3-2. e
2019 / 01 / 15 ( Tue )
「どうやって」
「誰かに教えてもらいなさい」
 織元はそっけなく答えた。立候補をするつもりはないようだ。打って変わって、笑顔で唯美子に向き直る。

「すぐに食事をお持ちします。食べられないものがありましたら、教えてください」
「ありがとうございます。食べられないものはたぶんないです」
「わかりました。ではしばらくお待ちください」
 彼は会釈してその場を後にした。

(至れり尽くせり……)
 唯美子ひとりのみのためのルームサービスとなれば、いよいよ先ほどの懸念が現実味を帯びてくる――彼らには食卓を囲う習慣もなければ、その必要もないということだろう。
 ついでに言って、部屋の隅に用意された布団は一組だけだった。

(そこに面白い意味は一切ないんだろうけど)
 ドラマなどで旅館のスタッフが「あとは若いお二人で」と気を利かせるのとはわけが違う。ナガメはどんな場所でも寝るので布団を用意しなくてもいいだけの話だ。彼は寝心地の良し悪しに頓着したためしがない。

 むろん、知り合ってこれまでの月日、同衾した回数はゼロである。
 荷物を置いて座布団に腰を落ち着かせると、静まり返った空気が気になってくる。この家にはほとんど生命の気配が無いような気さえする。

「織元さんの家って、ほかに住んでるひといないの」
「僕《しもべ》ならいるぜ。ふだん地中に潜ってるみたいだから姿をみかけたことねーけど」
 手元の本を未だ睨みつけたナガメが答える。
(地中かぁ。盲点だったな)
 おもむろに足元に目線を落とした。白い靴下をはいた己の足の下に、畳が敷かれた床よりずっと下にも、未知の世界が広がっているという。

「『自分の知る世界が、世界のすべてではない』」
「んー? なんだそれ」
「どこかで聞いた言葉……意味はたぶん、自分が日頃意識している世界以上に世界は広いんだって感じじゃないかな。わたしにとってのナガメたちは、まさに知らない世界の有無を意識させる、ふしぎな存在だよ」
「しらないと、どうなんだ」

 ――こわいよ
 ひと呼吸の間をかけて迷ったが、結局言い出せなかった。
 ひゅるり、冷たく湿った風が部屋を吹き抜ける。何かに追い立てられたように、二匹のトンボが慌ただしく飛び込んできた。窓が開け放たれている点に、唯美子はその時はじめて気が回った。

 寒いから窓を閉めてもいいかと訊ねる。どーぞー、と興味なさげな返事があった。
 夕食を待つ間が手持ち無沙汰だ。床に座ってスマホを弄っていると、衣擦れの音がした。
 ナガメが本を持ったままごろごろ回転している。よく目が回らないものだ――漏れそうになる笑いをこらえて、声をかける。

「ひらがなとカタカナ、わたしでよければ教えようか」
 回転が止まった。かと思ったら小さな背中が反転した。転がりすぎたのだろう、いつしか紺色の浴衣が大きくはだけてしまっている。そこから覗く胸元の皮膚は鱗に覆われていた。一日に何度か変化すると段々と粗が目立つようになるものらしい。
 浴衣だけでも直してやりたいが、訝しげに細められた双眸に躊躇した。

「なんで? ゆみ、別にひまじゃねーんじゃん」
「暇かどうかじゃなくて、わたしはきみが日本語が読めるようになったらいいなって」
「なんで?」
 同じ質問が繰り返された。どう答えたものか、唯美子はやや首を傾げて言葉を探した。

「知らない世界が開けた時の感動を、味わってほしいから……? そういうのって、傲慢かな」
「ぬー」
 少年は本を閉じて四つん這いから起き上がる。分厚い小説のタイトルは「籠城の果てに慟哭」だった。いったい織元は彼に何を読ませようとしているのか。

「昔、ナガメがわたしにひとつの感情を手放してみろって言ったよね。その逆かな。いろんな気持ちを取り込んでみたら、面白いんじゃないかな」

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