15.a.
2012 / 08 / 12 ( Sun ) 首筋を伝う汗を手の甲で拭った。夏らしい蒸し暑さがきっと夜になってから増すだろう。そういう空気の匂いだった。
夕暮れ時の虫の声を聴いていると、何かの催眠術をかけられているような気分になる。短い間隔を置いて繰り返される鳴き声は一度意識すればなかなか消えてはくれず、気が付けば頭の中をそれに支配される。 そろそろ戻ろうと考えて、ゲズゥ・スディルは麓の集落の方へゆっくりと歩き出した。人の出入りが多いのか、はっきりとした道が地面に浮き上がっている。といっても奥深く入るのではなく民家がまだ見下ろせるような距離まで登って、食物を採集する為のものと見受ける。 ゲズゥは集落の広場へ向かって山を降りた。木製の屋根に覆われたそこはさっきからずっと視界の中に入れたままで、山の上からも広場の様子を観察していた。 宗教画や石像の聖女のような慈愛に満ちた表情を民衆に向けるミスリアを眺めて、何故だか釈然としなかった。
彼の目には小柄な少女が愛想を振りまいているようにしか見えないのに、民衆の誰もがまるで神の御前に立ったかのように涙を浮かべて感動している。ミスリアに最も近い位置の老婆が、触れるのもおこがましいとでも思っているのか、白いスカートにおそるおそる手を伸ばしている。
信仰心というものは、よくわからない。
あの盲目さは果たしてどこから来るものなのか。何かに縋りたいと願っていた人間の前にたまたま現れて手を差し伸べれば、お手頃な信仰対象として認識されるのだろうか?
いくら崇め立てようと、あれは生身の人間だ。奇跡の力にだっておそらくは限りがある。
人が王を戴くのと似ているのだろうが、違うのは聖女や聖人には血なまぐさい背景が一切無いことだ。
ゲズゥにしてみれば、宗教という概念は気味の悪い洗脳手段に思える。大衆を操作するために誰かが作り出す物だ。特にどこそこで新しい邪神教が興されたなんて話を聞くと、真っ先にそういう感想が浮かぶ。教団とやらが違うのかは知らない。
「ありがとうございます、聖女さま」
「お大事に」
例によって人の怪我や病気の治癒に勤しむ聖女ミスリアが、柔らかく微笑む。
ゲズゥは音一つ立てずに、広場の隅に滑り込んだ。
どうにも不可解だ。
宗教の象徴とも言える立場のこの少女が、人を洗脳したがっているようには見えない。ならばそれが目当てで聖女という職を選んだのではないのだろう。
では、人を「救う」ことこそが唯一の目的か。
何の迷いも無くそういった生き方を貫けるはずが無いと、ゲズゥは確信していた。純真無垢で居られるのは子供の頃までだ。皆、どこかで人間の不安定さをも併せ持っている。あの司祭がいい例だ。人間は常に善意と愛想を完璧に振りまけるようにはできていない。
もう一つ考えうるのは、ミスリア自身が救われたがっているという可能性だ。宗教に溺れる人間の多くは、他の手段では解決できない悩みを抱えている者だ。
根拠などどこにも無いが、これが一番しっくり来る。
「ヴィールヴ=ハイス教団はなんと素晴らしいのでしょう。山の向こうの輩もこの感覚を知ればいいのに」
目を潤ませて、集落の長老らしい男が熱弁を振るう。
「そうですね」
微笑を崩していないが、その一言を発したミスリアの声はどこか冷たかった。周りの他の人間はうんうんと強く頭を上下させるだけで、気付いていないらしい。
「この力があれば病も減り、そして聖獣が蘇れば世界から魔物が消えるのでしょう? 苦しみがなくなれば人間は皆幸せになれる。仲良く暮らせる。真の楽園が地上に顕現しますよ!」
長老に寄り添う息子らしい男がそう言って拳を握った。
「ええ、そうなるよう努めます」
ミスリアはにっこり笑って頷いた。周囲の人間は感心や励ましの声を連ねる。
知り合ってまだ日が浅いが、今の笑みが本心からではないとゲズゥは直感した。
ああそうか、と何かが腑に落ちる。
彼女にはあの盲目さが無い。友人だというあの聖人にもだ。二人の何かが「違う」と思っていた原因がこれでわかった。
二人とも何かから救われたがっているようでありながら、教団の話をしている時はどこか理性的だった。客観しているような、分析しているような、疑り深さが僅かにあった。
まるで、救われたいのに救われるとは本気で信じきれていないような。だからこそ、ミスリアも聖人も周りに布教しようなどとしないのかもしれない。今のミスリアは熱心に神や聖獣を讃える信徒を前にして、ただ穏やかに笑うだけだ。
信心深さとは別の問題で、教団の教えを総て鵜呑みに出来ない理由があるのだろう。聖気という現象を扱えても、少なくともそれで誰もが幸せになれるとは思っていないようだ。
ならば何故、世界を救う為の旅になど出るのか。何を目指してこの道に人生を捧げたのか。なんとなく、半端な覚悟で旅しているとでもいうのか。
そこまで考えて、ゲズゥは誰にも聴こえないような吐息を漏らした。
|
|