1-2. f
2018 / 04 / 01 ( Sun )
(都会の電車なんて三分ごとに停まったりして、効率が悪そう)
 会話と関係ない思考がよぎったのは、落ち着かなさゆえだろう。
「へえ、ひとり暮らしなの」
「そうです。笛吹さんは?」
 質問されてばかりなのが気になり、唯美子は訊き返してみた。

「僕は会社から車で十五分、山の上に一戸建てを持ってるよ」
 滑らかに車を左折させながら、彼はさらっと答える。
「すごいですね」
「そうかな」
 二十代後半という若さで家を買ったのか。唯美子は驚嘆した。もしかして何かタネがあるのかもしれない。自称した年齢よりもずっと年上だとか、親族から相続したとか……。

 あれこれ考えているうちに目的地に着いてしまった。シートベルトを外してバッグを肩にかけて、車から出るのにもたついていると、颯爽と助手席側に現れた笛吹がドアを開けてくれた。
 差し伸べられた手を取るべきか、逡巡する。紳士的行動を、親切を拒否しては相手を傷つけかねない――そう結論を定めて、やがて唯美子は手を取った。

 真夏だというのに笛吹の手の平は氷水のようにひんやりとしていた。漠然と抱いていた不安を、より一層と深めるような冷たさである。
 地面に降り立ったが早く、手を放した。

(あからさますぎたかな)
 内心では冷や汗をかいたものだが、当人は気を悪くした風でもなく、朗らかに「ここのコーヒーとチーズケーキは格別に美味しいんだよ」と言って先導している。しかも明らかに足の長さが違うのに、こちらの歩調に合わせてくれた。
 困惑気味に後ろに続いた。

 ――この人はこんなにやさしくしてくれているのに、どうして自分はその所作に、いちいちうがった見方をしてしまうのだろう。
 唯美子は小さく首をひねった。異性に対して警戒心が強い方なのは自覚しているが、体温までをも深読みするのはさすがにおかしい。

 ――カランカラン
 入口にかかった鐘が立てた小気味いい音が、思考を中断させる。
「漆原さん、注文は僕が決めてもいいかい」
「はい、お任せします」
「お菓子とかは?」
「えっと……それもお任せで。わたし、食べられないものはないと思います。なんなら、さっき言ってたチーズケーキでも」

「わかった」
 それから笛吹は、マスターと親しげな挨拶を交わした。
「挽きたては何があるんだい」
「そうですね、本日は――」
 二人は呪文のような固有名称を応酬した。おそらくは、豆の種類について話しているのだろう。大体インスタントで済ませてしまう唯美子には、どこの秘境やらどこの国の高山やらからとった豆の違いはわからない。

 手持ち無沙汰なので、店内を見回すことにした。
 六席のバーカウンターに、四角いテーブル席が八組、ブース席はなし。赤茶や黒を組み合わせたシックな内装で、照明も淡くムーディーな黄金色を使っている。ローストコーヒー特有の香ばしさが空気中に漂っていて心地良い。ジャズだろうか、ゆったりとしたサックスやピアノがスピーカーから流れている。

 雰囲気はとてもいい。ざわついていた心が少しはまともに戻れそうだった。気がかりなのは、他に客がいないことだけだ。
 テーブル席に腰かけて注文が届くのを待つ間も、そこに意識を向けずにいられない。隣の空いた席にハンドバッグを下ろし、笛吹と向かい合って座った。

「貸し切り状態ですね」
「夕食の時間帯は、客足が遠のくものかな。ゆっくり話せるから、ちょうどいいんじゃない」
 そう返されては微笑むしかなかった。
 豆がゴリゴリと挽かれていく音が、穏やかな店内に響く。僅かばかり続いた、唯一の不協和音だった。

 壮年の男性マスターが、大きめのマグカップ二つと皿に盛った可愛らしいチーズケーキを持ってきた。ごゆっくりどうぞ、と目を細めて笑ったのに対し、ありがとうございます、と答える。
 唯美子はミルクの入った小さな水差しを手に取ったが、笛吹がマグカップをそのまま口に近付けたのに気づいて、ふと口に出した。

「笛吹さんはブラックで飲む派なんですね」
「まずは純粋に味わわないと、失礼だからね。コーヒー豆そのものにはもちろん、その豆を育てた人や焙煎した人、挽いては淹れてくれた人にも……あ、これはあくまで僕の美学であって、きみがどんな飲み方をしたっていいんだけど」
 こちらの手が止まったのを見て、彼はそう付け足した。

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