はじめに読んでください
2030 / 12 / 17 ( Tue ) こんにちは。はじめまして。
甲(きのえ)といいます。 少しでも楽しんでいただけると幸いです。 現在連載中:ゆみとミズチ 完結:聖女ミスリア巡礼紀行、きみの黒土に沃ぐ赤 「目次」カテゴリからそれぞれの作品の目次ページに飛べます。 ******* 代表作(?)「聖女ミスリア巡礼紀行」について。 アクションやら化け物やら組織やらいろいろ出ますが、元は単なる「旅する男女」を書きたくて練った話です。なお、多少の残虐非道な行為・発言または性的描写は含むかもしれませんので、15歳未満の方は閲覧を遠慮してください。 作品内に主張される信念や思想は私の脳から出たものであってもすべてを私が支持しているわけではありません。あくまでフィクションです。 ******* 初めていらっしゃるお客様はまず本編は長いので最初はブログよりも投稿サイト(小説家になろう、カクヨムでも同タイトル同名義で掲載しています)で見た方が読みやすいと思います。ブログで読む方は下の目次記事へどうぞ。 どの記事も大体5分以内で読めるでしょう。 感想はコメント・拍手でも何でもどんと来いです お待ちしてます(・∀・) ではよろしくお願いします! ←検索サイト・ランキングに参加してます。よかったら押してください |
聖女ミスリア巡礼紀行 目次
2030 / 12 / 17 ( Tue ) 混沌に満ちた架空の大陸を舞台にした長編ダーク・ハイファンタジーです。
[読み返しガイド]
おまけ・番外編
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ゆみとミズチ
2029 / 02 / 15 ( Thu ) タイトルからおわかりかと思いますが、爬虫類要素を含みます。 苦手な方はごめんなさい。 「なくなよ。おいらが、ゆみをまもるから」 どこかで聞いたようなベタな約束を果たしに来たのは、自らを「みずち」だと言い張る謎の少年。 「きみはいつまで居座る気なの」 「ゆみが死ぬまでかなー。だってほっとけねーし」 「……それって、すごく長くない?」 どこにでもいそうな独身OLと、人間の姿かたちを真似た化け物の、【非】日常ファンタジー……? 第一章:みずちという子
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きみの黒土に沃ぐ赤
2029 / 02 / 13 ( Tue ) (きみのくろつちにそそぐあか)
あとがき 今夜、夫となる男と初めて顔を合わせる。 明後日、結婚式を挙げる。 そのはずだったが、物事は予定通りに進まず―― 波乱に立ち向かうか、安寧に逃げ戻るか。 選択の刻が迫る。 零、きみと求める自由 a b 一、ラピスマトリクスの涙 a b c d e f 二、咲かせる花 a b c d e f g h 三、危険な夜 a b c d e f g h i j 四、予定がない午前 a b c d e f g h 五、約束をつなぐ午後 a b c d e f 五と六の合間 abc 六、決断を迫られ ab c d e f g 七、善意のかがやき a b c d e f g h 八、整理と采配 a b c d e f g h 九、とんぼ返り a b c d e f g 十、渦に呑まれるなかれ a b c d e f g h i j k l m 終、きみと駆けはしる行方 a b c d e f 人物紹介 【これは聖女ミスリア巡礼紀行と世界観が繋がってますが、独立して読める恋愛ファンタジーです。流血沙汰や狂気、死などのダーク要素が出ますので苦手な方はご注意ください】 |
しるべの約束
2028 / 12 / 17 ( Sun ) |
5. d.
2026 / 02 / 02 ( Mon ) それが本屋の外で丸眼鏡をかけた大柄の男性と話し込んでいる様子だった。相手の人は五十代だろうか、髪と髭は白の割合が多いが、タバコを片手に快活そうに笑っている。 (知り合いかな。この町に住んでるんだから誰かと鉢合っても不思議じゃないか) 店を出た後、話の邪魔をしないようにそっと近寄る。 「リクター、お前も一本どうだ」 「両手塞がってるんでやめときます。それに往来で歩きタバコはさすがに……」 「なにっ。そうか、受動喫煙がどうのこうので迷惑がられてしまうな」 男性は懐から携帯灰皿を取り出し、火を消した。 「キャシーが昨日、家の前に着くなり外の排水溝で元気に吐いたらしいぞ。いやあ、タクシーの運転手にご迷惑をかけなくてよかった」 「あんたがアホみたいに飲ませたせいでしょうが」 それに対して相手はガハハと大笑いした。リクターの対応はそっけないが、仲が悪いわけではなさそうだ。 「許せ! 今日が休みになったんだしなあ、誘いたくもなるさ。いつもバラバラに行動してるお前らの、珍しく足並みが揃ったんだ。はしゃいじまったなあ」 「誘われたって二度と行きませんよ」 「そう言うなそう言うな! ......ところで、お前の後ろの可愛いお嬢さんはどなた様だ? 妹はいなかっただろうに、どういう関係だ?」 二人が話している間に近付き過ぎてしまったシェリーが、ついに言及された。リクターは肩から少し振り返り、また正面を向き直ると、やはりそっけなく男性に応じた。 「詮索はマナー違反ですよ」 「はっはっは! これは失礼した。残念だが、紹介してくれるまで待つさ」 大柄の男性はリクターの肩を一度ぽんと叩いてから、屈んでシェリーに耳打ちしてきた。 「難儀な奴だけど、仲良くしてやってくれ」 返事を待たずに男性は手を振り、颯爽と人の流れの中に消えていった。 ――友を、或いは子を、想うような波動を感じた。 再び歩き出してしばらくして、シェリーは口火を切った。 「さっきのは一緒にお仕事してる人?」 「チームリーダー、取材班の責任者ってとこ。数年前、この近くで大規模なデモ活動があっただろ。そん時居合わせたから野次馬精神で俯瞰して写真撮ってたら、その写真売ってくれってあいつに声かけられたのが始まり」 「へえ、そんなことが」 偶然の連鎖で就いたと言っていたのは、こういう意味だったのか。聞くところによると、世論に触れたり社会問題を掘り下げるスタイルの週刊紙らしい。 「でもそれだと、危ない目に遭ったりしない?」 「たまーにな」 やたらと間延びした返事からは、はぐらかそうとする意図を感じた。かといってシェリーには、問い詰めることもできない。 「昨日の女の人も仕事仲間だったんだね」 「そ」 「仲いいんだね……泊めるくらいには」 つい、ぽろりとこぼしてしまった。「詮索はマナー違反」の言葉が脳内に浮かんでいる。今自分はどんな声で言ったのだろうか、どんな顔をしているのか。わからないが、リクターはこちらを振り返らずに歩いているので、たとえ醜い表情だったとしても、見られていない。 長い間があった。 「その話、今必要か?」 「…………ごめん」 必要ではない。 ないけれど、話を強制終了させられて、どうしようもなく胸が苦しかった。 洗濯物を乾燥機に移してから、食事の準備に取り掛かった。昼食までに完成させて、晩御飯に再加熱して食べる心積もりである。 いざ調理を始めると、リクターが肉を角にする作業を申し出てくれた。少し気まずい空気のまま――こちらが一方的にそう感じている気もする――並んで台所に立つ。 シェリーは換気扇をつけ、たまねぎやニンニクを切ったり炒めるなどした。一度、まな板を盗み見た。 |
5. c.
2026 / 01 / 31 ( Sat ) 「両方買って、白は別の日に飲めば解決だな」
リクターが酒売り場にとんぼ返りした。 ――また彼は、未来の話をする。 嬉しさと苦しさに眩暈がした。再び繋がれたこの縁は、本当に続いていいものなのか。期待しても、いいのだろうか。また別々の生活に戻る時が来ても、消えない何かが残るのだと――。 「そんでおまえは何をつくる気なんだ」 ワイン瓶を増やして戻ってきた男が、買い物籠の中のチャックローストを指さした。 「トマトビーフシチューだよ。牛肉三ポンド買ったら半分は後日、ビーフストロガノフにしてもいいかも。牛肉、好きだよね?」 根拠は安直、ビーフジャーキーをかじっていたからである。 「肉も魚もピザも麺類も、作ってくれんなら何でも食う」 「それは作り甲斐ありそう」 楽しくなってきた。こころなしか軽い足取りで、レジに向かっていく。 買い物袋は全部で三つになったので、シェリーが一袋、リクターが二袋持つ運びとなった。 スーパーマーケットを出ると、ここ数日に比べて、気温が妙に高く感じられた。これは天候が崩れる前にたまに見られる現象で、よほどの吹雪が来ることを予感させる。曇天が不穏な空気を漂わせている。 袋が手のひらに食い込んで痛くないのかとか重くないのかと横の男に質問すると、平気、と応答があった。 「考えが及ばなかったな。車出せばよかった」 「アレクス、車持ってるの」 「一応。大体の用事は徒歩かバスでどうにかなるけど、仕事で使うから」 面白味のないボロい中古車だと彼は言い張った。 「そうなんだ」 「おまえは持ってねえの」 「免許はあるんだけどね。場所の良いアパートだから、仕事もプライベートも困らない。車が要る時はレンタカー、それかカーシェアサービス使ってる」 シェリーが住む区域はこの町よりも都市部な、首都の中心にある。建物が密集していて駐車スペースが限られているので、個人や家庭で車を所持・維持する方が大変なまである。 「ふうん。そりゃ車で来てたら最初の晩にどこ停めていいか訊いてきたはずだよな」 ひとりでに納得したように、男はボソリと呟いた。 それから数分歩くと、アパレルショップの前で、ふいにシェリーは足を止めた。店頭のマネキンが目に入ったのである。暗い赤紫色のブラウスが、今着ている借り物のセーターを思い出させたからだ。 生前、母は大人っぽくて派手(彼女曰く『セクシー』)な服を着させてくれなかった。大学生の時に自腹で買ったジーンズはかろうじて許してくれたが、総じて「清楚」と評される衣服しか、シェリーは持っていない。 母がどう思うのか気にする必要はもうないのだ。 大胆なネックラインのシャツもミニスカートもビキニも、本当は興味ある。このマネキンのスカートも、花柄のプリントがとても綺麗だ。 「あー……見てくれば」 リクターは、黒い手袋をはめた手を差し出してきた。手持ちのビニール袋を渡せとの合図だ。 「え、食材をこのままにできないよ。特に生肉」 「数分程度で腐りゃしねえって、真冬に。ほらよこせ」 「わ、私、今服を買うつもりじゃ」 「買わなくても、見るくらいはいいんじゃねえの。通販するにしても今後どういうのが欲しいか、イメージしやすくなる」 そう言われては、シェリーは断れなくなった。 遠慮がちにショップの冷たいドアハンドルを引いて、一人で中に入る。ちりりんと可愛い鈴の音がした。恰幅の良い女性店長が明るく迎え入れてくれる。 「いらっしゃい、今日はどんなものをお探しで?」 「あ、いえ。少し見て回りたいだけで、これといって目的の物は無いです」 「そうですか、構いませんよ! あちらの壁際の商品は全種二割引きで――」 店長の話を聞き流しながら、シェリーは軽く店内を見て回った。素敵な服は多々あれど、なんだか気恥ずかしくなって、どれも手に取れなかった。試着するのも手間だ。 アクセサリーの棚に目を引かれ、腕輪を買うことにした。 会計を済ませ、あの男はどうしているだろうかと姿を求めて、ガラス窓の外を見やる。 |
5. b.
2026 / 01 / 29 ( Thu ) 「すごい溜めるんだね」
重くてシェリーでは持ち上げられないので、察したリクターが適当に衣類の山を崩して軽減してから籠を廊下に運び出してくれた。 「一人暮らしなんて二週間に一度洗濯機まわせば十分」 「……臭ったりしない?」 「まあそれなりには。カビ生えなきゃなんでもいいだろ、最終的に洗いさえすれば」 男は悪びれずに答える。シェリーは苦笑して、壁の棚から洗剤を取った。 確かに、シミでも残らない限りはなんでもいいのかもしれない。市販の洗剤は強力で、大抵の汚れは数日後でも洗い落とせる。部屋の隅が多少の悪臭を放っていても、生活に支障はない。 「そっか、細かいことを気にしすぎないのは、肩の力を抜いて生きるための知恵なんだ」 「勝手に良い話風にまとめてるけど、面倒臭がってるだけだからな」 「わかってるよ。でも、私もたまには見習うことにする」 ドサドサと洗濯機の中に落とされる衣服を眺めながら、シェリーは微笑んだ。手を伸ばして、洗濯物の一枚一枚の間に良い感じの隙間ができるように調整する。こんな些細な日常の作業に癒やされるのもおかしな話だ。 洗剤を入れて、サイクル設定をいじって、後はスタートボタンに人差し指を伸ばして―― ――カシャ。 横から小気味の良い音がしたのと同時に眩い光があった。 驚いた拍子にボタンを押す。古い洗濯機はたちまち、けたたましい音を立てた。 「と、撮ったの、今。え、なんでこのタイミングで」 インスタントカメラのレンズに向かって問い詰める形となってしまった。目線の高さにあったのがそれだったからだ。持ち主の返答を追うように、手から腕へ、腕から肩へ、そしてその先へとシェリーは視線をなぞらせた。 「いい被写体がいたから」 「被写体の許可なしに撮らないで」 「以後、気を付ける」 アレクス・リクターはそう言って少年のように笑ったので、シェリーはそれ以上怒ることはできなかった。 むず痒い。 言葉にならない気持ちを誤魔化すようにして、顔を逸らした。 「ともかく。写真コレクション、ちゃんと見たいな」 「あー、後でな。買い出し優先」 「ん。もちろん支度するよ。でも後で見せてね、約束だからね」 「わーかったって」 今度こそコーヒーを淹れに、リクターが台所に向かっていった。すぐに背を向けられたので、どんな顔をしていたかはわからない。 * いつもながら、角切り肉は値が張る。 かたまりで買って自分で切った方が安上がりだ。 どうせ時間はあるのだから、手間をかけてしまえばいい。 (鶏がらスープの素もあった方がいいよね) たまねぎ、トマト、ニンジンが欲しい。合わせる炭水化物は米でも麦でもいいし、オルゾもいいかもしれない。買い物かごにどんどん食材が並んでいく。 スーパーは平日の朝に関わらず人が多かった。皆、おそらく同じ考えなのだ。 腕にかかっていた重みが、ふいに消えた。 「重いだろ」 これくらい持てるよ、と返そうとして、シェリーはやめた。男の手にあったガラス瓶が目に入ったからだ。白ワインが好きだと先日言ってしまったから、わざわざ探してきてくれたのだろうか。 「リースリング? 牛肉に合うのって赤ワインじゃなかったっけ」 「なに、そういうのこだわる方」 「……変かな」 思わず俯いた。 こだわっているのではない、受け売りだ。食事と酒の相性に詳しかったのは母だった。そんなことを思い出しては寂しくなり、都度落ち込む。 |
5. a.
2026 / 01 / 28 ( Wed ) 他人のベッドで寝起きするなんて絶対に落ち着かないはずだったのに、思いのほか安眠できた。シェリーに自覚はなくても、身体はより良い寝床を求めていたようだ。 ただひとつ気がかりなことがあって、四角い天井を見上げながらモヤモヤと考え事をした。 ――タクシーに一緒に乗っていたあの女性は―― 誰なのか聞けずじまいだ。リクターに『泊めて』と何事もなさそうにねだっていたし、『前は泊めてくれた』とも言った。少なくとも、最初の日にあんなに逡巡して泊めてとお願いした自分よりかは親しそうな間柄である。 (ぞんざいに扱ってたのも親しさの表れだったら……) 思い詰めすぎて泣き出しそうで、情けない。どうしてこんなに気になるんだろう。彼がどこで誰と何をしていようが、口出しできる間柄ではないのに。 上体を起こし、気を紛らせようと、ベッドの上に散らばる衣服を眺めた。脱ぎ捨てられた服、そこから連想して色々なことが脳裏を駆け走った。 木製の扉がコンコンと叩かれる音で、ハッとした。 顔を上げると、入口に寄りかかった長身の男が目に入った。黒いタートルネックのセーターを着て、髪も普段通りに首の後ろで結んでいる。 そういえばシェリーはなんとなく扉を閉めずに寝たのだった。 「おはよう。自分の部屋なのにノックしたの?」 「自分の部屋でも他人が使ってたらそりゃノックするわ」 ごもっともな話である。どうしたの、と訊く。 「コーヒー淹れるとこ。飲むか」 「うん、お願い」 「わかった。……って、なんだよ」 じっと見つめてしまったらしい。男は眉を吊り上げて問うた。 「そのセーター、いいね。かっこいい」 素直にそう感じた。一昨日も確か似たようなものを着ていた。背の高い人の着るニットは様になるものだと、しみじみ思った。 「ああ、似たようなのが色違いであと五枚はある。おまえも着るか」 言いつつ男は部屋に入って、クローゼットを開けている。 「え」 そういう意味で『いいね』と言ったわけではないのだが、思えば着る物が減ってきているので、有難い申し出かもしれない。 暗い赤紫色のセーターを手渡された。伸縮するタイプの編み模様で、案外サイズが違うのもどうにかなりそうだ。 「男の人もこういう色を身に着けるんだね」 感心しながら受け取り、ベッドから下りる。足の裏に触れるカーペットの感触は、少し冷たい。パジャマが厚めの生地で助かった。 「別にオレの好みじゃねえよ。マルチパック買ったら入ってただけ」 ――色違いで何枚も持っているわけだ。 「マルチパックお得だもんね……ちなみに好みの色は?」 「あんま考えたことねえな。緑か黒?」 なるほど、それっぽい。 「あのね。そろそろ洗濯しても、いいかな」 「廊下のトイレの横のスペースに洗濯機と乾燥機があるだろ。遠慮すんな」 「ありがとう」部屋の隅にある洗濯籠に視線を投げた。積み上がった服が籠の外に溢れている。「あなたも洗濯しなきゃならないなら、ついでに……まぜても、いいかな……」 「オレはそんな神経質に見えるか」 「見えない、けど」 「おう。おまえの方こそ気にならないなら、まとめて突っ込んどけば。むしろ助かる」 「わかった」 気にならないわけがなかった。男女の下着を一緒くたにして洗濯をした経験は、父がまだ家に居た頃の遠い記憶の彼方だ。折り畳むのは更にハードルが高い。 けれど世話になっている身でこの程度のことに足踏みしていては、かっこ悪い気がした。 |
4. g.
2026 / 01 / 23 ( Fri ) 「違うよ」
返答を噛み締めているような神妙そうな間があった。その間、掴まれた指先が弄ばれているので、なんともいえない気分になる。 「そうだとしても、オレは無闇におまえを傷つけたいわけじゃ、ない」 ぎゅっと手を握られた。 それに対して、全身がざわついた。 (どうして後になって……私が痛がってたから……?) 鋭い彼のことだ、こちらが初めてだったのも察して、気を遣っているのかもしれない。 背後からはもちろん男の表情は見えない。感情を抑えているような静かな物言いに、シェリーもまた静かに伝えた。 「わかってるよ」 手を握り返した。 ああいうことがあった後でも、触れることに抵抗を感じなかった。未知の行為への恐れは終始あっても、この人は怖くなかった。 ――わかっている。言動と行動の奥からにじみ出る思いやりを、しみじみ感じている。あなたが負い目を感じる理由なんて、どこにもない。 あの、とシェリーは別の話を切り出した。 「お名前、アレクスって言うの」 繋がれていた手がぴくりとみじろぎした。 「…………郵便物にはラストネームしか載ってないはず」 「タクシーに乗ってた女の人が呼んでたから」 「あんのクソ女」 「今も自分の名前が嫌いなの?」 「嫌いだよ」 「どうして? いい名前だと思うよ」 「ありふれててつまんねえからだよ。アレクス・リクターなんてこの町だけでもあと三人くらいは居そうだろ。もっと独創性のある名前に変えようって思っても、手続きがややこしいし」 「それを言ったらシェリー・ハリスだってあと三人は居そうだよ。人口が多いんだからしょうがないよ」 そりゃそうだ、と欠伸まじりにリクターが相槌を打った。 (うーん。同姓同名が何人居たって、私が会いたいアレクス・リクターはあなただけなのに) 恥ずかしいので、そうとは言い出せず、シェリーは手を放した。意味もなくタオルを折り畳んでみたりする。 「明日お休みになったって話も聞こえたけど」 「あー、なんか昼頃に嵐で大雪が来るらしいぞ。念のため会社閉めるってさ」 「え、そうなの」天気予報をチェックする習慣があったはずなのに、ここ数日が普通と違ったせいですっかり忘れていた。「それは困る」 「何でだよ。出かけるつもりだったのか」 「大した予定じゃ……でもスーパーくらい行かないと、食べる物が無いよ。雪で数日閉じこめられる場合は大問題だよ。朝の内に行けないかな」 「なるほど。なら、朝一に行くか」 「うん。そうしよう」 話がまとまったところで、シェリーは歯を磨いて服を着替えようと、踵を返した。一歩踏み出したところで声がかかった。 「寝なおすなら、おまえがマスターベッドルーム使え」 リクターは片方の肘をソファの上にのせた姿勢で振り返っていた。 「え? 悪いよ」 「さっき床で居眠りしたんだろ、下手すりゃ腰痛めるぞ。今日はちゃんとしたところで寝ろ」 暗さにより今は深い青色をした瞳にじっと見上げられ、これまたドキッとした。 ――ほらやっぱり、気が回る……。 有無を言わせぬ家主の圧力に、折れるしかなかった。 「えっと……じゃあ、ベッド借りる……よ」 顔が赤くなった気がして、急ぎ足で立ち去る。おう、と背後から返事があった。 廊下に入る直前でシェリーは立ち止まって、ひとつ勇気を出した。 目を合わせない程度にソファの方を見やる。 「お休み、アレクス」 怒られるのを覚悟で呼んでみたが、ひと言が返ってきただけだった。 「…………お休み」 |
4. f.
2026 / 01 / 22 ( Thu ) 「悪い、起こしたか」
肩にタオルをかけたリクターが、黒いボクサーブリーフのみをまとって現れた。 「それはいいよ……服着て、お願い。冷えるよ」 目を逸らして苦し紛れの文句を言う。本当は冷えるのを心配しているよりも、男のパンツ一丁姿に動揺している。彼が自宅でいつもシャワー上がりにその格好なら、居候のシェリーが苦言を呈することこそ不当かもしれないが。 おう、と文句を言われた方は特に反論せずに自室に引っ込んだ。そしてスウェット姿になって再び現れる。 「具合はもういいの?」 「ちょっとはマシになった。喉とか頭が痛いけど」 まだ濡れている髪を、タオルでガシガシと拭っている。言われてみれば、話し声がいつもより枯れている感じがする。 「あ、そういえばサンドイッチとお薬ありがとう」 「食えたか」 「うん。大丈夫だったよ」 「そりゃよかった」 言いながらも、男は屈んでコーヒーテーブルに未だに置いてあった錠剤の瓶の蓋をポンと開けた。どこでも買える一般的な抗炎症薬で、二日酔いの症状にも効く。リクターは素早く薬を飲み込んで、どこからか出したビーフジャーキーをかじり始めた。 髪は依然として濡れたままで。シェリーはふと提案した。 「髪の毛乾かすの手伝おうか」 「じゃあ頼むわ。ヘアドライヤー、先週ぶっ壊れたばっかで買い換えてないんだよな」 リクターがソファに腰を下ろしたので、背後に回ってシェリーは手を伸ばした。タオル越しに伝わる感触は、濡れているけれど温かい。 数分ほど、静かにそうやって過ごした。ジャーキーが咀嚼される音と冷蔵庫の音、そして時々古びた暖房の音が共にあった。 やがて彼がボソッと言った。 「さっき髪結ってもらったの、助かった」 「どういたしまして」 「狭い場所じゃもらいゲロするかもしれないのによくやるな」 「えー? あの時はそんなこと考えてなかったな」 確かに吐しゃ物を見たり嗅いだりしたらこちらも吐き気を誘発される恐れはあったかもしれない。今になって、そのことに気付く。 「おまえは自分で思ってるより、肝が据わってるよ」 「そうかな」これは褒められたと受け取っていいのだろうか。照れくさいので、シェリーは話題を変えた。「そういえば家賃と水道電気代を払おうと思うのだけど」 「まじめな奴だな。そういうのは一週間過ぎてから気にしろよ」 「い、一週間以上もいていいの」 「気が済むまでっつったろ。オレがいいんだからいいんだよ」 「……ありがとう」 消え入るような声で応じた。 いつまでも甘えていられない――来週には仕事に戻ると上司には伝えた――と思っていた決心が、揺らぐ。元の生活を取り戻さねばならないという義務感と、現実逃避をまだ続けたいという願望が、相反して同時に存在している。 どこかでけじめをつけねばなるまい。判断を、なおも先送りにする。 「だいたい乾いたかな」 右手にタオルを握り、シェリーは手を引こうとする。 左手の指を掴まれた。 急にどうしたの、とは口に出せなかった。 「昨夜は…………悪かったな」 「昨夜?」 いつになく歯切れの悪い言い方である。 「傷心中の、隙に付け入ったみたいになって」 この数日の時間感覚が歪んでいるのですぐには話が見えてこなかった。しかし此処であった出来事で、謝罪されるような要因となると、心当たりはひとつしかなかった。 「あれは合意の上でだから、あなたが謝ることないよ」 「売り言葉に買い言葉じゃなくてか」 |
4. e.
2026 / 01 / 20 ( Tue ) 何でおまえがここに――と男は視線で訴えかけている。 シェリーは恐怖に硬直した。 十年以上前、リクター家の父親が酒に荒れていた時を思い出したからだ。物を投げたり、殴ったり、とにかく怖かった。 家族を反面教師にしていたはずの彼が、同じ真似をするはずがないのに。普段から粗暴な印象がありながら根っこでは常識人なのだと、シェリーは思っている。 「ゴミ出しか」 訊ねられても、本能的に声が出せなかった。委縮して一歩下がるまでした。 「貸せ」 こちらの反応に気付いていないのか、男はズカズカと歩み寄り、ゴミ袋をひったくった。 目元が赤いし、息がだいぶ酒臭い。理性が保たれている状態なのか否か、シェリーには判断がつかなかった。 放っておけない気がして、後ろについていった。 「くっせえな。何か死んでんじゃねえのか。ゴミ捨て場だから当たり前か」 悪態をつきながらリクターはゴミ袋を豪快に投げた。六フィートはある高さのゴミ捨て場なのに、綺麗な放物線を描いて、袋は目的地にしっかり到達した。 感心する間もなく男がふらふらと歩き出したので、シェリーは慌てて後を追った。 玄関を通る瞬間まで互いに無言だった、が―― 「無理。こりゃ、戻しちまった方がいいな。廊下のトイレ使っていいか」 青い顔でそう言われて、シェリーは激しく首肯した。 酒を飲み慣れているがゆえの躊躇のなさか、口元を黒い手袋で押さえつつも、リクターは靴を脱がずに廊下を進んで、やるべきことをやった。 (あ、髪ほどけてる) 困るかもしれない。 シェリーは邪魔しない程度に背後から近付き、肩まで伸びっ放しになっている茶髪をヘアゴムで緩く結び直してあげた。飛沫がつこうものなら不潔だし、臭いが眠りの妨げになるかもしれない。 (お水取って来よ) 他に何をしてあげられるか考えた結果、そうなった。自分は決して酒を飲み慣れている方ではないが、これでも大学に数年通ったので、脱水が人類の敵なのはよくわかっている。 シェリーが台所でコップに水を注いだ間に、リクターはコートと靴を脱いでソファに仰向けに寝転がっていた。身長があるぶん、足先がはみ出ている。 歩み寄り、水を差し出した。 一言なりとも「大丈夫」或いは「お水どうぞ」と声をかけたいのに、できなかった。正確には、まだ声が出ないようである。 幸い、差し出したコップは受け取ってもらえた。男は気怠そうに上体を起こして水を飲み干し、コップを返してきた。常ならぬモゴモゴとした発言だったが、たぶん、礼を言っている。そうしてドサッとソファにまた倒れ込んだ。 シェリーが台所に行ってから、しばらくして、鼾が響いてきた。 あまりの音量にびっくりして振り返った。これも異性と関わらなかった人生の弊害か。そういえば父も鼾がすごい方だったと思い出して、懐かしくなった。旅行先でホテルの部屋が一緒だった時は、父より先に就寝しないと鼾がうるさくて寝付けなかったものだった。 (でもこれ大丈夫なの? 無呼吸症候群とかじゃない?) 額に手の甲をのせ、眉をぐっと寄せるさまは、寝苦しそうだった。 忍び足でソファの傍まで寄り、覗き込んだ。 ワイシャツの上から三個目までのボタンが外れているのは、先ほど自分でやったのだろうか。冷えないよう、シェリーはウール製の毛布をそっと肩までかけてやった。 (さて、私は今夜どうすれば……) 寝室に入るのはどうにも気が引ける。かといってここに残るなら、誰かが寝ている以上、電気は切るべきだ。もはや静かに思考するくらいしかできることがない。 結局は予備の毛布に包まり、ソファに寄り添う形でカーペットに座した。数分ほどして、鼾が落ち着いてきたのか、段々と煩いのではなく心地良い音と感じるようになった。 そのままの体勢でシェリーはうとうとし出した。 冬に床で寝たというのに、不思議と寒くはなかった。 * いつになく穏やかな睡眠を得られた気がする。夢すら見ない、深い、真っ暗な休息。 物音で目が覚めた。 左手の腕時計を手繰った。部屋の中は薄暗いが、時計に使われている蛍光顔料のおかげで十一時四十五分なのが見て取れる。 果たしてそれは午前か午後のどちらなのか。カーテンの外は暗いし、周囲が静かすぎるので、おそらくはまだ夜。首を巡らせると、ソファが無人となっているのを知った。 廊下の床に明かりが伸びている。それをじっと見つめていると、明かりの上に、影が揺れた。 |
4. d.
2026 / 01 / 19 ( Mon ) とにかく手足を動かすとこからだ。 髪の毛を団子にまとめ、冷蔵庫の中を拭いて、玄関先を掃いて、昨日は途中までだった埃拭きを続けて、手当たり次第に掃除してみた。 カウンターに立っておそるおそるサンドイッチの半分をかじったのが、午前十一時。 本棚の一角に目をやった。 リクターは雑誌や新聞紙の他にも、ハードカバーのノンフィクションから、ソフトカバーの小説も多数所持しているらしかった。家族が残したものはほとんど手放したか物置代わりの二番目のベッドルームに押しやっていると、確か彼は言っていたので、私物なのだろう。 とあるオレンジ色の背表紙の本が気になって、取り出してきた。 表紙にはトカゲの絵が描かれている。短いタイトルからは内容が想像できない。裏表紙のあらすじ書きは敢えて確かめず、シェリーはソファに座り込んで、最初のページからめくってみることにした。 元軍人男性が砂漠で死にかけるところから始まった。 文章は読みやすく、展開もスピーディ。ジャンルは近未来SFでいいのだろうか。キャラクターはひとりひとりが作り込まれていて、掛け合いに信憑性があった。主人公は凄惨な過去を乗り越えて、儚げな女性と愉快な仲間たちと絆を育みながら強大な敵に立ち向かっていった。表紙のトカゲは実は二足歩行ができる幻獣だったらしく、仲間の一人だった。 水を飲むなりトイレに行くなりの休憩を除いて、時間を忘れて読み耽った。 (超面白かった) 気に入っていた登場人物の最期が衝撃的だったが、読み終わって更に丸三十分は呆けてしまう程度には物語にのめり込めた。娯楽に我を忘れたのは、実に何年ぶりだろう。 気が付けば陽が傾きかけている。 ようやく、意識が小説の内容以外のことに向かった。 (すごいな彼は) 無趣味な自分と違って、家の中にあるもののほとんどに「個性」を感じる。埃を被っていた小説の一冊にすら、選んだ者の性格が滲み出ているようだ。 つまらない自分がつまらなくなるためのヒントが、ここにあるかもしれない。他人にそれを求める時点で、結局ダメな気がしなくもないが―― カーテンを開けて窓の外を眺めた。 夕焼けの空が暗闇に転じるのが早い。 ここから見下ろせる電灯の先に何があったろうか。かつてシェリーが住んでいたユニットは建物の反対にあったので、駐車場側のこの眺めには慣れない。 数分こうしている内に、大きな白いビニール袋を手にした住人を二、三度見かけた。 ゴミが回収される日は何曜日だったか。集合住宅はいつでも捨て場に家庭ゴミを持って行っていいのだが、業者が回収に来る前日に出すと、すっきりするものだ。逆にこのタイミングに限ってゴミ置き場(ダンプスター)がいっぱいになっていて置く場所がないこともあるが。 さっき、台所のゴミ箱が限界だったのを目にしている。シェリーは袋を取り外して、今から捨てに行くことにした。 寒い上に、暗い。 十分に着込んできたものの、ゴミ袋が思ったより重くて、外階段を降り切ったところでシェリーは立ち止まった。ゴミ捨て場までの道のりはそう長くないが、電灯が点滅していて気味が悪い。 (こっちだったよね) 数歩歩き出し、駐車場を横切り始めて、突然現れたヘッドライトの明るさに怯んだ。すぐそこでタクシーから誰かが出てくるようだ。 「ねえアレクス、待ってー、泊めてよぉ。宅飲み二次会しよーよ」 降りたばかりの乗車客を引き留める白い手が、車内から伸びている。 「あぁ? ふざけんな。平日だっての」 女性の手が乱暴に振り払われた。 「いいじゃなーい。明日休みになったじゃーん。前は泊めてくれたのにぃ、ケチ」 「うるせえぞ酔っ払い。タクシー代払ってやったからさっさと帰れ」 アレクスと呼ばれた長身の男は、大げさな音を立てて扉を閉めた。 ええー、と女性の抗議が窓越しにも伝わったが、タクシーの運転手はすかさず車を出した。 (酔っ払ってるのはどっちもじゃないかな) 世間のレストランとバーでは平日だいたい午後五時から七時の区間を「ハッピーアワー」と称してメニューやお酒を大幅に割引するのが流行らしいと、大学時代から聞き知っていた。 深い緑色のトレンチコートを着た男は道端に唾を吐いてから、振り返った。 目が合ってしまった。 |
4. c.
2026 / 01 / 17 ( Sat ) 無意識に下腹部に手を当てた。 ――むちゃくちゃに痛かった……! 世の中の女性の皆様は本当にこんな苦行に耐えてきたのだろうか。 昨晩の顛末に、後悔はない、けれど。 (やってしまった感はある) ずるずると廊下を進み、顔を洗って歯を磨いて、頭の中を整理した。 今日がもう月曜日ならば、一度は事務所に電話を入れてみるのもいいだろう。シェリーは先延ばしにしている諸々の問題に、ほんのちょっと想いを馳せた。 リビングに戻って電気をつけると、テーブルの上のビニール袋が目に入った。こんなもの、いつからあったのだろう。 袋の隣にちょこんとプラスチックの小瓶が置いてあった。手に取って確認してみると、痛み止めの錠剤だった。中身がやや軽いのとラベルの端がはがれかけている点を踏まえると、これは最近買ったのではなく前から備えてあったものと見て取れる。 袋の中には包み紙に入った生温かいハムサンドイッチがあった。朝早くに買ってきてくれたのだろうか。 (気が回るなあ……私は自分のことでいっぱいいっぱいなのに) 嬉しいのと恥ずかしいのと申し訳ないのとで、頭がぐるぐるする。とりあえずラベルの指定通りに痛み止めを二錠、水で流し込んだ。 だるさが軽くなるまで、じっと座って思案した。 買い出しや洗濯物にそろそろ着手したい。それと先ほどトイレを使った時に気付いたことだが、スカートに血の跡がついていた。 ――いっそ、捨てようか。今までのしがらみをひとつずつ切り離す踏ん切りがつけば、この数日間にも意味が出るというもの。 いずれにせよ、これ以上の家事は家主に相談なしに取り組みたくない。 サンドイッチは冷蔵庫に一旦入れて、昼食に取っておくことにした。残り枚数の少ない服から一式選び、着替えて、伸びをした。 「えっと、お電話借りるよ」 いない相手に断りを入れて、壁の受話器を取った。 職場の番号は暗記済みだ。営業時間中なので、デスクはすぐに取り次いでくれた。シェリーを配下とする弁護士の男性と、案外あっさりと繋がった。 『やあ! 君から連絡してくれて安心したよ。あれから様子はどうだい』 「いえとんだご迷惑を……お待たせしてしまってすみません。今週中はちょっとわかりませんけど、少なくとも来週までには職場復帰できると思います」 来週までここに居座るかどうかはまだわからないが、それはこちらの話である。 『いいんだよ、気にすることないさ。ゆっくり休んでくれ。一人いなくなって回らなくなるような仕事の割り振りはしてないよ。そうそう、ジェニーが受け持っていたケースは概ね引継ぎが――』 ジェニーとは母の愛称だ。ほとんどソロ(アシスタントはいてもメインの法律家は一人)で事務所を経営していたので、亡くなった後はやりかけの案件を他の人が引継ぐ必要があった。クライアントが自ら後任を探すしかない場合も多いらしいが、さすがは母の人脈と人望か、意外と早く片付きそうだと言う。 『まああまり詳しいところは君には関係がないかな。とにかく元気にさえなってくれれば、彼女の後輩として君の世話を任された僕としても、それ以上は望まないよ』 「ありがとうございます」 雇い主への感謝に濁りはなかった。 きっと彼も、そして母の事務所のスタッフも、悔しいのは同じなのだ。どうしてこうなる前に止めてやれなかったのか。どうすれば分かり合えたのか。これは葬式で既に出尽くした話題だ。 永遠に答えが出ることはない。それでも考えずにはいられない――もっと自己主張していれば、何かが変わっていたのか。 目頭が熱くなった。 『ところで隣の市外局番(エリアコード)からかけてるみたいだけど、自宅に居ないのかい』 「あっ、はい。外出先から、電話を借りているんです。深い意味はありません」 シェリーは焦りを隠すように早口になって、かえって不自然な物言いになった。 『そうかい? でもこの前会った時よりはずいぶん元気が戻ったみたいだね。よかったよ」 「重ね重ねありがとうございます。またお役に立てる日までに、英気を養っておきます」 『ははは、堅苦しいね。また一緒にやっていこうね』 「はい」 会話終了の挨拶を交わし、電話を切った。 表情筋が和らぐのを感じた。 ほんの数日前に比べて前向きな気分になれている。自分の両足で立ち上がれそうな、前に進められそうな、そんな気がする。 頑張ろう。もう少しでも、生きてみよう。 |
4. b.
2026 / 01 / 16 ( Fri ) 「気ぃ許しすぎじゃねえの。危なっかしいな」
「そうかな」 「じゃあおまえはオレが『脚触らせろ』とでも言ったら、許すんか」 他の当たり障りない質問と変わらない声のトーンで。手元の眼鏡に視線を落としたまま、男性は顔色ひとつ変えずに。 (すごいこと訊いた) ――なのに。 再会してまだ三日と経たないのに、いつしか、信頼感を抱いていた。 裏切られたとは思わなかった。やっぱり、というような感想が湧いただけだった。 「いいよ」 「……おまえな」 極大のため息をついて、男は眼鏡をコーヒーテーブルに置いた。 あっという間に距離が縮まった。 「こういうことで」左太ももを掴まれた。スカートがするすると皮膚の上を滑りあがっていくのを感じる。「本当に、いいのかよ」 「それ、は」 世間知らずは自覚しているが、無知ではない。この男が一人で暮らしていると知った時から、いつも意識の片隅にあった、可能性。 (恋人はめんどくさいって言ったのに) ショックはなかった。 ――男は気持ちがついてこなくてもセックスができる。 最初に誰からそう聞いたかは憶えていない。 相手とよく話し合うべきだという意見も、耳にしてきた。 母はといえば、婚前交渉を、愚かしいと思っていたようだ。適当な相手と関係を持ったところで女側には何も得るものはない、と。一歩間違えれば人生が破滅する――シェリーを大学に送り出す前に何度も釘を刺していた。 でも周りのみんなは、自分の知らない何かを知っている。楽しんでいる。そして躍らされている。誰とも経験がないまま二十五歳にもなって、こういうことにまったく興味がないと言えば噓になる。 怖い。けれど、引き返したくはない。 この男自体が恐ろしいのではなく、主体性の無い自分を認めることの方が怖かった。過ちだったと後で自分にガッカリするのも、機会を逃してガッカリするのも、どちらも嫌ならば。 選択は脳の筋肉。 流されているのではない、自ら望んでいる。だからどんな結果になっても、後悔だけはしない。 「覚悟の上だよ」 「あっそ。気が変わったらハッキリ言えよ」 降りかかる声も、太ももを撫でる指も、意外と優しかった。テレビから漏れる青い光だけでは、仰ぎ見るシェリーには男の表情はわからなかった。 うん、とシェリーが応じた途端、リクターは手を放した。 コーヒーテーブルの下から予備の毛布を取り出し、カーペットの上に敷いている。片手で「座れ」の仕草、もう片手でテレビの音量を二、三回ほど上げた。 よくわからないが、言われた通りに床に腰をかけた。チャンネルまで変わっていたのか、テレビ画面は淡水魚特集をやっている。 シーラカンスに意識が逸れたその瞬間。 「ひゃっ!?」 押し倒された。 重い。シェリーの脚の左右脇に膝をついたのか、圧迫されている感覚がある。 「あんま騒ぐと下の階に文句言われる」 耳元で囁かれ、身震いした。 * 倦怠感が頭の覚醒を妨げていた。 夢見も悪かった。母に寝坊を責められ、怒鳴られ、泣く泣く支度を急いだ古い記憶だった。 涙を手の甲で拭いながら、古びた天井を見上げる。 (うちじゃない。どこだっけ) 瞬きと浅い呼吸を繰り返し、次第に理解した。 (この香水、それにタバコの銘柄、なんて言うんだろ) 疎いどころか気に留めたこともない分野だったのに、今は無性に知りたい気分だ。 おなじみとなってきたソファでの目覚めに、シェリーはのっそりと起き上がった。室内に人の気配はしない。時計は朝の八時前を示している。 家主が不在で残念なのか、安堵したのか、決めかねている。月曜日だから、出勤したのかもしれない。 |


