零 - a
2017 / 02 / 14 ( Tue ) これより先は淑女が踏み入れるべき場所では、断じて、ない。 長い間、セリカは己の足下をただ睨み付けた。そうしている内に、果樹園を駆け抜けたことによって上がりきっていた息が、徐々に落ち着きを取り戻していった。――この扉を開けばきっともう戻れない。 迷いという名の錘が彼女の足を持ち上がらなくさせている。 否、同じような分岐に立たされれば誰だって躊躇するはずだ―― (ごめん、お母さん。あたしには荷が重かった) くれぐれも淑女にあるまじき振る舞いは控えてくださいね、と何度も念を押してきた母の顔を思い出す。 心の中で謝ったはいいが、直後に自己嫌悪がこみ上がる。 ――違う。別の誰かに責任転嫁して、踏み出せない臆病さを正当化しようとしているだけだ。 上質な生地に装飾品をふんだんにあしらったドレスの裾から覗く足は、いかにも高価そうなサンダルを履いている。が、綺麗な黄金だったはずの金具は草から擦れ移った緑に汚れ、足の爪は色濃い泥に塗れていた。 頭の中で、自嘲気味に笑う。 (元々あたしは「淑女」の枠組みからはみ出ていたわ) それでも家族のため、国のため、今度という今度はちゃんと頑張ろうという気になっていたのに。 ――あいつとなら、頑張れそうな気がしていたのに。 足の指をくすぐる草と大地の温かな感触が、セリカの心中に巣食う不安を残らず引き出した。 選択次第で、世間体以上の強敵をつくってしまう。慣れ親しんだ安寧を遠ざける覚悟が、本当に自分にあるのか? この道を進んだ先にはどんな未来が待ち受けて――或いは、未来と繋がってすらいないのか? (本当に会えるの? 会ったら、連れ出せるの? あたしに) 想像してみようにも、頭の中は真っ白だ。 明らかに気が動転している。 茶会の席を抜けて夢中で此処まで走って来たが、これからどうすればいいのかがわからなかった。型破りな娘だなんだと周りに言われてはいるが、肝心なところでは身動きが取れない。常識の打ち破り方がわからないのだ。 引き返してしまおうか。今なら、まだ間に合う。 ――お前の知らない「自由」を見せてやろうか―― 耳の奥に響いた声に、ハッとなった。 あの男が悪いのだ。夢を見させるようなことを言うから、真に受けた自分はこんな無茶を―― 「ああもう! 違うったら!」 追いつめられると何でもかんでも人の所為にするのは、悪いくせだ。 今まで誰もくれなかったような嬉しい言葉をかけてくれたからとか、命を救ってくれた恩があるからとか。それは確かに理由の一部であるが、それだけではない。 「知ってるヤツに死なれたら寝覚めが悪い、だけよ!」 ましてや相手はこちらの手が届く範囲内にいる。見捨てられるわけがない。助けてやれそうな可能性がある内に、何もしないなんてありえない。 そうはっきりと口にしたところで、セリカは腹をくくった。祖国への郷愁や、身分を惜しむ気持ちは、もちろんある。けれどそれを上回って余りある強い想いがあった。 しゃがんだ。ドレスの裾が汚れるのも厭わずに。 地面に溶け込むような色に塗装された両開きの扉は、初見では素通りしてしまいそうだが、セリカは先日この庭をうろついていた際に見かけたので探し出すのは容易だった。 表面にこびりついている土を軽く払ってから、両の拳で扉を思いきり叩いた。十回以上は叩いたところで内側から上へと扉が開いた。 ぎぎぎぃ。扉を開けた者の億劫さを代弁するかのように、蝶番がうるさく軋む。同時に、異臭が地上へと這い出た。数種の汚臭が混ざったようで、何の臭いかまでは割りだせないほどに複雑だ。 セリカは僅かに仰け反って、鼻先を手の甲で覆った。 「なんだ女、何か用か」 地下からつまらなそうにこちらを見上げる男は、武装した兵士である。それを見て、大体察することができた。 情報源であった少女を脳裏に思い浮かべる。 ――エラン兄さまでしたらきっと、地下にいらっしゃいますわ。 確かに彼女はそう語った。 (地下って言うから予想はできてたけど。やっぱり、牢……!) 冷や汗が額に滲み出す。喉の奥が詰まったように息が苦しくなり、頭がじわじわと痛み出した。恐怖が手足を絡め取らんとしているのだ。 ハッピーバレンタイン! おや、何かが始まってしまいましたね…? 最初は三日連続更新でその後は以前のような2~3日に一度ペースになると思います。 |
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