばかりなのが気になり、唯美子は訊き返してみた。

「僕は会社から車で十五分、山の上に一戸建てを持ってるよ」
 滑らかに車を左折させながら、彼はさらっと答える。
「すごいですね」
「そうかな」
 二十代後半という若さで家を買ったのか。唯美子は驚嘆した。もしかして何かタネがあるのかもしれない。自称した年齢よりもずっと年上だとか、親族から相続したとか……。

 あれこれ考えているうちに目的地に着いてしまった。シートベルトを外してバッグを肩にかけて、車から出るのにもたついていると、颯爽と助手席側に現れた笛吹がドアを開けてくれた。
 差し伸べられた手を取るべきか、逡巡する。紳士的行動を、親切を拒否しては相手を傷つけかねない――そう結論を定めて、やがて唯美子は手を取った。

 真夏だというのに笛吹の手の平は氷水のようにひんやりとしていた。漠然と抱いていた不安を、より一層と深めるような冷たさである。
 地面に降り立ったが早く、手を放した。

(あからさますぎたかな)
 内心では冷や汗をかいたものだが、当人は気を悪くした風でもなく、朗らかに「ここのコーヒーとチーズケーキは格別に美味しいんだよ」と言って先導している。しかも明らかに足の長さが違うのに、こちらの歩調に合わせてくれた。
 困惑気味に後ろに続いた。

 ――この人はこんなにやさしくしてくれているのに、どうして自分はその所作に、いちいちうがった見方をしてしまうのだろう。
 唯美子は小さく首をひねった。異性に対して警戒心が強い方なのは自覚しているが、体温までをも深読みするのはさすがにおかしい。

 ――カランカラン
 入口にかかった鐘が立てた小気味いい音が、思考を中断させる。
「漆原さん、注文は僕が決めてもいいかい」
「はい、お任せします」
「お菓子とかは?」
「えっと……それもお任せで。わたし、食べられないものはないと思います。なんなら、さっき言ってたチーズケーキでも」

「わかった」
 それから笛吹は、マスターと親しげな挨拶を交わした。
「挽きたては何があるんだい」
「そうですね、本日は――」
 二人は呪文のような固有名称を応酬した。おそらくは、豆の種類について話しているのだろう。大体インスタントで済ませてしまう唯美子には、どこの秘境やらどこの国の高山やらからとった豆の違いはわからない。

 手持ち無沙汰なので、店内を見回すことにした。
 六席のバーカウンターに、四角いテーブル席が八組、ブース席はなし。赤茶や黒を組み合わせたシックな内装で、照明も淡くムーディーな黄金色を使っている。ローストコーヒー特有の香ばしさが空気中に漂っていて心地良い。ジャズだろうか、ゆったりとしたサックスやピアノがスピーカーから流れている。

 雰囲気はとてもいい。ざわついていた心が少しはまともに戻れそうだった。気がかりなのは、他に客がいないことだけだ。
 テーブル席に腰かけて注文が届くのを待つ間も、そこに意識を向けずにいられない。隣の空いた席にハンドバッグを下ろし、笛吹と向かい合って座った。

「貸し切り状態ですね」
「夕食の時間帯は、客足が遠のくものかな。ゆっくり話せるから、ちょうどいいんじゃない」
 そう返されては微笑むしかなかった。
 豆がゴリゴリと挽かれていく音が、穏やかな店内に響く。僅かばかり続いた、唯一の不協和音だった。

 壮年の男性マスターが、大きめのマグカップ二つと皿に盛った可愛らしいチーズケーキを持ってきた。ごゆっくりどうぞ、と目を細めて笑ったのに対し、ありがとうございます、と答える。
 唯美子はミルクの入った小さな水差しを手に取ったが、笛吹がマグカップをそのまま口に近付けたのに気づいて、ふと口に出した。

「笛吹さんはブラックで飲む派なんですね」
「まずは純粋に味わわないと、失礼だからね。コーヒー豆そのものにはもちろん、その豆を育てた人や焙煎した人、挽いては淹れてくれた人にも……あ、これはあくまで僕の美学であって、きみがどんな飲み方をしたっていいんだけど」
 こちらの手が止まったのを見て、彼はそう付け足した。

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22:35:43 | 小説 | コメント(0) | page top↑
1-2. e
2018 / 03 / 29 ( Thu )
 唯美子は某表計算ソフトとにらめっこをしながら、昨夜「ごちそうさま」と言ってもらえなかったことに対して、時間差でショックを受けていた。
(きっとあの子の国にその習慣がないだけだよね)

 過ぎたことを気にしてどうするのかという話だが、なんとなく、もう一度会いそうな気がしていた。二度あることは三度ある。次会ったら教えてやろう、そう心に決めた。
 計算式の最終チェックやメール返信を済ませるうち、背後から足音が近寄ってくることに気付いた。振り返らずに己の作業を進めていると、その者が話しかけてきた。

「漆原さん、そろそろあがれそう?」
 肩越しに爽やかな声が届いた。経理課の笛吹秀明である。
 社に残っている周りの人間――主に山本女史や田嶋女史といった彼に興味を抱いている女性――の注目を浴びてしまわないかと内心ヒヤッとしつつも、振り向きざまに返事をする。

「はい、あと少し」
 定時を過ぎてまだ数分といったところだが、今日はこの通り約束がある。そのつもりで仕事をさばいてきたし、幸いと残業の必要もない。
「じゃあ僕は下で待ってるよ」
 そう言って、長身の男性は踵を返した。

「あの人気者とデートだなんて、どうやったの」
 唯美子がパソコンの前から立ち上がるのを見計らって、隣の席から年配の女性がオフィスチェアを転がしてきた。内緒話をするみたいに手の甲を口元に添えて。
「誤解ですよ。この前助けてもらいまして、お礼にコーヒーをおごらせていただくだけです」
「お礼にコーヒーねえ? 後学のためにおぼえておくわ」

「だからそんなんじゃ……」
 困ったように唯美子は笑った。こういう時、もっとうまく返せたらいいのにと常々思う。恋愛方面にからかわれるのはどうも苦手だ。
 お先に失礼しますと挨拶だけして、逃げるようにその場を後にした。


「お待たせしました」
「お疲れ。さっそく行こうか」
 こちらの姿を認めて、笛吹はスマホをコートのポケットにしまった。入れ替わりに同ポケットから車の鍵を取り出している。

「運転するんですか?」
 驚きを隠せずに訊ねる。行き先は余裕で徒歩圏内のはずだった。
「ああ、駅前のチェーン店もいいけど、僕の行きつけの店を紹介しようと思って」
「そうですか……」
 不安そうな表情を浮かべたかもしれない。後退りそうになるのを、なんとかこらえる。

「味は保証するよ。ごめん、さっき思い付いたもので。駅前の方がいいなら無理にとは言わないけど」
「あ、だ、大丈夫です。笛吹さんのおススメの方に行きましょう」
 唯美子は慌てて取り繕った。
「ありがとう。車を回してくるから、ここで待ってて」
 はい、と短く返事をする。
 イケメンが高そうな靴を鳴らしながら駐車場へ向かった様は優雅そのもので、他意は感じられない。

(なのに、この落ち着かなさは何だろう)
 よく知らない男性の車に乗り込むのに、抵抗をおぼえるのは当然だ。だが一度は承諾してしまった以上、途中で「やっぱり気が変わった」と言い出すのは気が引ける。
 ヘッドライトの光が近付く間に最後の迷いを振り払った。観念して、助手席に滑り込む。
 密閉空間で成人男性と二人きり――会話はかろうじて続いたけれど、少しでも沈黙すると、息苦しさを感じた。窓を開けても、代わりに入る空気は夏の夜の淀みに満ちている。

「漆原さんは会社から近いとこに住んでる?」
「近いと言うほどでも……二つ先の駅です」
 ただし、田舎でいう「駅二つ」はそれなりの距離である。

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