44.f.
2015 / 06 / 23 ( Tue ) 返事を返すまでに、ミスリアはその発言の重みを噛みしめた。 枢機卿の位を持つ者は常に六人、教皇猊下直々に選ばれてその任に就いている。内、枠の半数は教団と結び付きの深い家系から選出されている。聖女レティカの大叔父がその例だ。残る三枠は家柄を問わずに聖人・聖女上がりの人間で埋められるらしい。なので聖人カイルサィート・デューセにも、今後選ばれる見込みは十分にあった。問題があるとすれば―― なんとも不確定な話だが、枢機卿以上の人間には一つの噂が密かについて回る。 彼らは代替わりがひっきりなしで――つまるところ、短命なのである。 一般的に聖職に携わる人間が長命なのに対し、上層部の人間はほとんどが齢五十まで生きていない。歴史を振り返れば、四十に満ちる前に他界した教皇だって何人も居た。教皇に就任するには最低でも三十五歳以上でなければならないというのに。 それは事故や事件といった急性な原因が添えられているものではなく、名の知れた病に罹るわけでもない。いつからか身体がどんどん衰弱してしまう類のもので、他には何もわからないのだ。聖気を施すにしろ薬を処方するにしろ、そんな末路を免れる手立ても確認されていない。 挙句、「出世し過ぎたら早世する」という暗い噂が若輩者の修道士たちの間で囁かれてしまうわけだ。 ミスリアは友人の将来を案じた。けれど何かを言う前に一度唇を噛んだ。 (彼の決断を信じる) 伴う危険性を熟慮していようが無視していようが、カイルは考えなしで行動をするような人間ではない。困難だらけでも、短い間しか生きられない未来でも、必ず意味のある時間と成すはずだ。 「貴方がこれからどのような道を歩み、どんな決断をしても、私は変わらずカイルの味方です。私に手伝えることがあったら何でも言って下さい」 テーブルの上で手を伸ばし、自らのそれを青年の手にのせた。 すると下の手が翻り、握り合う形となった。包み込むような温かさだ。そこに迷いは感じられなかった。 「ありがとう」 友人は口角を微かに吊り上げ、項垂れた。 「一体何年かかるかまだイメージできないけど」 「では、それまでに聖獣を蘇らせますね」 「大きく出たね」 驚いたように瞬く琥珀色の瞳と視線が合った。 「なんてったって今、やる気をいただきましたから!」 ミスリアは精一杯の力でカイルの手を握り返した。言葉通り、彼の意思の強さには感じ入るものがあったのだ。 枢機卿に就任すれば相当な発言権を得られる。求める目標に近付く為には、きっと必要なのだろう。 魔物に怯えずに済む世界――それを実現したいと願う心には、ミスリアも同調している。力になりたい。 「……そうだね。そうしてもらえるとすごく助かる。聖獣の復活を頼んだよ、聖女ミスリア・ノイラート。君なら……君たちなら、必ず果たせる」 |
44.e.
2015 / 06 / 22 ( Mon ) 「行ってしまわれるんですか?」
ティーセット越しにミスリアは友人に訊ねかけた。質問の冒頭に「もう」と付かなかったのは自ら心を律したからである。人にはそれぞれ都合があるし、これでも何か月も同じ町で過ごせたのだから贅沢は言えない。 言わないけれど、しゅんとした表情を向けてしまっても仕方がないだろう。 「うん。しばらく気ままに行動できて良かったよ」 「何か特別なご用事ができたのですね」 向かいの青年は、調べ事やら人と会ったりしていた合間にも聖人としての仕事をこなしていたのだ。自然と、また何か頼まれたのかと考える。 「教皇猊下から勅令が届いてね。『慰問がてら、ある場所に向かって欲しい』みたいな内容だよ。猊下は僕を試されているのか、認めてらっしゃるのか、まあ行ってみれば少しはわかるかもね」 「その場所とは?」 「追って連絡をするって。とりあえずは本部に戻るよ」 そうですか、と答えてミスリアはミントティーを啜った。カップの中が空になると、待ち構えていたかのようにカイルがすかさずおかわりを注いでくれた。琥珀色の液体が純白の陶磁器の中で揺れる。 ヴィールヴ=ハイス教団本部は、アルシュント大陸中北部の非法人地域に位置している。ミスリアの旅の終着点である聖獣の安眠の地も北にあると言い伝えられている以上、いずれ通過する可能性は高い。そう思うと寂しさも多少は薄れた。 「一度結ばれた縁は消えない」 穏やかな声のした方へ、ミスリアは顔を上げた。 「たとえ二度と会えなくても、明日死に別れる運命だとしても、片方が記憶喪失になっても片方が憶えている限りは――互いの存在を知らなかった日々に決して戻らない。その縁さえあれば、いずれは別の形になってでも、再び出逢えるでしょう――」 「カイル、それは……」 「以前、猊下に謁見した時にいただいたお言葉だよ。すごいと思わない?」 「……はい。あの方らしいですね」 ほう、とミスリアは吐息を温かいお茶に吹きかけた。立ち上る湯気が鼻先をくすぐった。 ――認識していない人間に想いを馳せることはできない。 たとえば墓場を歩く時、知らない人間の墓石の前で立ち止まることが幾度あるだろうか。刻まれた文字を、その人の名前と人生を謳う文句を、じっくり読んでみることは。 一度(ひとたび)目を通すだけでも繋がりは生じるというのに。読んだからと言ってその家族に会ったり、会話をしたり、互いの人生について語り合うだろうか。そんな可能性は極めて低い。試みてもなかなか果たせることではないし、日頃の生活というものはそれほど暇ではない。 だからこそ、人は短い一生の中で結んだ縁を、できるだけ大切にするべきなのだ。 それを持っている喜びを忘れてはならない。 「これからも手紙を出しますので、またお話しましょう」 「勿論。そうだ、ミスリア。まだ言ってなかったけど」 「何ですか?」 「僕は、枢機卿を目指そうかなと思ってる」 今週は毎日更新とか目指してみたいものです! |
44.d.
2015 / 06 / 18 ( Thu ) よく憶えていたな――そう思っても、口には出さなかった。 「確かに俺は都市国家群には居たが、あの地を踏んだことはない。当時カルロンギィは別の国の傘下にあった」 「そりゃあ都市国家群の勢力図はやたらと変動するもんね。ちなみに兄さんが居たのってどの辺だっけ」 「シウファーガ領付近」 「それって灰と岩の地? だよね」 「大方、そんなところだ」 そんな会話をリーデンと交わしていたら、興味津々とミスリアたちも会話に入ってきた。 「シウファーガという地名は初めて聞きます。カルロンギィも」 「教団の書物を調べても多分同じ名では出てこないよ。それにしても渓谷、か……。聖獣は飛行できるからいいとして、その軌跡を人間の足で辿るのはやはり苦労のかかるものだね」 「でも行きます。行かなければなりません」 毛布に包まった少女は揺るがぬ意思をもって告げた。聖人はそんなミスリアに微笑みかける。 「一つ幸いと言えるのは、今までの君の巡礼の旅で『後退』がないことかな。聖獣が君を引き寄せているのだとしたら、今後も距離は縮まるのみだと良いね」 「だといいねー」 聖人の指摘にリーデンが能天気に同意した。 言われてみれば――これまで寄り道はすれど、一応おおまかには北へ進んできた。旅の始まりが南東最先端の国であるシャスヴォルからだったのも一因ではあるが。 そういった要素を除いて聖地だけを取り上げても、最初のナキロス、次のクシェイヌ城、今回の塔と沼そして都市国家群と、一箇所ずつでも北上し続けているのは確かだ。 「ミスリア、沼から拾ったその水晶をどうするかは一応司教さまとも相談をしよう」 「はい」 方針も決まったところで、全員で帰路についた。前方を歩くミスリアと聖人がのんびり喋っている。 「僕は、それは君が持っているべきだと思うけどね」 「そうでしょうか?」 ゲズゥは聖人の意見を聴いて片方の眉をぴくりと吊り上げた。今後もあれが、あの鱗が近くにあり続けるのかと思うと、不快感が小さな針みたく胸の内に刺さった。 「うん。聖獣との縁が強いからこそ君の手元に流れ着いたのだとすれば、君以上にそれを扱える人間は居ないんじゃないかな。今後の旅路で何かの役に立つかもしれないし」 「そう言われてみると、確かに純度の高い水晶が傍にあるのは心強い気がしますけど……こんな貴重な物を持ち歩くのは責任重大で心配になりますね……」 不安がるミスリアに、聖人は笑って「大丈夫だよ」と答える。 ――実用できるのならあれが近くにあるのもやむをえないか――とゲズゥは己に言い聞かせて納得させようとした。 ふと、隣のリーデンがこそこそと母語で話しかけてきた。 「ねー、兄さん。都市国家群に向かうってことはヤシュレ通りそう?」 「……可能性はある」 「だったらちょっとだけ野暮用で抜けようかな。数日くらいで済むと思う」 「そういうことはミスリアに訊け」 などと答えたものの、おそらく問題無いだろうとゲズゥは予想していた。知っている範囲では、渓谷に近付くまでは大きな困難や障害が待ち受けていない。数日ほど護衛が二人から一人に減ったところで差支えないはずだ。 「そういえばカルロンギィを傘下に治めていた都市国家って――」 先を行く聖人が都市国家群について何か言っているのが聴こえたが、ちょうど眠気と大きな欠伸に襲われて、ゲズゥは会話の肝心なところを聞き逃すこととなった。 _______ やばいっす。いよいよマジで夏のスリラーものを練りはじめちゃってるっす |
44.c.
2015 / 06 / 10 ( Wed ) 「知らない」
質問の意味を吟味する間も置かずに、リーデンがそっけなく返事をした。 「知らない?」 聖人がオウム返しに訊く。 「そ。誓って、嘘偽りは言っていないよ。族長だった父さんは僕には何一つ教えてくれなかった。この眼について僕が持っている知識は、自分で考えたり経験したり、或いは従兄たちに聞いた話だよ。由来とか本質とかそういった核心に迫る情報は、何故か秘匿されてたってこと」 「じゃあもう誰にもわからないんですか」 「そうとも限らないよ。兄さんは、族長に直に聞いていたはずだから」 落胆気味なミスリアの言葉を聴いてやっと、ゲズゥは自分にも話が振られるかもしれないと察した。案の定、弟の視線を感じる。 緑色の瞳と目が合った。色付きのコンタクトとやらに覆われた左眼が妖しく光ったように見えた。 一同の注目を浴びて、ゲズゥは無意識に唾を飲み込んだ。 何故これまで一貫してミスリアにさえも隠し通して来たのかと問われても、確固たる理由を答えることはできない。単に説明するのが面倒だったのもまた、事実だ。 心の奥底では一族の証たる「呪いの眼」を怖れているのかもしれない。たとえば他人、特に旅を共にする相手に、みなまで知られることを恥と捉えているのかもしれない。 確実なのは――自分でも理解し切れていない現象を他者に説明するのは無駄だと、そう感じている点だ。 再度一考してみると、それは大した問題にならないのだと判断した。何故なら話を聞く三人の理解力はおそらく自分のそれを遥かに超えているからだ。 そして、他ならぬリーデンには知る権利がある。子供だ弟だと思っていても時は過ぎるのを止めない。冬生まれのリーデンはもう十八歳のはずだ。二十歳になるまで残り二年と無い。今話さなくとも、いずれは必ず伝えねばなるまい――。 一度ため息をつき、次いで深呼吸をしてから、ゲズゥは由縁について打ち明けた。 「始祖は魔物と一体化して超人の域に到達しようと目論んだ…………コレはその名残だ。実験は果たして成功したのか失敗したのか、結果だけをとってもどちらとも言えないがな」 相対する三人は各々目を見開いた。話してもらえたことに驚いたのか、内容そのものに驚いたのか。多分両方だろう。 数秒の沈黙を最初に破ったのは聖人だった。 「魔物と一体化って。これはまた、とんでもない事実をぽろっと零してくれたね」 「…………」 「混血、ってわけじゃないよね。魔物に繁殖能力は無いし。かと言って魔物のままで存在しているわけでもないのかな? どうにかして人間の身体に根付いた……そうでないと、君たちは昼間は左眼が霧散して消えるはず」 「原理までは伝えられていない」 聖人に倣って少しは考えようとしたものの、ゲズゥは既に面倒臭くなっていた。生活の、肉体の一部でしかないモノを他人が大事として騒ぎ立てるのはどうにもいただけない。そんな流れになる前に話題を転換しようと、口を開いた。俯いて表情の見えなくなっているリーデンはひとまず視界に入れないことにした。 「そんなことより、次の行き先は」 呆然とこちらを見上げる少女に問いかける。聖女ミスリアはぴくりと肩を震わせ、気を取り直すように頭を振った。 「えーと、渓谷です。向かい合う面にそれぞれ寄り添う民家が立ち並んでいて、架け橋もいくつかあって。一番標高の高い領域には教会が建っていたかもしれません。それから、後は何でしたっけ――」 ミスリアが口頭で描く風景には心当たりがあった。ゲズゥは記憶の中の地名を一言呟く。 「カルロンギィ」 「ああ、北東の都市国家の一つか。これはまた難関だね。都市国家群の中は教団の影響力が弱いし、共通語もあまり浸透していないらしいね」 「でも兄さんは結構長い間その辺に住んでたんじゃないのー? 勝手ぐらいはわかるでしょ」 聖人の発言の後、俯いていたリーデンがパッと顔を上げた。銀色の尻尾が軽やかに揺れる。 |
44.b.
2015 / 06 / 07 ( Sun ) まずは自らの頭を水の中から突き出し、流れる動作で小脇に抱えた少女の頭も水から上がらせて、共に肺一杯に空気を吸い込んだ。 まだ肺活量に余裕のあったゲズゥと違ってミスリアは急くように息を継ぎ、喘鳴交じりの咳をしていた。 「大丈夫?」 同じ掛け声を重ねる男が二人。片方は神父の黒い礼服を着た聖人で、もう一人は伸びた銀髪を馬のしっぽのように一つにくくったリーデンだ。 ゲズゥは沼を横切り、待つ者らに向かって泳ぐ。 十分に近付けたところでミスリアを聖人の方に預けて、自身は弟の手を借りて地に上がった。その場に座り込み、水めがねを外して手首にかける。 春と言ってもまだ、正午の気温は濡れた肌にはこたえる。沼の水だってかろうじて人間が触れてもいい温度というだけで、決して温くはなかった。 リーデンが差し出すタオルを有難く受け取って使った。ついでに手首の縄も切り離してもらう。 「何か収穫あった?」 「そ、ですね……」 ほとんど寝巻き姿と変わらない簡素な薄着を纏った少女にも、リーデンはタオルを差し出した。生理現象で全身に震えを来(きた)しているミスリアに代わり、聖人がタオルを受け取って身体を乾かしてあげる。丸まった背中や華奢な肩、栗色の髪や濡れた衣服から、着々と水気が吸い取られていく。 「沼の底で、これをみつけました」 水めがねを外し、握っていた拳を開いて、ミスリアは先ほどの光る石を提示した。 それが目に入るとまたしても嫌な印象を受けた。 そして驚くべきことにリーデンも同じ印象を受けたようだった。むしろゲズゥ以上に過剰に反応し、天敵に出会った野生動物のように瞬時に数歩後退った。 腰を低くして片手を地につけ、三角形による不屈の体勢を築きつつ、右手は既に愛用のチャクラムを手にしている。 左眼を眇めた。いつになく低い、警戒に満ちた声で問う。 「ねえ。その石は、なんなの」 呆気にとられた聖人と聖女の二人は、おもむろに石を見つめた。 改めて見直すと、随分と平べったく円い石だ。青だか紫だかの透き通った色で、沼の底に転がっている石にしては不可思議な外観である。 「これは水晶だね。聖気を含んでいる、それもかなりの高密度で。これだけ純度の高い水晶は特殊な場所でしか発生しないと言われている」 懐から取り出したハンカチで、聖人はそっと石をミスリアの掌から広い上げた。雲間から漏れる日光がもっとよく当たるように高く掲げ、あらゆる角度から眺めている。水晶を通って屈折した陽の光が、聖人の琥珀色の瞳にかかる。 眩しい。左眼を瞑らずにはいられないほどに。耐えかねて、ゲズゥは僅かに視線を逸らした。 「特殊な場所ってのは、つまり聖地のことかな」 未だに警戒を解かないリーデンが更に訊ねた。 「その通り。ただし最後に聖獣が蘇って以来、二十九の聖地はとうの昔に教団に隅々まで検証されていて、今更新たに水晶が見つかる可能性なんて皆無に等しいんだけどね。さすがに、沼底は検証しきれなかったか」 「これとよく似た、教団で保管されていた物を見たことがあります。聖獣の鱗ですよね。剥がれ落ちた後、しばらくして水晶化するという」 毛布で身を包んだミスリアが立ち上がった。宝物を見つけた子供のように、茶色の双眸が輝いている。 「そうだね。聖獣の鱗で間違いない。これはすごい発見だよ。人の手にまだ触れられていない、加工される前の水晶には相当な希少価値があるからね」 聖人はハンカチに包んだ水晶をミスリアに返し、賞賛を込めた微笑をかけた。 「ところで、一つ訊いてもいいかな」 そして直立してゲズゥとリーデンを順に見やった。 「うん? 何かな、聖人さん」 ほんの少し警戒を解いたリーデンが答える。体勢は普通に佇んでいるだけに戻っているが、水晶との距離は開いたままだ。 「君たちのその左眼は……魔性に通じているのかい?」 |
44.a.
2015 / 06 / 02 ( Tue ) 手首に繋がる縄が緩くなったと感じた時、ゲズゥ・スディル・クレインカティの中で危機感が弾けた。 縄の先に連なる人物が動きを止めたのだ――沼に潜って以来、ずっと勝手知ったる様子で先導していたというのに。確認せんと回り込む。標(しるべ)は互いを結び合わせる縄だ。何せ、三フィート以上先は何も見えないのである。リーデンが入手した水めがねのおかげで水中でも視力はほぼ保たれているものの、藻や泥などの遮蔽物まではどうにもならない。 とにかくゲズゥは小柄な少女の肩を掴んで引き寄せ、その様相に注目した。 異変があったのは明らかだ。ガラスの向こうの茶色い瞳は近くの物に焦点を合わせていない。これは何かを見ている目ではなく、脳の中で記録などの映像を「視ている」目だ。 ゲズゥは五秒数えようと決め、観察を続けた。 だが四まで数えた時点で己の中の危機感が頂点に達した。思考を中断して沼底を全力で蹴る。 聖女ミスリア・ノイラートは、呼吸をしていなかった。周囲からは気泡が上っていないし、胸や腹部などの呼吸をする為の筋肉が停止しているのが見て取れる。 こうなる可能性は最初から見通していた。これは聖地に面する際のミスリアの恒例の反応とも言えるからだ。場所が水中でなければ放って置いたかもしれない。そもそも聖地によっては、最初の岩壁の教会みたく、ゲズゥのような穢れた人間を近付けさせないわけだが。 幸いこの沼にそんな制限はなく、むしろ毎日管理する者さえ居ない。したがって、ミスリアの潜水に付き合うことができた。 あと少しで水面に届くところで。少女が急に身じろぎしだして―― ――抗った。 変わらずにどこを見ているのかはっきりしない眼差しで、ミスリアは水面とは反対方向に泳ぎ出す。 縄がゲズゥの手首に食い込んだ。切迫感と小さな体躯に似合わぬ異常な力が伝わってくる。 何がしたいのか、ミスリアは水草に覆われた底を両手の指で漁った。確信を持った動きだ。 そう長くは息がもたないだろうに、この必死さは一体――。 水めがねが囲う視界の端で石が淡い輝きを放つのが見えた。 人間の眼球と同じくらいの大きさの石が、少女の白い両手の中に納まる。大切な宝物を優しく包むような手つきだ。 胸騒ぎがした。 あの石を見ていると、落ち着かない気分になる。何故か左眼からは疼痛が沸き起こっている。 反射的に瞬いた。 すると瞼の裏に身分の高そうな男の姿が浮かんだ。長身痩躯で、真っ直ぐな長髪を一つにまとめている。今からさも重要な用事に向かわねばならんとでも言いたげな、上向きな顎。見下ろすような視線。それがいつしか疑心暗鬼と恐怖の色に塗り替えられていく。 そこでようやく記憶から呼び起こせた。長い間、夢の中ですら振り返ることのなかった事件。たとえ振り返りたいと思ったとしても、鮮明に脳裏に残っていたのはこの男の死に顔だけ。そう、邂逅して間もなくこの男を殺したのは、紛れもなく自分だった。 しかし何故にこんな時に思い出す? ――ごぼっ。 夢から覚めたように、ミスリアが苦しそうに身悶えした。ゲズゥも我に返り、今度こそ息継ぎの為に水面に戻った。 |
43.h.
2015 / 05 / 28 ( Thu ) 「暖かくなりましたね。聖地のためとはいえ、随分居座ってしまいました」
「そんな風に言わないでよ、寂しいわ。春になって沼を調べたら、次に行っちゃうんでしょ?」 「知るべきことを知ることができれば、発ちます」 「そっか」 落胆の濃い返答が返る。 そこで、ミスリアは青空を見上げて己の旅路に想いを馳せた。 警戒態勢が解かれた東の城壁の塔を訪れても、めざましい手がかりは得られなかった。聖地としてあの塔に満ちた聖獣の残滓と同調はできても、過去の映像や空を飛んでいるという恐ろしく鮮明なビジョンを視ただけで、次に行くべき場所まではわからなかったのである。頼みの綱は沼地だけだ。 「話変わるけど、今日は小間物屋を見て回ろうと思ってたの。一緒に行かない?」 「小間物――……あ!」 ティナの提案を聞いた途端、買い損ねたショールを思い出してミスリアは無意識に膝を叩いた。その旨を伝えると、ティナは起き上がって「戻ろう! 今すぐ!」と目を輝かせた。 「い、いいですよ。どの道にあったのか正直憶えてませんし」 「そんな、頑張って探しましょうよ。素敵な一点物との、またとない出会いだったかもしれないでしょ」 「でも――」 本当にあれが欲しかったのか、商人に言いくるめられていただけなのかもわからないのに。なんとなくゲズゥの方に目を動かしたら、絶妙なタイミングで彼の背後にパッと誰かが現れた。 「やあ、聖女さん。今日も可愛いね。春の日差しを待つまでもなく、君の傍はぬくぬくと気持ちよさそうだ」 もはやクセなのか、絶世の美青年は優雅に片膝をついてミスリアの手の甲に唇を付けた。 「リーデンさん。こんにちは」 人間は何でも慣れられるものらしい。彼と共に過ごしてきた数か月の内に、この挨拶には大分驚かなくなっていた。とはいえ肌に触れる温もりばかりには、気を抜けばすぐに頬の紅潮を許してしまいそうだけれど。 「よっくもまあそんな歯の浮くよーな台詞を」 傍観していたティナは苦虫を噛み潰したような顔をしている。 「この程度のことで浮くほど僕の歯茎はヤワじゃないよー。って、あれ? ティナちゃん、釈放されたんだ。おかえり~。髪伸ばした方がもっと美人さんだね」 「褒めたって何も出ないわよっ!」 叫び声と一緒にサンダルやら石やらが宙を飛んだ。何も出ないというより、正確には「手が」出るらしい。リーデンはころころ笑いながら兄を盾にして避けている。 とばっちりを食らってゲズゥには色々な小物が当たっていた。 (避ける気ないのかな) と思ったら、青年は緩慢と欠伸をした。眠いからか、または面倒だからか動きたくないようである。 「そうそう、聖女さん」 いつの間にか傍に近寄り、リーデンは覗き込むようにして話しかけてきた。銀色の髪がサラサラと風に揺らされている。 「はい、何でしょう」 この美貌を至近距離で眺めるのにはいつまでも慣れそうにない、などと思いながら訊き返した。 「君に頼まれてたヤツ。結構苦労したけど、もうすぐできあがるよ」 勝ち誇ったように彼は右目だけを瞬かせた。 「えっ、本当ですか。ありがとうございます!」 仕草に見惚れたのは一瞬のことで、次には嬉しさのあまり、破顔しながらお辞儀をした。 「何のこと?」 横合いからきょとんとしたティナが問う。 「水めがね。沼ときたら、裸眼で潜るわけには行かないからね。内陸だから帝都ではあんまり流通してなくて、人づてに特注するしかなかったんだよ」 「ああ、なるほど。これで準備万端、後は暖まるのを待てばいいわけね。ねえミスリアちゃん、待ってる間って暇?」 「おそらくは……聖女としてのお勤めも体力の限界がありますし、毎日用事があるわけではないですね」 「じゃあよかったら一杯遊んでね。子守りは、なるべく頼まないようにするけど。春の行事なら苺の収穫祭とかあるのよ」 「収穫祭! 楽しそうですね、是非行きたいです。子守りは私はあまり上手にできないと思いますけど……できるだけ手伝います」 「その気持ちだけでも十分よ。意外とそっちのデカブツたちは、楽々と子供たちの遊び相手になれるみたいだしね。体力が有り余ってるからかしら」 リーデンらを瞥見し、呆れたように彼女は肩を竦めた。 それに対しミスリアは「さあ……」と最初は苦笑いしたものの、二人が子供に囲まれて遊んでいる図を思い出して段々とおかしくなり、気が付けば声に出して笑っていた。 お喋りを主体とした買い物の時間に続き――それからこの日は、朗らかな笑い声の絶えない午後となった。 43あとがき。 この作品にはまともな貴族が登場しませんが、ミスリアの前に登場してないだけで他の場所にはいるのだと脳内補完しててください(笑 後始末回だったので派手な動きは無いですが、こういうのも必要ってことで。 なんと言っても43の見どころは串を噛み切るげっさんですかね。それと、はい、ティナちゃんは兄弟の遠い遠い親戚みたいなもんです。 なんか色々他にも言いたいことがあった気がしますが、忘れたので仕方なし。次回思い出せたら書きますw いつもご愛読ありがとうございます。 44でお会いしませう! |
43.g.
2015 / 05 / 28 ( Thu ) 小さな個体ともなると、被害者が教会に浄化して欲しいと直々に申請しない限りは放置される。 「わかりにくい人だったけど、大好きだったわ。たった一人の肉親なんて、好きになるしかないじゃない」 「はい。お母さまも、ティナさんが大好きだったと思います」 彼女は一体どこまでわかっているのだろうか。気になりながらも、訊かないことにした。 「その後、五人と居ない葬儀で出会った神父さまは、あたしを教会に泊めてくれた。暖かい食事と新しい服をくれた。ずっとここに暮せばいいよって言ってくれた……その優しさには心底感謝してるわ。感謝していても、受け取ることはできなかった」 それから、逃げ出して何度目かに行き倒れていた時。 偶然ティナは斬られそうになっている少年を見かけて、身体にまた力が入ったと言う。理不尽な世界への憤怒で――。 救い出した少年はどこかおかしかった。妙に落ち着いた雰囲気に、相対するこちらの方が心休まらないような。 ――ねーちゃん、なんでそんなにしにそーなの。 ――あんたを助ける為に無い体力使っちゃったからよ。ありがとうって言ってよ。そっちこそ、なに大人しく殺されそうになってるのよ? ――だっておれ「いらないこ」だから。うまれてきたのがまちがいだってさ。たすけてくれなくてもよかったよ。 ――ひどい言われようね。そんなこと言う大人なんて蹴飛ばせばいいのよ。好きで生まれたんじゃないんだ、つってね。もう遅いんだもの、生まれちゃったからには好きに生きればいいんだわ。あたしだって……こんなんでも、好きに生きたいけど、お腹が空いて、もう、無理かな……。 ――ふーん。じゃあおれがなんかとってきてやるよ。そしたらあんたにとって、「いるこ」になる? ――は? とってくるってどういう――ちょっと待っ……話、聞きなさいよ! 数分としない内に、少年は宣言通りにどこかから食べ物を物色してきた。後になって気付いたことだが、彼は機転の良さや小賢しさに恵まれていたのである。 「デイゼルは図太かったわ。あたしはあの子を助けたんじゃないの、あの子があたしを助けてくれたのよ」 「さすがですね」小さく感想を漏らした。とてもじゃないがミスリアには真似できそうにない。身一つで路頭に立たされたら、どうしようか戸惑っている内に餓死しそうだ。 「あたしや他の子供たちにとって、『いらない子』じゃなかったわ」 ミスリアは深く頷いた。経緯はどうあれ――デイゼルは、そしてティナは、得難い家族に出逢えたのである。 「どうしてるんだろ? まだ教団本部には着いてないかしら。心細くはないかしら。最後に会った時は笑ってたけど……あの子はね、周りが不安がるからって絶対弱みを見せないの。一人の時は泣いてるかも」 「どうでしょう。私だったら、泣きそうです」 「あたしだってそうよ。あいつ、本当は王子としてもうまくやれたんじゃないかしら。まあ、王位継承権の所有者が一人増えなくたって王宮は今でも十分にドロドロしてるんでしょうけど」 「産みの母親の伴侶がああいう性格で、ある意味では良かったのかもしれませんね。彼はデイゼルさんを排除することばかり考えて、王子の後見人としてのし上がろうとは企まなかったんですから」 帝王に妻や人生を滅茶苦茶にされた怨みを抑えて、デイゼリヒ王子を傀儡にして帝位につかせることだってできたはずだ。が、当のデイゼルはそうなればもうどう足掻いても穏やかな日々を過ごせない。まだ隔絶されていた方が幸せと言えよう。 「直情的な人だったのね。きっと」 ふ、と彼女は小さく笑う。 「もうじき春かー。くっらい話はもうこの辺にしましょうか」 ティナは階段からずれて、近くの芝生にごろんと横になった。 |
43.f.
2015 / 05 / 23 ( Sat ) 「同系統って、じゃあティナさんとゲズゥやリーデンさんは、先祖で繋がっているんですか」
「多分ね」 ティナの肯定に、ゲズゥは「道理で」と呟いた。 「母はこの名を誇ったけど、あたしは大嫌い」 そう言って彼女は階段のある場所までゆっくり歩いて、座り込んだ。その後に続くも、今の彼女の傍に座っていいものかミスリアは躊躇した。 「ミスリアちゃん、引かないで聞いてくれる? ずっと誰かに話したかったの」 「勿論構いませんけれど……」 数フィート離れた場所に立つゲズゥを一瞥した。彼は耳が良いので、この距離でも話の内容は漏れるはずだ。 「そいつに聞かれるくらい良いわ。同じ穴のムジナっぽいしね」 「そ、そうですか」 「ミスリアちゃんも、こっち座っていいよ」 彼女は自分の隣をぽんと叩いた。その言葉に甘え、スカートの裾を持ち上げて腰を落ち着ける。 そうしてティナは静かに語り出した――母や、己の生い立ちを。 母親は凄腕の傭兵で、元々はディーナジャーヤ帝国の各地での賊討伐や反乱分子の鎮静などによく駆り出されていたという。彼女は常に戦闘種族であることを大っぴらにし、好戦的な性分であった。戦闘種族は凶暴で危険だから排すべきだ、と帝国で囁かれるようになったのも彼女が原因であろう。 そんな彼女もやがて娘を一人で産んで育てることになる。ティナの父親となる人物とはどこでどのように会ったのか、そしてどうして別れたのか、母がついぞ語ってくれたことは無かった。 傭兵としての生活の中で娘を引きずり回し、それでも二人で何年もなんとかやっていけていた。 ある日、母は戦場で負傷した。片腕と片足を失う大怪我だった。 義足義手では普通に生活はできても以前のようには動けず、兵士として生きることは断念せざるをえなかった。瞬発力が売りであるクレインカティ一族としては、動こうとするだけでも深い屈辱を味わっていたらしい。 遠く新境地へ越して生きる術もあっただろうに、何故か母はそれを選ばず、帝国に残ることを望んだ。ところが顔も噂も知れ渡っており、どんなに頑張ってもまともな職には就けなかった。ゆえに彼女は娼婦となった――。 「義足義手だし、美人だし、イロモノ好きの旦那様方が多いこの国ではお金の入りだけは困らなかったのよね。でも結局それが仇となって、母さんは性病を患って死んだわ」 「そんな…………」 「変にプライドの高い人でね。医者か教会に行けば助けてくれるかもしれないよってあたしは言ったんだけど、絶対動いてはくれなかった。あたしがやっと医者を見つけて連れてきた頃には手遅れだった」 ティナの顔には自嘲に近い薄ら笑いが浮かんでいる。しかしミスリアは考え込んで答えなかった。 慰問に訪れていた聖人や聖女は近くに居なかったのだろうか。 (医者にも行かない人なら、ダメかな。奇跡の力を胡散臭いと言って信じない人はたくさんいるし) 娘の為を思えばなんとしても生きようともがくはずなのに――ティナの母親は人生に諦めてしまっていたのかもしれない。あれだけ苛烈な人生であれば、無理もない。 或いは自分が居ない方が娘の未来が輝くのではないかと、そう考えたのだろうか。 「後になって振り返ると、母さんは過度に血統に依存してたんだなって思うわ。理由はやっぱりわからない。あんまり自分の気持ちとか考えとかを口に出す人じゃなかったから。でもあたしは絶対に隠し通す。幸い、顔が知れていたのは母さんだけだった。アストラスの名も、似た語感に替えて名乗ってる」 ティナは階段に両手を立てて、後ろに伸びをした。 ――彼女が纏っていた無害そうな魔物の群れは、近しい人間の残留思念じゃないかな。 ふいに、カイルの言葉を思い出す。 帝都の中は毎日のように魔物討伐や浄化が行われている。負の感情がある内は完全なる「無」に達することはないにしろ、全体的に瘴気が薄いはずだ。魔物狩り師たちに討伐されきらない魔物も、存在はできても育つことはできない。 |
43.e.
2015 / 05 / 22 ( Fri ) 隣を歩く女性に視線を移し変えた。彼女は桃色のチュニックに麻ズボンと、いつものように動きやすそうな格好をしている。 あの強烈な蹴りを繰り出す脚を、焦げ茶色の革の長靴を、ミスリアはじっと眺めた。布越しに薄っすらと窺える太ももの筋肉の盛り上がり以外に、この脚の真の破壊力をにおわせる特徴は見られない。「初めて会った時も思いましたけど、ティナさんってすごい身体能力ですよね」 感心して言うとティナは「あら」と上機嫌に応じた。 「これでも物心つく前から鍛えてたのよ。母親は傭兵だったから、毎日のように訓練に付き合わされたわ」 「お母様の影響だったんですか」 その母親とは何年も前に死別したのだと思い出し、ミスリアは気まずい想いで表情を曇らせた。当事者のティナは一度寂しそうに笑って、次の瞬間には明るく大声を出していた。 「それは良いとして、ちょっと暴れすぎたかな……明日筋肉痛になったら面倒ね。でもやっと外に出られたんだから、じっとしてるよりはマシだわ」 「あ! そういえばお久しぶりです」 攫われかけた衝撃の方が大きくて失念していた。実際のところ、ティナとは二ヶ月近く会っていない。会いたくても会えない場所に彼女は居た。 「おつとめ終わってたんですね。またお会いできてよかった」 閣僚をつけ狙った事件の後始末の一端として、ティナは短期懲役を言い渡されたのだった。屋敷を何度も襲う内に大怪我をした衛兵も居たため、どうやっても処罰なしでは済まなかったのである。 「出た後も当分は強制労働を義務付けられてるわ。無償で働かせられるのはキツいけど、このくらいで済んだのは幸運だったと思ってる。聖人さんや司教さまのおかげね」 「はい」 ミスリアは深く頷いた。約束通りカイルたちは大臣や役人相手に奮闘してくれたので、ティナにとっての好感度も上がったようだ。それがまるで自分のことのように嬉しい。 特に目的地もなく歩いていたら、気が付けば一同は街道を外れて見晴らしの良い一角に出ていた。帝都ルフナマーリの城下町がよく見渡せる。あれだけの数の人々が忙しなく生活するのを少し立ち止まって眺めているこのひとときに、何故だか特別な気分になれる。 自分たちの居る位置の思いがけない静けさと目線の先の騒々しさとの落差を味わい、浸った。 「『施設』はひどい場所だったわ」 ふとティナが俯き加減に呟いた。伸びてしまった髪を、右手で梳いて左肩に流しまとめる。 ミスリアはハッとなった。無意識からの仕草だったのか意識的に見せてくれたのかはわからないが、チュニックの襟下の小麦色の柔肌に青黒いアザが幾つも浮かんでいた。一体何の痕なのだろうか、訊くのが怖い。 「それでも母さんが死んだばかりの頃とは比べられないくらい気が楽だった。だって、耐え抜く意味があるのだもの。出てきたらまた子供たちと暮らすんだって、あの子たちの成長を見守るんだって強く想っていたら何だって平気だった。待ってる人がいるだけで何もかも違ってくるのね」 かける言葉に窮し、ミスリアは視線ばかりを彷徨わせた。するとゲズゥの闇のように深い黒目がじっとティナを捉えているのが見えた。 「母さんが居なくなって司教さま――あの頃は神父さまか――の元から逃げ出した後、のたれ死ぬのも悔しくてさ。否が応にも生きようとしたわ。でもあたしね、すぐにやる気がなくなっちゃって。食べ物を探すのも盗むのも満足にできなくて。良心が空腹に勝ったのかな。生きる力そのものが足りなかったのかな。よく倒れてたわ」 「……どうして神父さまから逃げたんですか?」 「怖かったの。神父さまは底なしに優しかったけど、あの優しさが怖かったというか――ううん、あの世界が怖かった。普通の人が生きる普通の生活に入っていけると思えなかったのよ。母さんは絶対に他人を信じるなと釘打ってたし、普通の人の世では私たちは生きていけないよって、ずっと言ってた」 「戦闘種族だからか」 いきなりゲズゥが会話に割り込んだ。 「そうね。本名はティナ・アストラス・クレインカティ。あなたたちとは同系統ね」 |
43.d.
2015 / 05 / 20 ( Wed ) 信じなければならなかった。助けを信じ続ける心の強さを持たなければ、自分は一年近くの間何も進歩していないことになる。 (きっと来てくれる。きっと)暗示のように何度も心の中で繰り返した。陰の中から伸びてくる無骨な手を見つめながらも、絶えず繰り返した。 「ちょっと、白昼堂々と何してんのよ。ホンット男ってクズばっかり!」 救いの光は背後から射した。 若い女性の声が響いたと同時に、旋風が巻き起こる。ミスリアを羽交い絞めにしていた腕からは力が抜け、傍まで迫っていた他の二人も突き飛ばされた。おかげで体勢を崩し、地に尻餅ついた。 「ふう。怪我は無い?」 聞き覚えのある優しい声。バッと顔を上げて相手の顔を確かめた途端に、全身に安堵の波が広がった。 「ティナさん! ありがとうございます。本当に、何とお礼を言えばいいか」 「礼には及ばないわ。ゲスい声が聴こえたから寄ってみただけ」 清々しい笑みを浮かべ、彼女は手を差し伸べてきた。有り難く手を取って立ち上がる。 「でもティナさんが来て下さらなかったらどうなっていたことか……」 もう一度想像しそうになって、ミスリアは己を抱き締めた。 「別に大丈夫だったんじゃないかしら」 緊張感の無い様子でティナが首を傾げる。その拍子で、いつの間にか肩まで伸びていたふわふわの金髪が揺れた。 どうしてそんなことが言えるの――疑問に思ったのも束の間、一度は蹴り倒された人攫いらしき男性たちが起き上がる姿が目の端に入った。 「テ、メェ。よくも」 真っ先に起き上がった一人の男が懐からナイフを取り出して、ティナの背中めがけて振り上げている。 「危ない!」 ミスリアの警告の声に彼女は動じない。せいぜい煩そうに振り返る程度だ。 ナイフが空気以外の何かを切ることは無かった。 大きな黒い塊が空から降ってきたからだ。ミスリアの視界の中でそれが人間、更に青年の姿として認識された時点で、既に彼は攻勢に出ていた。曲者の方は何が起きたのかわからずに踏みとどまる。そうしてできた隙に―― ゴゾッ、となんとも言えない音を立てて、青年は曲者の顔面を掴んで近くの壁にめり込ませた。元々緩くなっていたのか、衝撃を受けた箇所を中心に、レンガがポロポロと崩れ落ちる。 「ほらね。大丈夫だったでしょう?」 得意げに話している間にも、ティナは別の者に跳び蹴りを食らわせていた。 「は、はい」 ミスリアは呆然と見守るしかできない。気が付けば役人を呼んで一件落着し、路地裏から普通の街道に戻っていた。 「ありがとうございます」 落ち着けたところで、ゲズゥに軽く頭を下げてお礼を言った。信じていた通りに助けに来てくれた護衛に。 「あつい」 彼は一言だけ答えて上着を脱いだ。 (ゲズゥにとっては全然大したことしたをつもりは無いんだろうけど……私は、また助けられた) 複雑な想いが絡まる中、ミスリアは苦笑した。 「よくここがわかりましたね」 「……向かい側の建物の屋上から人混みを探っていた。お前が立ち止まったのが見えて、追った」 「そうだったんですね……やはり上に居ましたか」 不思議な気分である。上に居るかなと思って立ち止まったために攫われそうになり、なのにそのおかげで助かったわけでもある。と言っても、助けに来てくれたのは彼だけではなかった。 |
43.c.
2015 / 05 / 14 ( Thu ) (女でなければなんだと思ってたんだろう)
いくら捻っても頭の中から答えが出てくることは無い。諦めてゲズゥの後ろについて行った。 建物の間からかかる日差しが心地良い。それどころか少し暑いくらいだった。毛糸のショールを脱いで左腕にかけたら、ちょうど横の露天商から声がかかってきた。 「お嬢さん、ショールならこっちの春仕様はいらないかね」 振り返ると、商人の中年女性がにこにこと自身の売り物が広げられたテーブルや洋服掛けのラックを指した。ラックに掛かるスカーフやショールはミスリアが冬の間にずっと愛用していた物よりも薄い生地を使っていて、模様や色使いが華やかである。 「綺麗ですね」 つい手を伸ばしてじっくり見つめてしまう。柔らかくて薄くて、かぎ針編みによる縁取りが実に丁寧だ。一体何の毛糸で編んでいるのだろうか。少なくとも羊毛ではないのはわかった。さすがは大帝国の首都、目新しい品物がそこら中に溢れている。 「まだ春にはちょいとばかし早いけど、今なら安くするよ~」 「春着に替えるにはまだ早いですね」 「この薄紅と紅色の花模様なんてどうだい。お嬢さんに合うと思うね」 女性はラックから一枚のショールを取ってミスリアの肩にかけた。そして近くの姿見を指差した。「ほら、言った通りさ。よく似合ってる」 「本当ですか?」 清潔で身だしなみがちゃんとしていれば十分。と、服装にあまり固執しないミスリアも段々と口車に乗せられて来たのか、鏡に映る自分にいつもと違う高揚を覚えた。栗色の髪と溶け合うように交わる薄紅。瞬く度に、己の茶色の瞳が花模様の紅色と呼び合っているように感じるのは何故だろう。 「うんうん。少女が女性に花開く年頃には、ちょうどいいじゃないか」 「え、そんな、花開くだなんて……」 頭に血が昇るのを感じた。きっと先程ゲズゥがよくわからないことを言ったから―― (そういえば) 急に彼の存在を意識し出して、ミスリアは周囲を見回した。しかしそれらしい人影は何処にも無い。 「ん? 誰かさがしてるのかい」 「はい、一緒に歩いてた人を」 「おや。お嬢さん連れが居たのかい? あたしが声かけた時は一人しか見なかったよ」 「……――すみません! ありがとうございました!」 後一歩で買いそうになっていた品物を手早く脱いで商人に返し、ミスリアはその場から離れた。背後から呼び止める声がするも、構わずに走る。 (嘘、何処ではぐれたの) 木陰のベンチから移動した時はまだ一緒だったのに。よりによって何故いつも人の多い場所でこうなるのか。 (ううん、人の多い場所だからこそ見失う可能性も上がる訳だけれど) ミスリアは立ち止まった。闇雲に捜しても仕方がない気がしてきたからだ。 なんとなく道なりに進んだは良いが、来た道を戻ったかもしれないし、よく考えたら「上」を捜した方が早いと思った。思い立ったからには首を仰がせた。街道に並ぶ店の屋根上、ベランダ、近くの木の枝などに視線を走らせる。 その間、イマリナ=タユスでの一件を思い出していた。あの時ゲズゥは自分を捜しに来るであろう少年にわざと見つかる為に、高い水道橋を登ったのだった。 「んっ」 突如、後ろから口周りを布か何かで押さえられた。物凄い力で後ろへ引っ張られ、日の当たらない路地裏へと引きずられる。 何が起きているのか頭では薄ぼんやりと理解していたが、実感は遅れてついて来た。人攫い? だとするなら、その目的は? 「ずいぶんと無防備じゃねぇか。なあ」 欲望に満ちた、ぞっとする声音だ。しかも頭にかかる息はやたら熱くて湿っていた。 「ほんとだぜ。都でぼけっとしてたら喰われっぞ? なまじ人が多いから、毎日一人二人消えてもだーれも気付いちゃくれねえ」 陰の中からも二人、汚れ切った風貌の男性が現れた。 「なあ、どうすんだよ」 彼らが北の共通語で何かを熱く論じ出したのが聴こえた。 また前の女みたいに何処かに閉じ込めて長く飼おう。いや、少し可愛がってから高く買ってくれそうな店に売ろう。いっそ、帝都は規則が多過ぎるから他国に奴隷として流そう。 全てのやり取りをまるで遠い世界の出来事のようにミスリアには感じられた。耳の奥で大波が流れるみたいな音がして話し声がうまく聴き取れない。 (ああ、そうか。この音は加速した心拍を反映してるんだ。頭の中を流れる血の音かな) 自分をどうするかの会話を耳に入れながらも、これからどうなるのかを懸命に想像してみた。 今以上に恐ろしい局面に追いやられたことは過去に何度もあった。それでも、この瞬間にも溢れる涙を止められない――。 教訓:歩く時は前を見ましょう。 |
43.b.
2015 / 05 / 07 ( Thu ) 「食べている最中に声をかけるべきではなかったですね、すみません」
「…………どういう意味で訊いている」 訊ね返してゲズゥは串の欠片を路頭に吐き捨てた。吐いた唾に血の朱色が混じっているのが見えて、ミスリアは近くのベンチに座るよう促す。ベンチは長さの半分ほどに木陰がかかっていて、彼は自らそちらの方を選んで座った。 ミスリアの身長だと――こうして座らせでもしないと、稀に見るこの長身の青年の顔には届きにくいのである。 それから傍らに立ち、手をかざして聖気を展開した。 「えっと、そうですね、家族とか仲間への愛情じゃなくて……恋愛、の意味合いでです」 使い慣れない単語に言いよどむ。気恥ずかしさに微かに身じろぎしてしまう。その弾みで、かざしていた右手の小指の爪先がゲズゥの頬をかすった。 何とも言えない刹那の感触。吃驚して手を引くと、後を追うように黒い眼差しが素早く動いた。 黒曜石を思わせる瞳はその表面に晴れ渡った青空を映していて、綺麗だ。つい見入ってしまって動けない。なんとか呪縛を逃れたくて俯いた。 彼が次に喉から声を発した時、ミスリアの目線の先は喉仏から顎を上り、最後に口元へと伝った。 「別段、興味は無い」 口元を見ていた所為だろうか。発せられた低い声が、いつもと違う質感を伴っていたように感じられたのは。 一拍遅れて我に返る。 「あ、そ、そうですか。くだらないことを訊いてしまいましたね。すみません」 必要以上に落ち着きなく答えると、あろうことか青年は言葉の応酬を続けた。 「お前はあるのか。興味」 「え。恋にですか?」 頷きが返る。 (恋愛、かぁ……) 一気にさまざまな思考が脳内を巡った。まだ故郷の島に住んでいた頃に、同年代の友達や姉と、誰が誰の嫁になるのが一番お似合いかを想像して遊んだこと。修道女課程を修めていた日々の中、隠れて夜更かしして恋愛小説を読んでいた同室の子。ミスリアは教団に入った時点でそういった話題への関心は薄かったけれど、いつからか、全く自分とは無関係だと思うようになっていた。 聖人聖女はその役職に就いている限り、異性と関係を持つことはできない。と言ってもそれは永続的な話ではなく、カイルの父親のように役職を返上して伴侶を得ることは可能だ。 それでも少なくとも聖獣を蘇らせる旅が終わるまでは恋とは無縁に生きるだろう、とミスリアは受け入れている。 見聞も経験も足りない分、それがどういうものなのかはほとんどイメージが無い。例えば周りに恋の花が咲いていたとしても、きっと気付けない。 いつか未来で自分が恋をしている様子を色々と想像をしてみるも、うまく浮かばなくて悶々とした。相手はどんな人になるだろうか。相手……? 「なるほど」 突然、ゲズゥが言った。 「な、何に納得したんですか」 物思いを遮られた驚きに肩が跳ねた。 「反応が『女』だな」 続く言葉を聞いても、彼が何に得心がいったのかは不明なままだった。どうやらこちらの表情や挙動の細かい変化を観察していたらしいが、そこから一体何を見出したのか。 「確かに私の性別は『女』ですけど、それは周知の事実で、改めて確認するようなことではないかと……?」 「そういう意味じゃ、ない」 「ではどういう意味なんです?」 首を傾げて問う。 「自分で考えるといい」 心なしか楽しそうに答えて、ゲズゥは立ち上がった。 なんだこれ。書いてて私がドキドキしただと……………………………… 歹ヒのう くそう、喉仏萌え! ミスリア本編に全文検索かけてみたら、なんとこれまでに「恋愛」の単語が登場したのは1回だけであったΣ( ̄□ ̄lll)<22、イトゥ=エンキ視点のところ。「恋」だけなら13回。これからはもっと出る…よ? |
43.a.
2015 / 05 / 05 ( Tue ) ――何が目的だったのか、だと? 愚か者どもめが。私が大臣の座などに執心しているとでも思ったのか。そんなものは目的ではなく、手段に過ぎない。私はただあの男を貶めてやりたかった。 ――誰を? 知れたことを。奴に決まっているだろう! 私の最愛の妻をたぶらかし孕ませておきながら、何食わぬ顔で今日も玉座に座しているあの男だ! 私は……奴の腹心を一人ずつ封じてやる予定だった。 ――失脚に追い込む? 生易しい。恐慌状態に陥れて、折を見てかどわかすつもりだった。弱みの一つ二つ作って再び世に放つのさ。だからあの女を使った。あれは良くできた駒だ。昔から、私が望めばその通りに動ける、実に優秀な女よ。 最初は老害の空いた席に私が滑り込むはずだった。そこから更に一人ずつ手中に収め、最後には帝王に与(くみ)する人間を一人とて残さずに掃く予定……だが貴様らの所為で総てが台無しだ! ――王子? あの薄汚い小僧か。幸い奴は中途半端に帝王にも我が妻にもあまり似なかったが、どうにも腹を痛めて産んだ妻は愛着を持ってしまったようでな。遠目に眺めるだけでいいからとせがむものだから、屋敷に置いてやったのよ。憎きあの男の倅(せがれ)なぞ、私は絶対に目に入れないように生活していたがな。 そんな妻は得体の知れない病で逝ってしまった。聖人連中にも治せなかった、心の病だったと言われている。妻の心が乱れたのはやはりあの男と小僧が原因であろう。最期には我らの嫡男の顔を忘れるまでに病んでしまっていた。ほら、わかるだろう? 私が何もせずにこれまでのように、帝王に仕える貴族のままでいられるはずが無かろう? 妻が他界したからには小僧の方は殺して楽にしてやろうとも思ったが、そうすると魔物になって我が血族を呪うかもしれないと聞く。ならば仕方ない。 ふん。思えばあの時、あの女ともども見逃して何年も生かしてやったのに、恩を仇で返す餓鬼どもだ。 まあいい。好きにしろ。露見した以上、私は抵抗などせんぞ。 なに、家が没落しようとも我が子たちが自力でどうにかする。甘ったれなぞ一人も私は育てておらんからな。 ――貴族の伝統? 知らぬわ! あんな男含めた腐り果てた王族に仕えるのが命運だなどと、私は認めん! ああ、メディアリッサ、生涯ただ一人の愛しき我が妻。安心しておくれ。たとえ火の中水の中牢獄の中、私は君への愛を貫き証明する。 帝王なぞ、永遠に赦さぬ。赦すものか―――――― _______ (愛って、なんなんだろう) 聖女ミスリア・ノイラートは、後になって件の男性の供述を聞かされた。それはあまりに激しかった。考えれば考えるほど、彼の心情がわからない。 腐り果てたと言えるような王族なのかも、わからない。帝王は後宮では飽き足らず人妻にまで手を出すほど女癖が悪くても、君主としての手腕はそれほど悪くないようだった。帝国と三つの属国は均衡を保ち、国民の生活もおおよそ安定している。 (デイゼルさんのことだって。男性は自分の子供じゃないからってそこまで邪険にするの……? 愛する奥様と一緒に大切するって選択肢は無かったのかしら) 嫉妬、その辺りの心境はやはりミスリアにはよくわからなかった。妻を赦して相手を赦さないのはわかるとしても、それを理由で誰かを永遠に憎むというのはいかがなものか。正直な感想、とても疲れそうな話である。限られた生の時間を憎悪にばかり費やすのを、勿体ない、と思う。 それほど激しく燃える怨念の炎を彼はずっと押し隠してきたと言う。 心を病んで亡くなられた奥様はどう思っていたのか。そもそも病の原因は本当に帝王陛下だったのか。今となっては、真相が明るみに出ることは無いだろう。 小さな唸り声を上げながら、ミスリアは隣に立つ青年を見上げた。特に予定も無く、今日は二人で街中を買い物などしてぶらぶらしている。 青年は羊肉の串焼きを片手に持って食べていた。 こちらの視線に気付いて彼が首を巡らせた頃には、串の肉は最後の一つが口内へと消えようとしていた。 「ゲズゥには、愛する人って、いますか」 ふと訊ねる。 ――バキャッ! 「だ、大丈夫ですか!?」 串を噛み切ってしまったらしい。一瞬、無表情が渋い顔に歪んだ。 |
42.j.
2015 / 04 / 29 ( Wed ) 「でもこのもじゃもじゃ髪をもう切れないのは、いやよ」
「どうせ成人したら切ってくれないんじゃん」 デイゼルの巻き毛をわしゃわしゃと乱していたティナの手がぴたりと止まった。そしてそのまま彼女はもの悲しい微笑みをつくった。 「だいじょーぶだって。出発は早いほうがいいっていうけど、そんなすぐおわかれじゃないんだからさ。だからティナ姉、もうわるいことやめて。兄ちゃんたちが助けてくれるよ」 ティナは長いため息をついてから、司教さまに向き直った。 「信じていいのね」 「約束します。私の持つ全てでお力になります」 「わかった。それじゃあ、アイツのことを話すわ」 ティナはこちらに向けて短く目配せした。察するに、この先の会話を十三歳の子供に聞かせたくないという心境だ。 司教さまやミスリアたちが話を聞いているのならそれで十分だろう。カイルサィートはデイゼルの肩に手を触れ、部屋から連れて廊下に出た。 子供たちが揃って昼寝しているからか、廊下はしんと静まり返っている。二人の衣擦れの音や足音だけがやたらと響いた。 俯き加減のデイゼルに、ふと思い立って話しかけてみる。 「君が修道者になるなら、いつかどこかで僕のお父さんと会うかもしれないね」 「ふーん。せーじんの兄ちゃんのおとーさんってどんな人なん」 「さあ?」 「なんだそりゃ」 立ち止まって、鼻をぎゅっと皺くちゃにした顔が見上げてくる。視線を合わせるようにしてカイルサィートは僅かに上体を傾けた。 「顔は似てるんじゃないかな。でも僕の知ってる父さんがまだ残っているのかどうかは、わからない」 「んー、じゃあ兄ちゃんのおぼえてるのはどんなん」 「そうだね。信心深くて、笑顔が温かい人だったよ」――言葉を連ねながらも懐かしさが胸に満ちる――「良き夫で、良き父親で、良い兄だったんだろう。少し優しすぎたかもしれないけど」 心が優しすぎたがために、現実の重圧に耐え切れずに脆く壊れてしまった。思えばそういったところは、父と叔父はよく似ていたのだろう。今更責めたいと思うことは無いが、それでもたまに思い出しては一抹の寂しさと失望を覚えることはある。 それに、殻に篭もってしまった父を未だに救ってもやれない己の無力さにも失望する。 「僕はできれば父さんとは似ない方がいいな。君みたいな逞しい男になるよ」 カイルサィートは視線を廊下の先へと戻して宣言した。 「はあ? もう大人なのに、おれ目指してどーすんだよ。ぎゃくだよ」 「あはは、清々しい正論だ。どうするんだろうね」 「兄ちゃんなに言ってるかわけわかんね。へーんなのー」 デイゼルは急に小走りになって廊下をドタドタと進んだ。仲間たちの様子を見に行くのだろう。一緒に居られる時間がそう多く残らない、仲間たちの。 (ああ……父さん、叔父上。生きるというのは、ままならないものですね) 額に片手の指先を押し当てたのはほんの数秒の間だった。この絡まるような想いは、何であるのか。 少年は気付いているはずだ。大切なものは自分が何もしなくても、どんどん掌から零れていく。 守る為に敢えて手放して、後悔する日が来ないと良いが――。 目を覚まし始めた子供たちの声が微かに聴こえる。そこに、悪戯っぽいデイゼルの笑い声が重なる。 (これから先どれほど大きな目的を追おうとも、守るべき宝が何なのか、それだけは見失わずにいよう) 決意を新たに胸に抱いて、カイルサィートは居間へと踵を返した。 |


