4. f.
2026 / 01 / 22 ( Thu )
「悪い、起こしたか」
 肩にタオルをかけたリクターが、黒いボクサーブリーフのみをまとって現れた。
「それはいいよ……服着て、お願い。冷えるよ」

 目を逸らして苦し紛れの文句を言う。本当は冷えるのを心配しているよりも、男のパンツ一丁姿に動揺している。彼が自宅でいつもシャワー上がりにその格好なら、居候のシェリーが苦言を呈することこそ不当かもしれないが。
 おう、と文句を言われた方は特に反論せずに自室に引っ込んだ。そしてスウェット姿になって再び現れる。

「具合はもういいの?」
「ちょっとはマシになった。喉とか頭が痛いけど」
 まだ濡れている髪を、タオルでガシガシと拭っている。言われてみれば、話し声がいつもより枯れている感じがする。
「あ、そういえばサンドイッチとお薬ありがとう」

「食えたか」
「うん。大丈夫だったよ」
「そりゃよかった」
 言いながらも、男は屈んでコーヒーテーブルに未だに置いてあった錠剤の瓶の蓋をポンと開けた。どこでも買える一般的な抗炎症薬で、二日酔いの症状にも効く。リクターは素早く薬を飲み込んで、どこからか出したビーフジャーキーをかじり始めた。
 髪は依然として濡れたままで。シェリーはふと提案した。

「髪の毛乾かすの手伝おうか」
「じゃあ頼むわ。ヘアドライヤー、先週ぶっ壊れたばっかで買い換えてないんだよな」
 リクターがソファに腰を下ろしたので、背後に回ってシェリーは手を伸ばした。タオル越しに伝わる感触は、濡れているけれど温かい。
 数分ほど、静かにそうやって過ごした。ジャーキーが咀嚼される音と冷蔵庫の音、そして時々古びた暖房の音が共にあった。
 やがて彼がボソッと言った。

「さっき髪結ってもらったの、助かった」
「どういたしまして」
「狭い場所じゃもらいゲロするかもしれないのによくやるな」
「えー? あの時はそんなこと考えてなかったな」
 確かに吐しゃ物を見たり嗅いだりしたらこちらも吐き気を誘発される恐れはあったかもしれない。今になって、そのことに気付く。

「おまえは自分で思ってるより、肝が据わってるよ」
「そうかな」これは褒められたと受け取っていいのだろうか。照れくさいので、シェリーは話題を変えた。「そういえば家賃と水道電気代を払おうと思うのだけど」
「まじめな奴だな。そういうのは一週間過ぎてから気にしろよ」
「い、一週間以上もいていいの」

「気が済むまでっつったろ。オレがいいんだからいいんだよ」
「……ありがとう」
 消え入るような声で応じた。
 いつまでも甘えていられない――来週には仕事に戻ると上司には伝えた――と思っていた決心が、揺らぐ。元の生活を取り戻さねばならないという義務感と、現実逃避をまだ続けたいという願望が、相反して同時に存在している。
 どこかでけじめをつけねばなるまい。判断を、なおも先送りにする。

「だいたい乾いたかな」
 右手にタオルを握り、シェリーは手を引こうとする。
 左手の指を掴まれた。
 急にどうしたの、とは口に出せなかった。
「昨夜は…………悪かったな」

「昨夜?」
 いつになく歯切れの悪い言い方である。
「傷心中の、隙に付け入ったみたいになって」
 この数日の時間感覚が歪んでいるのですぐには話が見えてこなかった。しかし此処であった出来事で、謝罪されるような要因となると、心当たりはひとつしかなかった。

「あれは合意の上でだから、あなたが謝ることないよ」
「売り言葉に買い言葉じゃなくてか」

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03:51:27 | 小説 | コメント(0) | page top↑
4. e.
2026 / 01 / 20 ( Tue )

 何でおまえがここに――と男は視線で訴えかけている。
 シェリーは恐怖に硬直した。
 十年以上前、リクター家の父親が酒に荒れていた時を思い出したからだ。物を投げたり、殴ったり、とにかく怖かった。
 家族を反面教師にしていたはずの彼が、同じ真似をするはずがないのに。普段から粗暴な印象がありながら根っこでは常識人なのだと、シェリーは思っている。

「ゴミ出しか」
 訊ねられても、本能的に声が出せなかった。委縮して一歩下がるまでした。
「貸せ」
 こちらの反応に気付いていないのか、男はズカズカと歩み寄り、ゴミ袋をひったくった。
 目元が赤いし、息がだいぶ酒臭い。理性が保たれている状態なのか否か、シェリーには判断がつかなかった。
 放っておけない気がして、後ろについていった。

「くっせえな。何か死んでんじゃねえのか。ゴミ捨て場だから当たり前か」
 悪態をつきながらリクターはゴミ袋を豪快に投げた。六フィートはある高さのゴミ捨て場なのに、綺麗な放物線を描いて、袋は目的地にしっかり到達した。
 感心する間もなく男がふらふらと歩き出したので、シェリーは慌てて後を追った。
 玄関を通る瞬間まで互いに無言だった、が――

「無理。こりゃ、戻しちまった方がいいな。廊下のトイレ使っていいか」
 青い顔でそう言われて、シェリーは激しく首肯した。
 酒を飲み慣れているがゆえの躊躇のなさか、口元を黒い手袋で押さえつつも、リクターは靴を脱がずに廊下を進んで、やるべきことをやった。
(あ、髪ほどけてる)
 困るかもしれない。

 シェリーは邪魔しない程度に背後から近付き、肩まで伸びっ放しになっている茶髪をヘアゴムで緩く結び直してあげた。飛沫がつこうものなら不潔だし、臭いが眠りの妨げになるかもしれない。
(お水取って来よ)
 他に何をしてあげられるか考えた結果、そうなった。自分は決して酒を飲み慣れている方ではないが、これでも大学に数年通ったので、脱水が人類の敵なのはよくわかっている。

 シェリーが台所でコップに水を注いだ間に、リクターはコートと靴を脱いでソファに仰向けに寝転がっていた。身長があるぶん、足先がはみ出ている。
 歩み寄り、水を差し出した。
 一言なりとも「大丈夫」或いは「お水どうぞ」と声をかけたいのに、できなかった。正確には、まだ声が出ないようである。

 幸い、差し出したコップは受け取ってもらえた。男は気怠そうに上体を起こして水を飲み干し、コップを返してきた。常ならぬモゴモゴとした発言だったが、たぶん、礼を言っている。そうしてドサッとソファにまた倒れ込んだ。
 シェリーが台所に行ってから、しばらくして、鼾が響いてきた。

 あまりの音量にびっくりして振り返った。これも異性と関わらなかった人生の弊害か。そういえば父も鼾がすごい方だったと思い出して、懐かしくなった。旅行先でホテルの部屋が一緒だった時は、父より先に就寝しないと鼾がうるさくて寝付けなかったものだった。
(でもこれ大丈夫なの? 無呼吸症候群とかじゃない?)
 額に手の甲をのせ、眉をぐっと寄せるさまは、寝苦しそうだった。

 忍び足でソファの傍まで寄り、覗き込んだ。
 ワイシャツの上から三個目までのボタンが外れているのは、先ほど自分でやったのだろうか。冷えないよう、シェリーはウール製の毛布をそっと肩までかけてやった。
(さて、私は今夜どうすれば……)
 寝室に入るのはどうにも気が引ける。かといってここに残るなら、誰かが寝ている以上、電気は切るべきだ。もはや静かに思考するくらいしかできることがない。

 結局は予備の毛布に包まり、ソファに寄り添う形でカーペットに座した。数分ほどして、鼾が落ち着いてきたのか、段々と煩いのではなく心地良い音と感じるようになった。
 そのままの体勢でシェリーはうとうとし出した。
 冬に床で寝たというのに、不思議と寒くはなかった。


 *


 いつになく穏やかな睡眠を得られた気がする。夢すら見ない、深い、真っ暗な休息。
 物音で目が覚めた。
 左手の腕時計を手繰った。部屋の中は薄暗いが、時計に使われている蛍光顔料のおかげで十一時四十五分なのが見て取れる。

 果たしてそれは午前か午後のどちらなのか。カーテンの外は暗いし、周囲が静かすぎるので、おそらくはまだ夜。首を巡らせると、ソファが無人となっているのを知った。
 廊下の床に明かりが伸びている。それをじっと見つめていると、明かりの上に、影が揺れた。

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23:26:31 | 小説 | コメント(0) | page top↑
4. d.
2026 / 01 / 19 ( Mon )

 とにかく手足を動かすとこからだ。
 髪の毛を団子にまとめ、冷蔵庫の中を拭いて、玄関先を掃いて、昨日は途中までだった埃拭きを続けて、手当たり次第に掃除してみた。
 カウンターに立っておそるおそるサンドイッチの半分をかじったのが、午前十一時。
 本棚の一角に目をやった。

 リクターは雑誌や新聞紙の他にも、ハードカバーのノンフィクションから、ソフトカバーの小説も多数所持しているらしかった。家族が残したものはほとんど手放したか物置代わりの二番目のベッドルームに押しやっていると、確か彼は言っていたので、私物なのだろう。
 とあるオレンジ色の背表紙の本が気になって、取り出してきた。
 表紙にはトカゲの絵が描かれている。短いタイトルからは内容が想像できない。裏表紙のあらすじ書きは敢えて確かめず、シェリーはソファに座り込んで、最初のページからめくってみることにした。

 元軍人男性が砂漠で死にかけるところから始まった。
 文章は読みやすく、展開もスピーディ。ジャンルは近未来SFでいいのだろうか。キャラクターはひとりひとりが作り込まれていて、掛け合いに信憑性があった。主人公は凄惨な過去を乗り越えて、儚げな女性と愉快な仲間たちと絆を育みながら強大な敵に立ち向かっていった。表紙のトカゲは実は二足歩行ができる幻獣だったらしく、仲間の一人だった。
 水を飲むなりトイレに行くなりの休憩を除いて、時間を忘れて読み耽った。

(超面白かった)
 気に入っていた登場人物の最期が衝撃的だったが、読み終わって更に丸三十分は呆けてしまう程度には物語にのめり込めた。娯楽に我を忘れたのは、実に何年ぶりだろう。
 気が付けば陽が傾きかけている。
 ようやく、意識が小説の内容以外のことに向かった。

(すごいな彼は)
 無趣味な自分と違って、家の中にあるもののほとんどに「個性」を感じる。埃を被っていた小説の一冊にすら、選んだ者の性格が滲み出ているようだ。
 つまらない自分がつまらなくなるためのヒントが、ここにあるかもしれない。他人にそれを求める時点で、結局ダメな気がしなくもないが――
 カーテンを開けて窓の外を眺めた。

 夕焼けの空が暗闇に転じるのが早い。
 ここから見下ろせる電灯の先に何があったろうか。かつてシェリーが住んでいたユニットは建物の反対にあったので、駐車場側のこの眺めには慣れない。
 数分こうしている内に、大きな白いビニール袋を手にした住人を二、三度見かけた。

 ゴミが回収される日は何曜日だったか。集合住宅はいつでも捨て場に家庭ゴミを持って行っていいのだが、業者が回収に来る前日に出すと、すっきりするものだ。逆にこのタイミングに限ってゴミ置き場(ダンプスター)がいっぱいになっていて置く場所がないこともあるが。
 さっき、台所のゴミ箱が限界だったのを目にしている。シェリーは袋を取り外して、今から捨てに行くことにした。



 寒い上に、暗い。
 十分に着込んできたものの、ゴミ袋が思ったより重くて、外階段を降り切ったところでシェリーは立ち止まった。ゴミ捨て場までの道のりはそう長くないが、電灯が点滅していて気味が悪い。
(こっちだったよね)
 数歩歩き出し、駐車場を横切り始めて、突然現れたヘッドライトの明るさに怯んだ。すぐそこでタクシーから誰かが出てくるようだ。

「ねえアレクス、待ってー、泊めてよぉ。宅飲み二次会しよーよ」
 降りたばかりの乗車客を引き留める白い手が、車内から伸びている。
「あぁ? ふざけんな。平日だっての」
 女性の手が乱暴に振り払われた。
「いいじゃなーい。明日休みになったじゃーん。前は泊めてくれたのにぃ、ケチ」

「うるせえぞ酔っ払い。タクシー代払ってやったからさっさと帰れ」
 アレクスと呼ばれた長身の男は、大げさな音を立てて扉を閉めた。
 ええー、と女性の抗議が窓越しにも伝わったが、タクシーの運転手はすかさず車を出した。
(酔っ払ってるのはどっちもじゃないかな)

 世間のレストランとバーでは平日だいたい午後五時から七時の区間を「ハッピーアワー」と称してメニューやお酒を大幅に割引するのが流行らしいと、大学時代から聞き知っていた。
 深い緑色のトレンチコートを着た男は道端に唾を吐いてから、振り返った。
 目が合ってしまった。

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23:16:17 | 小説 | コメント(0) | page top↑
4. c.
2026 / 01 / 17 ( Sat )

 無意識に下腹部に手を当てた。
 ――むちゃくちゃに痛かった……!
 世の中の女性の皆様は本当にこんな苦行に耐えてきたのだろうか。
 昨晩の顛末に、後悔はない、けれど。

(やってしまった感はある)
 ずるずると廊下を進み、顔を洗って歯を磨いて、頭の中を整理した。
 今日がもう月曜日ならば、一度は事務所に電話を入れてみるのもいいだろう。シェリーは先延ばしにしている諸々の問題に、ほんのちょっと想いを馳せた。
 リビングに戻って電気をつけると、テーブルの上のビニール袋が目に入った。こんなもの、いつからあったのだろう。

 袋の隣にちょこんとプラスチックの小瓶が置いてあった。手に取って確認してみると、痛み止めの錠剤だった。中身がやや軽いのとラベルの端がはがれかけている点を踏まえると、これは最近買ったのではなく前から備えてあったものと見て取れる。
 袋の中には包み紙に入った生温かいハムサンドイッチがあった。朝早くに買ってきてくれたのだろうか。

(気が回るなあ……私は自分のことでいっぱいいっぱいなのに)
 嬉しいのと恥ずかしいのと申し訳ないのとで、頭がぐるぐるする。とりあえずラベルの指定通りに痛み止めを二錠、水で流し込んだ。
 だるさが軽くなるまで、じっと座って思案した。
 買い出しや洗濯物にそろそろ着手したい。それと先ほどトイレを使った時に気付いたことだが、スカートに血の跡がついていた。

 ――いっそ、捨てようか。今までのしがらみをひとつずつ切り離す踏ん切りがつけば、この数日間にも意味が出るというもの。
 いずれにせよ、これ以上の家事は家主に相談なしに取り組みたくない。
 サンドイッチは冷蔵庫に一旦入れて、昼食に取っておくことにした。残り枚数の少ない服から一式選び、着替えて、伸びをした。

「えっと、お電話借りるよ」
 いない相手に断りを入れて、壁の受話器を取った。
 職場の番号は暗記済みだ。営業時間中なので、デスクはすぐに取り次いでくれた。シェリーを配下とする弁護士の男性と、案外あっさりと繋がった。
『やあ! 君から連絡してくれて安心したよ。あれから様子はどうだい』

「いえとんだご迷惑を……お待たせしてしまってすみません。今週中はちょっとわかりませんけど、少なくとも来週までには職場復帰できると思います」
 来週までここに居座るかどうかはまだわからないが、それはこちらの話である。
『いいんだよ、気にすることないさ。ゆっくり休んでくれ。一人いなくなって回らなくなるような仕事の割り振りはしてないよ。そうそう、ジェニーが受け持っていたケースは概ね引継ぎが――』

 ジェニーとは母の愛称だ。ほとんどソロ(アシスタントはいてもメインの法律家は一人)で事務所を経営していたので、亡くなった後はやりかけの案件を他の人が引継ぐ必要があった。クライアントが自ら後任を探すしかない場合も多いらしいが、さすがは母の人脈と人望か、意外と早く片付きそうだと言う。
『まああまり詳しいところは君には関係がないかな。とにかく元気にさえなってくれれば、彼女の後輩として君の世話を任された僕としても、それ以上は望まないよ』

「ありがとうございます」
 雇い主への感謝に濁りはなかった。
 きっと彼も、そして母の事務所のスタッフも、悔しいのは同じなのだ。どうしてこうなる前に止めてやれなかったのか。どうすれば分かり合えたのか。これは葬式で既に出尽くした話題だ。

 永遠に答えが出ることはない。それでも考えずにはいられない――もっと自己主張していれば、何かが変わっていたのか。
 目頭が熱くなった。
『ところで隣の市外局番(エリアコード)からかけてるみたいだけど、自宅に居ないのかい』

「あっ、はい。外出先から、電話を借りているんです。深い意味はありません」
 シェリーは焦りを隠すように早口になって、かえって不自然な物言いになった。
『そうかい? でもこの前会った時よりはずいぶん元気が戻ったみたいだね。よかったよ」
「重ね重ねありがとうございます。またお役に立てる日までに、英気を養っておきます」
『ははは、堅苦しいね。また一緒にやっていこうね』

「はい」
 会話終了の挨拶を交わし、電話を切った。
 表情筋が和らぐのを感じた。
 ほんの数日前に比べて前向きな気分になれている。自分の両足で立ち上がれそうな、前に進められそうな、そんな気がする。
 頑張ろう。もう少しでも、生きてみよう。

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06:17:58 | 小説 | コメント(0) | page top↑
4. b.
2026 / 01 / 16 ( Fri )
「気ぃ許しすぎじゃねえの。危なっかしいな」
「そうかな」
「じゃあおまえはオレが『脚触らせろ』とでも言ったら、許すんか」
 他の当たり障りない質問と変わらない声のトーンで。手元の眼鏡に視線を落としたまま、男性は顔色ひとつ変えずに。

(すごいこと訊いた)
 ――なのに。
 再会してまだ三日と経たないのに、いつしか、信頼感を抱いていた。
 裏切られたとは思わなかった。やっぱり、というような感想が湧いただけだった。
「いいよ」

「……おまえな」
 極大のため息をついて、男は眼鏡をコーヒーテーブルに置いた。
 あっという間に距離が縮まった。
「こういうことで」左太ももを掴まれた。スカートがするすると皮膚の上を滑りあがっていくのを感じる。「本当に、いいのかよ」
「それ、は」

 世間知らずは自覚しているが、無知ではない。この男が一人で暮らしていると知った時から、いつも意識の片隅にあった、可能性。
(恋人はめんどくさいって言ったのに)
 ショックはなかった。
 ――男は気持ちがついてこなくてもセックスができる。

 最初に誰からそう聞いたかは憶えていない。
 相手とよく話し合うべきだという意見も、耳にしてきた。
 母はといえば、婚前交渉を、愚かしいと思っていたようだ。適当な相手と関係を持ったところで女側には何も得るものはない、と。一歩間違えれば人生が破滅する――シェリーを大学に送り出す前に何度も釘を刺していた。

 でも周りのみんなは、自分の知らない何かを知っている。楽しんでいる。そして躍らされている。誰とも経験がないまま二十五歳にもなって、こういうことにまったく興味がないと言えば噓になる。
 怖い。けれど、引き返したくはない。

 この男自体が恐ろしいのではなく、主体性の無い自分を認めることの方が怖かった。過ちだったと後で自分にガッカリするのも、機会を逃してガッカリするのも、どちらも嫌ならば。
 選択は脳の筋肉。
 流されているのではない、自ら望んでいる。だからどんな結果になっても、後悔だけはしない。

「覚悟の上だよ」
「あっそ。気が変わったらハッキリ言えよ」
 降りかかる声も、太ももを撫でる指も、意外と優しかった。テレビから漏れる青い光だけでは、仰ぎ見るシェリーには男の表情はわからなかった。
 うん、とシェリーが応じた途端、リクターは手を放した。

 コーヒーテーブルの下から予備の毛布を取り出し、カーペットの上に敷いている。片手で「座れ」の仕草、もう片手でテレビの音量を二、三回ほど上げた。
 よくわからないが、言われた通りに床に腰をかけた。チャンネルまで変わっていたのか、テレビ画面は淡水魚特集をやっている。
 シーラカンスに意識が逸れたその瞬間。

「ひゃっ!?」
 押し倒された。
 重い。シェリーの脚の左右脇に膝をついたのか、圧迫されている感覚がある。
「あんま騒ぐと下の階に文句言われる」
 耳元で囁かれ、身震いした。



 倦怠感が頭の覚醒を妨げていた。
 夢見も悪かった。母に寝坊を責められ、怒鳴られ、泣く泣く支度を急いだ古い記憶だった。
 涙を手の甲で拭いながら、古びた天井を見上げる。
(うちじゃない。どこだっけ)
 瞬きと浅い呼吸を繰り返し、次第に理解した。

(この香水、それにタバコの銘柄、なんて言うんだろ)
 疎いどころか気に留めたこともない分野だったのに、今は無性に知りたい気分だ。
 おなじみとなってきたソファでの目覚めに、シェリーはのっそりと起き上がった。室内に人の気配はしない。時計は朝の八時前を示している。
 家主が不在で残念なのか、安堵したのか、決めかねている。月曜日だから、出勤したのかもしれない。

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06:45:07 | 小説 | コメント(0) | page top↑
4. a.
2026 / 01 / 13 ( Tue )
 嗅がれている。
 なぜ。――酔っている?
 奇妙な展開に、身動きが取れなかった。
「今日一日、面白い匂いさせてんな」
「えっ、臭う……? シャワー浴びたのに」

「だからだよ。おまえ、オレの石鹸とかシャンプー使ったろ」
「う、うん。不快だったらごめんなさい」
 そうじゃねえよ、と言って男は少し顔を離した。リクターの言葉には僅かに酒の匂いが残っていた。
「嗅ぎ慣れた石鹸でも、違う奴が使うとそういう感じになるんだなって話。体臭? と混ざるからか」
 どういう感じだろうとシェリーは自分の腕を嗅いでみたが、借りたシャツを着ているので知らない洗剤も混ざっている。

 上を振り仰ぐ。
 クセのついた濃い茶髪のひと房を指で挟み、毛先を鼻に近付けた。想像してたよりしなやかな髪質だ。
「ほんとだ。同じなのにちょっと違う」
「……」
 数秒経っても返事がなく、シェリーは己の失態に気付いた。手を放してまた謝る。

「ごめんなさい。あの、なんか私……あなたとの距離感がうまく計れない、のかも」
 昔の感覚のままで接しているつもりはないのだが、つい甘えてしまう。懐いていた、という表現が合っているか。何もかも昔とはもう違うのに。
「別にいいけど。謝り癖すげえな」
 放したばかりの手を逆に掴まれた。昨日に比べて、力を加減されている。
 その手の温かさに、ドキッとした。

「謝り癖って……うぅ、直すように、善処する」
「おう」
 くるんと手の平を上にされた。男は、シェリーの手首辺りをじっと見下ろしてる。治りかけの細い切り傷を、親指でそっとなぞった。くすぐったさに、シェリーは息をひそめる。

「包帯くらいあるぞ」
「……大丈夫」
「そうかよ。浅いみたいだからこれ以上はなんも言わねえよ」
 ありがとう――同じく手首を見下ろして、呟いた。
「優しいね。あなたは、昔から」

 ためらい傷にあまり突っ込まないでくれて、心底助かった。思い詰めたある夜にハサミの先を当てただけで、本気でどうにかなりたかったわけではなかった。あの時の感情は、鋭い痛みが走ったのと同時に、醒めたのだった。そんな中途半端な気持ちを憐れまれても心配されても、正直困る。
 リクターは何故かなかなか手を放してくれなかった。どころか、親指の付け根辺りに指を当てて、ぎゅっと力を込めた。

「あ、あの。あんまりぷにぷにしないで」
「んー」
「お父さん側の遺伝で、贅肉が付きやすいの気にしてるんだから」
「なんで。いいじゃん贅肉」
「よくないよ、女性は細い方が綺麗だもん」
 容姿は長年のコンプレックスだった。背はもっと高くありたかったし、制御しづらいぐるぐるの巻き毛も好きじゃない。

「手触りがいいけどな」
「肉球みたいに言わないで!?」
 手を奪い返して、ソファの端まで後退った。ひょっとしてこの人も、距離感がおかしいのかもしれない。よもや犬や猫のように思われているのではないか。
「肉が付きやすいって、たとえばどこが?」
「え? どこって、脇下と……お尻が特に太りやすいよ。そんなに量食べないのになあ」
 唇に指を当てて考え込んだシェリーを、リクターは呆れた顔で諫めた。

「いや怒れよ。普通にセクハラ発言だろうが。何答えてんだ、危機感ねえな」
「あれ、そうだね……たぶん訊いたのがあなただから、なんか答えちゃうんだよ」
 他の人に言われたらさすがに警戒していた。そもそもな話、肉が付きやすいのを気にしているなどと、コンプレックスを語ったりもしなかっただろう。

 男はため息とも苦笑とも取れない息を吐いた。眼鏡を外し、サイドテーブルの引き出しから布を取り出して、レンズを拭き始める。

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06:44:04 | 小説 | コメント(0) | page top↑
3. f.
2026 / 01 / 09 ( Fri )
「あいつのためにも真面目に生きる、時々そういう義務感でベッドから這い出てる」
「きっとそのひとは天国から誇らしい気持ちで見守ってるよ」
「どうだかな」
 ぼかすような相槌が、天国の有無に対するものなのかカウンセラーが誇ってくれるか否かに対するものか、問い質せなかった。
 代わりにシェリーは、テレビ画面に映し出されている恐怖展開に意識を向けた。姿の見えない追っ手から逃げる女性が、家中を走り回って叫んでいる。カメラワークがやたらブレていて酔いそうだ。

「ところで、さっきから流れてるテレビは一体」
 ――これか。これはな、と突っ込まれるのを待っていたみたいに男は目を輝かせた。
「クソクオリティのホラー映画。演出・映像以前に、どっかの大学生が推敲なしに妄想を脚本に書き起こしたんじゃないかったくらいのゴミ中のゴミ」
「どうしてそんなの観てるの」
「ゴミにはゴミなりの楽しみ方があんだよ」
「うん……?」
 よくわからない。クオリティが低いと言われるようなものを、母ならきっと時間の無駄と一蹴していた。

「私ほとんど家ではニュースしか観たことない、かも」
「映画は観ないのか」
「話題のドラマ映画を観に、たまに映画館に行ってたかな」
「うぅわ。損してるぞ、絶対。家で何してくつろいでんだ」
「勉強の合間は読書……」
 映画と同じで、話題作を買ったり母の薦める法律系ミステリーを読んでいた。

「こうして考えると、私って無趣味な人間なのかな」
「さあな」
 それではあまりにつまらない。自分がつまらない人間だと、思い出すのが嫌だ。立ち上がり、食器を片付けることにした。洗い物をしに行くと、いつの間にかリクターは冷蔵庫からビール瓶を取り出していた。
「おまえも飲むか」
「ありがとう、でも遠慮する」

「カクテル派?」
「しいて言うなら白ワインが好きかな」
「ふーん、今度買っとく。洗い物置いとけ、洗浄機に入れるから。この映画、後半が特に面白いんだよ」
 と言われてもシェリーは半信半疑だったが、せっかくなのでお言葉に甘えて、ソファに腰を落ち着けた。

 いわくこれは、SFやホラー映画をずっと流しているチャンネルらしい。内容は人気作からほぼ無名のB級映画までと幅広いそうだ。リクター宅のテレビは基本的に無料ローカルチャンネルが観れて、後は好みのチャンネルに二、三ほど加入していると言う。
 食器を洗浄機に並べ終わると、リクターは部屋の明かりを落として、自身もソファに座った。最初の晩と同じで、間に微妙な隙間が開いている。

 さすが低クオリティ映画、とっ散らかっていた。先の女性が殺された後、彼女の幼馴染が訃報を聞いたところから続く。その彼は復讐を誓ったはいいが、頼りないタイプで頭も切れず、周りの助けが必要だった。脇役の演技は観るに堪えないし、ストーリーには都市伝説やら半世紀前の殺人鬼やら色々な要素が混ざっている。回想の入り方も唐突で、とにかくわかりにくい。
 サスペンスたっぷりのBGMがフェードアウトし、静寂が満ちる。暗闇――地面から、わっと血濡れた刃物が出てきた。知らずシェリーは悲鳴を上げた。

 殺人鬼が執拗に主人公を追っている。迫る。逃げられる。迫る。ナイフがかわされた。いつやられるのか気が気でないまま、主人公の足がもつれた。倒れた先は、血だまりだった。
 コマーシャルが来て、シェリーは胸を撫でおろした。どうしてか、横から、堪えていた笑いが漏れたみたいな音がした。振り向くと案の定だった。

「なんで笑うの!?」
 涙目で抗議する。こっちは本気で怖かったというのに。
「悪かったって。オレは元々ホラー映画とかのぶっ飛んだ設定に突っ込んでるのが楽しいんだよ。でも他のやつが全力で怖がってるの横で見てると、それはそれで可笑しい、な」
 言い終わらないうちにまた笑っている。シェリーはフンと鼻を鳴らして不満を表したが、本気で怒ったわけではなかった。

 こんな顔で、こんな声して笑うのかと、胸の奥が温かくなった。昔の記憶を顧みても、なかなか彼が大笑いしている場面は出てこない。
 コマーシャルの後も怒涛の展開だった。実は殺人鬼の正体が主人公の曾祖父だったと判明し、血が飛び散るような激しい取っ組み合いのあと自首するよう味方側で説得して、感動のフィナーレを迎えた。ちょっともらい泣きしそうになったのに、それから最後の二分で謎の黒幕が現れて全員が爆殺された。ハチャメチャな映画だった。

「ほんとにこれ観て楽しいの?」
 シェリーは両腕で抱き締めていた四角いソファクッションをゆっくり放して、疑問を口にした。怖い時は何かをぎゅってしたくなるのである。
「楽しいよ」
 対するリクターは微かに笑って、空き瓶をサイドテーブルに置いた。眼鏡にテレビの光が映っている。
 ふいに目が合った。

「それにしてもおまえ」
「え?」
 なに、と続けようとしたのと同時に、男がぐいと顔を近付けてきた――いや、近付ぎる。
 髪が頬を撫で、吐息が首元をかすめる。
 わけがわからなくて、シェリーは押し黙った。



なげえw また配分間違えた。次回から四話です。

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3. e.
2026 / 01 / 07 ( Wed )
「私は今でも、あなたの方が頭が良いって思ってるよ。昔宿題教えてもらったからとかじゃなくて……物知りとかそういうのでもなくて。いろんなこと見てて、考えてて、気付いてる。知恵……なのかな、私の方が教育機関に通った年月が長くても、一生追いつけないレベルにいると思う」
 言い切ってから、シェリーは自身の指先を見ていた。なんとなく目を合わせづらい。
 鶏の形をした可愛らしいキッチンタイマーが鳴った。

 リクターはカウンター下のキャビネットからザルを取り出した。無言で鍋を持ち上げ、中身をザルに通し、五秒ほどマカロニを水洗いをしてから二つのボウルに盛った。均等ではなく、3:1くらいの割合だ。流れるような所作だった。
 シェリーが前もって小皿に用意しておいた調味料を混ぜ込んで、完成である。微量のパルメザンチーズとパセリが飛び跳ねた以外は、なんとかシャツを汚さずに済んだ。
 量が少ない方のボウルを渡された。

「それ持って、座れ」
 言い終わるなり口にフォークを咥え、男はソファを示した。
 シェリーは素直に指示に従った。
 次に彼はテレビをつけた。数回ほどチャンネルを替えてからリモコンを脇に置き、食べ始める。
 湯気の立つパスタをつついて、あの、とシェリーはおずおずと切り出す。

「やっぱり怒った?」
 訊くタイミングが悪かったようだ。マカロニを頬張って咀嚼していたらしい男は、ぐっと飲み込んでから、答えた。
「おまえの感じ方の是非はともかく。頭が良いって言われて悪い気はしねえよ」
「あ、そうなんだね。よかった」
 ごくん、また飲み込む音が返る。
 熱いうちに自分も食べよう――シェリーもフォークを動かした。

「そういうすぐ礼を言ったり謝ったり、相手にちゃんと反応するとこ、育ちなんだろうな。オレはあの母親苦手だったけど。なんだかんだ、おまえは愛されてたんだなって感じがする」
 突然何の話かと思ったが、しばらくして、相槌を打った。
「うん……私も、そう感じてるよ」
 だからこそ苦しい。溢れんばかりの愛と重すぎる束縛の間で、自我を擦り減らしながら成長してきた。

「それでも、もっと早く逃げるべきだったんじゃねえのとも思ってる。まあ、他人にとやかく言われたかないかもだけど」
「逃げるべき、か……」
 ――あ、私がこの人に会いたかった理由って。
 大人になる過程で、取りこぼしてしまった自分らしさ。かつて一番仲が良かった者と過ごせば、再びそれが形になる気がしていた。実際こうしてただ喋っているだけで、とても充実した気分になる。

 それでも家族の話は辛かった。シェリーが肉親と死別したばかりだからというだけでなく、相手にとってもまた、家族は複雑な想いを抱く対象だからだ。
 目に滲んだ水分を袖でこすり、話題を変える。

「ね、もしかして写真を撮るのが好きなの」
 瞬間、なぜかリクターは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「違った? さっき仕事で写真がどうとか言ってたし、あの箱の中の写真もあなたが撮ったものかと」
「いや……あってる」
 言いづらいのだろうか。ボウルの中のパスタを食べ終わってから、彼はひとつ溜息をついて、語り始めた。

「ハイスクールの一時期、ヤケになってて。勉強はまあまあ好きだけど、家を見てると全部無意味に思えたっつうか……大学行く金もねえし」リクターは思い返すように視線を宙にさまよわせ、フォークの先をガシガシと噛んだ。「むしゃくしゃして適当な喧嘩売ったり買ったり、軽い万引きとかやってた。ある日捕まって、見かねたスクールカウンセラーから『パートタイム(バイト)でもしてみろ、それともっと建設的な趣味を探せ』みたいに言われた」
 言っただけに留まらず、カウンセラーはいくつかバイト先の紹介をしてくれて、安いポラロイドカメラも買ってくれたらしい。

「いい先生だね」
 彼にも案じてくれた大人が居たのだと知って、安心した。
「助言は的を射てたんだろうな。新しいスキルを学ぶのも、金を稼ぐのも楽しかった。写真も気が向いたら撮ってる程度だけど、続けてる」
 スウェットパンツのポケットから、使い捨てカメラを出して見せた。実はいつも持ち歩いてる、と呟いた。

「その人は今はどうしてるの?」
「何年か前に膵臓ガンで逝っちまったよ。……別れを、言う間もなかった」
「そっか。残念だね」
 こういう時、あまり余計に言葉を重ねてもどうにもならない想いがあるということを、シェリーは知っていた。

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06:27:41 | 小説 | コメント(0) | page top↑
3. d.
2026 / 01 / 06 ( Tue )
「台所に立つなら白い服はやめたほうがいいんじゃねえの」
 指摘されて、シェリーはまくり上げた己の袖を見やった。確かに。油のシミがついたら悲しいし、かっこ悪い。
「明るい色じゃないのあったかなあ」
 というより明るい色の服ばかり所持しているので、荷に詰め込んだトップスはだいたいクリームやらピンクやらの色合いである。

「それくらい貸してやるよ」言うなり、リクターは自室に消えていった。一分としない内にまた出てきた。「探せばエプロンもどっかにある気はするけど、今日のところはこれで我慢してくれな」
 やがて渡された黒い長袖のシャツを、シェリーは受け取って、見つめた。これを着るために取るべき行動を検討する。

 ガスコンロには塩を加えた水で満たした鍋が置いてある、つまり火が点いているのだ。いまわざわざトイレまで行きたい気分ではない。セーターの下にTシャツを着ているのだから、上を脱いで取り替えるくらいなら。

「ここで着替えても?」
「ダメって言うとでも思ってんのか。勝手にしろって」
 思いっきり変な顔をされたので、慌てて首を振る。

 余計な時間を取る方が恥ずかしい。背を向け、シェリーはなるべく素早くセーターを脱ぎ捨て、代わりに貸してもらったシャツを覆い被さった。サイズが違うので肩周りがぶかぶかである。どこかのバンドのロゴと思しきぐにゃぐにゃの文字がプリントされていた。長すぎる袖は肘までまくり上げた。
 現在、室内の空調はそこまで高い温度に設置されていない。セーターよりは肌寒いはずなのに、首から熱が上がってくる。背後から視線を感じるのは、気のせいではないはずだ。

 いたたまれなくなり、沸騰寸前の鍋の水を眺めることにした。それもすぐに沸騰してしまったので、あらかじめ手元に置いてあったエルボーマカロニの箱から、大人二人が食べるには十分な量のを湯に落とした。茹でる時間はアルデンテなら七分と箱に書いてある。
 ぐつぐつと湯がマカロニを躍らせる。

「あの、今まで聞けてなかったけど、お仕事何してるの」
 耐えかねて問いを口にしたその直後、後ろから、こぽぽ、と水の注がれる音がした。次いで、飲み込む音。
「週刊紙。の、雑用。一番多いのが、取材についてって荷物持ち、機材とか持たされるな。昨日もそうだった。あと社長の頼みでたまに写真撮ってる」

「へえ! すごいね」
 純粋に感心して振り返った。正直のところ、何と答えてくるのか見当も付かなかった――違法の金儲けをしているとも怪しんだ――シェリーには意外な真実だった。どの新聞だろうか、教えてくれるだろうか。
「すごくねえって、マイナーだし下っ端も下っ端だ。偶然の連鎖で就いたみたいなもん。そも、おまえの方が高給取りじゃねえの。パラリーガル? だったか」

 パラリーガルとは法律事務所で弁護士を補助する、資格持ちのいわば高度なアシスタントである。弁護士を目指す者がこういう形で経験と知識を積み重ねるのはよくある話だった。
「高給はないよ、私だって下っ端だよ」
「前提条件として教育にかけた年月、学歴が違うから、同じ『下っ端』にも天地の差があるっつー話」

「学歴かあ」
 胸中に黒い粒みたいな感情が芽生えた。己の力で望んで手に入れた学歴ではないからだ。けれどそれがまぎれもなく自分が歩んだ道筋で、結局自分にはこれしかないのかもしれないと思うと、窮屈な人生に苛立つ資格すらないのだと、消極的な気持ちになる。
 けれど彼は。昔から、私と違って、この人は。

「あのね、怒らないで聞いてほしいの」
「なんつー前置きだよ」
 いいから言え、とリクターは手を振って続きを煽った。




ローカル週刊紙とか、もはや絶滅してますよねぇ。

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02:26:36 | 小説 | コメント(0) | page top↑
3. c.
2026 / 01 / 03 ( Sat )
「十一年生(ジュニア)の時に付き合った女」
 距離が近づいた瞬間、タバコの匂いがした。外で吸ってきたばかりなのだろうか。寝ている間もずっとまとわりついてくる香りの唐突な濃度に、心がざわついた。
 いや、それよりも、今の発言は聞き捨てならなかった。
「このひと、彼女さんだったの」
「三ヶ月で別れたけどな」

 本人は僅かに懐かしがって終わったようだが、シェリーはそうと聞いてそわそわした。
 数か月の仲とはいえ、こういう女性がタイプなのだろうか。滑らかそうな真っすぐな長い金髪に明るい青目をした、スレンダー体形の小顔美人。服飾店の前のマネキンと並んでお茶目なポーズを取っている。頭身が高く、モデルだって務められそうだった。どちらかというと平均女性より背が低くて丸い(顔も肉付きも)寄りのシェリーには羨ましい容姿である。

「今は、特別な人いないの」
 一拍置いて、ここぞとばかりに訊ねてみた。
 こんな踏み込んだ質問、はぐらかされても仕方ないと思ってダメ元で訊いたのに、あっさりと返答があった。
「いない。めんどくせえだろ、『恋人』って。金かかるし。特に付き合いはじめ前後の、あの腹の探り合いが面倒」

「は、腹のさぐりあい」
 交際経験がないシェリーには想像がつかない。
 リクターは大きく欠伸をした。
「何やってたんだ。掃除?」
「ちょっとね。お世話になってるから、これくらいはね」

「その服でか」
「え?」
 服がどうしたのかと視線を落とす。上は白い毛網みのセーター、下は母の趣味で買わされたロングスカートを履いていた。スカートは淡い色を並べた柔らかい生地のもので、洗濯機ではなく手洗い推奨のやや不便な一着である。見た目がどうというより、丸めるように畳むと場所を取らないので、その理由で選んで荷物に含めていた。改めて考えると、裾がくるぶしまで長い上にフリルが多くて家事をするには向かない。

 ところがこれには愛着もないので、汚れても悲しくない。シェリーはなんといえばいいかわからず、肩をすくめてみせた。
「そうだ、パスタみつけたから茹でようと思うの。いいかな」
「いいけどたぶんソース系ねえぞ。買ってくるか」
「オリーブオイルさえあれば形になるよ」
 あの黒い瓶、と彼はキッチンカウンターの端に向かって指を差した。

「ニンニクとかパセリは? 乾燥ものでもいいよ」
「上のキャビネット、左側」
 示された場所を確認してみると、ガーリックソルト、乾燥パセリ、そしてチリフレークもあった。加えて、さっきシェリーは冷蔵庫の中に賞味期限がひと月ほど過ぎたパルメザンチーズを見つけていた。

「これだけあれば大丈夫そう」
「そ。じゃあオレはシャワー浴びて寝る。晩飯前には起きるから」
「お疲れ様」
 また仕事のことを聞きそびれた――去る背中を見つめながら、シェリーは胸に巣くっていた漠然とした不安とモヤモヤが晴れゆくのを感じた。



 目覚まし時計などの音はしなかったのに、宣言通りにリクターは午後五時半には起きていた。寝足りないのではと問うと、こんな半端なタイミングで二時間以上寝る方がまずい、と彼は答える。
 通常結われている茶髪は無造作に肩の上まで流れ、しかも寝ぐせだらけだった。男は上下一式の着心地よさそうな紺色のスウェット姿で、眼鏡をかけ、またもや欠伸をする。そしてキッチンに入り、キャビネットからコップを取り出し、フィルター付きウォーターピッチャーの水をコップに注ぎながら、顎辺りを掻いている。

 異性と過ごす時間が極めて少なかった人生だったため、シェリーがそれが生えてきた髭を煩わしがる仕草だと気付いたのは、数秒遅れてのことだった。
 リクターは口元にコップを当てた状態で「なあ」とくぐもった言葉を発した。

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00:40:43 | 小説 | コメント(0) | page top↑
3. b.
2026 / 01 / 01 ( Thu )
(触ればわかる、か)
 ――わからない。そもそも自分は、恋と呼ばれるものを求めていたつもりはない。
 けれど食べ物を共有したことにも、触られたことにも、嫌悪感を抱かなかったのは確かだった。
 単に少女の頃の感覚の延長線上にいるだけな気もする。異性を知らない分、気持ち悪がっている余地もないというか、彼を異性と捉えているのかすら定かではないというか。

(うーん、雑念。よし、これ以上は考えるのはやめよう)
 着替えも終わり、髪を団子にまとめあげて、午前中シェリーはまずはトイレ掃除に勤しんだ。掃除道具はシンクの下という、わかりやすい位置に揃えてあった。
 昨夜はここで吐いてしまったという負い目があったからこそのチョイスだ。幸いなことに目に見えて便器に跡は残っていなかったが、それでも念入りに洗剤をかけてブラシで擦った。この廊下のトイレはおそらく客用だ。普段はそんなに使われていないのかもしれない、隅っこには蜘蛛の巣ができていた。

 昼過ぎになると、少しお腹が減った気がしなくもないので、勧められていた通りにシリアルをほんの少し食べた。シリアルは浮き輪の形をしたプレーンなものである。
 牛乳を出した際、冷蔵庫の空っぽさに驚いた。リクターがコーヒーは手間をかけて淹れるのに食には手間をかけないのがどうにも不思議だった。
 食べ終わってボウルも洗い終わると、他に何があるのか気になって、一応キャビネットを一通り見て回った。インスタントマッシュドポテトやパスタの箱がいくつか置いてあった。

(これは晩御飯に使えそう)
 食欲が無い時こその炭水化物である。少なくともチリドッグよりは、胃におとなしく収まりそうだった。
 暖房や冷蔵庫が発する機械音のせいだろうか、気が付けばぼーっと立っていた。今何時くらいだろうか。くるりと振り返ると同時に、人の居ない空間を見渡す。
 暗い考えが脳裏から這い上がってきた。

 ――このまま帰って来なかったら。
 母も、自分が一緒にいなかった間に亡くなった。再びすべてを失う恐怖が心臓を鷲掴みにした。
 違う――!
 根拠なしに最悪を想像しても仕方がない。

 身体の動きを止めたら沼に沈む。シェリーは己を奮い立たせて掃除を再開した。
 単調な動作を繰り返してキッチンカウンターを拭き、床にほうきをかけた。自分ひとりでアパートの闇に佇んでいた頃と比べて何かをしたいモチベーションを保ちやすいのは、誰かがここに帰って来てくれると信じるからだ。

 いつしかリビングの本棚の埃を拭いていたら、上の小さな段ボール箱に目が行った。
 なぜその箱が気になったのかはわからない。茶色で無地のただの箱だった。シェリーはつま先立ちに背伸びをして箱を取り下ろす。
 蓋が引っかかって、開けるのに苦戦した。弾みで飛び散った埃を吸い込み、咳が出た。
 咳がおさまるのを待ってから、箱の中身を確認した。

(写真? しかもこの上に束になってるのってポラロイド?)
 決して詳しくはないが、確かポラロイドはフィルムの値段が張るはずだった。これはご家族が撮ったものなのか、或いは――
 鍵が回る音と玄関扉が開く音がして、シェリーは写真の束からハッと顔を上げた。
 出た時と比べていくらか疲れの色を表した長身の男が、入口のところでブーツを脱いでいる。

「おかえり。無事だったんだね、よかった」
 安堵に笑って迎えると、リクターは首を傾げたようだった。仕事の呼び出しで出かけただけで、無事を危ぶまれるのに違和感をおぼえたのかもしれない。
「おまえこそもう元気そうだな」
「うん。心配してくれたの?」

「しないほうがよかったか」
「そんなわけない。ありがとう」
 頭をぶんぶんと振った拍子に、写真の束が崩れて箱から何枚から落ちた。慌てて拾い集める。
 荷物を床に置いた家主が、写真を覗き込んであっと小さく声を上げた。

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23:32:20 | 小説 | コメント(0) | page top↑
3. a.
2025 / 12 / 31 ( Wed )
(シャワーを浴びたら掃除でもしてみようかな)
 週末とはいえ、寝てばかりでは自堕落が過ぎる。この家に押しかけて三日目にもなって、ようやくシェリーは朝のうちに目を覚ますことができた。
 陽射しが眩しい、朝の九時半だった。家の主は未だに帰ってきていない。
 リクター不在の中、マスターベッドルームまで入り込んでシャワーを借りるのは気が引けるが、清潔さを保つためこれ以上この問題は先送りにできなかった。

「お邪魔します」
 忍び足で寝室に入ると、しんと冷えた空気に出迎えられた。ここでもタバコと香水の残り香が漂っている。黒と灰色の柄のベッドシーツの上に、脱ぎ捨てられたズボンや革ベルトがあった。リビングと同じで、片付いているとも散らかっているとも言えない、ほどよい使用感のある部屋だ。
 入口から右手奥に、寝室につながる形でバスルームがあった。踏み入ると、タイルの冷たい感触が足の裏をくすぐる。

 シェリーは先にシャワーを付けてから、バツが悪い気持ちで、急いで服を脱いだ。当然ながら、寒い。
 シャワーカーテンは面白味の無い、水色の無地のものだ。バスタブの数フィート上に取り外せないタイプのシャワーヘッドがある。自分も昔はこういう感じのシャワーを使っていたなと、懐かしくなった。今のアパートではシャワー室がバスタブと隣接している形だった。

 意を決し、カーテンをサッと開けて、湯に当たりに行く。
 荷物の中にシャンプーや石鹸は持ってきておらず、この場にあるものを拝借するしかなかった。どれも男性向けの知らないメーカーの製品ばかりだった。石鹸からはミントと、木材を彷彿とさせる香りがする。洗い流す間、終始落ち着かない気分だった。
 木材みたいな匂いは、ウィスキー或いはバーボンを連想させる。飲むのだろうか。だとしたら似合う気がする、などとくだらないことを考えながらお湯を止めた。

(このタイミングで帰ってきたら嫌だな)
 クローゼットの中に折り畳んであったタオルを一枚借りて、手早く髪や身体を乾かした。肌から漂う慣れない匂いに戸惑う。
 左手首を掠めた時、一瞬の鋭い痛みがあった。まだ塞がっていないのか、数日前にできた細い傷口を指先でなぞる。くすぐったいようなかゆいような感覚があった。

(そういえば昨夜……)
 どさくさに紛れて腕をつかまれた時の感触を思い出す。その時は気にしている余裕がなかったけれど、改めて意識してみると、妙な気分になった。
 あんな風に男の人に触られたのは初めてだ。引っ張る力の強さにも、革手袋越しに伝わった体温にも驚いた。
 シェリーは、何年も前にあったひとつの会話を思い出していた。



 大学生活が始まって間もない頃のことだった。ルームメイトは二人いて、片方は勉強一筋の生真面目なクリスチャン、もう一人はその真逆のタイプで、遊ぶのが大好きな明るい子だった。後者は男子にかなりの人気があって、その日も誰かから交際を申し込まれたという話をしていた。返事は保留にしたという。

「受ければよかったじゃない。いまあなた、これと決まった彼氏がいないのでしょう」
 真面目な方の子は男子に興味が無いことを名言していたどころか、「近付きたくない」や「理解不能」とすら言っていた。この手の話題には常にそっけなかった。
「悪い奴じゃないんだけどねえ。顔も好みっちゃ好み……なーんかピンと来ないんだよね、好きになれる気がしないっていうか」
「なら誰にでも思わせぶりな態度をとるの、いい加減にやめたら」

「アタシは普通にしてるだけなんだけどなあ。ね、シェリーはどう思う? 試しに付き合えばよかった?」
 今にして思えば、彼女にとって相談相手は誰でもよかったのだろう。シェリーに交際経験が無いと知っていて、話を振ったのだった。
「私は、好意を向けられるのは嬉しいけど、自分が同じくらいの気持ちじゃないなら付き合うのは失礼だと思うかな」

「でも知らないひとでも、付き合ってみたら案外好きになったりするもんだよ? 相性が良ければ」
「その相性とやらは、どうやってわかるのよ」
 もう一人のルームメイトは教科書に目を落としたまま話していた。
「触ってみればわかるよ。生理的に合わない人は、最初から最後まで無理だから。性格を好きになれても、異性の魅力を感じないのはどうしようもないんだ。恋愛として成立しない」

 それが彼女の持論だった。
 中学(ミドルスクール)の頃から試行錯誤を繰り返すように幾人も男性と付き合っては別れていたらしいが、最終的にちょうどいい相手に巡り会えたのかは、シェリーの知るところではない。




マスターベッドルーム伝わりますかね? 家主が使う一番大きい寝室。

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21:45:01 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2. f.
2025 / 12 / 30 ( Tue )
「もしかして私、口に出してた?」
「嫌いだったわけじゃない、辺りからな」
 思考を全部垂れ流しにしていたと知り、羞恥にカッと顔が熱くなる。
「ごめんなさい。つまらないよね、私の話ばっかり――いたっ!?」
 俯いた途端、後ろ頭をはたかれた。結構強い力だったのか目の前がチカチカする。

「つまんないなんて思ってねえって。いちいち謝るんじゃねえ。おまえは他人の顔色、気にし過ぎだ」
「そうかな」
「誰だって自分のことしか見えねえんだから、堂々と自分の話してりゃいいだろ」
「は、はい。あ、でも私はあなたの話も聞きたいよ」
 思ったままに返すと、長身の男は、面食らったようだった。目をしばしぱちくりさせてから、ため息を吐くように静かに答えた。

「そうかよ」
「うん」
 階段を上り、再び部屋の前に立った。リクターは鍵を差し入れて回した。
「オレの話つっても、何が聞きたいんだ」
 あのね、と口を開けようとしたのに、シェリーは声を出すことができなかった。比喩ではなく喉が詰まったのである。

 眩暈がした。胃の中がぐるぐると、猛烈な不快感を訴えかけている。いつからだったのかはわからないが、喉元からこめかみまでが、鈍く痛んでいる。
 こちらを覗き込んだリクターは、すかさずシェリーの腕を引っつかんで、土足なのも気にせずに廊下を突き進んだ。

「吐くなら便器にしてくれ。シンク、詰まりやすいんだよ」
 冷静な声。口元を押さえていたシェリーは、頷く間もなく、言われた通りにした。
 吐いたと言っても、胃の中には大した物量が入っていなかったので、すぐに胃液を出し切ってはえづいただけとなってしまった。
 顔を洗った後、くらくらする頭で、ソファの上に丸まった。

「せっかく、美味しかったのに……もったいない……」
 後ろで家主がテレビをつけながら「さすがにチリドッグは重すぎたか」と感慨なさそうに漏らしていた。これでも気遣ってくれているのだろう、リクターはテレビの音量を思い切り下げてからチャンネルを漁っていた。
 止まった先は雄大な山の自然を映したドキュメンタリーだった。猛禽類が翼を広げて青空を横切っていく映像だ。こういうのが好きなのかと思うと、意外だ。

(うう、気持ち悪い)
 ペットボトルの水をちまちま飲む。まだ頭がぼんやりしているし、視界が定まらない。
 いつしかシェリーはまた自分語りを始めてしまった。
「お母さん、働きすぎて死んじゃった。このまま行ったら、私も同じ道を辿るのかな」
 腹の奥に溜まっている不安の一端は、ここにある。

 シェリーは他の生き方を知らない。母が決めた進路、住処、交友関係。彼女のカーボンコピーとして育てられたはずなのだから、同じ末路を辿ることになっても不思議はない。
 直接の死因は急性心不全と言われた。前触れがあったとしても母は面に出さず、その日も普通に出勤していた。何気ない朝の挨拶が、今生の別れになった。
 怖い。働き過ぎのラインとは、どれくらいだろうか。自分も残業する方だし、自宅に資料を持ち帰ることに抵抗が無い。睡眠時間を削って書類作成した夜も少なくない。

「いまから軌道修正したらいいだろ」
 男の声は淡々としていた。
(どうやって)
 いとも簡単そうに言うリクターに、イラっとした。
(私は自由意志の持ち方すらよくわかっていないのに)
 敷かれたレールからどうやって降りればいいのだろう。自分で考えるのは苦手だ。

(……これも思い込み?)
 ずっと昔に住んでいたコンドミニアムの住所を探し出して、タクシーに乗ってここまで来たのは、自分で考えた結果ではないのか。
 そんなことを思いながら、うとうとする。




 ――トゥルルルル。
 シェリーが電話の音に驚いて目を覚ますと、時刻は夜中の十時を回っていた。
 壁にかかっている家電がしつこく鳴り続ける。自分の家ではないので出るべきか決めかねていると、大股で部屋を横切る男の気配があった。真っ暗な中でも迷いがない動きだ。

「Hello」
 短いやり取りがあった。意図して抑えているのと男の声がもともと掠れがちなのが相まって、あまり聞き取れなかった。やがてガチャリと小気味のいい音を立てて、受話器が元の場所に帰る。
 こちらの視線に気付いていたのか、リクターは躊躇いがちに口火を切った。

「あー、今から、出かける」
「こんな時間に?」
「呼び出された。まあ、仕事」
「土曜日なのに」
 そういえばどういう仕事をしているのか聞いていなかったと、今更気付く。といっても、急いでいるようで、とても訊ける雰囲気ではなかった。

「こういうこと、たまにあるんだよ。おまえは休んでろ。食欲戻りそうだったら、冷蔵庫の上にシリアルの箱が置いてある」
 男はもう身支度を始めていた。ちょっと悪いな、と言って電気を点けている。窓の外は仄かにピンク色に見えた。きっと雪雲に電灯が反射している色だ。
 あの重そうなショルダーバッグには、今日も拳銃が入っているのだろうか。
 心配だった。何がどうして心配なのかは、うまく言語化できない。

「えっと、気を付けてね」
「ん。おやすみ」
 また後でな、と言い残して彼は出て行った。
 重々しく閉まった扉を、シェリーは数分の間、じっと見つめ続けた。
 そしてふと思い当たった。

「また鍵かけ忘れてるよ!」
 急いでいたとはいえ、一人暮らしにはあまりに不用心だ。毛布を肩に巻いて立ち上がり、シェリーは内側から鍵とドアロックをしっかりとかけてやった。知らず知らず、口元が綻んでいた。




2話おわり。残りが微妙な長さだったので区切らずに一気出し。
家族旅行に出ていて数日更新が開いてしまいました。大掃除してねー うえーい

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04:22:52 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2. e.
2025 / 12 / 25 ( Thu )
(私も笑ってる?)
 選ぶことを、練習する。普通の子供が幼い頃に会得するであろう、普通のスキル。大人になってからこれをやるのは新鮮な感じがしてわくわくしたが、母の死がきっかけなのは、どうしても複雑な心境である。
「あれ、でも待って。公園じゃあ本来の目的を果たせないんじゃ」

「とりあえずオレが食いたいもん買いに行く。気が向いたら口にしてみろ」
 長身の男はさくさくと先を歩いた。寒いのだからあまり動きを止めないのは賢明である。歩幅が違うため、シェリーの方はついていくのに必死だった。
 リクターが食べたい物とは、チリドッグだったらしい。公園の端に陣取っている露店商の前に止まって、肉付きの良い黒人男性と会話していた。

「ダンナ、図体でかいのにこんなんで足りるんかいね。もう一本買っていきな」
「足りるよ。知ってたか、タバコって、食欲を抑制すんだ」
「知ってるに決まってんだろ。あんた、今日は別嬪さん連れてんじゃねぇか。なんか買ってやらねぇんかい」
「余計なお世話だっつうの」

「へいへーい、まいど」
 行きつけのところだったらしい。リクターは支払いを済ませる間も、気心が知れた相手とするように、店の主と値上げがどうのこうのと冗談交じりに罵詈雑言を投げ合った。口の悪さは健在である。
 彼はようやく踵を返したと思ったら、アルミホイルからのぞくチリドッグをずいと差し出してきた。

「やる。最初の一口」
「私に?」
「欲しけりゃの話。んで、気に入ったなら半分食っていいぞ」
 熱々のチーズの香りが、鼻先をくすぐる。食欲がないはずなのに、こうして促されては試してみたくもなる。
 シェリーはプレッシャーに負けて、ぱくついた。

(そうだ。ホットドッグってこんな味だった)
 ホットドッグと、トッピングの溶けたチーズと牛ひき肉の、濃厚な旨味に驚いた。子供の頃に父にねだって買ってもらっていたものよりも、ずっと衝撃的だ。バンズもちょうどいい柔らかさである。思わずそのまま二口、三口目と続いた。
「おいしい」

「もういいのか」
「うん、ありがとう――あ、手袋にちょっとついたかな」
 ホイルから垂れたチーズが男の黒い革手袋に付着したようだったが、当人は「気にすんな」と言って露店商からもらったナプキンで雑に拭いてみせた。
「げ、雪。公園で食べてくのは無理だな。戻るか」

 大きな雪結晶が空からこぼれ始めたのを見て、ふたりは深くフードを被った。
 男は、頬をもぐもぐ動かしながらも早歩きをやめない。豪快に大口で食べているのに、器用にも口周りが汚れないし、あっという間に完食していた。
 食事は座ってするものと厳しく躾けられてきたシェリーは、妙な心持ちでついていった。

(相変わらず自由だなぁ)
 我が強いとも考えられるし、親が放任だったから早くに自主性を身に着けたとも推測できる。二十五歳にもなって些細なことであたふたしてしまう自分とはなんて違うのだろう。
 羨ましいと言ったら彼は怒るだろうか。
 胸がぐっと痛んだ。

 ――私はお母さんが嫌いだったわけじゃない。
 もっと私の言葉を聞いてほしかった。私をちゃんと見てほしかった。今日は何したいとか、何が欲しいとか、将来はどんなことがやりたい? ってたまには訊いてほしかっただけ。
 私たちの間にあったこの何十年もの時間は、なんだったの――。

 地面を見つめて歩いていたことに、気が付いた。先を進んでいたミリタリーブーツが、ふいに止まったのである。もうコンドミニアムの階段の前まで来ていたところだ。
 なぜ止まったのだろうと、シェリーは不思議そうに顔を上げた。リクターが珍妙な物を見るような顔でこちらを見下ろしている。

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23:39:24 | 小説 | コメント(0) | page top↑
2. d.
2025 / 12 / 24 ( Wed )
「なんていうか、支度にかかる時間がもったいないな、って……お化粧さえなければもっと早く家を出られるのにって思ってた……。夜も、メイク落としが面倒だし、ネイルは……匂いが嫌だし」
「おう。これからはそんなもん全部やめて、時間ギリギリまで寝てればいいだろ」
「ほんとに、いいのかな」

「誰に断る必要があんだよ」
「はい……」
 リクターの言動には不思議な説得力があった。昔からそうだ。
 言われた通り、やりたいようにしてみようと思った。仕事はさすがに薄化粧で続けるか――また出勤する日が来れば。
 ハンドバッグに詰まっている化粧道具を意識した。これがなければバッグが軽くなる。ずっと興味があった、肩にかけるタイプの小型のバッグに乗り換えてみるのも楽しそうだ。

「おまえ、食いたいもんあるか」
 しばらく歩いてからふいに足を止めて、リクターがまた振り返った。今から? と訊き返すと、そうだ、と返された。
 食材の買い出しに行くのではなかったのかと面食らう。
「うーん、ない。むしろ、たぶん、食欲があんまりない」
 数十秒かけて頑張って考えてみるも、シェリーには何もいい案が浮かばなかった。

「近しいヤツが死んだあと胃腸が何年もおかしいっつう例もまあまああるらしいな」
「おか、しい……」
 言われてみれば、お腹に溜まるようなものをずっと口にしていない。お腹が減っている気はするのに、咀嚼する気力がどうにも湧かない。

「食べないと余計に眠れないだろうし、パンくらいは……でもパンだったらスーパーで買った方が……?」お金をかけるならせめて体に良さそうなものを、と思っても、サラダを食べたい気分でもない。「優柔不断でごめんなさい。私って昔から、自分じゃ何も決められなくて」
 煮え切らないシェリーに対して、リクターは訝しげな顔をした。
「思い込みだろ。自分はダメなやつって、あの母親に刷り込まれたんじゃねえの」

「そんなこと、ない」
「選択なんて脳の筋肉みたいなもんだ。使わなきゃ衰えるし、鍛えれば発達する」
「え、えー? そうかな」
「いまここで左に行くか右に行くか、おまえが決めろ」
 男は、黒い革手袋に覆われた手をポケットから出して、真っすぐに伸ばした。人差し指が順に左と右を差していく。

「判断材料が足りないよ。私は食べたいものがないし」
「いいから」
 シェリーの抗議もむなしく、彼は答えを促すように視線で圧をかけ続けた。
「せめて、先に何があるの教えて」
「左はアーケード街で右は公園だな」
 ふたつのキーワードを、シェリーは顎に手を当ててしばし咀嚼した。

(どうしよう)
 色々と理由を並べて考えた。その間、傍らの男は「さみぃな」とぼやいたものの、急かす素振りは見せない。
(このひとは――待ってくれるひとだった)
 ふっと胸の奥が軽くなった気がした。

「……右にする」
 アーケード街の方が色々な食べ物がありそうだ。けれど、いまこの時に見たいと思ったのは、公園だった。ただそれだけの理由でも、それが自分の正直な気持ちだった。
「できんじゃねえか」
「このやり取りで五分は使ったよ」

「練習すりゃ早くなる。洗脳が行き届いてなくてよかったな」
 トレンチコートのポケットに両手を戻したリクターは、ふっと白い息を吐いて――笑った。
 目元が柔らかく細められ、口角が少し上がっただけで、数年の時間がとけていくようだった。
 悪戯を思いついた少年の表情。変わったと思ったら、根っこの部分は変わっていないのではないかと、くすぐったいような嬉しさがある。

「楽しそうだね」
「そっちこそ」
 言われてみれば、とまた頬に触れてみた。

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