55.c.
2016 / 04 / 13 ( Wed ) いくつかの坂を上ったり下りたりして数十分。唐突に、ズゴッ、と音がした。御車席の二人はすかさず馬を停止させる。 「ちょっと止めるねー」 降りて馬車の中に声をかけると、わかりましたとミスリアの返事が返る。反対側ではシュエギが既に車輪を確かめていた。どうやら車輪と軸の間に棒切れの形に似た石が挟まってしまったらしい。シュエギはそれを、車輪を傷付けないように注意して抜き出している。 あれくらいなら一人でも十分対応できるだろうと思い、リーデンは御車席に戻った。そしてふと、視界の左端に異物を見つける。数フィート先の木の幹にぐったりと寄りかかる人影、汚れた衣服――しかしながらそこに命の気配は無かった。 (ありゃ、死体か) 餓死したのか襲われたのか。 (聖女さんが知ったらわざわざ埋めてやりたいとか言い出しそう) 見たところそれは白骨からは程遠く、生前の息吹がまだ色濃く残っている段階だ。 必要以上に足を止めたいとは思わないし、ここは素通りしてしまうのが得策であろう。顎に手を当てつつそのように決断する。 あの者が獣や魔物に襲われて一生を終えたのだとしたなら、尚更この場に長居するのは気が進まない。 「生者は常に死者に囲まれているのに、一番会いたい相手に限って二度と巡り合うことができません」 御車席に戻るなり、シュエギは例の死体の方を向いて呟いた。口ぶりはどこか思慮深く哲学的だったが、内容は現実問題を噛み砕いていた。 「この地上に溢れる死者の魂を少しでも減らしてあげることが……生者の未練を取り除くことになって、救済に繋がるのではないでしょうか」 「急にどうしたの」 「さあ、私にもわかりません」 「それってオニーサンが考えたの?」 問われて、白髪の男はゆっくりと頭を振った。 「いいえ……」 呻くように答え、こめかみを指先で揉んでいる。奥深く沈めた記憶を呼び覚ます行為は頭痛が伴うのだろう。 「ふうん。出発するよ、ちゃんと手綱握って」 馬車の中にも一言「出るよー」と声をかけてやった。 そうして二頭の赤茶の馬に引かれてがらがらと動き出す。通り過ぎる瞬間、死体をもう一度だけ瞥見した。 (……「救済」かぁ。受け売りかな) 都合の良すぎる解釈かもしれないが、この男が聖女に聞いた話ではないだろうか。何せ、教団の教えに沿いそうな言葉ではあった。 灰銀色の瞳はまたどこともなく遠くを見つめている。こうしている今も、蘇る記憶があるのかもしれない。 優しい緑色の景色の中をしばらく何事もなく馬車が転がった。 やがて日暮れの時刻が近付く頃に、リーデンは改めて隣の男に話しかけた。 「ねえ、君の場合はどんな感じ? 思い出せない記憶を思い出そうとするのは。怖いとか、イライラするとか?」 「踏み入ったことを訊きますね」 ぐるり、虚ろな目だけがこちらを向いた。 「だって気になるから」 リーデンは口元を綻ばせた。微笑みかけたのは警戒を解かせる目的もあったが、純粋に興味があったのも一因である。 ちなみにかつての自分の場合は外的要因によって記憶を封じられていたため、思い出そうとする過程はひたすらに苦痛であり何もかもが腹立たしかった。壁や家具を壊すまでの癇癪を起こしたのは二度や三度ではない。 泡沫と呼ばれる男は、小さくため息をついた。 「何年も終わらない悪夢を――同じ霧の中をぐるぐると回っていたのに。あなた方と出会ってからは、たまに何気なく記憶が戻る瞬間もあります。自分が何者であるのか知らなくても、これまではなんとも思わなかったのに」 もう一度大きくため息をついてから、シュエギは続けた。 「悲しい、のですよ。失った過去を取り戻すこともですが、これまで大切な人さえ忘れて生きてきた日々を想うと…………どうしようもなく、つらい。全て思い出したら悪夢が終わるのでしょうか」 ――過去を取り戻すのが悲しい? もう少しそこを掘り下げてもらおうかと思案した途端、急にシュエギが勢いよく顔を上げた。 「町中が祭騒ぎに熱中している今の隙なら、奥の森に行ける、と」 「はいぃ?」 断片的で、いかにも要領を得ない。一体何の話題なのかと、リーデンは付いて行こうと必死に思考回路を回す。 「手を打ち合わせて、そう言ったんです。若い女の人が」 「それが何」 「それが私が、サエドラについて思い出せた唯一のイメージです」 |
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