05.e.
2012 / 01 / 15 ( Sun )
 一体何をどうしてこうなったというのだろう。
 林の中を全力で走り抜けつつ、少女の頬の温もりを首筋に感じながら、ゲズゥはぼんやり思った。まさか今日こんなことをしていようなんて、数日前の自分は欠片も予想しなかったものだ。

 生傷の焼けるような痛みと、聖女が発している不思議なエネルギーが混同して、神経が麻痺していくような手ごたえがある。
 ふいにそれがなくなったと思ったら、左の前腕だけ完治したとわかった。流石に破けた袖は元に戻せないらしい。聖気とはもしかしたら無生物には作用しないものなのかもしれない。

「すみません。肩の傷の方は矢自体を抜かなきゃ治せないようです」
 ゲズゥの首を抱いたまま、聖女は心底申し訳なさそうに言った。

 ――おかしな女だ。恐怖の対象に何故、そんな風に振舞える。或いは、親切心ではなく自分の生存率を間接的に上げる為に行っているのか。
 ゲズゥには、さっきの聖女の心の葛藤が敏感に読み取れた。彼女は自分の選択を、人選を、疑い始めている。

 もしもゲズゥを捨てて次の護衛候補へ進むと聖女が決めたなら、彼はどうするだろう。自分のことなのに先が見えなかった。

 まぁ、その時はその時だ。雑念を振り払って、ゲズゥは走ることにのみ集中した。
 数分走ったところで、背後から馬蹄の音がした。あの煩い男が追い迫っているということは振り返らずともなんとなくわかった。

「まことに潔い逃げっぷりだな! 敵前逃亡など、男子たるもの情けないと思わんのか!」

 ――いやまったく。
 騎士道のような概念は、ゲズゥからみれば生死を前にしてくだらないものだった。汚らしく生き延びるより誇りを守って果てるのが美しいと思う人間もいるだろうが、彼はそうではなかった。

「聖女」
 少し息が上がってきたので、囁くような声になった。
「!? は、はい」
 呼びかけられて、聖女はやたら驚いた。
「あの煩い男は弓矢を持っているのか」
 しばらくの間があった。
「……い、いいえ、持ってないかと」

 それはよかった。
 ゲズゥは急に走るのをやめて高く跳躍した。聖女が小さく悲鳴を上げる。
 目の前に程よい高さの樹の枝があったので、それを着地地点に選んだ。また、程よい距離に別の樹の枝があったので、それめがけて跳んだ。

 子供の頃、好きだった遊びのひとつだ。

 煩い男がまた喚いているようだが、はっきりとは聴こえない。
 十数分そうして樹の間を移動した。
 何とか煩い男とは少し距離をあけられたらしい。聖女も大人しく黙っている。

 河が見えてきたので、ゲズゥは樹から飛び降りた。ざっと見回すと、数歩流れを上ったところに歩いて渡れそうなほど浅い箇所がある。河はそんなに大きくないのが幸いだ。二十歩ぐらいでいける。
 記憶の中の河に比べると、雨の直後にしては水位が幾らか低い。近年の雨の少なさに起因してるだろう。

 聖女を下ろし、先に渡らせる。あとに続いてゲズゥも渡り始めた。ゲズゥにとっては膝ぐらいの深さで、聖女は太ももくらいである。

「――貴様! 逃がさぬぞ!」
 半分くらい渡れた時点で、煩い男が追いついた。

 ゲズゥは聖女を再び抱え上げて歩みを速めた。
 煩い男は馬を走らせ、河を渡りながら槍を突いたが、それを前に跳んでかろうじてかわし、二人は向こう岸に着地した。

「つ、着きましたね……」
 聖女は安堵したように言い、次いで兵隊長を向き直る。それをゲズゥは後ろから見守った。

「まだだ、まだ逃がしてなるものか」
「兵隊長殿、いくらなんでも諦めてください。シャスヴォル国の総統様はとんでもない大嘘つきで誓約の一つも守れないお方だと、大陸中に評判を広められてもいいんですか」
 煩い男は言葉に詰まったように、ぐっ、と顎を引いた。

 その時、ゲズゥはまったく別の気配を感じた。
 横に跳んだが、思わぬ草のぬめりに足を滑らせてバランスを崩し、伸びてきた鋭く細い剣に突かれた。ドッ、と鈍い音を立ててそれが下腹部に刺さる。
 何だか色んなものがよく刺さる日だ、と思いながら地に倒れた。

 驚愕に満ちた顔で聖女が勢いよく振り返った。

「こっち側に渡るのを待っていたぞ、『天下の大罪人』。貴様を捕らえればきっと殿下はお喜びになる」
 騎士風情の黒い鎧を纏った若い女が、剣先についた血を振り払いながら笑っている。

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