八 - f.
2017 / 08 / 11 ( Fri )
「恋愛感情というものへの不勉強さなら、私も同じだ。だが二度と会えなくなって平気かと問われると……つまらなくなりそうな、予感はする」
 それがありのままの心だった。
 惰性で公子人生を送って来たエランディーク・ユオンにとって、初めて見かけた時からこの女性は――「彩り」だ。地下牢の闇すら照らせるような、光。

 表情豊かで、素直で。初めて知る力強い美しさである。
 縁談が無くなったら手放せるのかと、改めて一考する。例えば、別の男と笑い合っている姿を想像する。
 ――嫌な図だ。
 だからと言って我侭で彼女を己の傍に縛り付けて、結果的に怪我をさせたり死なせたりしたら、永遠に自分を許せないだろう。そのような結末への恐れの方が、圧倒的に強い。
 覚悟を改めるまでの時間が必要だ。

「少し、考えさせてくれ。せめて明日まで」
「……ん。いいわ」
 セリカは要求にあっさり頷いた。すると髪のひと房が、肩からはらりと流れ落ちた。
 瞬間、常よりも布の開けた胸元に眼差しが吸い寄せられたのは不可抗力と言えよう。すべらかそうな肌の白さから、赤い髪が行き着く溝から、目が離せなかった。
 目が離せないのなら身体ごと向きを変えるしかない。エランは必要以上に素早く立ち上がり、踵を返した。

「あんたも浴びてくでしょ? さっきヤチマさんに着替え貸してもらってたわよね」
 引き留められた。ので、首を巡らせて答える。
「チュニックだけだ。お前とハリマヌの体格は近いが、私とタバンヌスでは差がありすぎる」
 ヤチマが保管していたのか、あの家には十代前半の頃のあの男の衣類がほんの数着あった。それでも現在のエランには大きいくらいである。

 苦笑交じりにセリカは自身の着替えを終えて上着を羽織った。髪を乾かしながら、脱ぎ捨ててあった服を回収している。
「荷物見ててあげるから入ってくれば」
 そう呟いて逸らされた頬は仄かに赤い。何故か、は考えない方が良いだろう。

 冷水に全身を浸からせる――それは複数の理由でいかにもありがたい案だった。
 エランはペシュカブズを鞘に収め、危険そうならこれを投げて来るようにと言ってセリカに手渡した。既に抜き身だった点に気付き、不穏な気配でもしたのかと彼女が訊ねる。その問いを、エランは「訊くな」と強引に振り払った。
 それからゆっくりと岸へ歩を進める。水辺の縁に立つと、何ら疑問を抱かず脱衣し始めた。

「ちょっとォ!? 脱ぐなら脱ぐって一言断ってよ! あっち向いてるから!」
 必死な抗弁に、我に返る。この時点ではもう上半身が惜しげなく夜風に晒されている。
「あ、ああ。悪い」
 考え事をしていて気が付かなかった。制止の声をかけるにしても、もっと早くなければ無意味だろうに、と思っても口には出さない。

「……傷痕、結構あちこちにもあるのね」
「胴のは大体どれも『度胸試し』の痕だ」
「度胸試しぃ? 男ってそういうの好きよね」
「体を張って得られる信用もあるということだ。いつか機会があれば――」
 言いかけて、止めた。セリカをルシャンフ領に連れて帰る未来があるのか判然としないのに、いつか機会があれば部族民に諸々の逸話を聞くといい、なんて言えるわけがなかった。

 実はとんでもない岐路に来ているのではないか。そう考えるとゾッとした。
 無心になる。エランは口を噤んで水浴びに専念した。

(水がこんなに冷たくてセリカは大丈夫だったろうか)
 川底の石は藻のぬめりに覆われていて、柔らかい。この域は流れが緩やかだ。座り込めば胸まで浸かることができた。
 冷たさに心臓が慣れた頃に、サッと頭まで潜った。寒くて仕方がないが、刺激で頭が冴える。汚れが洗い流されていく手応えに、人としての尊厳を取り戻せたような感覚がする。

 長い息を吐いた。
 ねえ、と背後から声がかかる。
「訊いてもいい? エランは何で、何の、標的にされてるの」
「…………」
 核心を突く疑問に、俄かに答えることができない。

 ――これも分岐だ。
 知識と認識は、よほどの手段を使わない限り、簡単に無かったことにはできない。
 教えていいのだろうか。話して自分が楽になりたいだけではないのか。重荷を分かち合って、後悔を生むだけではないのか。

 振り返り、一見ほっそりとした後ろ姿を眺める。
 実際は弓を引けるからにはそれなりに力強いのだろう。身体的な観点だけではなく、箱入り公女の内には、誰にも踏み消せないような炎を感じた。
 覚悟の有無を問うのはもはや失礼か。
 何も背負わぬつもりであったなら、そもそもセリカは今頃まだ宮殿で愛想を振りまいていたことだろう。

 その様子を脳裏に思い描くと、自然と唇が笑みの形を作っていた。
 どうせくだらぬ一生を作り笑いを浮かべて過ごさねばならないのなら。
 隣に、この娘が居てくれればいい――

_______

 手元の武具は鞘から柄、果ては刀身までにも細かい装飾が施されていて、冷徹な美しさを讃えていた。返事を待つ間、セリカはそれを隅々まで鑑賞して暇を潰した。
(なかなか答えてくれないのは、やっぱりまずいことを訊いたからかしら)
 掌が冷や汗で湿った。今夜は緊張しっぱなしである。
 数秒後、大きな水音で、青年が岸に上がったのを知る。気配が近付いて来た。

「現大公――父上は為政者としての腕は悪くないが、優柔不断なところが昔からあった」
 そうして彼は淡々と語り出した。




傷痕の絶対数でいえばゲズゥの方が三倍は多いですが(結構薄れているのも)、エランはところどころ派手なのがある感じです。属領の民との逸話は多分本編中に語られないので、気長~に番外編か続編をお待ちくださいw

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