47.k.
2015 / 08 / 31 ( Mon ) 魔に通ずる存在は、聖なる因子に魅入る。ヴィールヴ=ハイス教団は聖職者に、特に聖人聖女たちにそのように教えてきた。大陸の夜を侵す悪夢のような異形は、濃い聖気に惹かれるモノだと。 ――今まさにその特性は試される。ひとまずミスリアは自らを包囲する魔物たちの気を逸らすことには成功した。 それから王子とゲズゥは俊敏に反応した。あらかじめ教えた通りに王子はアミュレットを手放して戦線を離脱し、ゲズゥも何かを察して後退した。 取り残されたジェルーゾとジェルーチが、顔を見合わせて疑問符を飛ばしている。二人は謎の光の柱を見つめて首を傾げ、光源である地に落ちた銀細工のペンダントを覗き込んだ。 頭上に無数の影が集まったことに、彼らはすぐには気が付かない。 一秒、二秒、三秒、と間があった。 「わあっ!? な、なにッ――」 <ふわっ!> その様は堰(せき)を切った洪水を彷彿とさせた。 ミスリアのアミュレットめがけて、次々と魔物たちが雪崩れ込む。谷底に出現していた魔物が総じて束になれば、さすがの「混じり物」でも動きが封じられてしまうほどの重量であろう。 (やった!) 作戦は成功し、二人は魔物の山に埋もれてしまった。などと、心の中で勝利の一声を挙げたのも束の間。 低い唸り声がした。瞬く間に光の柱の周辺に、轟きと共に炎が広まった。 これぞ悪夢の光景、涙せずには直視できない。 よくお伽話の中の竜は火を噴いたりするものだが、目前の竜型の存在は、全身の皮膚から熱気を発していた。急速な気温の上昇に空気はゆらめき、相当離れているというのにミスリアの肌から汗が噴き出る。 「バッカだなー。これくらいでオイラたちがやられるわけないじゃん!」 やはり無傷なジェルーチが勝ち誇ったように腹を抱えて笑っている。 五十匹は居たであろう。あれだけの数の魔物を残らず灰塵に帰させて、なお余裕があるなんて――。ミスリアは心が折れる予感がした。 そんな折、味方側の二人が動いた。一人は矢を番え、一人は剣を両手で持ち直す。 煙の幕を突き破って、矢は竜の首の付け根辺りに命中した。ジェルーゾは激しく咆哮した。 「んなっ、なにしやがる!」 痛がる相方を見上げたジェルーチは、死角の低い位置から振り上げられた鋭利な金属への対応が遅れる。 ギリギリのタイミングでかろうじて仰け反り、頭部への損傷を免れたが、代わりに右腕が切り離された。彼も怒り狂った悲鳴を上げる。 「くっそおおお! おぼえてろー!」 涙声で恨みごとを吐きながらも、少年は竜の首に片腕でしがみついた。切り落とされた腕は竜の歯の間に収まり、そのまま二人は夜空へと消えて行った。 羽ばたく音が大分遠ざかってやっと、ミスリアは安堵のため息をついた。とりあえずは事なきを得られて良かった。 「追わぬが得策だろう。追いついた頃には再生しているやもしれんしな。撃退できたのは、まぐれと考えた方が良い」 傍らに戻ってきた王子が、まず口を開く。「本命は奴らを総べる者。この少人数で、ろくな準備もせずに遭遇していい相手ではないはずだ」 「わかっています。お二人とも無事に済んで何よりです。王子、貴方が荷物を持って現れたおかげですね。わざわざ取りに行ったんですか?」 「まあ、私はあの竜が出現した時点で、谷に降りるのを断念して里への道を逆戻りした。進むか戻るかで追われる確率は五分五分だったとしても、入り組んだ狭い道ならば隠れやすいと思ってな。その先で、口のきけない女に会った。あの時檻から助け出さなかった女だ。そいつが荷物をこっそり持ち出してきた」 「イマリナさんですか!」 思わぬ人物の名に、ミスリアは目を丸くした。 「詳しくはわからんが、銀髪の男の計らいだとか」 王子はゲズゥを一瞥して答えた。そういえば、ゲズゥは王子の登場に際して、遅い、と言っていた。それこそ彼が武器などを持って現れることを想定していたかのように。 「お前がそっちに近付くかもしれないと、アレには伝えておいた。巡り合わせが良かったな」 ゲズゥは荷物から自分の服を引っ張り出し、機械的な動作で着直し始めた。 (そ、そういうことは一言断ってからにして欲しいわ) いくら暗いからと言って、異性が服を着ているところを見るのは気恥ずかしい。ミスリアは目線を泳がせた。 「ほう。銀髪との連絡手段があるのか? それはかなり好都合だ。移動しながら、一度情報を整理しよう」 王子のごもっともな提案に、ミスリアとゲズゥはそれぞれ「はい」「ああ」と同意した。 そうして三人は荷物を軽く整理してまとめ直す。 最後にミスリアは、自分にとっての唯一無二のアミュレットを拾いに行った。表面に付着していた土や砂をスカートの裾で拭き取って、銀細工に水晶の施されたペンダントを、掌でそっと包み込んだ。 (何度この手を離れたって、必ずまた探し出してみせるから。どうかこれからも私に付き合って下さい) 心の中とはいえ、無機物に話しかけたい気分だった。 (行こう。立ち止まってなんていられない) どんなにありえない現実が立ちはだかろうとも、心の支えとなる人や物が共にある限り――。 ミスリアは、支度を終えて待ってくれている仲間の方へ、小走りになって追いついた。 |
47.j.
2015 / 08 / 31 ( Mon ) 「私は人間の身体能力の高みなど目指してはいない。そんなものはお前が目指していればいいさ」
「……興味ない」 既にゲズゥは湾曲した大剣をマホガニー製の鞘から抜いていた。夜気に晒された鉄の煌めきをこれほどまでに頼もしく思ったことは、かつてあっただろうか。 (マホガニー=木材の一種。時と共に赤茶色の色味を増すことを特徴の一つとする) 「オルト、ミスリアを頼む」 「よかろう。頼まれてやる」 颯爽とゲズゥが駆け出したので、王子が声を張り上げて応じた。 「さて。私は白兵戦は苦手な方でな。規格外が相手では役に立てん」 自慢げとまではいかないけれど、開き直った様子で王子はスラリと剣を抜いた。ゲズゥの助太刀に向かう気は無いと断っているようだった。 「あ、あの。竜の方は厄介な音波攻撃をしてくるので、できるだけ妨害できませんか」 「なるほど。わかった……と、ならば聖女よ、お前はあの二匹を僅かな時間でも拘束する術を持っているか?」 目を細めて、王子は南の共通語で囁きかけてきた。何かを企んでいる眼光だった。 「推測の域を出ないが、奴らはおそらく一度に一つ以上のことに集中できない」 彼が片手間に切り伏せている魔物を尻目に、ミスリアは思考回路を力いっぱい回した。あることに思い至ると、王子が地面に下ろした荷物を手早く漁り、目当ての物を取り出す。 「できると思います」 「ほう」 「これを、持って……私が合図をしたら、すぐに手放して離脱して下さい」 荷物から取り出した小物を王子に差し出した。彼は素直にそれを受け取って手の内に握り締めた。 「承知した。それはいいとして、お前を一人にして平気なのか」 「大丈夫です。行って下さい!」 ミスリアが懇願すると、王子は口の端を吊り上げた。彼はそれ以上は何も言わずに、踵を返した。 荒事の渦中に向かって走る男性。先にそこに居た長身の青年は、大剣を振り回して「混じり物」の二人を翻弄している。こうして離れて眺めていると、少年たちがあまり実戦慣れしていない事実が浮き彫りになってくる。王子の言った通り、意識の幅が狭いのである。怒りの標的を巨大な刃物を振り回す人間に絞っている所為で、王子の立ち回り方にまで注意し切れていない。 ジェルーゾが飛翔しようとすれば王子のクロスボゥから矢が飛び出し、ジェルーチが攻撃を仕掛けようとすると、ゲズゥの大剣が振り下ろされた。 一方、ミスリアの周囲には十から二十ほどの数の魔物の個体が近付いていた。どれもあのモグラ・アルマジロのような大きさは無いが、サソリが地中に潜るみたいに、動きは素早くて不規則だ。 ミスリアは膝を折った。地面に正座して身を安定させ、目を閉じる。 祈りはきっと容易に届く。十五年の人生の中で最も長い間持ち歩いていた代物なのだ。その重みも感触も、移ろう温度も、銀の匂いも、細かい傷の数に至るまで、熟知している。 「未熟者どもめ。宝の持ち腐れとは、お前たちのことを言う。せっかくの強大な力も、真っ直ぐ向かって来るだけでは芸が無いぞ」 「はあ!? おっさん、いきなり出てきて偉そうにすんな!」 王子の挑発にのせられて憤るジェルーチ。 「今です! 離れて下さい!」 好機とばかりに、ミスリアは叫んだ。 避雷針に雷を落とすイメージ―― 胸元の水晶を用いて溜め込んだ聖気を、オルト王子に持たせたアミュレットに向けて解き放った。 目を開くと――後一歩でミスリアの膝に噛み付けそうなほど傍に来ていた、狼にも似た化け物が、ぴたりと動きを止めるのが確認できた。 |
47.i.
2015 / 08 / 29 ( Sat ) 突然、石が空を過ぎった。それが変身中のジェルーゾに当たって、集中力を途切れさせている。振り返ると、ゲズゥが大きめの石を拾って投げていた。流石に生身でアレを攻撃をするのは危険と判断したのだろう。 そこでジェルーチが横合いから身を乗り出して、石を一つ受け止めた。「おーっと、ダメだぜ、デカブツ! 邪魔すんなし!」 受け止めた石をそのまま投げ返す。ゲズゥは無表情に避けた。 そんな二人の応酬の向こうでは、ジェルーゾの変化が進行し続けていた。やがてその不安定な形が固定する。 ――翼を持ったナニカに。 戦慄した。 竜という空想上の生き物がこの世に存在するなら、きっとこんな姿だろう――。 仁王立ちになって翼を広げた姿、全長五ヤード(約4.6メートル)。翼幅はその倍以上あり、すらりと伸びた長い首と尾は角のような隆起が数多く生えている。滑らかに光沢を放つ寒色の皮膚が、美しい。 見惚れている場合では決してないのに、ミスリアはその場から動けなかった。あんな華奢な少年がものの数分でこれほどの変身を遂げるなんて、俄かには信じられない。 竜はその顎(あぎと)を開いた。 直後、耐え難い耳鳴りに襲われた。人間にとっての不快な音域を選んで、大音量で響かせている。ミスリアは耳を押さえて膝をついた。並よりも耳が良いゲズゥも、同じように耳を覆って表情を歪ませていた。 頭が痛い。一体いつまで続くのか。唯一ラッキーなのは、魔物の多くもこの振動を受けて不快そうに遠ざかっている点だった。 「ふはははは! 苦しめ苦しめぇ!」 すぐ隣にいる相方の方は全く影響を受けていない。 <ジェルーチ……わらって、ないで。おんな……ちゃんと、つかまえて……> 不快音を出すのを止めて、竜は喉の奥から人語を発した。そのことに、ミスリアは唖然となった。 (あの形態でも喋れるの!?) 異形の姿でも思考を保って言語を繰ることができる――それだけで、通常の魔物とは明らかに相違している。 音が止んでも、余韻が頭蓋骨の中でわんわんと跳ね回っている。まだ、動くことはできない。 「はいよ! しつれいー!」 ジェルーチが数回跳んでミスリアとの距離を一気に縮める。恐怖に固まっている内に、サッと間にゲズゥが入って迎え撃った。今度はジェルーチもあっさり蹴られず、ゲズゥからの初手をかわして殴りかかった。 それを左手の甲で弾き、ゲズゥは難なくカウンターを入れた。 一分ほどそんなやり取りが続いた。少年の一撃一撃がとても重そうに見える。なのに残らずに捌ける辺りは、ゲズゥの地力と経験の差だろう。受け止められないほどに威力の大きい攻撃は、受け流したり避けたりしている。その都度、勢い余ったジェルーチがミスリアの居る方に飛ばないようにも配慮しているらしい。 いくら防御が完璧であっても、攻撃の方は効いていない。長引けば疲れが蓄積されるのはゲズゥの方だし、ジェルーゾもまた高音攻撃を出すかもしれない。 「なめんなよ……こうなったらオイラだって!」 そこは運が良かった。気が短いのか、殴ろうとしてもなかなかうまく行かないことにしびれを切らしたジェルーチが、数歩下がって身構えた。瘴気が濃くなるのを感じて、彼も変身をしようとしているのだとわかった。 (ダメ――――!) 心の叫びが届いたのか否か、ジェルーチの足元に矢が刺さった。少年の注意が矢の飛んできた方向へ逸れる。そう、ちょうどミスリアたちの背後からする土砂崩れのような音へ。 誰かが滑り落ちてきている。 「遅い」 間もなく飛び降りてきた人影に向かって、ゲズゥが話しかけた。 人影は様々な形の荷物を背負っている。膝に手を付いて着地し、ゆっくりと立ち上がった。 「くくっ、待たせたと言うなら、悪いことをしたな。主に、お前のコレの所為で足が遅くなった」――王子は重そうに何か長い物をゲズゥに渡した――「全く、よくこんな物が振り回せるな。私には到底無理だ」 「鍛錬が足りないんだろう」 ゲズゥの返事に、王子は大笑いした。 |
47.h.
2015 / 08 / 28 ( Fri ) 普通に言い放たれた過激な内容に、一歩退いた。 (なぶり殺す? 逃げた一人って、王子のこと……?) 視界が歪んだ気がした。目に見えるものを信じてはいけない、そんな心境だ。 しかし相手は待ったなしで仕掛けてくる。 二人が岩を飛び降りるのが見えた。片方が空中で回転し、ミスリアたちの背後に回った。もう一人が体勢を調整して落ちる速度を加速させた。 (――!) 伏せろの一言もなしに、ふいに背中を押しつけられた。 こんな時は素直に身を委ねていい。経験上、ミスリアはそれを知っていたため、抵抗せずにしゃがんで地面に手をついた。背中に触れた手は離れなかった。 「ふぎゃっ」 衝撃音と、少年の呻き声の方を振り向く。 ミスリアの背につけた手を支えに、ゲズゥが半月を描いた蹴りを決めたのである。その流れを生かして、逆側に滑空していたもう一人をも蹴飛ばした。 「いってえな、なにすんだよっ! デカブツ!」 「ジェルーチ……きをつけて……そいつ、つよい……かも」 二人は各々距離を取って体勢を立て直した。 「大体さあ、オイラたちの可愛いペット君をよくも消しやがったな!」 少年がびしっとゲズゥに人差し指を指した。 「ペットってもしかしてあの大型魔物のことですか?」 つい口を挟まずにいられなくなり、ミスリアは質問した。 「そだよ! 珍しいモグラと珍しいアルマジロのコラボが面白かったのに」 ジェルーチと呼ばれた方の少年が地団駄を踏んだ。相変わらず暗くてよく見えないが、輪郭だけでは見分けがつかない。話し方が頼りだ。 「そうだ、さっきの……ひかり……なにしたの」 ジェルーゾと呼ばれていた方がボソボソと不満そうに言ったので、ミスリアはあることに気が付いた。 (この子たちは聖人聖女に会ったことがないのね。魔物が浄化されるのを、初めて見た?) ならば聖気と瘴気、その因果関係に関しても無知かもしれない。悟らせないようにすれば、後々有利に働くかもしれない。 (それにしても魔物をペットと呼ぶなんて。彼らの倫理観は危険だわ) 他にも山ほど危険な点はあるが、敢えてそこに意識を集中させた。好奇心旺盛であれば、そこに付け入る隙があったりして――? 「お、教えて欲しかったら、周りの魔物たちを引かせなさい」 ミスリアは強気に出てみた。 「えー、つまんないからやだ。ルゾ、こいつお持ち帰りしてからゆっくりきこーぜ」 「わかった……」 何気ない一言の後に。 己の正気を疑う出来事が始まった。 (な、に。何が起きてるの!?) ジェルーゾから瘴気が濃く立ち昇った。壮絶な悪臭に、空吐きしそうになる。 そして人の形がドロドロと溶け始め――別の形を成し始めた。 |
47.g.
2015 / 08 / 27 ( Thu ) どうすれば自分もそんな強さを手に入れられるだろうかと、改めて悩む。 (今はそんな場合じゃないか)真っ赤な炎に聖気の黄金色が混ざり、やがて鮮やかな光景は解かれるようにして、銀色の素粒子だけを残して鎮まった。 浄化が終わると、急いで衣服を回収して袖に腕を通した。 外ではちょうどゲズゥが小さな魔物を一匹、二匹と倒していた。ミスリアが傍に駆け寄るなり、振り向かずに彼はひとつ問いかけた。 「……オルトは『混じり物』が何体居ると言っていた?」 突拍子のない質問に驚きつつも、ミスリアはつい数時間前の会話を思い返した。 「数は聞いてません。『ヤツ』と呼んでいたので、一人かと……」 「そこが思い込みの始まりか」 「思い込み?」 「俺も、その時の会話は多少聴こえていた。水を伝うようでハッキリとしないが、左眼は聴覚的情報を受けられる」 相槌を打つことができなかった。急に、小型の魔物がそこかしこに姿を現し始めていることに、気を取られたのである。 それなのにゲズゥの落ち着いた視線の先は別の物を捉えていた。 「まともな武器もなしじゃ、厳しいな」 魔物に完全包囲された現状を超える苦境、を予想させる一言。 (これ以上に何があると言うの) 確認する勇気を、ミスリアは己の中のどこかから掬い上げた。 「女だ! しかも珍しい色白! しめたー!」 斜め上辺りの岩の上から声がした。暗闇の中から疎らに魔物の燐光が見て取れるものの、その者の全体像を浮かび上がらせるには足りなかった。 「ほらみろ、オイラの言ったとおり、里行くのやめて正解だったな! 夜まで待って魔物の集まるとこを探すだけで、簡単に見つかるもんだよなぁ」 「さいしょに……みつけたの……ルゾ」 「だな! 滅多に降らない雨にお前がはしゃぎまわったおかげだな。みうしなったけど!」 聴き慣れない訛りとはいえ、しっかりとした北の共通語だった。まるで、こちらにも理解できるように共通語をわざと使っている風に感じた。 (子供……?) 目を凝らして、十五か十六歳くらいの少年を二人見つけた。 (少年、なのかな) 長い髪に華奢な体型、どちらともいえない高らかな声、どれも中性的な印象をつくっている。 そして一目見て、彼らがまともではないとわかった。 何故なら、異形の集いに混ざって平然としているのである。 以前ティナが魔物の群れを連れて行動していたと聞いたが、それとは性質が違う。目の前の魔物は、少年たちに対して遺族への執着のような感情を見せず、食べようともせず、ひたすら無視している。 (魔物の興味を引かない……この子たちが、「混じり物」?) 状況的に、彼らを疑うのは仕方ない。 隣のゲズゥもそう結論付けたのか、迂闊に攻めずに、ただミスリアの前に立ちはだかっている。 「新参――じゃなかった、よそ? よそもんは価値があるってさ。連れて帰ったら、ヤンの奴喜ぶかな。なあ、ジェルーゾ」 「でも、ひとり……にげた」 「いいんだよー、あれはどうせ男だったし」 「よそもの……にがしたら……ヤン、おこる……」 「わーかってるって。この後ちゃあんとさがし出してなぶり殺すから、それでいーんだ」 |
47.f.
2015 / 08 / 26 ( Wed ) 張り詰めた糸みたいな緊張感を肌で感じ取り、ミスリアはその場に硬直した。 外の世界は、淀みない闇に包まれている――裸眼にはそう見えたけれど、すぐ近くまで迫ってきている不穏な気配を決して無視できない。死角にきっと青白いゆらめきを発する何かがいる。 服を着直す余裕が無い。ミスリアは掛けられていた自身の衣服から、水晶の収められている部分を探り当てて握り締めた。 るうぅん、と唸り声がした。 宙に人間の前腕ほどの大きな爪が三本現れ、手招く動作と似た形で振り下ろされる。幸いと爪の付け根の部分が洞窟の入り口につっかえ、空振りした。 周囲を打ったあまりもの風圧に、ミスリアは肘で顔をかばう。 (この臭い! やっぱり魔物!) かざした腕をどけると、既に魔物の手の動きは止まっているのが見えた。否、止められていた。手の平に該当する部分に錆びれたナイフが下から突き刺さっている。一瞬後、異形が怒りに暴れ狂う。 ゲズゥの舌打ちが聴こえた。 ナイフを放し、彼は今度は甲羅に覆われた毛深い手に体当たりした。 魔物が手を引っこ抜いて咆哮する。 「まずい」 「え?」 「下がれ!」 それ以上の反応ができる前にゲズゥに奥まで突き飛ばされた。遅れて、激しい振動が四方を震わせる。 (ひっ) 尻餅付いたまま顔を上げると、内外を繋ぐ唯一の入り口が巨大な面貌によって塞がれていた。たとえるなら胴体以下はアルマジロという動物に似ているとして、頭部はモグラだ。目を持たなくて鼻は星に似た面妖な形をした、珍しい種のモグラを模した異形のモノ―― それが、何度も頭突きをしている。壁は所々砕け始め、入り口が少しずつ広がっている。 (このままじゃ、崩れる!?) 恐怖に腰が抜けたのは不可抗力だ。 侵入を許してしまうのは恐ろしい。けれど、生き埋めにされるのはもっと恐ろしい。 振動が全身を抜ける度にミスリアの息が荒くなる。こんなに頑張って呼吸をしているのに、窒息しそうだ。 恐ろしい未来と繋がる、見えない線を遮るように。涙の滲んだ視界の中心で、青年の姿がぼうっとゆらめいた。 ゲズゥの手にはマントがあった。それを低く構えたまま火の上を飛び越え、彼は一拍だけ立ち止まった。 ――ズン! 次に猛獣の頭突きが繰り出された時、いよいよ入り口は突き破られた。 瞬時に、炎の燃え移ったマントがぶわっとその頭部を包む。青年は魔物の背に飛び乗り、燃え上がる布ごとその首を抱きかかえた。 くぐもった断末魔によって、ミスリアは我に返った。 (私も動かなきゃ) 驚嘆を押しのけながらも這い上がり、ミスリアは聖気を展開した。 ――でも、この人はどうしていつも迷わずに前に飛び出せるのだろう――。 燃える布で覆う展開、前にもなかったかな(不安) あったよ! って思う人、こっそり教えてね…。 @みかん様 !? 前回の話にかっこいい要素なんてありましたっけ!? |
47.e.
2015 / 08 / 25 ( Tue ) 背中越しにミスリアが頷く。 この体勢で寝たら首など色々と凝るだろうと考え、ゲズゥは手早く地面にマントを敷いた。少女の上体を引き寄せ、そのまま布の上に横たわらせる。ひとりでに丸まった背中をじっと見下ろしていると、新たな問題点が浮かび上がった。 火の傍とはいえ乾ききっていない布に肌が触れている状態では、冷える。できれば熱源を増やしてやりたいところだ。 何も無い洞窟の中での他の熱源と言えば――。 思い当たる節は一つしかなく、よってミスリアのすぐ後ろで寝そべることにした。触れるか触れないかまでに隙間を縮め、左腕で頬杖ついた。 「あったかい」 まだ起きていたのか、端的な感想が返る。少女は身じろぎし、二人の間に僅かに空いていた隙間を完全に無いものにした。 「生きているから当然だろう」 「はい。ありがとうございます」 「…………」 温かいことに、それとも生きていることに感謝しているのか、どちらとも判じがたい。 「こっちの台詞だ」 一考した後、そう呟いた。ゲズゥにとっては両方に対しての率直な答えである。 ふふ、と微かな笑い声がしたが、それきり静かになった。いつの間にかミスリアは寝息を立てている。 ほどなくして、ゲズゥも半分瞼を下ろした。疲労感はあるが、時刻の所為かあまり寝る気になれない。が、腹に伝わる鼓動や呼吸のリズムに、それだけでたとえようのない安息を覚える。 実のところ左眼にはまだ違和感が残っていた。滅多にしないことであり、しかも結構長い間本体を離れていた後遺症で、脳と左眼の意思の伝達はまだ滑らかではない。 危険な賭けに出たものだ。リスクの高い行為と知りながら、それを実行せずにいられなかった。 無事かどうか気がかりだったといえばそうだが、それだけじゃなかった。勝手に動き回る左眼を気味悪がるかもしれないと踏まえた上で、少しでも心の支えになれればと思った。 ミスリアがどんな想いで故郷を去り、聖女となったのか。聖女となって、より険しい道のりを歩もうと思ったのか。出逢ってから幾度となく言葉を交わしてきたが、おそらくこれからもこの娘が抱える孤独や重圧をみなまで理解してやることはできない。誰も他の誰かを真に理解するのは不可能だからだ。 すぐ目の前に無造作に流れる髪の一房を指ですくった。 ――せめて少しでも安らかな場所を作ってあげることなら、できる。半径たったの数フィートでもいい、この少女が安寧と共に過ごせる場所を。 できうる範囲でそうしてやりたいと願っている。 ――確かに、自覚しつつあった。 _______ (私は……! なんって恥ずかしいことを!) 意識が覚醒してから数分経ち、もうすっかり夜も更けたのだと察したミスリアは、眠りに着く直前の己の行動を思い出した。 はしたない真似をした。何か、肌と肌を密着させて横になったような気がする。というよりも――そう、自分から擦り寄った。とても気持ち良さそうに。 (うええええ) 心の中で奇声を上げ、おそるおそる周囲に注意を払った。何か布が掛かっているらしいのはわかる。 次いで目を開いた。いつの間に寝返りを打っていたのか、火は背後側にある。自分の居る位置と洞窟の壁との間は無人だ。ほっとしたような残念なような、奇妙な感情に揺らされながら起き上がった。 (なんだろう、他にも……) 無意識に髪に手をやってから、思い出した。眠りが浅かった間、何かが髪に触れていた。梳いていくように、繰り返し、優しく温もりがすり抜けていったような―― (まさかね) 雑念を振り払い、洞窟の入り口付近に青年の姿を見つけた。しゃがんだ体勢のゲズゥはこちらの視線に気付いてサッと振り返る。 無音でその唇が「うごくな」の一言をなぞった。 @はるさま わわわ、ありがとうございます(;ω;) そしておそらく気のせいでは無いでしょうw おっと、やさしい時間から一変、またバタバタパートのはじまりです。 切り込む時は切り込み、包み込む時は包み込める、願わくばゲズゥが多角的ヒーローに育てばいいなと思っていますが、叶うかどうかはこれから…わかるといいですね! 応援ありがとうございます。まだまだ書きますよッ |
47.d.
2015 / 08 / 24 ( Mon ) 「すみません、自分じゃ見えませんよね。首の後ろから背中にかけて、赤紫色の痣が広がってます。王子の腕を侵していた…………毒、と同じに」
「そうか」 ミスリアが「毒」と繋げるまでに不自然な間があったが、口は出さないでおいた。 「それにしても本当に禍々しいですね。痛みはありませんか? 王子の腕は、動かせなくなっていましたけど」 「痛みは無い。麻痺しているのか、むしろ何も感じない」 時間差で効果が出る種類の毒なのかもしれない。もう少し気付くのが遅かったら、肩や腰にまで影響を及ぼして、立てなくなっていただろうか。 思考を巡らせている間にも、背後から聖気の気配を感じた。 「王子の腕の件、何のことかわかりますか? えっと……『みて』たんですよね」 「視覚的記録はある」 「それはつまりどういうことで……やっぱりあの目玉は……」 少女が遠慮がちに問う。無理もない。何をどうやって訊けばいいのか、明確なイメージが持てないのだろう。小さく息を吐いて、ゲズゥは答えを告げた。 「左眼が独立した状態で経験する大体の記憶は、曖昧にだが伝わってくる。本体に戻れば、まるで自らが経験したことのように――取り込まれる」 意外にも、話し始めるまではちゃんとわかりやすく説明できるつもりでいたのに、言っている内に自分でもわけがわからなくなっていた。これでは魔物ばかりをデタラメな存在と言えない。 「ほ、ほんたい? ですか。どうして身体の一部なのに、自立した活動ができるのでしょうか」 その質問はもっともであった。生き物の部位が勝手に身体を離れて動けるなど、有史以来、なかなか事例の無い現象だろう。 ゲズゥは遠い昔に聴いた父親の話を回想し、語った。今となっては正確な台詞の再現とは言えず、自分なりの解釈の割合の方が大きい。 ――我々のこの「呪いの眼」と呼ばれている代物は身体の一部であり、だがしかし全く別の存在だ。二十年もすれば自我が育ち、本体を離れても元に戻ることが可能になる。主(あるじ)と簡単な意思疎通ができる共存意識を持った寄生虫、とでも思えばいい。 「意思疎通……!? 眼球と!?」 「別に会話ができるわけじゃない。単純な命令・信号のやり取りだ」 「他の身体の部位を操るのに比べて、もう一段階の遅れがある感じなんでしょうか。離れても動かせるのは便利そうな気がしますけど……自己の中に別個の意思が混じっているのって、なんだか怖いですね」 「それほど気にならない。多分、コレは意識さえしなければ、『自己』として認識されるものだ」 「ややこしい、ですね」 背後からの声が心なしか弱々しくなっている。なんとなく振り返ると、少女は眠そうに目を擦っていた。 「おわり、ました――あざ、なんとか消えましたよ……」 とん。前のめりに倒れたミスリアの額が、背中に当たった。まだ濡れたままの栗色の髪の生温い感触は心地良いとは言えないが、かといってゲズゥは振り払ったりしない。 もたれかかってきた重みを、反射的に支えようとして背筋に力を入れた。 「眠いなら、寝ればいい。休める時に休むべきだ」 そういえばミスリアが今日聖気を使ったのは既に三度目なのだと気付き、精神や身体に結構な負担がかかったのではないかと危惧する。 大変お待たせいたしました_OTL これまで何をしていたのかっていうと全くの初心者にかぎ針編み教えたり、翻訳頼まれてたり、通信教育の宿題してたり(真面目にタヒぬかと思った)、普通に仕事してたり、ジムでマッチョ目指してたり、コミコ読んでたりしてました(おい)。 そのぶん今週は睡眠時間削ってでも超絶執筆週間にしますので、応援のほどよろしくお願いしますッ! 切実に! |
47.c.
2015 / 08 / 19 ( Wed ) 幸いそれらしい候補を見つけるのに大した時間を要さなかった。その頃には雨の勢いもいくらか引き、視界も改善されていた。 火打ち石を使用するに必要なもう一つの道具も見つかると、ゲズゥは急ぎ足で洞窟に戻った。入り口を通る際、壁に肘が当たった――のと同時に、カッと眩い光が辺りを照らす。続いて轟音。 「きゃっ」 瞬きの間に、少女の白い肌がまなうらに焼き付いた。すかさず目を閉じる。視覚がまた闇に慣れるのを待つ間、感慨もなくゲズゥは残像を眺めた。 「おかえりなさい」 やがてまた目を開くと、ミスリアがおずおずとこちらを見上げていた。脱ぎ捨てた自らの服は既に水を絞って膝の上で広げている。 ただでさえ狭い洞窟の中で蹲っていたのは、体温を保つ上では正解だ。 「ああ。そういえば、ケダモノの鳴き声が遠い。外に行っても姿が無かった」 ゲズゥがそう肩から振り返りつつ応じると、ミスリアも洞窟の外、遠くを見やった。遠ざかったケダモノが何処へ向かったのか想像しているに違いない。 「王子は無事でしょうか」 「あの男に限って、簡単に死にはしない」 淀みなく答えた。 少なくとも谷を落ちなかったとすれば、どうとでもなるだろう。元よりオルトは常軌を逸したしぶとさを有していた。案じるだけ時間の無駄に思える。 そんなことよりもゲズゥは持ち帰った物を地面に下ろした。石の欠片を幾つか、それと、風化したナイフを一本。カチャカチャと小さく音を立てて鋭利な欠片を選び取った。 欠片を左手に持ち、右手にはナイフを握る。そこから枝と草の山の上でそれらを何度も擦り合わせる地道な作業が始まった。使用材料がどれも湿っているのが難点だ。最終的には切り開いたキノコ類を火口(ほくち)とし、樹皮以下を薪として、なんとか火が点いた。 途中、何故かうなじの後ろがかゆくなって、引っ掻く為に三度ほど作業を中断することになったが。 「その刃物はどうしたんですか?」 背後に気配が近付くのを感じる。 「落ちてた。この錆びれ具合、オルトの持ち物とは思えない……となると、この谷底に来た別の誰かのものだ」 ミスリアがごくりと唾を飲み込むのが聴こえた。 「別の誰か、って、今どうしてらっしゃるのでしょう」 不安の滲み出る声に、ゲズゥは「さあ」とだけ答えた。推測を並べたところで要らぬ不安を煽ぐことになりそうである。 以降は沈黙を維持した。火の傍でミスリアと同じように衣類をかき集めて水を絞り、膝の上に広げる。 しばらくして、とん、と背中に微弱な衝撃があった。あくまで身を隠そうとしている少女が、背中合わせに座ったのだろう。これもまた現状で体温を保つ上では正解と言える。 触れ合った肌から伝わる温もりを、ゲズゥは無言で受け入れた。 弱まる雨の音と火花の弾ける音以外には静かだった。 一度は冷えきった身体が徐々に温まるにつれ、ふわりと眠気が意識を包む――が。 度々耳朶に響く「かりかりかり」との引っ掻き音が、気が付けば大きく脳内に響くまでに育っていた。利き手を見下ろすと、爪の下に垢が溜まっているほどだ。 ――虫刺されか、この痒さは一体―― ふいに、ミスリアの背中が離れる感覚があった。突然の寒さに驚き、思わず振り向いた。 ギョッと限界まで見開かれた茶色の両目と視線が合った。 「そ、れは――どうされたんですか!?」 言っている意味がわからず、ゲズゥは眉を寄せて見つめ返すしかできない。 |
47.b.
2015 / 08 / 12 ( Wed ) きょとんとした顔で言われ、いよいよゲズゥは返す言葉が見つからなかった。やむなく、会話の矛先を逸らした。 「それより痛い所と言ったが」 またもや歯を食いしばり、緩慢に上体を起こした。こんな当たり前の動作をこなすのに、いちいち激痛の火花が弾ける。 「はい」 察したのか、ミスリアは四つん這いになって背後に回る。次いで息を呑むのが聴こえた。 「こ、れは……ものすごく、痛いのでは」 眺める方も随分と苦しそうである。当事者は患部が見えないので、その点に関しては救われているのかもしれない。 「ああ」 短く答えた。というより、息が上がってそれ以上言葉を継ぐことができない。 「じっとしていてくださいね」 すぐさま温かい風みたいなものが背中を掠めた。 そこを中心に雨の感触が遠のくようだった。目を閉じると、瞼の裏が淡い白光に満たされる。 これまでにミスリアから受けた聖気となんとなく質が違う気がした。より清涼で、濃い。それでも少女の心根を感じさせる点で言えば、変わりはないのだが。 数分もしない内に、打って変わって――ついさっきまで全身を蝕んでいた「痛覚」という概念は何だったのか、ふと思い出せなくなるくらいには気分が良くなっていた。 それでいてこの間(かん)、左眼だけは時折、ちくりとささやかな不快感を訴えてくる。 「もう大丈夫でしょう」 ミスリアが満足気に告げるのを合図に、ゲズゥは目を開けて速やかに四方に視線を走らせた。目当ての物を見つけ、立ち上がる。 「移動する」 「え、あ、はい」 目標の場所まで歩き出しながらも、少女がちゃんとついて来ているのか、振り返って確かめた。 やがて一つの谷肌の窪み、つまりは洞窟の前に辿り着けた。洞窟と言っても、浅く狭い。五人も詰め込められたら頑張った方だろう。 とはいえ、あの重苦しい雨を逃れるには十分だった。 早速地面に腰を落ち着けたミスリアの傍らで、ゲズゥは屈んで土の中を漁り出した。 「何か探してるんですか?」 「薪になりそうな物を」 「なるほど……」 頷き、ミスリアも倣った。だが洞窟の中は湿った臭いが充満している。見つけられたとしても、なかなか火は点かないと予想がつく。 とりあえず五分かけて、二人で樹皮やら小枝やらをそれなりに集めた。もういいだろうと考え、ゲズゥは土を探る手を止めた。同時に、失念していた重要事項に思い当った。 「忘れていた。服を脱げ」 ゲズゥは屈んだまま、背中越しに指示した。 「へ?」 少女から素っ頓狂な声が返る。 「早くしないと冷えるぞ」 指示した内容のままに自分も実行した。ずぶ濡れの状態では、服は余計な枷でしかない。しかも、既に体温は大分下がってしまっている。 「火が起こせたら、乾かせばいい」 脱いだマントと腰布を適当に捨てて、ゲズゥは今度は洞窟の外へ一歩足を踏み出した。 「ま、待ってください、その格好でどちらに?」 「火打石を探す」 そう言い残して、ゲズゥは小走りで岸に向かった。 |
47.a.
2015 / 08 / 10 ( Mon ) 闇に呑まれそうになる一歩手前、留まることができたのは背中に走った痛みのおかげだった。 皮膚が裂け肉が抉れる激痛。焼けるような傷口に染み込む冷たい水の刺激は、まるで我が身が真っ二つに裂けるのではないかと錯覚させる。――取り巻く全てを忘れ、手放して、苦しみに身を任せて悶えたい。 この時のゲズゥ・スディル・クレインカティには、呼吸への欲求以上にその衝動が強かった。 だが打ち勝たねばならない理由が腕の中にある。 歯を食いしばった。 岸に辿り着き、すっかり汚泥となった土に爪を立てられる一瞬まで、彼は衝動を抑制しぬいてみせた。 「がはっ」 立てた指に力を込めて身を引き上げる。抱き抱えていた少女ごと、ドサッと雑に寝転がった。 オルトに借りたマントが半分ほど下敷きとなってくれた。水を吸った状態の残る布は、ただの冷たい重しにしか感じられない。 ここで力尽きて意識が飛びかけたのも無理はない。 背中だけでなく、体中の至る箇所が水面を打った反動で痺れて痛かった。水を吐こうとして咳き込み、それが治まったら次は呼吸という必須機能に従事せんと胸板や腹筋が重苦しく上下する。 満身創痍だ。この機に敵に襲われたとしても、呆気なく敗北すること間違いなしだ。 もう何も考えられない。動けない。寝たい。 そんな途切れ途切れな思考も弱まり、瞼が縫い付けられたように下りたまま開けられなくなる―― 「……――ですか!? 気をしっかり!」 泣きじゃくる声と頬を叩かれる感触によってゲズゥはまどろみから呼び覚まされた。 「すごい血!? 痛いところは――」 よほど気が動転しているのだろう。こんな状況、常ならば喋るよりも早く聖気とやらを使用しているはずだ。突然の展開続きで落ち着きを失くしているのだと思えば、得心がいく。 「…………そんなに叫ばなくても聴こえている」 少女に対して、ゲズゥは気だるげに抗議した。ゆっくりと瞬きを繰り返すと、視界に聖女ミスリアの輪郭が浮かんだ。 「す、すみません。でもよかった……」 謝罪と安堵の言葉と共に、大粒の涙が零れ落ちる気配があった。 その涙を美しいと思った時もあった。しかし何故だか、以前は嬉しいとすら感じたこの様子が、今は不愉快でならない。 「泣くな」 気が付けば疲労困憊していた身体を動かせた。頬に添えられたままの小さな手をそっと握る。か細い指からぴくりと、微かな痙攣にも似た身じろぎが返った。「お前が泣いても、俺はどうもしてやれない」 束の間を置いて、ミスリアが囁くように訊ねる。 「本気で……そんなこと思ってるんですか?」 姿形がまだくっきりとしないため表情は見えないが、声の調子を聴く限りでは驚いているらしかった。 「質問の意味がわからない」 そう返事してやると――ふ、とミスリアは小さく息を吐いて笑った。 「ゲズゥは優しいですね」 計らずも瞠目してしまった。多分、少女の声音があまりに柔らかく、聴いたこともないような温もりを含んでいたからだろう。 反応に窮した果てに、ゲズゥは訝しげに答えた。 「その手の寝言をぬかすのはお前だけだ」 「でも、私は本当にそう思ってますよ」 |
46.h.
2015 / 08 / 05 ( Wed ) 「そうですね」
せっかくなので、ミスリアは王子にも当の聖地の逸話を語り聞かせた。七百年前に起こったとされる一つの衝突の話を。 聞き終わった王子は、「怪獣大戦だな」と笑った。 「しかし、これはヒントかもしれない」 最初はニヤニヤ笑いを浮かべていた彼が、次第に思慮深い表情に変化していった。 「ヒントとはどういうことですか?」 「もしも谷底の混じり物がその怪獣伝説を――」 オルトファキテ王子がみなまで言うことは無かった。 大気を切り裂く甲高い鳴き声が響き渡ったからだ。三人は弾かれるように音のした方を見上げた。 遥か頭上を、巨大な影が飛行している。 影の形は長く、左右対称的で、まるで尾や翼を有したように見える。尾の形状を見るに、鳥とはかけ離れた外観だった。 ――竜などという存在は、空想か伝承か魔性の中にしか具象化されない。そう、ミスリアは認識している。 (まだ陽が落ちてないのに魔物!?) それともこれこそが王子の言う「混じり物」だろうか。 影は咆哮した。骨の髄まで揺さぶられるような、ただならぬ振動だった。一行はその場に縫い付けられて微動だにできない。 余韻が消えて谷が静寂に包まれてもまだ、呼吸をしていいのかわからなかった。 影は大きく羽ばたいてゆったりと旋回する。己の意思とは無関係に、魅入ってしまう。 やがて、ぱらぱらと小石の落ちるような音が耳朶に届いた。 (あれ? 影がこっち来る) 放心状態からのろのろと抜け出し、目を擦る。 「ミスリア!」 いつになく切羽詰った声が呼ばわったのと時を同じくして、雨粒が頬を打った。 あっという間に大雨になった。この世の一切を叩き潰すかのような勢いをつけた水が、忽ち身体を重くする。 次いで腕を掴まれ、引かれた。暗転した視界に驚いている間に岩場が激しく震動した。何か大きな物がぶつかったのだろう。 足の下にあった地面が突如崩れ―― ――落下が始まった。 「目を閉じて息を止めろ! 運が良ければ河の中に落ちる」 聴き慣れた低い声が怒鳴りつけてくる。 「んっ」 即座に指示通りにした。 運が悪かったらどうなるの、と想像している余裕も無かった。抱き抱えてくれる腕に負けじと、ミスリアは必死に青年にしがみつく。 直後、衝撃が意識を埋め尽くした。 _______ 左眼に映し出される映像が一瞬だけ見知らぬ別物とすり替わった。 (……水飛沫?) あまり経験しない現象ではあるものの、リーデン・ユラス・クレインカティには何が起きたのかちゃんと飲み込めた。 「どうかされましたか、解放主(ヴゥラフ)?」 その所為でぼんやりしてしまったらしい。すぐ近くに控える中年の女が、眉根を寄せて覗き込んできた。 「何でもないよ。で、何の話だっけ」 「あなたさまに、谷底に根付いた脅威を排除していただきたいと、申し上げたのです」 「ふうん。そんなことして僕に何のメリットがあるのかな」 「あまり多くのお礼はできませんけれど……」 彼女の目線が向かった先には、民がかき集めた食物やら薬草やら山羊やらがある。 「あー、いいよいいよ。大体わかった」 問いは形式的なもので、リーデンはこんな辺鄙な小国にこれといった期待をしていたわけではない。どう返されたところで決断は変わらない。面白けりゃ何でもいいや、くらいにしか思っていないのである。 「解放主、お供の方をお連れいたしました」 一人の男が前に進み出た。その背後から人影が飛び出て、一直線に向かってくる。 ちなみにカルロンギィの民の勝手な思い込みの中では、いつの間にかリーデンが集団のリーダーだったみたいな解釈になっている。実際は十四、十五歳ほどの少女がその立場だったと知れば彼らはどう思うのか、興味深い。 「おかえりマリちゃん」 リーデンは胸に飛び込んできたイマリナをしっかり抱き止めた。彼女の温もりを身近に感じ、宥めるようにその背中をさすりながらも、そのまま取り囲む連中を観察した。 連中は他の二人については何も言わない――しかし少なくともミスリアが自ら脱走したらしいのはさりげない手話で今しがた知ったので、よしとする。 「で? さっきの鳴き声、何? みんな、何も聴こえてませんみたいな顔して全力で無視してたみたいだけど」 そう責めた途端、通訳の女は気まずそうに俯いた。 「……あれは催促ですわ」 「あのさぁ。もっとこう、わかるように言ってよ」 「ですから……我々に、妙齢の娘を差し出せと。数週間ごとに、化け物が催促に来るのです」 手を握り合わせた女が消え入るように答える。 「へ、えー? それはまたどっかの神話みたいなやり口だね」 自分はそれを聞いてどんな感想を抱いたのか、それとも抱けばいいのか、リーデンはすぐにはわからなかった。 ただ、イマリナを一層きつく抱き締めながら、小さな聖女の安否に思いを馳せた。 |
46.g.
2015 / 08 / 03 ( Mon ) そもそも呪いなんてものが本当に実現可能か? この時この瞬間、ミスリアが思い起こせる知識に照らし合わせただけでは、判断しかねる。 (聖気が生き物に影響するように、瘴気にもそんな効力があるとしたら、可能なのかな) しかしそう決めつけるには材料が足りない。器を核として瘴気の流れを生じさせ、それを何かに向けて流し込む――その工程は聖気を施す以上に、術者の「意思」に依存している気がする。 そんなことが可能だとすれば、扱うのは魔物などではなく、人間と同等以上の自我を持った存在でなければならない。 しかも、聖気を扱う為の知識と技能は教団や旧信仰の神官たちが長年研究してきたからこそ、人生経験の浅いミスリアのような人員にも習得できるようになっている。ならば瘴気で似たことをするには何が必要か? ――ゾッとした。 (待って。違うの、私は瘴気を呪いに進化させようとずっと研究している人間が居たのかなって仮定したかったのであって……違うの。聖気を熟知した立場の人間が逆の試みをしたとか、そういう疑いを持ちたかったわけじゃ) 混乱のあまり、ミスリアはその場に立ち止まって両の拳を握りしめた。 (考えすぎよね) 最近やたらと魔物信仰だとか、魔物を体内に取り込んで人間の枠を超越したがったエピソードだとか、道を外した行いに関する見聞を広げ過ぎただけなのだろう。そう、自分に言い聞かせた。 「オルト、この風」 最後尾を歩いていたゲズゥがふいに声を張り上げた。意外と声が近くてミスリアは小さく身じろぎした。 「ああ、まずいな。一雨来るやもしれん。濡れたら足場がかなり歩きにくくなる。急ぐぞ」 二人の話をきっかけに、ミスリアも空気の流れに意識を集中させてみた。なるほど、気温は下がっているし肌寒い風も前よりも頻繁に吹き抜けている。 王子の急かす一声に従い、一同は小走りになって坂を下りた。最早それは獣道と化しており、ミスリアにとっては何度かバランスを崩すまでの難易度に上がっていた。その都度後ろから腕を掴んで支えてくれるゲズゥを振り返ると、彼は傷だらけの足をなんともなさそうに進めていた。 (ひと段落ついたら治癒してあげよう) と言っても、あとどれくらい歩くのか、わからない。先刻からずっと風景は変動しているはずなのにミスリアにはあまり見分けが付かなかった。左右にそびえる谷の高さからして、大分降下してきたという点には自信が持てるけれど。 「そういえば聞きそびれたが、お前たちは元々巡礼の為に来ていたのか」 意気消沈しそうな間際。有り難いことに王子がまた気を紛らわせる為に話を振ってきた。ミスリアは特に警戒せずに応じた。 「はい。カルロンギィ渓谷に、聖地と認められている箇所があります」 「ほう、それは知らなかった」 「前回聖獣が蘇った約四百年前ではなく、更に三百年遡った頃の出来事だと言い伝えられています」 「七百年前か。想像も及ばぬような時間だな」 |
46.f.
2015 / 08 / 02 ( Sun ) ゲズゥはくるりと王子に背を向けて、こちらを見下ろした。 「怪我」 この冷静な双眸と視線を絡めると、ミスリアは逆に落ち着かない。そんなに寒いわけでもないのに両手の指を擦りあわせた。 「ありません。檻や崖を登る苦労も王子が負担して下さったので、私は擦り傷すら負ってません。ゲズゥの方こそ大丈夫でしたか?」 「逆さに吊るされてた名残を除けば、大したことない」 そう答えて彼はこめかみに指関節を押し当てた。よく見ると足首や手首の周りに充血の痕がある。 というよりも、改めてみると、この不自然なまでの肌の露出。ミスリアも上着や荷物がなくなっているが、ゲズゥに至っては言葉通りに身ぐるみを剥がされている。 まるで見計らったかのようにぶわっと何かが宙を横切って飛んできた。大きな布を、ゲズゥは片手で受け取る。 「お前には丈が短いだろうが、無いよりマシだ。使え」 「…………」 ゲズゥは訝しげに眉をひそめた。その手にあるのは、砂色のマントである。ついさっきまでの持ち主であった王子は、黒に近い濃い茶色の髪をかき上げる。 「流石に腰布一枚じゃあ過ごせまい? 悪いが、私物の回収は後にしてもらおう。じきに日が暮れる」 彼は時刻を気にする発言をし、サッと天を一瞥した。青空はいつしか雲の割合がかなり増えている。 「……不本意ながら、礼を言う。ミスリアに関しても」 やっとのことで口を開いたゲズゥは、機械的に言葉を連ねた。言い終わる前にも手を動かし、マントを羽織っていた。胸元で紐を結び合わせると、少なくとも上半身は完全に覆われる。 「気にするな。借りとは、返せばいいだけのもの」 もっと恩着せがましいことを言うのかと思いきや、王子はあっさり流して歩き出した。深く考えずにミスリアたちもその背後についた。 岩場なのに裸足で大丈夫かな――とミスリアはゲズゥの足の裏の皮膚が気がかりだったが、私物の回収をしている暇は無いという発言の方が重要度が上だと判断し、道すがら問い質すことにした。 「あの、じきに日が暮れるというのは、魔物の出現を危惧してるのですか?」 「魔物じゃなく――『混じり物』の活動時間に、おそらく昼夜の制限は無い。ただ、理由はまだ突き止めていないが、ヤツは夜に活動するのを好むらしい。私がこれまで観察してきた分にはな」 オルトファキテ王子は大袈裟に肩をすくめてみせた。 「活動していない時間に探りを入れるのが狙いか」 そこでゲズゥが静かに口を挟む。 「そういうことになる」 王子は振り返らずに相槌を打った。 (でもオルトファキテ王子なら、探りに行くくらい一人でも向かってそうなものだけど……) もしや腕の異常はその結果だったりしたのだろうか。 毒などではなく魔物か「混じり物」が発した呪いみたいな物だったりして――? ほぼ裸マントってなんだwwww 気が付けば状況的にこうなったのであって、断じて私やゲズゥの趣味ではありませんよwww |
46.e.
2015 / 07 / 30 ( Thu ) それに対して先ず抱いた感情は、畏怖だった。 ミスリアは内ポケットの水晶を無意識に撫でた。(すごくハッキリしてる) 眼窩に戻った呪いの眼があの光の発信源なのは明白だが、以前は微かにしか目視できなかったのが、今度は昼間にも目に見えるほどに濃い。半歩後退ったのは不可抗力だ。 ゲズゥは崖を登り切ると、鍵束を落として尻餅をついた。息を整えてから、どことなく不機嫌そうにこちらを向いた。 「ミスリア」 首を斜めに逸らす仕草で、こっちに来い、と伝えている。 呼ばれたミスリアはたじろいだ。彼の不機嫌の原因に思い当たらなくて、気後れする。 (ううん、きっと大丈夫) 再会への心配と安心を胸の奥でモヤモヤさせたまま、結局駆け寄ることにした。 「オルト、お前には用が無いが」 立ち上がったゲズゥは「さっさと消えろ」とでも言いたげな視線を知人に向けた。不機嫌の原因は王子だったようだ。なんとなくミスリアは気が抜けて、ゲズゥの隣に立った。 どうしてかその位置には言葉に表せない安心感があった。無事で良かった――しみじみそう思う。 「ご挨拶だな。私も久しぶりにお前に会えて嬉しいよ」 王子は浴びせられた嫌味をものともせずに笑った。そんな彼を、ゲズゥは目を細めて睨んだ。 「見ていたな」 「ほう、何を?」 「リーデンだけが連れ去られた場面だ。何故崖に吊るすのか……連中の狙いも、わかっていただろう」 「ああ、わかっていたぞ。何を隠そう先に同じ目に遭っている。よってお前たちに比べれば遥かに状況を理解していた」 「放っておいてもいずれ解放されていたはずだったのも、か」 もしかして助けに来てくれたことを責めているのだろうか、とミスリアは意外に思って隣の青年を見上げた。 「解放どころかその眼があれば優遇すらされたかもしれないな。妙な手違いによって、崇められているのはお前ではなく銀髪の方だが」 王子の思わせぶりな眼差しや仕草からは、呪いの眼の正体や、ゲズゥの左眼から漏れる瘴気が見えているのかどうかまでは読み取れない。或いは彼はあらゆる事情を把握しているのかもしれない。 「だからこそ逃れる必要があった。連中の四六時中の監視の目があっては望むように立ち回れないし、隠し事もされやすい。情報に誤りが生まれては面倒だ」 「……お前は俺らに何をさせる気だ」 その問いかけで、腑に落ちた。ゲズゥが不機嫌なのは、助けられたことに不信感を持っているのは、目の前の王子が企みを秘めているからだ。 そこまでわかると、ミスリアも興味津々に返事を待った。 「わかっているくせにいちいち訊くな。私は都市国家郡を連邦とし、他国に抵抗しうる一つの勢力として育て上げるのが目的だ。残る地の一つ、カルロンギィ渓谷は国としての機能が不完全だったため、偵察に来た」 「そうしてお前一人の手には負えない厄介ごとを見つけたと」 「うむ。よって、お前たちの手助けを乞うことに決めた。何だ、姫君を救ってやったというのに礼の一言も無いのか?」 口の端を歪に吊り上げた笑い方は、見る者の不快感を煽ごうとしている――ミスリアにはそんな気がしてならなかった。 ふと、オルトの発言のノリがちょっと折原○也に似ている気がしてきた…やべえ。嘘だと言ってよママン。 その辺に漂う瘴気と魔物が発する光はほぼ同じものです。ただ魔物に付着しているかしていないかで色が付きます。 同様に、大気中の聖気はあまり色がついてるようには見えませんが(レティカ除く)、器を通して発せられていると金色、魔性の物と混ざると銀色に見えます。 |


