1-3. c
2018 / 05 / 03 ( Thu )
「ひどい。なんでわらうの」
「ごーめんって。ほら、やってみろよ」
 彼はもう一度両腕を広げた。加えて、目を閉じ、雨に感じ入るようにして顔を天に向ける。
 そうすることに何の意味があるのか。

(やってみればわかるかな)
 とりあえず真似をしてみた。本音では自分も、怖いという気持ちを捨てられたら楽になれるだろうなと思う――
 瞼が下りた瞬間。ぐらりと、上体を支える体幹が傾いだ。パッと目を開け、姿勢を調整する。
 一方のミズチは相変わらず瞑目して雨天を仰いでいた。しかも水を飲むように口を開けている。

 水。喉が渇いていたことを唐突に思い出して、唯美子も彼に倣う。
 舌に弾ける雨粒がくすぐったい。冷たい感触が喉の内を伝い落ちる。寒さと潤いを同時に感じて、身震いした。
 雨は飲めるのだと思い出し、心の中で、あんなに恐ろしかった自然現象がただの水になった。ただの、日常的で身近なものだ。

 ――捨てる。
 余計な思考も感情も、被った布をするりと脱ぎ捨てるように手放せた。恐怖の対象だった雨とひとつになっているのが、妙な気分だ。
 なるほど、とても開放的で、楽しい。
 うっとりした。数十秒経つと、くしゃみの衝動で我に返る。

「はっくしゅん!」
「そろそろ川を見にいくか」
「やだ、かえりたい。かぜ……かぜひいちゃうよ」
「しょうがねーな。じゃあ、つれてってやるよ」
 涙目で訴えてやると、ミズチは渋々承諾した。まるで寒さを感じていないのか、平然とあくびをしている。

「かえりみち……」
「わかるわかる。あと、おいらは夜でも見えるから」
 少年の瞳が黄色い環を描いて光っていた。妖しくて、きれいだ。黒目の部分はやはり縦に細長い。
 唯美子は、思いついたままに喋った。

「ね、おなまえないなら、メナガってどうかな。めがながいってかんじで」
「やだよかっこわりぃ。それ、なんかの虫の名前じゃねーの」
 即刻、提案が跳ね返された。めげずにまた考える。
「じゃあじゃあ、ナガメ」
「それも虫……ふーん。ナガメ、な。悪くないひびきだな。くっさい虫とおなじなのはきになるけど……わかった、ゆみだけ、呼んでいいよ」

 いしし、と少年は口角をいびつにつり上げて笑った。喜んでもらえたのが嬉しくて、唯美子は水を弾けさせながら飛び跳ねた。
 話がついたところでようやく帰路についた。

 奇妙な少年に手を引かれ、勢いの引きつつある雨の下を、二人でトコトコ歩く。道は濡れていて危ない。どうしても、暗闇を急いでかきわけることはできない。
 山は異様に静かだった。動物の音も気配も一切しないのは、みな雨宿りしているからだろうか。

 ――知らないひとについてっちゃだめよ。
 母の警告がどこかから聴こえてきた。それに対し、もう知らないひとじゃないからいいよね、とひそかに自答する。

「きみ、ほんとはなんなの」
 先導する背中に問いかけた。
「そうだな……」彼は振り返らずに答えた。ぽたぽた、との継続的な雨音に覆われて、へたすると聞き逃しそうになる。「二ホンの昔話にあるだろ、ツルのおんがえし的な? そーゆーあれだよ」

「ぜんぜんわかんない」
「まあいいじゃん。今日は、うねうねしてないからさわれるだろ」
「え?」
「おいらの『ギタイ』すげーだろ。ちゃんと、体温までまねしたんだ――」
 暗くて、振り返った横顔はよく見えない。
 薄っすらと浮かび上がる白い歯の隙間に視線が吸い付けられる。右手に絡んだナガメの手の温みを、唯美子は急に強く意識した。

     *

(……違う。初めて会ったのは、あの時じゃない)
 不安定な子供の記憶を、大人の脳の処理能力でさかのぼる。なぜか今は不自然なほどに明瞭に呼び覚ませる。
 彼は確かに擬態と言った。人の姿を、うまく真似ているのだと。ならば、ヒト型ではなかった時のミズチは果たしてどんな姿であったのか。

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