7. a.
2026 / 02 / 18 ( Wed )

 水面が奇妙なほどに凪いでいた。
 周囲には誰もいない。日が昇った後だというのに空は薄っすら曇って白んでいる。
 ――お母さん、ここまで育ててくれてありがとう。愛してくれて、ありがとう。あなたの望んだようになれない私を、どうか許して。

 もう使われていない灯台と地続きの岸辺にしゃがみ込み、シェリー・ハリスは声に出さずに懺悔をした。今後の身の振り方について必死に考えを巡らせた。そうすることで、虚しさを紛らわせようとした。

 これからまた親戚に連絡を取り付けて、遺物をどうにか分けねばならない。片付いたら、あのアパートを引き払おう。母が遺した財産は少しずつ、彼女が生前から支援していたNPO団体に分配するのが良いだろう。昔は家族ぐるみで教会にも所属していたが、ここ数年で足が遠のいてしまったので除外する。

 遺書にはほとんどの財産をシェリーに明け渡すとあった。
 そうは言っても二十五歳にもなって、シェリーが親の持っていたものを全て消費するのは何かが違う気がした。己の生活は、己で築いていくべきだ。あれらは母が培ってきたものだ。

(たとえば老後の楽しみに取ってたのかもしれないし――お母さんが老後にどういうビジョンを抱いてたのかは全然わからないけど……もしかしたら私の結婚資金に充てようとか考えてたのかなぁ)

 母には数年に一度くらいの頻度で一緒に旅行に行くような、遠方の友達もいた気がする。或いは事務所の人たちと語り合えば、もっと何かわかるだろうか。日記の類を漁るのは気が引けた。死人の記録こそ読んであげるべきだと論じる者もいるが、シェリーは、そういった物のプライバシーは当人が死んだ後にも守られるべきだと考えていた。

 情けない話だ。思い返すと、同じ家に住んでいながらも、家族のことをよく知らなかったように思う。 
 家族旅行は行った記憶があるのに、楽しい思い出を探るのが困難だった。

(アルバムを見返せば――うちにアルバムなんてあったっけ? お母さん、写真撮るの嫌いだったような)
 父が出て行って以来、家でカメラを見たことがないし、自分もあまり写真を身近に感じなかったからか、撮ろうと思ったことがない。学校で撮らされた毎年のイヤーブック用の写真はあったと思うが、それでは趣旨が違う。

(そっか。アレクスのコレクションが新鮮に見えたのって、そういうこともあるのかな)
 彼は家族写真こそ置いていなかったが、自ら留めたいと思ったのであろう瞬間の切り抜きを、たくさん蓄えていた。それがなんだかとても素敵だった。
(私は……空っぽだ)
 空の器に、母が求めた「理想の娘」像を象ったモノが詰め込まれていた。瓶の底が抜けてしまったみたいに、中身がぶちまけられて、今や何も残らない。

 もっと早く抗っていれば結末は違っただろうか。声を荒げて抵抗していれば、母はあっさり気を変えてくれたかもしれないのに。シェリーが何もしなかったから、何も変わらなかった。過ぎ去りし日々の「もしも」に想いを馳せるのは、無駄なことだろうか。

『おまえは自分で思ってるより、肝が据わってるよ』
 ――だとすれば変われるかな。遅すぎないのかな。
 怖いし、寂しい。
 膝に埋めていた顔を上げると、大粒の雪がふわふわと空から舞い落ちていた。

 駐車場の方に向かって岸辺を少し戻ったところにベンチがあった。冷たい鉄に腰をかけ、白い灯台を一望した。
 こんな気持ちになるなら最初から再会なんてしなければよかった。

 でも再会していなければ、再び立ち上がるまでにどれだけの時間がかかったか知れない。立ち上がれたかすら、わからない。
 ひどく寒かった。ダウンコートが覆っていない皮膚は冷たい空気にさらされて、赤い。

 真に凍えているのは心の方だった。
 これからやらねばならないことを思い、ひとりで超えねばならない夜を思い、震えた。
「やだよ……」
 白い空を見上げて、静かに涙した。

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