7. b.
2026 / 02 / 20 ( Fri )

 逃げ道を残さないように連絡先は置いていかなかった。少しでも縁を繋いだままでは、甘えてしまいそうだったからだ。
 せめて使っている香水のブランドを確認しておけばよかった。けれど、孤独を紛らわせようとあの香りを再現する自分を想像したら、あまりにも滑稽で、余計に虚しくなる。

 重荷になりたくないから出て行った。いずれ疎んじられたり、拒絶されるようなことがあれば、それこそ絶対に立ち直れない予感があった。
 だから朝、除雪車が役目を終えたばかりの時刻に静かに私物をまとめて、短い置手紙を書いてから、レンタカーを手配して此処への道を調べてきた。

 ひとつだけ、家を出る際に無断で拝借してしまったものがある。返せる日が来るかはわからない。
 ハンドバッグの中に、目の前の灯台を写した一枚の写真が大切に仕舞われている。これは、ひとりの生活に戻った時のお守りのつもりで持ってきてしまっていた。シェリーがカメラを所有していたなら今撮ることも可能だったかもしれないが、無いものは仕方がない。

 ここ数日の間に受け取ったものがあれば、前に進める気がした。何となしにかけられた励ましの言葉や、色々な形で受けた親切を思い出して、きっと今後も生きていけるはずだ。
(なんて、ね……本当はそんなものだけで満足できる気がしないよ)
 未練がましくて嫌になる。訪問したことも、こうして去ることも、自由意志をもって選択したはずなのに。どうしてこんなにドロドロとした気持ちにならねばならないのか。

 声に出して泣いていた。ウールの手袋で涙を拭い、ティッシュで鼻水を拭いて、それでもこみ上がるものを止められない。濡れた頬がますます冷えて、堪らない。
 ひとりでダラダラ生きていると言った。今日から彼はまた、適当な食生活を続けていくのだろうか。心配でしょうがない。昔も今も、十分な食事をしているように思えなかった。シェリーは冷蔵庫に残したままの生肉を思い、肌を重ねた時に触れたアバラの感触を思った。

 ぐしゃぐしゃの顔になってから十五分経ったのか、はたまた一時間近くだったのか。わからない。空を仰いで湯気のような息を吐く。
 音が、新雪に吸い込まれていく。
 目を閉じて、静けさに聞き入った。街の雑音に囲まれて感じる孤独よりも、静寂の中の孤独の方が、安らぎを伴うようだった。

 皮膚から体温が逃げていくのが、不思議と苦ではなかった。このまま意識を手放すのも悪くない――。
 またしばらくすると、瞑想に近い状態の精神模様に、不協和音が割り込んできた。明らかに人工的な騒音。おそらくはエンジン音が近付いている。

(平日に訪れる人がいるんだ。そういえば管理者って居るのかな、文化財保護団体の)
 目を瞑ったまま、シェリーは大きく息を吸い込んだ。冷えすぎて思考力が低下している。他の人が来たなら逆に自身は車内に戻った方がいいか、とぼんやり考える――
 カードアが閉まる音がやたらうるさかった。というよりかは乱暴だった。

 足音が近付いてくる。
 さすがに危機感を抱いて、シェリーは目を開いた。駐車場は背後にある。不審者っぽかったら、レンタカーへと一直線に駆け出そう。大仰な動きをしないように注意して振り返り、視線を送る。
 そして仰天した。

「な、なんで? どうしてこんなところに居るの?」
 恋しさのあまり、ついに幻覚を作り出してしまったのか。あの深い緑色のトレンチコートを着て、ポケットに両手を突っ込んだ長身の男が、ずかずかと歩み寄る。フードが風を拾って、脱げてしまう。

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04:40:38 | 小説 | コメント(0) | page top↑
7. a.
2026 / 02 / 18 ( Wed )

 水面が奇妙なほどに凪いでいた。
 周囲には誰もいない。日が昇った後だというのに空は薄っすら曇って白んでいる。
 ――お母さん、ここまで育ててくれてありがとう。愛してくれて、ありがとう。あなたの望んだようになれない私を、どうか許して。

 もう使われていない灯台と地続きの岸辺にしゃがみ込み、シェリー・ハリスは声に出さずに懺悔をした。今後の身の振り方について必死に考えを巡らせた。そうすることで、虚しさを紛らわせようとした。

 これからまた親戚に連絡を取り付けて、遺物をどうにか分けねばならない。片付いたら、あのアパートを引き払おう。母が遺した財産は少しずつ、彼女が生前から支援していたNPO団体に分配するのが良いだろう。昔は家族ぐるみで教会にも所属していたが、ここ数年で足が遠のいてしまったので除外する。

 遺書にはほとんどの財産をシェリーに明け渡すとあった。
 そうは言っても二十五歳にもなって、シェリーが親の持っていたものを全て消費するのは何かが違う気がした。己の生活は、己で築いていくべきだ。あれらは母が培ってきたものだ。

(たとえば老後の楽しみに取ってたのかもしれないし――お母さんが老後にどういうビジョンを抱いてたのかは全然わからないけど……もしかしたら私の結婚資金に充てようとか考えてたのかなぁ)

 母には数年に一度くらいの頻度で一緒に旅行に行くような、遠方の友達もいた気がする。或いは事務所の人たちと語り合えば、もっと何かわかるだろうか。日記の類を漁るのは気が引けた。死人の記録こそ読んであげるべきだと論じる者もいるが、シェリーは、そういった物のプライバシーは当人が死んだ後にも守られるべきだと考えていた。

 情けない話だ。思い返すと、同じ家に住んでいながらも、家族のことをよく知らなかったように思う。 
 家族旅行は行った記憶があるのに、楽しい思い出を探るのが困難だった。

(アルバムを見返せば――うちにアルバムなんてあったっけ? お母さん、写真撮るの嫌いだったような)
 父が出て行って以来、家でカメラを見たことがないし、自分もあまり写真を身近に感じなかったからか、撮ろうと思ったことがない。学校で撮らされた毎年のイヤーブック用の写真はあったと思うが、それでは趣旨が違う。

(そっか。アレクスのコレクションが新鮮に見えたのって、そういうこともあるのかな)
 彼は家族写真こそ置いていなかったが、自ら留めたいと思ったのであろう瞬間の切り抜きを、たくさん蓄えていた。それがなんだかとても素敵だった。
(私は……空っぽだ)
 空の器に、母が求めた「理想の娘」像を象ったモノが詰め込まれていた。瓶の底が抜けてしまったみたいに、中身がぶちまけられて、今や何も残らない。

 もっと早く抗っていれば結末は違っただろうか。声を荒げて抵抗していれば、母はあっさり気を変えてくれたかもしれないのに。シェリーが何もしなかったから、何も変わらなかった。過ぎ去りし日々の「もしも」に想いを馳せるのは、無駄なことだろうか。

『おまえは自分で思ってるより、肝が据わってるよ』
 ――だとすれば変われるかな。遅すぎないのかな。
 怖いし、寂しい。
 膝に埋めていた顔を上げると、大粒の雪がふわふわと空から舞い落ちていた。

 駐車場の方に向かって岸辺を少し戻ったところにベンチがあった。冷たい鉄に腰をかけ、白い灯台を一望した。
 こんな気持ちになるなら最初から再会なんてしなければよかった。

 でも再会していなければ、再び立ち上がるまでにどれだけの時間がかかったか知れない。立ち上がれたかすら、わからない。
 ひどく寒かった。ダウンコートが覆っていない皮膚は冷たい空気にさらされて、赤い。

 真に凍えているのは心の方だった。
 これからやらねばならないことを思い、ひとりで超えねばならない夜を思い、震えた。
「やだよ……」
 白い空を見上げて、静かに涙した。

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23:17:18 | 小説 | コメント(0) | page top↑
6. c.
2026 / 02 / 17 ( Tue )
閲覧注意だよ



 異性の好みなんて考えたこともなかった。外見も性格も、漠然と、真面目そうな無難な人がいいのかなとしか思っていなかった。でも今、他でもない、この男を欲している。
 枕の角を握り締めて、己の内にある強烈な衝動を認めるしかなかった。
「おい、こっち向け」
「やだ。だって、見られるの恥ずかしい」

「……今更?」
「一昨日は上は着たままだったし、暗かったよ」
「じゃあ電気消すか。トイレのだけつけときゃ十分見える」
 言うが早いか、男はドアの横にあるスイッチに向かっていった。道中、髪留めを引っこ抜いて、乱れた髪を首の後ろで結び直しているのが見えた。シェリーは仰向けになって、ブランケットを胸辺りまで被った。

(えぇー……今の仕草もめっちゃイイ)
 暗くなったからには、にやけた顔を見られずに済んだはずだ。
「寒いなら暖房もうちょっと強くしてやるけど」
「このくらいでいいよ」
「そ」
 男は何気なくタンクトップを脱ぎ捨てた。左手から漏れるトイレの明かりが、陰影を作っていた。共にブランケットの下に入り込んでくるのを、シェリーは黙って見守る。
 触れたい。

 覆い被さる者に手を伸ばす。夜になって伸びてきた顎髭のざらついた感触も、耳の後ろの脂っぽい柔らかさも、直に確かめて悦に入る。
 互いを隔てる隙間を全てなくしてしまいたい。
 これ以上近付いたらこの渇きが伝わるのではないかと一瞬気になって、それでもいいという結論に至る。どこかで肌が触れ合う度、摩擦からではない熱を感じた。

 乳首が生温かいものに包まれた。片方は手のひらに、もう片方は舌に責められている。
 思考が崩壊しかける。自分がどんな声を出しているのか、もはや把握できなかった。愛撫の時間は長いようで、短いようでもあり、やはり唐突に絶えた。
(また焦らすの)
 ふとプラスチックの包装と思しき音がして、視線を上げる。
 リクターは片手の指先と歯を使って、四角く平らなパッケージを破り開けていた。輪郭で、それが何かを理解する。

(コンドームだ。この前はちゃんと見てなかったけど)
 そこはしっかりしているんだなと、感心した。シェリーは経験が浅いだけあって、自らは避妊手段にまで気が回らない。世の中の女性は経口避妊薬(ピル)を毎日服用して凌ぐらしいが、医師に処方されないと手に入らないそうなので、決まった相手がいない内は意識の片隅にも置いていないことだった。
「いれていいか」

 ――いいよ
 イエスと答えた声があまりに艶めかしく、必死そうで、自分のじゃないみたいだった。はやく、早く何かに、入って欲しい。
 最初の時はただただ痛かった。
 けれど今宵は。
 熱の塊が襞をかき分ける感覚に、息を吞んだ。埋まっていく。まだ、奥をゆく。

「きっつ」
 呼吸の節目に吐き出したみたいな文句を言われた。
「え、ごめん」
「謝るとこじゃねえよ。クソ気持ちいいって話」
「そう、なんだ」
「そっちは痛いか」

「痛いというより……異物にこじ開けられてるみたいな、違和感がする」
「異物って」
 正直な感想であって笑いどころを提供したつもりはなかったのだが、くすりと笑われた気配がしても、嫌な気はしなかった。
 もう少し脚を開(ひら)けないかと訊かれ、従ってみる――

「……あぁ」
 ゆっくりと満たされる。奥まった場所に触れられて、何かが弛緩した。
 浸っていられたのは数秒の間で、特に合図はなく、激しい動きが加えられた。
 シェリーは縋るものを求めて腕を伸ばした。男の背中を搔き抱く。
 ラジオから漏れる話し声と、ベッドの軋みに、呻きが混ざった。
(あ、今の……)
 余裕の無い表情が垣間見えた。それが、たまらなく愛おしいと思った。



「ちょっと吸ってもいいか」
「あ、うん」
 すぐそばからライターの弾ける音がする。
 苦手だった煙の匂いが、いつの間にか、嫌いではなくなっていた。

(だってこれはもう、記憶に組み込まれてしまったから。あなたの、匂いだから)
 リクターに背を向けて横になったまま、シーツを握りしめる。
 恋なんていまなお知らないし、言ってしまえば、いろいろと段階をすっ飛ばしてここまで来てしまった。

 体を重ねたから愛着が沸いたとか、そんな単純な話ならよかった。
 執着かもしれないし、依存かもしれないし、恋愛感情かもしれない。
 同じ空間に居られる一分一秒が大切で、尊敬できるところも情けないところも、全部がどうしようもなく好きだ。欠伸をする度に顎が外れそうな勢いで口を開けるところも、脱ぎ捨てた靴を揃えずに蹴ってどけるところも、「そ」と相槌を打つイントネーションですら愛おしい。

 ガサツで、でも地に足がついていて、同じ空気を吸っているだけでも不思議な安心感を与えてくれる人。
 静かに涙が零れた。
 これ以上は迷惑をかけられない。これ以上同じ時間を共にしてしまったら、離れられなくなってしまいそうで。やがてひとりになったら、息の仕方すら見失ってしまいそうで。

 或いは俗にいう「重い女」になりそうな予感しかしなかった。
 これではダメ。
 ――出ていこう。
 選択肢は、それひとつしかないように思えた。

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23:32:36 | 小説 | コメント(0) | page top↑
6. b.
2026 / 02 / 13 ( Fri )
閲覧注意だよ



 リクターは机の上の小型ラジオを付けに行っていた。控えめな音量でAM放送のニュースチャンネルをかけている。停電が起きた場合や天候が悪化しそうな場合に情報が入るように。
 マスターベッドルームの中はリビングに比べていくらか肌寒い。そういえば一日もの間、色違いで揃いのセーターを着ていた事実を振り返って、不思議な気分になった。
 こういう時に服を自ら脱ぐのが正解なのかわからない。ベッドに腰をかけたまま、シェリーはぼんやりと天井を仰いだ。

(明るい)
 天井の照明は扇風機と合体しているタイプだ。リビングのライトは点けたままで暗くできるような機能があったのに対し、こちらはオンオフスイッチのみらしい。スイッチを切ればナイトライトも無い完全な暗闇になってしまうのは昨夜ここで寝た時に知った。
(なんにも見えないのもそれはそれで困るのかな)
 考えてもしょうがないことを、つらつらと思い浮かべる。そのうちに視界の端からペットボトルを渡された。

「ありがと」
 ちょうど喉が乾いていたので助かった。キャップを外し、三口ほど飲み込んだ。濾過水が異様に美味しい。キャップを戻したボトルを床にそっと下ろすと、なんとなく、身体が窮屈な感じがした。
 ワインの効果がまだ沁み込んだ頭で、どうしようかと思考し――右手をシャツの下から挿し込んで背に回し、ブラジャーのホックを外そうとする。幾度となく繰り返してきた動作なのに、この時に限ってうまくいかない。

 カチッ。
 セーターの上から手伝ってくれた手があって、シェリーは心中で感嘆した。
(え、すごい)
 服の上から女性の下着を脱がせる技術は都市伝説だと思っていた。高校生男子の見栄から成る法螺話くらいに思っていたのに、実際に自分がやられる日が来ようとは。

 ともかくして、数秒前よりも楽に息ができるようになった。Cカップのブラがおそらく合っていないのも一因だが、それを認めるのが癪で、今日までDサイズを買えずにいる。
 小さくため息をついた。
 これで意識するなという方が無理な話だった。後ろから抱き込まれて、腹部を撫でられる。

(大きくて、あったかい手……)
 この前も決して乱暴に扱われたわけではないのに、今夜はなんだか手付きがとても優しい。
 肌の上をすべるようにして、それぞれが別の方向に進んだ。片方の手は上に、緩められたブラの下に潜って乳房を包み込み、もう片方の手は下へ――

「やだ、そこは。汚い、よっ……!」
 薬指で器用にパンツのゴムを押し上げて、中指と人差し指を潜り込ませている。敏感なところが探り当てられた。
 同時に胸を揉みしだかれている。
「けど気持ちいいんだろ」
 人差し指は固くなってきた豆を擦り、中指は内へと押し進んでいく。次第に濡れた音がする。
 恥ずかしい。身を捩(よ)じる。やめて――止めてほしいのに、でも止めてほしくなくて、嬌声が漏れた。

 真冬なのを忘れてしまうくらい、体温が上昇していた。
 唐突に指が引き抜かれた。
 ――焦らすの。
 肩から振り返り、恨めし気に睨み上げた。対するリクターは笑ったようだった。

「気ぃ緩めてけよ」
「そんなこと言われても」
 どうすればいいのかわからない。しかし男は特に助け舟を出すわけでもなく、自身の衣服を脱ぎ捨てただけだった。セーターとシャツが首と腕を通り、下に着ていたらしい灰色のタンクトップが残る。
 この際に乱れた髪も、露わになった鎖骨と肩口のラインも、「良い」と思った。そしてすぐに気付かれた。

「なに」
「なんでもない。なんでもない、よ」
 視線に籠もった熱意を誤魔化すように、シェリーは言い流して同じようにして服を脱いだ。勢い余って全裸になってから、羞恥心にまた火照る。ベッドに突っ伏した。
 性的な目で見られていたのは既にわかっていたことだったのに。

(私もそういう風に見ちゃうんだなって思うと、なんか)
 むず痒い。それはもう十代前半の感覚の延長線ではなく、新しい何かであるからして。この情動に名前を付けられなくて、胸が苦しかった。

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23:59:48 | 小説 | コメント(0) | page top↑
6. a.
2026 / 02 / 12 ( Thu )

 沈黙が永遠のように感じられた。
 ワイングラスがサイドテーブルに下ろされるところまでをシェリーは見届けたが、いたたまれなくなって、俯いた。次いでソファクッションを抱きこんで顔を覆う。

(や、やっぱり「今のは忘れて」で、なかったことにしよう)
 ――男は好きでもない女とセックスはできても、キスはしたがらないのでは?
 情報源は思い出せないが、そう言われていた気がする。いくらぽかぽかと酔ってきたとはいえ、付き合ってもいない男性に口づけをねだったのは間違いだった。

『真実の気持ち? 簡単だよ。知りたければ、キスをすればいいよ。火花が散って、相手との化学反応(ケミストリー)を感じたなら、あんたにとって『アリ』寄りってこと。色々考え込むのもいいけど、さっさと唇と唇を触れさせれば、結論が出るでしょ。ダメな奴は何も感じないっていうか、ただ気色悪いだけだよ』

 ルームメイトがそう言っていたのを思い出したせいだ。
 彼女の話を聞いた当時、まさかそんなわけがないと思っていたし、交際前の相手とのキスにかこつけるのはなかなか至難の業に思えたものだ。それで気が付けば現状に至ってしまったのだから、人生とはよくわからない。
 化学反応なんて言われても「そう」だとどうやって確信が持てるのか。熱に浮かされて、最高の恋だなどと勘違いして、痛い目を見る人の話ばかりを、ずっとシェリーは聞いてきた。

「おい」
「ひいっ!?」
 クッションがものすごい力で引っ張られている。しばらく抗ったが、破けても申し訳ないので、手の力を抜くしかなかった。
 視界が明るくなる。

「言い逃げか、コラ」
「そんなつもりは」
 シェリーは床にぽすんと気の抜ける音を立てて転がり落ちたクッションを目で追った。四角いので転がり方が一直線にならない。

 その時、外でひと際うるさく、強風が吹いた。背筋を通り、心臓を冷やすような恐ろしい音だった。この建物は大丈夫だろうか、窓が割れる場合を想定して廊下に避難した方がいいのではないかと思考する。
 雑念のせいか頬に触れた手に気付くのが遅れた。

 ぐいと首の向きを変えられた。右に。やや上向きに。
 反射的に目を閉じた。ほつれ毛と思しき何かが睫毛をくすぐったからである。
 今までにない密度で、至近距離にいる男の香りを取り込んでしまう。

 それから、触れた感触に驚いた。予想よりもずっと滑らかで柔らかいし、熱い。見た目では薄そうな唇をしているのに。比較して、自分の唇の分厚さを思って、シェリーは変な居心地の悪さを感じた。リップケアも怠っていたからカサカサで感触が悪いはずだ。
 こんなこと、きっと、彼には何のメリットもない。

(もういい。もう放して)
 手を上げて相手を押し退けようとする――
 唇の僅かな隙間を、ちろりと何かが掠めた。と思ったら、強い力で押し入ってきた。唇よりももっと柔らかく、生ぬるく濡れていて、ほんのりピノノワールの味がする何かが。
 逃げようにも絡めとられてしまった。

(他人(ひと)の舌ってこんななんだ......)
 半ば好奇心、半ば返礼。己の舌を押し出して擦り合わせた。
 ――きもちいい
 否が応でも息が荒くなる。股間に火が付いた気がして、身じろぎした。

 ようやっと放された時、息を整えながらも真っ先に思ったのは「どうしてやめるんだろう」だった。まだシェリーの左頬に添えられたままの親指が、頬骨を撫でた。その手に、自身の左手を重ねる。
 青緑色の双眸に浮かんだ感情を読み解けるだけの人生経験が、自分には無い。

「……ベッド、いかね」
 囁くように提案されて、小さく首肯した。

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06:18:21 | 小説 | コメント(0) | page top↑
5. h.
2026 / 02 / 09 ( Mon )
「全然。似合ってる。手首の傷跡も隠せてちょうどいいんじゃね」
「まったくもって同じこと思ってたけど……サラッと言うなあ」
「気ぃ悪くしたか」
「ううん。ありがとう」

「何の礼だよ」脈絡なく、乱暴に頭を撫でられた。何をするのだと上目遣いで睨んでやる。「あんま思い詰めんな。おまえは頑張って生きてる。それだけで、いいんだよ」
「…………ありがと」
 涙を見られたくなくてぐっと顔を背けた。
 ここに来てからやたらと謝罪と謝礼ばかり伝えているが、何度もそういう流れになってしまうのだから、仕方がない。

(雛鳥……私は、所詮は雛鳥なの)
 弾みで零れた一滴が、ワイングラスの中に音もなく落ちる。



 後に適当なテレビを流しながら、乾き終わった洗濯物を仕分けて畳んだ。男性のシャツは基本構造からして女性のそれとは違ったので、効率の良い畳み方を教えてもらうところから始まった。下着はもちろん、互いに触れたり見たりしないのがマナーだ。
 その作業が終わっても、外には出れないので、各々の過ごし方で時間を潰していった。リクターは自室に籠もって、たぶん仕事の為に資料を読んだり整理したりしている。

 昼間からワインなんて嗜んだものだから、シェリーはソファでひと眠りしてしまった。
 午後になって、当初の予定通りに残り物を再加熱して食べた。
 外では、強風が、建物を叩くようなひどい音を立てている。窓を覗いても雪が四方八方に飛んでいて空も地面も見えない。

「こえぇな。この音、夜中まで続いたら寝れなそう」
 二人でソファに座って午後六時のニュースを聞き流しながら、食事を済ませた。空になった食器をコーヒーテーブルに下ろすなり、リクターが嫌そうに言ったのだった。
「それは冗談のつもりで言っているの?」

 なんで――ワイングラスを口につけて、男は訊き返した。黒いセーターがやはりよく似合っている。
 つい、高い襟に隠れた喉仏を探してしまう。
 酔いが回り始めているのか、シェリーは普段よりも遠慮のない言葉を繋げた。

「だってあなたが怖がっているなんて想像つかなくて」
「おまえはオレを何だと思ってんだよ。恐怖の感情くらいあるわ」
「うーん、ダウト」
 同じように食器を下ろして、シェリーはあることを思いついた。

 ソファの上をザッと横切って、間にあった距離を無くした。心臓の音を聴いてみようと、胸元に耳を寄せに行ったのである。
 鼓膜に伝わる心音は、予想していたよりもずっと速い。
「……あんまくっつくと、また手ェ出すぞ」
 脚から肩まで密着したのだと気付いたのはそう呟かれてからだったが、右半身が温かくなってきて、離れがたい。

「謝らないよ。でも、男の人はそういうことばっかり考えてるって、本当なんだ」
 嘲笑いじみた吐息が頭の上を掠めた。
「そりゃあ、いい女が目の前をうろちょろしてたらヤりたいに決まってる」
 ぼっと首から上が赤くなったのを感じた。
 そんな風に見られていたなんて――いや、今更驚くような話でもないか、むしろこの高揚は驚きではなく喜び――

 あのね。
 ソファの端に素早く戻り、膝を抱えて、シェリーは消え入りそうな声で切り出す。
「お願いがあるの」
「なに、改まって」

 リクターはグラスに残り少ない赤ワインをぐるぐる回している。
 その一挙一動を、息を潜めて見ていた。薄い唇の隙間に、赤い液体が吸い込まれていくまでの一連の流れを。
 グラスが空になると同時にシェリーは囁いた。
「キスして、ください」




5 終わり。
ストーリー上、6は読み飛ばしても支障ないはずです。

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22:58:44 | 小説 | コメント(0) | page top↑
5. g.
2026 / 02 / 07 ( Sat )

 どうしてこんなに心揺さぶられるのだろう。水辺でのレジャーは人並み以下にしか楽しんだことはないし、水路での貿易や軍事の歴史に興味を持ったことも、今までなかった。
 扉が開閉する音で、短い白昼夢から醒めた。
 タバコの残り香を纏って戻ってきた家主が、おそらくシェリーの泣きそうな顔に気付いたのだろう、視線だけで「大丈夫か」と訊ねてくる。

「このライトハウスの写真、好きだな。アレクスみたい」
 目元に滲んだ余計な水分を手の甲で拭き取りながら、感想を述べた。
「は? 灯台に似てるだなんて、初めて言われたぞ。六フィート越えはそんな珍しくなくね」
「身長の話じゃないよ。うん、ごめんね、うまく説明できないや」

「……?」リクターは靴を脱いでソファまで歩み寄ってきた。「なんでライトハウス行ったんだっけな。眠れなくて徘徊してたっけ……こういうのってだいたい時代の流れで取り壊されるのに、ここのは文化財の保護協会が尽力して、なるべく元の状態で維持してるって話だったっけな」
「そうなんだ」

「行ってみたいのか」
 彼はライトハウスの名を口にした。ここからは車を一時間走らせれば届く距離にある。シェリーもかつてはこの町が地元だったので名前は知っていたが、州内の灯台の中では比較的地味で、人気の集まらない箇所だ。過去にそこを訪れた記憶はなかった。

「……そのうちね」
 胸中に芽生えたこのよくわからない感情は、まだ人に語れるものではなかった。
 旨そうな匂いが室内に充満し、そろそろ昼食の時間になったところで、外では雪がしんしんと降り始めた。



「うぅわ、激うま。やるじゃん」
「えぇ、そんなに」
 トマトビーフシチューを口にしたリクターが瞬時に絶賛したので、信じられない気持ちでシェリーもひと口、ライスに絡めて食べてみた。

 本当に美味だった。肉はとろけるように柔らかく、トマトの酸味と旨味が絶妙で、塩味もちょうどよかった。これまでに幾度となく同じ料理を作ってきたはずなのに、まるで新発見をしたような心地である。
「すごい。このメニューをこんなに美味しくできたことっていまだかつてないよ」
「大げさだな」

「ほんとだもん。きっと、一緒に作ったからだね」
「そんなわけあるか」
「あるよ」
 具体的な理由はないし、なくてもいいと思っている。

(美味しく食べてもらいたいって願いを込めたからかも、ね)
 キッチンカウンターで隣り合いながらの立ち食いスタイルなのに、スーパーで買ったピノノワールも相まって、不思議と特別感があった。
 こんなにも食事を楽しめたのはいつぶりだろうか。ワイングラスの中の赤い液体をじっと見つめながら、思考に耽る。

 楽しいと感じる度に、後ろめたさもあった。
 この時期に、心を躍らせるのは不謹慎ではないか。母がまだ生きていれば、かつて住んでいた町を訪れることも、ましてや昔の知人と再会してこんな風に過ごすことも、無かったはずだ。
 スプーンを持つ右手が、微かに震えた。
 幸せになりたいだけ、なのに。きっと、ただそれだけなのに。急に、何もかもを過っている気がして、視界が滲んだ。

「――腕輪」
 隣からもごもごとした一言を、投げかけられた。シェリーは必死に取り繕い、応じる。
「うん、何て」
「なんかトライバルな腕輪してるな。さっき買ったやつ?」
 リクターが指さした先は、確かに先ほどの服飾店で手に入れたばかりの木製の腕輪だった。横幅があって見た目は分厚いながら、着け心地は軽い。鳥や踊る原住民のような絵柄が彫られている。

「こういうちょっとはっちゃけた感じのアクセサリー、実は十代の時に着けてみたかったんだ。おかしいよね」
 照れ隠しに右手の腕に触れた。実をいうと少し家事の邪魔になってしまっていたが、左手には腕時計をしているので、こういう着け方に落ち着いたのである。

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03:48:34 | 小説 | コメント(0) | page top↑
5. g.
2026 / 02 / 07 ( Sat )

 どうしてこんなに心揺さぶられるのだろう。水辺でのレジャーは人並み以下にしか楽しんだことはないし、水路での貿易や軍事の歴史に興味を持ったことも、今までなかった。
 扉が開閉する音で、短い白昼夢から醒めた。
 タバコの残り香を纏って戻ってきた家主が、おそらくシェリーの泣きそうな顔に気付いたのだろう、視線だけで「大丈夫か」と訊ねてくる。

「このライトハウスの写真、好きだな。アレクスみたい」
 目元に滲んだ余計な水分を手の甲で拭き取りながら、感想を述べた。
「は? 灯台に似てるだなんて、初めて言われたぞ。六フィート越えはそんな珍しくなくね」
「身長の話じゃないよ。うん、ごめんね、うまく説明できないや」

「……?」リクターは靴を脱いでソファまで歩み寄ってきた。「なんでライトハウス行ったんだっけな。眠れなくて徘徊してたっけ……こういうのってだいたい時代の流れで取り壊されるのに、ここのは文化財の保護協会が尽力して、なるべく元の状態で維持してるって話だったっけな」
「そうなんだ」

「行ってみたいのか」
 彼はライトハウスの名を口にした。ここからは車を一時間走らせれば届く距離にある。シェリーもかつてはこの町が地元だったので名前は知っていたが、州内の灯台の中では比較的地味で、人気の集まらない箇所だ。過去にそこを訪れた記憶はなかった。

「……そのうちね」
 胸中に芽生えたこのよくわからない感情は、まだ人に語れるものではなかった。
 旨そうな匂いが室内に充満し、そろそろ昼食の時間になったところで、外では雪がしんしんと降り始めた。



「うぅわ、激うま。やるじゃん」
「えぇ、そんなに」
 トマトビーフシチューを口にしたリクターが瞬時に絶賛したので、信じられない気持ちでシェリーもひと口、ライスに絡めて食べてみた。

 本当に美味だった。肉はとろけるように柔らかく、トマトの酸味と旨味が絶妙で、塩味もちょうどよかった。これまでに幾度となく同じ料理を作ってきたはずなのに、まるで新発見をしたような心地である。
「すごい。このメニューをこんなに美味しくできたことっていまだかつてないよ」
「大げさだな」

「ほんとだもん。きっと、一緒に作ったからだね」
「そんなわけあるか」
「あるよ」
 具体的な理由はないし、なくてもいいと思っている。

(美味しく食べてもらいたいって願いを込めたからかも、ね)
 キッチンカウンターで隣り合いながらの立ち食いスタイルなのに、スーパーで買ったピノノワールも相まって、不思議と特別感があった。
 こんなにも食事を楽しめたのはいつぶりだろうか。ワイングラスの中の赤い液体をじっと見つめながら、思考に耽る。

 楽しいと感じる度に、後ろめたさもあった。
 この時期に、心を躍らせるのは不謹慎ではないか。母がまだ生きていれば、かつて住んでいた町を訪れることも、ましてや昔の知人と再会してこんな風に過ごすことも、無かったはずだ。
 スプーンを持つ右手が、微かに震えた。
 幸せになりたいだけ、なのに。きっと、ただそれだけなのに。急に、何もかもを過っている気がして、視界が滲んだ。

「――腕輪」
 隣からもごもごとした一言を、投げかけられた。シェリーは必死に取り繕い、応じる。
「うん、何て」
「なんかトライバルな腕輪してるな。さっき買ったやつ?」
 リクターが指さした先は、確かに先ほどの服飾店で手に入れたばかりの木製の腕輪だった。横幅があって見た目は分厚いながら、着け心地は軽い。鳥や踊る原住民のような絵柄が彫られている。

「こういうちょっとはっちゃけた感じのアクセサリー、実は十代の時に着けてみたかったんだ。おかしいよね」
 照れ隠しに右手の腕に触れた。実をいうと少し家事の邪魔になってしまっていたが、左手には腕時計をしているので、こういう着け方に落ち着いたのである。

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03:46:27 | 小説 | コメント(0) | page top↑
5. f.
2026 / 02 / 06 ( Fri )
(好きか嫌いかって言うと、好きじゃない寄りだと思うけど……顔に出てたなんて)
 最初の晩から、気を遣わせていたことになる。灰皿もいつの間にかコーヒーテーブルの上から消えていた。
 自宅なのに――。謝ろうと口を開いたシェリーを、これも先にリクターが制した。

「気にすんなって、これくらい。煙たいだろ。んじゃちょっと行ってくる」
 ――あのね! とシェリーは大声で呼び留めた。
「写真、見ててもいい?」
「……勝手にしろ」

 玄関扉がゆっくり軋みながら閉じた。その扉を数秒見つめてから、シェリーはビーフシチューの鍋に蓋をして火を弱め、そろりとリビングの棚に向かった。
 苦笑まじりとはいえオーケーが出たので、早速あの段ボール箱を手に取ってソファに腰を下ろす。枚数が多く、上から下まで順に見るのは大変そうだった。
 数枚ごとにまとめてめくっていく。

 景色や動物の写真が主で、人物がちゃんと映っているものは例の高校(ハイスクール)の頃の彼女を除いて、見当たらなかった。かと思えば、束の半ばくらいで女性がもう一人出てきた。
 こちらも過去の恋人だろうか――少し化粧が濃いめでアイシャドウの色が紫、その派手さがショートの黒髪に映えている。出るところが出ていて引っ込むところが引っ込んでいる体形の、肌色からしてヒスパニック系に見えた。顔つきや立ち方からして自信家っぽい。

(前の人とは違うタイプの美人さんだなぁ)
 あまりじっと眺めても劣等感に沈みそうなので、シェリーはめくり続けた。ポラロイド以外に、普通に現像された写真もある。

 それから廃墟の風景がたくさん出てきた。こんなところで撮って大丈夫なのだろうかとハラハラしながらも、物悲しい美しさに見入ってしまう。森林の写真も、靴が片方映ってたり、鳥や鹿を追っていたりと、視点が面白かった。これを撮った時の様子を想像すると、くすっと笑いが漏れた。

 時計の音と共に、穏やかな時間が過ぎていく。
 そのうちにひとつの考えが頭をもたげた。

(私にとってのあの人は……)
 アレクス・リクターは特別な、唯一無二の存在なのか。過去に共に過ごした二年とここ数日を足し合わせても、一緒にいたのは人生のほんの僅かな時間でしかない。互いに認識しているのは氷山の上部分、水面下にどんな本質が潜んでいるのか、計り知れない。

 シェリーが感じている愛着のような何かがまやかしだとしたら。
 たとえば彼が選びうる百人の男性の中の一人だったとしても、同じ気持ちでいられるだろうか。結局自分は他に男を、人間を知らない。好いた人と一線を越えるのは怖いはずなのに、そこまで気負っていないのは、異性への「好き」という感情に至っていないからだとしたら。

 母が死に、元々狭かった世界が閉ざされて、別の狭い世界に移ろうとしているだけではないのか。雛鳥が最初に目にした者を親と見定めるのと似た現象だったとしたら。
 ――この「好き」は実質、依存ではないのか。友達に向けていたはずの「好き」が孵る先は――?

 傷心中の隙に付け入ったようだと彼は言ったけれど、むしろこちらこそ傷心を癒さんと人肌を求めたとも言える。
 今後拒まれたら、どうなるのか。
 背筋がゾッと冷えた。と同時に、ある写真が目に入った。

 灯台だ。
 この州は巨大な湖に接しているため、古くからの灯台もいくつか残っていた。現代ではほとんどが使われておらず、取り壊されていなければ観光地化している。
 日中ではなく、夜で撮影したらしいのが印象的だ。
 写真の表面を指先でなぞった。

 全体的に映像が暗いが、陸の輪郭、灯台の白い外壁がちゃんと見てとれる。水面は荒々しく、風の強い夜に訪れたのは想像に難くない。シャッターが落ちた瞬間の空気の温度、波の音と水飛沫の感覚を想像した。
 辺りを照らして回転した光の、普遍的な心強さを想って、息が詰まった。

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06:19:28 | 小説 | コメント(0) | page top↑
5. e.
2026 / 02 / 04 ( Wed )
「あれ、私より手際が良い」
 自炊できると言っていたのは嘘ではなかったようだ。顔を上げず、男は淡々と告げる。
「食うのも作るのも嫌いじゃない。ただ、一人だと量の管理がしづらくて余った分を冷凍するか、同じ料理を何日も食べなきゃなんないだろ。飽きる」

「そういえば、あなたにはたくさん食べるイメージ、ないかも。昔から」
「食う時は食うし食わない時は食わない」
 頃合いなので、鍋に牛肉が追加された。じゅわっと熱気が舞う。シェリーは鍋の中身を時々木製スプーンでかきまぜながら、塩コショウを振りかけ、肉の色が変わるまで炒める。更には水と鶏がらスープを加え、更に半分に切ったトマトたちを加えて、煮立たせる。待っている間は調理器具を洗った。

 同時に、ライスも炊いた方がいいだろう。カウンター下のキャビネットから中サイズの鍋を取り出し、買ったばかりのお米を目測で二カップほど入れた。サッと水洗いした後は水を加え、コンロをもう一つ点けて、炊く準備をする。
 おまえさ、と傍らから声をかけられた。

「自分のこと無趣味って言ったけど、『こうすると楽しい』も趣味のうちだぞ」
「うん?」
 香ばしい湯気を顔に浴びながら、シェリーは首を傾げた。
「飯で創意工夫するのが趣味のひとつってことなんじゃねえの。家の中にあるもの組み合わせてパスタできたのもそういうアレ」
 言われてみれば――

「私、食べる量は少ないのに、作るのは確かに楽しい。あるものないものをやりくりするのが、かな」
 母との食事は当番制だったが、仕事の都合により、シェリーの方が頻繁に用意していた。褒められることはなくとも、完食してくれた日には、密かに喜んだものだった。

「あなたと喋ってると、私はいかに自分のことを理解していないのか思い知らされるよ」
「人との会話ってそんなもんだろ」
「じゃあそっちも私と話してて新しい発見とか気付きがあるんだ」
「まあそんなとこ」

「たとえば?」
「たとえばは今出てこないけど……要するに、楽しいよ」
「ほんとのほんとに? 話合わせてくれてるだけじゃなくて?」
「本当だって。オレはおまえと居ると、楽しい」
 微笑を添えられた。
 ――なんだか、照れる。

(何を言わせてしまったんだろう)
 前のめりに訊きこんだ自分を恥じて、心の中のざわつきを誤魔化そうと早口になった。
「これで三十分から一時間ほど煮れば、できあがりだよ」
「おー。なら、オレはちょっと席外す」
 まるで出かけるみたいに既にコートの袖に腕を通している男に、シェリーは驚いた顔を返した。

「何か用事?」
「んな大それた話じゃねえよ」
 リクターはトレンチコートのポケットからラクダの描かれた長方形の箱を取り出し、軽く振ってみせた。それを見て、察する。

「もうじき天気が悪くなるんじゃないの。わざわざ外に出なくても――」
「おまえこの臭い、あんま好きじゃねえんだろ」
 遮るように反論された。
「私そんなこと言ってないよ」

「なんつうか、顔に書いてあった」
 コートのボタンを留め終わった男は、靴紐を解かずにミリタリーブーツに足を突っ込んでいる。

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23:27:34 | 小説 | コメント(0) | page top↑
5. d.
2026 / 02 / 02 ( Mon )

 それが本屋の外で丸眼鏡をかけた大柄の男性と話し込んでいる様子だった。相手の人は五十代だろうか、髪と髭は白の割合が多いが、タバコを片手に快活そうに笑っている。
(知り合いかな。この町に住んでるんだから誰かと鉢合っても不思議じゃないか)
 店を出た後、話の邪魔をしないようにそっと近寄る。

「リクター、お前も一本どうだ」
「両手塞がってるんでやめときます。それに往来で歩きタバコはさすがに……」
「なにっ。そうか、受動喫煙がどうのこうので迷惑がられてしまうな」
 男性は懐から携帯灰皿を取り出し、火を消した。
「キャシーが昨日、家の前に着くなり外の排水溝で元気に吐いたらしいぞ。いやあ、タクシーの運転手にご迷惑をかけなくてよかった」

「あんたがアホみたいに飲ませたせいでしょうが」
 それに対して相手はガハハと大笑いした。リクターの対応はそっけないが、仲が悪いわけではなさそうだ。
「許せ! 今日が休みになったんだしなあ、誘いたくもなるさ。いつもバラバラに行動してるお前らの、珍しく足並みが揃ったんだ。はしゃいじまったなあ」

「誘われたって二度と行きませんよ」
「そう言うなそう言うな! ......ところで、お前の後ろの可愛いお嬢さんはどなた様だ? 妹はいなかっただろうに、どういう関係だ?」
 二人が話している間に近付き過ぎてしまったシェリーが、ついに言及された。リクターは肩から少し振り返り、また正面を向き直ると、やはりそっけなく男性に応じた。

「詮索はマナー違反ですよ」
「はっはっは! これは失礼した。残念だが、紹介してくれるまで待つさ」
 大柄の男性はリクターの肩を一度ぽんと叩いてから、屈んでシェリーに耳打ちしてきた。
「難儀な奴だけど、仲良くしてやってくれ」
 返事を待たずに男性は手を振り、颯爽と人の流れの中に消えていった。

 ――友を、或いは子を、想うような波動を感じた。
 再び歩き出してしばらくして、シェリーは口火を切った。
「さっきのは一緒にお仕事してる人?」
「チームリーダー、取材班の責任者ってとこ。数年前、この近くで大規模なデモ活動があっただろ。そん時居合わせたから野次馬精神で俯瞰して写真撮ってたら、その写真売ってくれってあいつに声かけられたのが始まり」

「へえ、そんなことが」
 偶然の連鎖で就いたと言っていたのは、こういう意味だったのか。聞くところによると、世論に触れたり社会問題を掘り下げるスタイルの週刊紙らしい。
「でもそれだと、危ない目に遭ったりしない?」
「たまーにな」

 やたらと間延びした返事からは、はぐらかそうとする意図を感じた。かといってシェリーには、問い詰めることもできない。
「昨日の女の人も仕事仲間だったんだね」
「そ」
「仲いいんだね……泊めるくらいには」

 つい、ぽろりとこぼしてしまった。「詮索はマナー違反」の言葉が脳内に浮かんでいる。今自分はどんな声で言ったのだろうか、どんな顔をしているのか。わからないが、リクターはこちらを振り返らずに歩いているので、たとえ醜い表情だったとしても、見られていない。
 長い間があった。
「その話、今必要か?」

「…………ごめん」
 必要ではない。
 ないけれど、話を強制終了させられて、どうしようもなく胸が苦しかった。



 洗濯物を乾燥機に移してから、食事の準備に取り掛かった。昼食までに完成させて、晩御飯に再加熱して食べる心積もりである。
 いざ調理を始めると、リクターが肉を角にする作業を申し出てくれた。少し気まずい空気のまま――こちらが一方的にそう感じている気もする――並んで台所に立つ。
 シェリーは換気扇をつけ、たまねぎやニンニクを切ったり炒めるなどした。一度、まな板を盗み見た。

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03:03:00 | 小説 | コメント(0) | page top↑
5. c.
2026 / 01 / 31 ( Sat )
「両方買って、白は別の日に飲めば解決だな」
 リクターが酒売り場にとんぼ返りした。
 ――また彼は、未来の話をする。
 嬉しさと苦しさに眩暈がした。再び繋がれたこの縁は、本当に続いていいものなのか。期待しても、いいのだろうか。また別々の生活に戻る時が来ても、消えない何かが残るのだと――。

「そんでおまえは何をつくる気なんだ」
 ワイン瓶を増やして戻ってきた男が、買い物籠の中のチャックローストを指さした。
「トマトビーフシチューだよ。牛肉三ポンド買ったら半分は後日、ビーフストロガノフにしてもいいかも。牛肉、好きだよね?」
 根拠は安直、ビーフジャーキーをかじっていたからである。

「肉も魚もピザも麺類も、作ってくれんなら何でも食う」
「それは作り甲斐ありそう」
 楽しくなってきた。こころなしか軽い足取りで、レジに向かっていく。
 買い物袋は全部で三つになったので、シェリーが一袋、リクターが二袋持つ運びとなった。

 スーパーマーケットを出ると、ここ数日に比べて、気温が妙に高く感じられた。これは天候が崩れる前にたまに見られる現象で、よほどの吹雪が来ることを予感させる。曇天が不穏な空気を漂わせている。
 袋が手のひらに食い込んで痛くないのかとか重くないのかと横の男に質問すると、平気、と応答があった。

「考えが及ばなかったな。車出せばよかった」
「アレクス、車持ってるの」
「一応。大体の用事は徒歩かバスでどうにかなるけど、仕事で使うから」
 面白味のないボロい中古車だと彼は言い張った。
「そうなんだ」

「おまえは持ってねえの」
「免許はあるんだけどね。場所の良いアパートだから、仕事もプライベートも困らない。車が要る時はレンタカー、それかカーシェアサービス使ってる」
 シェリーが住む区域はこの町よりも都市部な、首都の中心にある。建物が密集していて駐車スペースが限られているので、個人や家庭で車を所持・維持する方が大変なまである。

「ふうん。そりゃ車で来てたら最初の晩にどこ停めていいか訊いてきたはずだよな」
 ひとりでに納得したように、男はボソリと呟いた。
 それから数分歩くと、アパレルショップの前で、ふいにシェリーは足を止めた。店頭のマネキンが目に入ったのである。暗い赤紫色のブラウスが、今着ている借り物のセーターを思い出させたからだ。

 生前、母は大人っぽくて派手(彼女曰く『セクシー』)な服を着させてくれなかった。大学生の時に自腹で買ったジーンズはかろうじて許してくれたが、総じて「清楚」と評される衣服しか、シェリーは持っていない。
 母がどう思うのか気にする必要はもうないのだ。
 大胆なネックラインのシャツもミニスカートもビキニも、本当は興味ある。このマネキンのスカートも、花柄のプリントがとても綺麗だ。

「あー……見てくれば」
 リクターは、黒い手袋をはめた手を差し出してきた。手持ちのビニール袋を渡せとの合図だ。
「え、食材をこのままにできないよ。特に生肉」
「数分程度で腐りゃしねえって、真冬に。ほらよこせ」
「わ、私、今服を買うつもりじゃ」

「買わなくても、見るくらいはいいんじゃねえの。通販するにしても今後どういうのが欲しいか、イメージしやすくなる」
 そう言われては、シェリーは断れなくなった。
 遠慮がちにショップの冷たいドアハンドルを引いて、一人で中に入る。ちりりんと可愛い鈴の音がした。恰幅の良い女性店長が明るく迎え入れてくれる。

「いらっしゃい、今日はどんなものをお探しで?」
「あ、いえ。少し見て回りたいだけで、これといって目的の物は無いです」
「そうですか、構いませんよ! あちらの壁際の商品は全種二割引きで――」
 店長の話を聞き流しながら、シェリーは軽く店内を見て回った。素敵な服は多々あれど、なんだか気恥ずかしくなって、どれも手に取れなかった。試着するのも手間だ。

 アクセサリーの棚に目を引かれ、腕輪を買うことにした。
 会計を済ませ、あの男はどうしているだろうかと姿を求めて、ガラス窓の外を見やる。

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00:55:14 | 小説 | コメント(0) | page top↑
5. b.
2026 / 01 / 29 ( Thu )
「すごい溜めるんだね」
 重くてシェリーでは持ち上げられないので、察したリクターが適当に衣類の山を崩して軽減してから籠を廊下に運び出してくれた。
「一人暮らしなんて二週間に一度洗濯機まわせば十分」
「……臭ったりしない?」

「まあそれなりには。カビ生えなきゃなんでもいいだろ、最終的に洗いさえすれば」
 男は悪びれずに答える。シェリーは苦笑して、壁の棚から洗剤を取った。
 確かに、シミでも残らない限りはなんでもいいのかもしれない。市販の洗剤は強力で、大抵の汚れは数日後でも洗い落とせる。部屋の隅が多少の悪臭を放っていても、生活に支障はない。
「そっか、細かいことを気にしすぎないのは、肩の力を抜いて生きるための知恵なんだ」

「勝手に良い話風にまとめてるけど、面倒臭がってるだけだからな」
「わかってるよ。でも、私もたまには見習うことにする」
 ドサドサと洗濯機の中に落とされる衣服を眺めながら、シェリーは微笑んだ。手を伸ばして、洗濯物の一枚一枚の間に良い感じの隙間ができるように調整する。こんな些細な日常の作業に癒やされるのもおかしな話だ。

 洗剤を入れて、サイクル設定をいじって、後はスタートボタンに人差し指を伸ばして――
 ――カシャ。
 横から小気味の良い音がしたのと同時に眩い光があった。
 驚いた拍子にボタンを押す。古い洗濯機はたちまち、けたたましい音を立てた。

「と、撮ったの、今。え、なんでこのタイミングで」
 インスタントカメラのレンズに向かって問い詰める形となってしまった。目線の高さにあったのがそれだったからだ。持ち主の返答を追うように、手から腕へ、腕から肩へ、そしてその先へとシェリーは視線をなぞらせた。

「いい被写体がいたから」
「被写体の許可なしに撮らないで」
「以後、気を付ける」
 アレクス・リクターはそう言って少年のように笑ったので、シェリーはそれ以上怒ることはできなかった。

 むず痒い。
 言葉にならない気持ちを誤魔化すようにして、顔を逸らした。
「ともかく。写真コレクション、ちゃんと見たいな」
「あー、後でな。買い出し優先」
「ん。もちろん支度するよ。でも後で見せてね、約束だからね」

「わーかったって」
 今度こそコーヒーを淹れに、リクターが台所に向かっていった。すぐに背を向けられたので、どんな顔をしていたかはわからない。





 いつもながら、角切り肉は値が張る。
 かたまりで買って自分で切った方が安上がりだ。
 どうせ時間はあるのだから、手間をかけてしまえばいい。

(鶏がらスープの素もあった方がいいよね)
 たまねぎ、トマト、ニンジンが欲しい。合わせる炭水化物は米でも麦でもいいし、オルゾもいいかもしれない。買い物かごにどんどん食材が並んでいく。
 スーパーは平日の朝に関わらず人が多かった。皆、おそらく同じ考えなのだ。
 腕にかかっていた重みが、ふいに消えた。

「重いだろ」
 これくらい持てるよ、と返そうとして、シェリーはやめた。男の手にあったガラス瓶が目に入ったからだ。白ワインが好きだと先日言ってしまったから、わざわざ探してきてくれたのだろうか。
「リースリング? 牛肉に合うのって赤ワインじゃなかったっけ」

「なに、そういうのこだわる方」
「……変かな」
 思わず俯いた。
 こだわっているのではない、受け売りだ。食事と酒の相性に詳しかったのは母だった。そんなことを思い出しては寂しくなり、都度落ち込む。

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01:30:57 | 小説 | コメント(0) | page top↑
5. a.
2026 / 01 / 28 ( Wed )

 他人のベッドで寝起きするなんて絶対に落ち着かないはずだったのに、思いのほか安眠できた。シェリーに自覚はなくても、身体はより良い寝床を求めていたようだ。
 ただひとつ気がかりなことがあって、四角い天井を見上げながらモヤモヤと考え事をした。

 ――タクシーに一緒に乗っていたあの女性は――
 誰なのか聞けずじまいだ。リクターに『泊めて』と何事もなさそうにねだっていたし、『前は泊めてくれた』とも言った。少なくとも、最初の日にあんなに逡巡して泊めてとお願いした自分よりかは親しそうな間柄である。

(ぞんざいに扱ってたのも親しさの表れだったら……)
 思い詰めすぎて泣き出しそうで、情けない。どうしてこんなに気になるんだろう。彼がどこで誰と何をしていようが、口出しできる間柄ではないのに。
 上体を起こし、気を紛らせようと、ベッドの上に散らばる衣服を眺めた。脱ぎ捨てられた服、そこから連想して色々なことが脳裏を駆け走った。

 木製の扉がコンコンと叩かれる音で、ハッとした。
 顔を上げると、入口に寄りかかった長身の男が目に入った。黒いタートルネックのセーターを着て、髪も普段通りに首の後ろで結んでいる。
 そういえばシェリーはなんとなく扉を閉めずに寝たのだった。

「おはよう。自分の部屋なのにノックしたの?」
「自分の部屋でも他人が使ってたらそりゃノックするわ」
 ごもっともな話である。どうしたの、と訊く。
「コーヒー淹れるとこ。飲むか」
「うん、お願い」

「わかった。……って、なんだよ」
 じっと見つめてしまったらしい。男は眉を吊り上げて問うた。
「そのセーター、いいね。かっこいい」
 素直にそう感じた。一昨日も確か似たようなものを着ていた。背の高い人の着るニットは様になるものだと、しみじみ思った。

「ああ、似たようなのが色違いであと五枚はある。おまえも着るか」
 言いつつ男は部屋に入って、クローゼットを開けている。
「え」
 そういう意味で『いいね』と言ったわけではないのだが、思えば着る物が減ってきているので、有難い申し出かもしれない。
 暗い赤紫色のセーターを手渡された。伸縮するタイプの編み模様で、案外サイズが違うのもどうにかなりそうだ。

「男の人もこういう色を身に着けるんだね」
 感心しながら受け取り、ベッドから下りる。足の裏に触れるカーペットの感触は、少し冷たい。パジャマが厚めの生地で助かった。
「別にオレの好みじゃねえよ。マルチパック買ったら入ってただけ」
 ――色違いで何枚も持っているわけだ。
「マルチパックお得だもんね……ちなみに好みの色は?」

「あんま考えたことねえな。緑か黒?」
 なるほど、それっぽい。
「あのね。そろそろ洗濯しても、いいかな」
「廊下のトイレの横のスペースに洗濯機と乾燥機があるだろ。遠慮すんな」
「ありがとう」部屋の隅にある洗濯籠に視線を投げた。積み上がった服が籠の外に溢れている。「あなたも洗濯しなきゃならないなら、ついでに……まぜても、いいかな……」

「オレはそんな神経質に見えるか」
「見えない、けど」
「おう。おまえの方こそ気にならないなら、まとめて突っ込んどけば。むしろ助かる」
「わかった」
 気にならないわけがなかった。男女の下着を一緒くたにして洗濯をした経験は、父がまだ家に居た頃の遠い記憶の彼方だ。折り畳むのは更にハードルが高い。
 けれど世話になっている身でこの程度のことに足踏みしていては、かっこ悪い気がした。

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01:13:24 | 小説 | コメント(0) | page top↑
4. g.
2026 / 01 / 23 ( Fri )
「違うよ」
 返答を噛み締めているような神妙そうな間があった。その間、掴まれた指先が弄ばれているので、なんともいえない気分になる。
「そうだとしても、オレは無闇におまえを傷つけたいわけじゃ、ない」
 ぎゅっと手を握られた。
 それに対して、全身がざわついた。

(どうして後になって……私が痛がってたから……?)
 鋭い彼のことだ、こちらが初めてだったのも察して、気を遣っているのかもしれない。
 背後からはもちろん男の表情は見えない。感情を抑えているような静かな物言いに、シェリーもまた静かに伝えた。
「わかってるよ」
 手を握り返した。

 ああいうことがあった後でも、触れることに抵抗を感じなかった。未知の行為への恐れは終始あっても、この人は怖くなかった。
 ――わかっている。言動と行動の奥からにじみ出る思いやりを、しみじみ感じている。あなたが負い目を感じる理由なんて、どこにもない。
 あの、とシェリーは別の話を切り出した。

「お名前、アレクスって言うの」
 繋がれていた手がぴくりとみじろぎした。
「…………郵便物にはラストネームしか載ってないはず」
「タクシーに乗ってた女の人が呼んでたから」
「あんのクソ女」

「今も自分の名前が嫌いなの?」
「嫌いだよ」
「どうして? いい名前だと思うよ」
「ありふれててつまんねえからだよ。アレクス・リクターなんてこの町だけでもあと三人くらいは居そうだろ。もっと独創性のある名前に変えようって思っても、手続きがややこしいし」

「それを言ったらシェリー・ハリスだってあと三人は居そうだよ。人口が多いんだからしょうがないよ」
 そりゃそうだ、と欠伸まじりにリクターが相槌を打った。
(うーん。同姓同名が何人居たって、私が会いたいアレクス・リクターはあなただけなのに)
 恥ずかしいので、そうとは言い出せず、シェリーは手を放した。意味もなくタオルを折り畳んでみたりする。

「明日お休みになったって話も聞こえたけど」
「あー、なんか昼頃に嵐で大雪が来るらしいぞ。念のため会社閉めるってさ」
「え、そうなの」天気予報をチェックする習慣があったはずなのに、ここ数日が普通と違ったせいですっかり忘れていた。「それは困る」

「何でだよ。出かけるつもりだったのか」
「大した予定じゃ……でもスーパーくらい行かないと、食べる物が無いよ。雪で数日閉じこめられる場合は大問題だよ。朝の内に行けないかな」
「なるほど。なら、朝一に行くか」

「うん。そうしよう」
 話がまとまったところで、シェリーは歯を磨いて服を着替えようと、踵を返した。一歩踏み出したところで声がかかった。
「寝なおすなら、おまえがマスターベッドルーム使え」
 リクターは片方の肘をソファの上にのせた姿勢で振り返っていた。

「え? 悪いよ」
「さっき床で居眠りしたんだろ、下手すりゃ腰痛めるぞ。今日はちゃんとしたところで寝ろ」
 暗さにより今は深い青色をした瞳にじっと見上げられ、これまたドキッとした。
 ――ほらやっぱり、気が回る……。
 有無を言わせぬ家主の圧力に、折れるしかなかった。

「えっと……じゃあ、ベッド借りる……よ」
 顔が赤くなった気がして、急ぎ足で立ち去る。おう、と背後から返事があった。
 廊下に入る直前でシェリーは立ち止まって、ひとつ勇気を出した。
 目を合わせない程度にソファの方を見やる。

「お休み、アレクス」
 怒られるのを覚悟で呼んでみたが、ひと言が返ってきただけだった。
「…………お休み」

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