53.b.
2016 / 02 / 10 ( Wed ) 「いつもじゃねぇって。行水もする」
「大して変わらないでしょう」 ディアクラはため息混じりにこめかみに指を当てた。そんな風に呟かれても譲れないものは譲れないのである。 「寒中水泳って、気持ちいいですか」 カタリアが無邪気に訊ねた。 「……俺にどう言えってんだ」 青年はハリド兄妹の微妙な視線を受けつつ、世間知らずの聖女に向けて引きつった笑みを向けた。屋外での寒中水泳も行水も、最初の衝撃には確かに一種のカタルシスを得られる。しかしその快感は命の危険と引き離すことのできない類のものだ。気を抜けば、クソ寒いだけである。 結局「勧められない」と簡潔に答えると、彼女はあっさり「そうですか」と言って引き下がった。 「それで」 「今度はなんだ」 「どうして、火が嫌いなんですか」 カタリアの表情に茶化す様子はまるで無く、ただ歩み寄ろうとする者の真剣さがあった。目に見える距離は二十歩も開いているのに、妙に近くに存在を感じる。 青年はたじろいだ。隠すような話ではない。それでも口が重くなってしまうのは、心の折り合いをつけていない証かもしれない。 「――――奪うからだ」 やっとの思いで搾り出せた声は、震えていた。 瞬けば、遠い日の光景がまなうらに蘇りそうで怖い。青年は無意識に首の後ろに手を触れていた――思い出すだけでいちいち古傷が疼く。 「わかりました。これで暖を取ってください」 ざく、と乾いた枝葉の上を渡る足音。視界の中であっという間に聖女の姿が大きくなる。抗議をする間もなく、毛皮のマントが背中に回された。 突如として覆い被さってきた女特有の甘い残り香と温もりに、青年は一瞬硬直した。目を大きく見開いて、今一度状況を確認する。目の前で背伸びをする少女が小さく震えた―― 「あんたが風邪引いたらどうすんだ。返す」 青年は即座にマントを脱いでカタリアの肩に戻した。 「私は大丈夫ですよ」 「んなわけあるか。早く炎の傍に戻れ、でないと俺がアイツらにどやされる」 カタリアの向こうでは、ハリド兄妹が殺意と同等の凄みをもって青年を睥睨している。 「心配してくださるんですか。お優しいんですね」 「違う。そっちが非常識なんだ」 青年はうんざりしたように答えたが、この陽だまりみたいな笑顔を前にして、本気で怒れるわけがなかった。 「ふふ、では煮上がったら貴方の分を持ってきます」 「おー。あんま気ぃ遣わなくていいぜ」 ひらひらと追い払うように手を振ると、カタリアは何故か楽しそうに走り去った。 _______ ある黄期日の午後、ミスリア・ノイラートは市立図書館の中庭で大理石のベンチに座していた。 ここはウフレ=ザンダという国の首都である。記憶障害者の男性、シュエギと出会った町もウフレ=ザンダの領土内に位置しているが、今ではもうその地点より北北西に十五マイルほど進んだ場所に居る。 書物を片手に、ミスリアは自らの護衛の一人である眉目秀麗の青年、リーデン・ユラスと他愛の無い話をしていた。 最近! 仕事! いそがしす!! |
53.a.
2016 / 02 / 04 ( Thu ) 周辺の魔物退治もあらかた片付いて、軽食をとろうと火を焚いたところだった。 肌が無数の針に刺され続けているかのような寒さだというのに、青年は焚火を睨むだけで、傍に行こうとしない。肌だけではない。氷点下の乾いた空気を鼻から吸うだけで、肺が激痛に苛まれる。それでも彼には彼なりの理由があり意地があった。 「感じ悪いですね。同伴するのが嫌みたいに見えますよ。我々はともかく、聖女さまに対して失礼ではありませんか」 青年の胸中を知らず、不審に思ったらしい旅の連れの一人が、口を出した。 その男は切り株に腰を下ろしていた。額や耳を覆う毛糸の幅広いヘッドバンド(はちまき)は温かそうである。マフラー越しに発せられた言葉はハキハキとしていて、くぐもっていながらも聴き取りやすい。 「悪かったな。どうせ俺は協調性がねーよ」 素直に火に近付かない理由を語ればいいのに、棘には棘で返してしまうのが性分だ。青年の卑屈に、切り株に座した黒髪の男――ディアクラ・ハリドはフンと鼻をならした。 「全くです。聖女さまはなにゆえ、貴方のような者を供にしたがったのか」 本人がすぐ近くに居るのをわざと意識した声量で、ディアクラが不平を漏らす。話題の聖女、カタリア・ノイラートは携帯式の鍋を火で熱するのに夢中でこちらを見向きしない。ふんふんと楽しそうに鼻唄を歌っている彼女の隣で、黒髪の若い女がため息をついた。 「兄さま。たとえ本当のことでも、今のは言い過ぎですわ」 「本当のことって……お前フォローする気ねえだろ」 青年は稀に見る美女、イリュサ・ハリドを一瞥する。波打つ黒髪はカタリアのゆるやかに流れる巻き毛と比べて、倍のボリュームを持っている。肩にも届かない長さなのに横の広がりがあって、頭の細かい動きに合わせていちいち揺れている。見ていてどうも鬱陶しい。 「あら、わたしは貴方の味方ではなく平和の味方です。聖女さまが快適に旅していられますよう、面倒ですけれど喧嘩はできるだけ止めますわ。面倒ですけれど」 イリュサは兄とお揃いのヘアバンドの下から漏れる前髪を、指先でいじった。 「……いちいち繰り返すな」 この兄妹は、言動がネチネチしていて苦手だ。青年には当たりがきついのに反し、聖女カタリアには傾倒している様子なのも面白くない。 だが魔物狩り師としての腕や、チームワークの高度さには文句のつけようが無いのである。連携に青年や聖女カタリアを追加しても狂わないどころか更に進化を見せた点も、実に見事である。認めるしかなかった。 「卑屈なのは、自分に不満や不足を感じてるからで。それを感じられるのは、向上心の表れでもありますよね」 ふと、よく通る澄んだ声が夜の空気を震わせる。 三人は未だに鍋につきっきりの聖女カタリアに注目した。話を聞いていないと見せかけて、実際はちゃんと耳に入れていたらしい。 「素晴らしいことではありませんか」 茶色の双眸が鍋から外れて、青年を真っ直ぐに見つめた。 「……そういう見方もできるのか」 目が覚めたような、くすぐったいような、後ろめたいような。モヤッとした想いで、青年は苦笑いした。この聖女は自分を買い被りすぎている、そんな気もしている。 「それで」 「なんだよ」 「教えてくださいませんか。どうしてそんなに離れているのですか?」 カタリアのこれは純粋に知りたがっている目だ。抗いがたいものを感じ、青年は他の三人に聴こえないくらい小さく舌打ちした。 「俺は火が嫌いなんだよ。んなもんに世話になるぐらいなら、凍え死んだ方がマシってんだ。食事に関してはどうしようも無いけど、蝋燭も松明だってできれば使いたくない」 「この極寒の季節に何を馬鹿げたことを。どうやって越冬をしているのですか。湯も沸かさず、まさか寒中水泳をしているとでも」 信じられなそうにディアクラが眉間に皴を寄せた。 「そりゃ――まあ……」 青年は言い淀んだ。 「本当にそんなことを? 心臓止まりますわよ」 呆れとも心配とも取れる声でイリュサが訊ねる。 最近丁寧語キャラ増えすぎ感。でも私はたのしい。 ハリドzは最初メガネでイメージしてたのですが、世界観的に無理を感じ、ヘッドバンドきょうだいになってしまいました。今ではお気に入り。二人は同じものを使ってますが、兄は額にかぶさるよう(前髪の下)に着けていて、妹は前髪よりちょっと上に位置するようにつけてます。耳あったかい! ちなみに彼らは多分25歳と28歳とかそんなんです。 |
52.g.
2016 / 01 / 26 ( Tue ) 吊り上げられた眉、大きく見開かれた瞳に、震える唇。そこには明らかな動揺が浮き出ていた。 だが敬愛や尊崇とは違う。もっと日常にありふれた感情、そう、懐かしさと――――既視感、だ。 「……ずっと以前にも、似たようなやり取りがあった気がします」男の言葉はゲズゥの観察を肯定した。「あなたには初めて会うはずなのに、どうしてでしょうね」 「どうして、でしょう」 ミスリアは相槌に迷っている。ぬか喜びをしてそれが相手にも伝わってしまうのが、気が引けるのだろう。 空気がピリッと痺れた。 理由を確認するより先に、ゲズゥは動いていた。守るべき対象を背中に押しやり、異変の根源たる男との間に入った。 同様に行動した弟と肩を並べ、頭ひとつ分は背が低い男を見下ろした。 白髪の男は、歯軋りしていた。ボサボサの髪や髭を引っ張り、荒い呼吸をしている。血走った目は忙しなくデタラメに動く。 まるで耐え難い激情を持て余すように。 髪色のことを除けば二十代後半くらいだろうかと思っていた顔は、いつの間にか老け込んだのか、皺をどんどん増やしていく。 くい、と腰辺りの服が後ろに引っ張られる感覚がした。 上着を掴む小さな手から戸惑いが伝わる。どいてやることはできない。攻勢に出るべきか逡巡する―― が、シュエギという男は急に何かに打たれたように、素早く踵を返した。そうして無言のまま、場を辞した。 土色の外套が見えなくなるまで、ゲズゥたちは動かなかった。 ふいに一陣の風が通り抜ける。枝葉が振り回される音が耳に大きく響いた。 さすがは大陸北部と言ったところか。夏も半ばなのに、涼しい風ばかりが吹く。 「あの…………」 静寂が戻って数分経った頃、遠慮がちにミスリアが呼んだ。肩から振り向いて、「去った」と一言報告すると、微妙な表情で「そうですか」と応じる。 「ん~、どことなくアブナイ人だったね。兄さんはどう思う?」 危機が杞憂に終わったのを見届けてから、リーデンも口を開く。 「嘘や悪意は感じなかった」 「そこは同感だよ。でも、真実あの人に過去の記憶が無いなら、どんな悪人だったとしても今は感じ取れないわけだよね」 「あの男は、何かを思い出しかけていた。危うさはおそらく、そこからだ」 そう答えてやると、リーデンは物憂げな眼差しを傍らの少女に向けた。 「経緯や性質は違うけど、僕も『思い出せない過去』に悩まされたことがあるからなんとなくわかる。深層意識が阻むくらいだから、彼にとってのそれは、多分思い出さない方が良いヤツだね」 「……そうですね。それで人ひとりの精神を崩壊させる結果になるなら――……他人が促していいことではありません」 「あっちの気が変わって、自分から思い出そうとしたなら話は別だけど」 遠回しにそうなるように仕組んでみてはどうかとリーデンは示唆している。 「彼に会うのは諦めることにします」 意図を汲み取ったのか否か、ミスリアは小さくため息をついただけだった。 「ねえ、シュエギって人が君のお姉さんと知り合いだったとしても、もしかしたら仲間じゃなくて、害した側の人間かもしれないよ? その可能性は考慮した?」 聖女と名乗ったのはまずかったんじゃ、とリーデンは声を低くして続けた。「もう会わずに済めば大丈夫だろうけど」 「考えないようにしていたのだと、思います」 「…………余計だったかな」 珍しく気遣う口ぶりで、弟は遠くを見つめた。まるで助言したことを反省しているように。 こういった気の回し方に慣れないのだろう。ゲズゥとて同じで、慰める言葉すら持っていない。 むしろ、どうしてそれが気になってしまうのかも不可解である。 「いいえ。心配してくださってありがとうございます」 ――総てを受け入れる、少女の微笑み。その奥にちらついた寛容さに、改めて瞠目する。 それでもミスリアは未だに白髪の男が去った方向を見つめていた。 他人を思いやって自身の望みを我慢する強さは、実は脆い基盤の上に成り立っている。 目を離せば、きっと一人で泣くのだろう。と思ったら、手を伸ばしていた。 「え?」 ミスリアが驚きの声をあげた。大きな茶色の双眸が手元に落ちる。 「ここで手を繋ぐんですか?」 疑問はもっともだ。人気も無く、視界が割と開けている林の中でははぐれる可能性が低く、手を繋ぐ必要性は無い。 必要は無くても、放そうとは思わない。答える代わりに、柔らかい手が潰れない程度に、握る力を強めた。 ミスリアは何故か目を逸らした。頬に微かな朱がさしている。 「僕も繋ぎたいなぁ」 「お前は調子に乗るな」 深く考えずに脛を蹴ろうとする。リーデンは持ち前の反射神経でそれをサッと避けた。 「えー、理不尽ー」 「リーデンさんもゲズゥと手が繋ぎたいんですか? でしたら左手が空いてますよ」 ミスリアが的外れな進言をすると、リーデンは笑いを堪える時の奇怪な表情をした。 「ヤメテー、もう子供じゃないんだから。ていうか兄さんは、君としか手を繋ぎたくないと思うよ」 「えっ、どうしてですか?」 「どうしてー、だろー、ねー。あ、でも僕は可愛い女の子の手なら、割と誰でも大歓迎だよー」 「…………」 耳障りな声で一句一句を歌い上げる弟を無視して歩き出す。疑問符を目に浮かべたミスリアが振り返ると、リーデンはまた可笑しそうに喋り出してついてきた。 こうして宿に戻るまでの道すがら、次は国内の教団の伝手から探ってみることを、話し合って決めた。 他の情報源を確立できれば、シュエギという手がかりを心置きなく放棄できる。 しかしミスリアがあの男に会うのを諦めるつもりでも――また鉢合わせしそうだなと、頭のどこかでは危惧せずにはいられない。 |
52.f.
2016 / 01 / 22 ( Fri ) 「ディアクラ・ハリド、イリュサ・ハリド……」
男は俯き加減に名を復唱する。 「カタリア、ノイラート………… 」 何故かミスリアの姉の名を口にした時だけ、男は手の中の武器に視線を落とした。厳密に言えば、メイスやグレイヴの柄部分にそれぞれ結び付けられた灰色のリボンにだ。どれも古びて糸がほつれている。 視線は固着するだけで、これといって認識の色を浮かべない。 しばらく沈黙は続いたが、変化の兆候はいつまで経っても訪れなかった。 「どんな人たちだったのでしょうか」 やがて重々しい口ぶりで男は問うた。 「私が知るのはカタリア・ノイラートについてのみです。私の姉です。誰にでも優しくて、どこかふわふわしてましたけど、しっかりと大望に向かって生きていました。外見は、私とよく似た髪と目の色をしていて、顔立ちも似ていたと思います」 姉のことを過去形で話すべきか決めかねているのか、ミスリアは不安定な声で情報を提示する。 灰銀の視線がようやく動いた。 ミスリアの面差しを眺めつつ男は眉根に皴を刻んだ。不規則に何度も深呼吸をしている。グレイヴの柄を握る手に力が入るあまり、関節が白んでいる。 「すみません。そのような知り合いが居たかもしれませんし、居なかったかもしれません。本当に何も憶えてないんです」 思い出そうとするだけで苦しいのか、返事は今にも消え入りそうなほどか細い。 「私の方こそ無理を言ってすみませんでした」 気を遣ってのことか、ミスリアは落胆を声に出さなかった。 「あなたの姉君はどうされたんですか」 「……何年か前に、旅の途中で姿を消したんです」 質問に、ミスリアが答える。すると男は羨ましそうに「いいですね」と漏らした。 「もし私にも兄弟が居て、どこかで同じように私を捜して聞き込んだり奔走していたら、と想像すると、少しだけ気分が良いですね」 「その内どなたか迎えに来てくれるかもしれませんよ」 何ら根拠のない一言だが、ミスリアが相手を元気付けようとしているのがわかる。今日出会ったばかりの人間だろうと、自分の心中よりも他人を優先する人の好さは健在だ。ゲズゥは最早それを当然の成り行きと受け入れた。 「その時は、ちゃんと思い出してやれるか不安です。面と向かって『知らない』と言ってしまいそうで、しのびない」 男の返答は翳っていた。 「せっかく彼女が励ましてるのに、君は自分から台無しにするねぇ」 これまで黙って見守っていたリーデンが軽く口を挟んできた。 白髪の男はぼんやりとした双眸を返し、思い出したように頭を下げた。 「失礼。あなた方には関係ありませんね。無駄話をしてしまってすみません」 話はそれで終いにするつもりだったのか、男は己の武器に注目を向けた。懐から布切れを取り出し、汚れを拭き取ることに夢中になっている。 まるで敵意を感じない。一応警戒心だけ残して、ゲズゥも大剣を仕舞った。 「シュエギさんは優しいんですね」 と、ミスリアがぽつりと言った。男は抜け殻のような瞳を少女に向けた。 「はあ」 「会ったことも無い、居るかどうかもわからない人が傷付くのを想像して、心を痛めているのでしょう?」 「そういう見方もできるんですね。流石は俗世を越えたところに生きる、聖女さまです」 「私は本心からそう感じました」 見れば、ミスリアは慈愛そのものの微笑をふわりと浮かべていた。ゲズゥにとっては見慣れているものとは言え、滲み出る温かさは変わらず感じ取れる。 それがちょうど木立の隙間から射す朝日と絡まって、見る者によっては神々しいとすら映るような光景と化した。ただの少女が、聖女像を体現する瞬間。 ならばシュエギと呼ばれる男はどう反応するか、と興味が沸いた。 |
52.e.
2016 / 01 / 21 ( Thu ) 白髪の男を次に見かけたのは、ほとんど黎明に近い時刻だった。 既出の魔物は狩り尽くされ、大抵の魔物狩り師が帰宅した後のことだった。一晩走れば一周できるような規模の町だ。出発地点に戻ったのと時を同じくして、その姿を目の端で捉えた。よもや今晩中に再会できるとは思っていなかったゲズゥ・スディルは、少なからず驚いた。男の動きは俊敏だ。付着している紫黒色の液体の量からして間違いなくずっと活動していただろうに、疲労は表れていない。 ミスリアも男に気付き、声をかけようとしている。それをリーデンが制した。 「ちょっと、このまま様子見ようか」 気付かれない程度に距離を保ったまま、観察する。 白髪の男は眼前の標的の周囲を巡り、動きを封じる為に木の枝などを斬り落としている。隙を見て、異形のモノに棒状の武器を刺した。七フィート(約2.13メートル)にも及ぶ立派な槍――形状から判断して、グレイヴと呼ばれる代物だ。 魔物は断末魔と体液を散らしながら倒れた。それを至近距離で浴びせられても、男は身じろぎひとつしなかった。 セオリーでは複数人で臨むべき魔物狩りを、聖職者の支援もなしで一人でこなしている。大した者だとゲズゥは素直に評価した。 当初の標的が動かなくなり、男はグレイヴを抜きにかかる。 途端、地面から円錐のようなものが三、四つ飛び出した。男は取り囲まれていた。 「シュエギさん!」 ミスリアがそう叫んで駆け出したのと同時に、円錐の異形は火を噴き出した。駆け出した少女に追いつくのは容易だった。炎に近付き過ぎないように、背中に庇う。 男の姿が炎に掻き消される。 鈍い衝突音がした。シュエギとやらが、メイスで円錐の魔物を殴り壊したのである。炎の向こうから現れた双眸は、激しい憎悪に彩られていた。 そう観察する間にも、ゲズゥは背中の大剣を解放していた。 びゅん、と速やかに片手で振り下ろす。壊された円錐が再度くっつこうとしていたところを、切り裂いて阻止した。足元の破片にまでいちいち人面が浮かんでいる。随分と気色悪いが、放っておいてもリーデンの飛び道具が地面に縫い付けてくれる。 後はミスリアの祈りと聖気の活躍で、陽が昇るよりも先に、場の瘴気は鎮静された。 「でっかい剣だな。敵に懐に入られたらヤバイだろ。怖くないか?」 白髪の男が真っ直ぐにこちらを見据えて話しかけてきた。昼間に会った時とどうも雰囲気が違うように感じられる。 「その時は生身で対応する」 「それもそうか。あんたはかっこいいな。俺は、普通に怖い」 だから長槍と棍棒の両方を扱うのだろうか、などと疑問が過ぎった。 男は今度こそグレイヴを取りに戻った。 再び振り向いた頃には、昼間会った際のような生命力の弱い雰囲気に戻っていた。魔物相手に見せた鋭敏な反応速度はどこかへ消え去ったようだ。 そして無表情で辺りを見回した後―― 「あなた方もこの筋の人だったんですね」 ――と言った。 「私は聖女ミスリア・ノイラート、こちらは護衛のスディル氏とユラス氏です」 「聖女さまですか。こんな汚い仕事に手を煩わせてしまってすみません」 「い、いえ。いつでも喜んでお力添えします」 頭の下げ合いがまた始まった。 「私のことはシュエギと、呼んでいましたね」 「町人にそう呼ばれているのだと教えていただいたんです。もっと他に呼んで欲しければ――」 「構いませんよ。どんな風に呼ばれても、今の私には他人事です。記憶が無いんです。そう聞いたでしょう」 なんとも覇気の無い具合に男が答える。ミスリアは返す言葉に窮したようだった。結局、本題に切り替えることにした。 「あの、不躾だとは思いますけど、お訊ねしたいことがあります」 「何でしょうか」 男は無表情でミスリアの問いを受ける。 「今から言う三名のいずれかで構いません。ご存知ないでしょうか」 単刀直入に、ミスリアは姉と護衛二人の名を挙げた。 |
52.d.
2016 / 01 / 20 ( Wed ) 「ジュリノイの本部が近いのは偶然です。私はこの町で……」
イマリナが卓上の食器を片付ける間、ミスリアは肩掛けのポーチから書類を取り出した。紐にくくられていた数枚の紙切れを解き、食卓に広げる。 「……お姉さまの手がかりを見つけられると思いまして」 一瞬だけ視線を逸らした。深く語ることはしない。誰に何をどうやって聞いたのかまでは、言えない。我ながらあまりに確証の無い話であったからだ。 リーデンの明るい緑色の双眸は察したように瞬いた。 「お姉さんも聖女さんだったんだよね」 「はい。教団に登録されていた情報によると、聖女カタリア・ノイラートは護衛三人と巡礼に向かったと記録されています。うち二人は連合を介して雇った魔物狩り師であり、前もって交渉したそうです。名はディアクラ・ハリド、イリュサ・ハリド」 「家名が一緒ってことは親類かな」 「優秀な魔物狩り師のきょうだい、と記されています。三人目は、二人と合流する前か後に出会ったのかはわかりません。教団の記録に詳細はありませんでした」 ふうん、と言ってリーデンは腕輪代わりのチャクラムをひとつ、指でくるくると弄び始めた。ついそこに視線が釘つけになってしまうのは、考え事をしている時の癖にしては危ないからである。 幸い、鉄の戦輪は数秒後には静止した。 「一行の足取りが途絶えたのって、どの辺?」 「それも詳しくはわかりません。お姉さまからの最後の報告書は、この国のどこかから提出されたそうですけど」 そう答えると、リーデンはすっと目を細めた。口元の笑みには、警戒の影が落ちている。 「んー。この国って、所謂アレが盛んだって聞いてるよ」 「アレ、とは……」 彼の言わんとしていることに気付く。 「旧信仰って言うんでしょ。皮肉なもんだよね、この大陸って北へ行けば行くほど信心深い人が集まってるらしいね。聖獣信仰も、旧信仰も。ついでに、魔物信仰だってそうなんじゃないの」 いつの間にかリーデンは声の音量を落としていた。 全て事実だ。一概に信心深いと言っても、信仰対象には多少の幅がある。アルシュント大陸の宗教組織はヴィールヴ=ハイス教団のみ――けれども、宗教組織でなくとも公に神を掲げる組織は存在し、密やかに活動する集団に至っては数えようが無い。 「今更だとは思うけど、君は、僕らとなるべく手を繋いでた方がいいね。こんなところで攫われるのはまずい。お姉さんの手がかりを探すどころじゃなくなるよ」 「ご、ご冗談を」 思わずそう返すも、リーデンの微笑は本気だった。既に彼は、いつも使っている「聖女さん」呼びを改めている。 「冗談じゃないよ。ねー、兄さん」 「ああ」話を振られたゲズゥは銅製のコップからぐいっと水を飲み干して、同意した。「それと、これから仮眠を取れる場所を探すべきだな」 「さんせー。なんなら四人で雑魚寝しよっか」 「いくらなんでもそれはできません!」 ミスリアは即座に反対した。この人は何を言い出すのか。明らかな冗談だとわかっていても、声を荒げずにはいられない。 他の食卓の客から好奇の視線がちらちら向けられる。 「あはは、しょうがないなぁ。添い寝はマリちゃんだけで手を打とう! 残念だよ。ねー、兄さん」 「…………」 無言は賛否どちらであるのか、わからないからこそ恐ろしい。気まずさを感じてミスリアは隣を見ることができない。 対して、添い寝する権利を唯一与えられたイマリナは嬉しそうに手を叩いている。 (もう、みんなして私をからかって!) ――と思うものの、言わない。この能天気さは救いである。 先週の内に町に着いてからずっと、ミスリアは気が重かった。姉の失踪の真実を探ることの重さは、ふと立ち止まった時に襲ってくる。覚悟は決めたはずなのに、例に無い苦痛であった。 果たして結論が見つかっても、見つからなくても、その先で自分はどんな顔をするのだろう。 そう考えると、なかなか寝つけられない夜が続いた。 _______ でんでんは主人公になんてセクハラを… |
52.c.
2016 / 01 / 19 ( Tue ) 名残惜しいような気持ちでその背中を見送っていたら、往来に面した雑貨屋から店主の女性が出てきた。 「お嬢さんたち、あの人のことは放っておきな」「え? あ、こんにちは。うるさかったですか」 「別にそれはいいんだよ。あのね、あの人は特殊って言うか、事情アリなんだ」 恰幅の良い、年配の女店主が「ここだけの話」をするように声をひそめた。 「精力的に魔物退治をしてくれるから有難いんだけど……ちょっと不気味なんだよねぇ」 「彼は魔物狩り師なのでしょうか。不気味、とは?」 つられて小声で返す。 「記憶が無いってさ。自分がどこの何者だったのか、誰と関わって生きていたのか、どこで生まれたのかさえ、何も憶えてないって。得体が知れなくて、怖いんだよ。もしかしたら逃亡中の犯罪者かもしれないだろ? 今はいい人っぽいけど、本当に記憶喪失なのかもわからないからさ。何か企んでるかも」 「それは怪しいねー」 リーデンが横から相槌を打った。女店主はぎょっと目を見開いて絶世の美青年を見上げる。 「そ、そう。怪しいんだよ」 店主の言葉にうそ偽りは感じられない。あの男性が「大事なことが思い出せそうだった」と口走ったのも、記憶が無いからこその言動だと思えば辻褄が合う。 (でも……あの人は私を誰と間違えたの? まさか……) 或いは彼はミスリアの探している答えのヒントを持っているのかもしれないと思うと、もう一度会って確かめたくなる。 (せっかくの忠告は有り難いけれど) いつの間にか世間話を交わしている店主とリーデンの間に踏み入った。 「あの! 危険は承知の上です。あの人とまた会うには何処へ行けばいいでしょうか。お願いします、教えて下さい」 ミスリアよりいくらか背丈のある店主が、気圧されたように仰け反った。 「どこで寝泊まりしてるのかはわかんないけど、夜な夜な魔物退治をしてるらしいよ。一応、シュエギ、って呼ばれてる。この地の言葉で『泡沫』って意味だよ。他の人に聞き込むならそう言えばわかるんじゃないかい」 「僕らも夜な夜な魔物の出る場所へ出かければ会えるってことだね」 「まあね。でもあんたたちみたいな若い衆は、そんな危ない真似、よした方が――」 「ありがとうございます! では」 それ以上踏み込まれないようにミスリアは女店主の言葉を強引に遮り、両手を掴んでぶんぶん振り上げる。彼女は怪訝そうな目をしたままとりあえず「いいってことよ」と挨拶を返した。 そうしてその場を立ち去り、一同は食事処に入った。午後の予定を話し合う前に腹ごしらえをするのである。 胃の容量が小さい女性の方が先に食べ終わったため、ミスリアは二人分の食器を給仕係に返しに行った。席に戻ると、リーデンとゲズゥがまだ野菜炒めを頬張る横で、イマリナが何かを話していた。手話が速くて何を言っているのかまではわからない。 「イマリナさんは何て?」 「ん。どうして魔物狩り師って職業があるのかって。傭兵も警備兵も聖職者も魔物退治するし、専門職として枠を作る必要はあるのか? って訊いてる」 その疑問はもっともであった。戦闘能力と専門知識を有していれば、他と兼業でも良さそうなものだ。しかし実際はその枠が存在し、魔物狩り師連合という職業別組合(ギルド)も一般的に見られる。 「聖女さんはどうしてか知ってる?」 「はい。第一の理由は、生活リズムです」 と、切り出す。他の三人は興味津々に静聴した。 「常勤の魔物狩り師は陽の出ていない間ほぼずっと活動していなければならないので、昼間に寝てるはずです。時々深夜に駆り出されるだけの立場の私たちと違って、毎夜待機していなければなりませんから」 「なるほどね」 「第二の理由は……なんと言えばいいのでしょうか。心の強靭さ、です。それこそ刹那の間に魔物に引き裂かれてしまいそうな距離でも、怯まないような精神力。元の素養以外には、魔物と相対した回数を積み上げることでしか、培われないものだと私は理解しています」 「そっかー。そういうのは兼業だったら色々と難しそうだねぇ。別の仕事やる為に現場からしばらく離れたら、感覚鈍りそうだし」 とにかく異形と相対して生き延びることでしか精神力は鍛えられない。一方で、相対して生き延びたからといって心が折れないとも限らない。 前衛を決して務めることのないミスリアにはその恐怖が想像できない。 中でも、聖人・聖女の護衛という役割を毅然とこなす人たちを想う。たとえば、聖女レティカに楽しそうに付き添ったエンリオやレイ。たとえば、今目の前で麦粥を呑気に啜る兄弟。 (人選が良かったって思っていいのかな) そう思うとちょっと嬉しかったり安心したりもする。願わくば彼らの負担が少しでも減るように―― ふと視線を感じて顔を上げた。隣のゲズゥがじっとこちらを見ていた。コンタクトという代物によって、今は両目とも黒い。 どうかしましたか、と首を傾げながら問うと、一言の返事があった。 「予定」 「あ、そうですね」 「そうそう、聖地が近くにあるわけじゃないんでしょ。そろそろ何の為にこの町に来たのか教えてよ。どんな目的でも僕らは付き従うけど、流石に某組織の近くだしさ、気になるよね」 向かいのリーデンが頬杖ついて言った。最後の指摘に、ミスリアは苦笑で応じる。 |
52.b.
2016 / 01 / 14 ( Thu ) よく見ると不思議な人だった。服は旅装っぽく動きやすそうで、生地や縫い目などの作りはしっかりしている。なのに、汚れや破れが目に付く。男性は身なりに頓着しない方なのか、伸び放題の白髪(はくはつ)は耳飾などと絡まったりしていて、かなり長い間梳かれてもいないようだった。それと、埃と泥と森林の匂いがする。旅人だろうか。 (まだ温かいし、呼吸もある) 呼び続ければいずれは目を覚ますのだと信じて、ミスリアは揺さぶるのを止めなかった。 髪と髭に覆われている所為で顔がよく見えない。 目が開いているのかどうか判然としないまま、ついに渇いた唇が震える。隙間から漏れた声は掠れていた。 「……ア……」 「よかった、気が付きましたか」 そう声をかけてやると、男性は起き上がり、視界から前髪をどけた。ミスリアの顔を灰銀色の瞳に映すや否や、衝撃を受けたように動かなくなった。 あの、ともう一度声をかけようとした瞬間。 ばっと男性は近付いて来た。 「みぎゃ!」 ただ近付いたのではない。窒息しそうなほど強い力でミスリアを抱き締めたのだ。 「――リア……」 男性は何かを呟いたけれど、よく聴こえなかった。 ゴッ、と凄まじい音がして、彼は次の瞬間には離れていた。平たく言えば、ゲズゥに蹴飛ばされたのである。突然のことでミスリアは反応しそびれた。 「は~い、おにいさん、勝手にうちの聖女さまに触らないでね。口より先に足が出る人に、この通り制裁を加えられちゃうからね」 「……リーデンさん、その警告は少々遅いのでは」 肩にぽんとのった手の主を仰ぎ見て、言った。 「あはは、そうだねぇ」 「はあ」 ミスリアは呆れはしても、護衛たちの行動を怒ることはできない。彼らは純粋に心配してくれたのだ。とりあえずこちらの落ち度だと考えて、ミスリアは男性に頭を下げた。 「え、っと。大変失礼いたしました。私の方から不用意に近付いたのに、乱暴な真似を」 「こちらこそ失礼しました」 男性は思いのほかダメージが無いようで、何でもなさそうに立ち上がって頭を下げ返した。 「い、いいえ。もしかして私を、どなたかと間違えたのでしょうか」 人違いをしたのかと問いかけてみたら、男性は「さあ」と頭を振った。 「よくわかりません。衝動でした。貴女を見て、大事なことを思い出せそうな気がしたのに……」 僅かに男性の眉根が寄ったが、すぐに無表情になる。次いで平淡な言葉を連ねた。 「本当に失礼しました。では」 外套が翻る。彼は驚愕の潔さで立ち去ろうとしていた。 「ま、待ってください。行き倒れていたのではないのですか? いきなり立ち上がって大丈夫ですか?」 なんとなく呼び止める。男性は振り返らずに答えた。 「眠かっただけです。続きは宿で貪ることにします」 やはり平淡な返事の後、ぐうぅ、と音がした。ミスリアはリーデンやゲズゥ、イマリナとそれぞれ顔を見合わせる。皆の視線は自然と流れ、男性の背中に集まった。 「あの、もしまだでしたらお昼を一緒にどうでしょうか」 「ご厚意ありがとうございます、親切な方。でも私は寝ているべきです」 「え、でも」 目を離した隙に柱にでもぶつかりそうなほど、不安定な足取りで再び彼は歩き出す。 |
52.a.
2016 / 01 / 07 ( Thu ) それは出会ってまだ日の浅い頃のことだっただろうか。どこかで買い物をしていた時――理不尽なほど長い間店員に待たされて、青年は苛立ちから来る頭痛に苦しんでいた。隣でのほほんと笑っている少女を見下ろす度に、その苛立ちに拍車がかかるようだった。 少女はどこへともなく視線を彷徨わせ、息をつく。そして己の体温と気温の差により生じた湯気を見つめながら言った。「この世界は、素敵ですね」 「そうかぁ? 別に普通だろ」 青年は言葉じりを吊り上げて問い返す。 「素敵ですよ」 「具体的に何に対してそう言ってるんだ」 彼に言わせてみれば世界は喪失や苦難、欺瞞などに満ちている。素敵と言える要素よりもそうでない部分の方が圧倒的に多いように感じられた。 「空が青くて木の葉が赤くて、吐く息が白いです。落葉のにおいも、吹き抜ける風の冷たさも素敵でしょう」 「……全部当たり前のことじゃねぇか」 「当たり前だからこそ、愛おしいんですよ」 少女は楽しそうに落ち葉を一枚拾った。湿気た地面の水分を吸い、茶色く変色したさまは決して美しくない。なのに聖女カタリア・ノイラートは、くるくると楽しげに葉柄を回している。その動作から滲み出る穏やかさに、青年は不覚にも感じ入った。 「あー……あんたはすげーな」 「え?」 「何も無いところに愛を感じるのか。そういうのって、信仰の力かねぇ。それとも性格なだけか?」 「何も無いなんてことはありませんよ。世界は常に命と光に満ちています」 両手を振り回しスカートを翻しながら舞う少女の言葉は、冬の空気と同じくらいに透き通っている。 「あんたと話してると、俺は自分がくだらない人間なんだなって思い知らされるよ」 淀んだフィルター越しでしか世界を見つめられない自らの目を恥じた。 「くだらないだなんて。貴方はご自身の良さを、まだ自覚できていないだけです」 朝日みたいな笑顔で彼女は断言した。 見惚れるよりも先に、嘲笑が漏れる。 「良さ、ねえ」 「――あ! 店員さん戻って来ましたよ。あの二人も呼んだ方がいいですよね」 「そうだな。ちょっくら探してくるよ」 会話の焦点が逸れたのを有り難く受け入れ、青年は近くに居るはずの仲間たちの方へ足を運んだ。自分の話をするのはむず痒いし、あまり長く自己分析していると、卑屈さが全開になってしまう。 だけど本当は、嬉しかった。 たとえ彼女のそれが妄信だったとしても。誰か一人だけでも手放しで認めてくれたことが嬉しかったのに――いつも、うまいこと礼が言えなかった。 もっと大切にするべきだった。 そんな風に後悔しか生み出せない己が、何よりも惨めで醜い――。 _______ 「ミスリア、足元」 「はい?」 何気なく歩いていたら、背後のゲズゥが急に注意喚起を投げかけてきた。ミスリアは言われた方の足元に視線を向けずに、思わず振り返る。足を止めるべきだったのに、しなかった。 躓いた。 転びそうだったのを、後ろからがっしりと抱き抱えられて凌ぐ。 (なっ、何を踏んだの) ゲズゥの腕に支えられたまま、地面に横たわる大きな物を一瞥した。姿形は成人男性だ。道端で横になっているから、既に息の無い者かと疑ってしまう。けれども腐臭はしなかった。踏んだ感触も、柔らかかった。 「往来で仰向けに行き倒れるなんて、豪快だねぇ」 隣でリーデンがころころ笑う。 「行き倒れって、ええっ!? お気を確かに! 私の声が聴こえますか!?」 どうしてこの人は道行く誰からも見向きされていないのか。などと、気にしている場合ではない。ミスリアは膝をついて男性の肩を揺さぶった。 まだ十分に練っていない気がしますが、まあいっか。はじめちゃう! |
51.f.
2015 / 12 / 25 ( Fri ) 「あ! すみません。気が付きませんでした」
少女がいきなり声を挙げる。大きな瞳が、青年の右手を注視していた。 「は?」 「怪我をされたんですね」 「ああ、さっき殴った時に擦り剥いたっぽいな」 鮮血のついた指関節のことを言っているらしかった。いちいち手当てするほどの怪我でもない。 それに普段は青年は非番の日も欠かさず革の籠手を嵌めていたのだが、職を失った途端に、半ばヤケになって手持ちの防具をほとんど売り飛ばしたのだった。 (我ながらマヌケだよな。武器まで売らなかったのが幸いか) 職を失ったその日でいきなり金に困りはしない。務めも無いのに凝った装備をつけて街中を闊歩するのが、滑稽に思えて悔しかっただけだ。 (どうせ自意識過剰だよ) 一旦卑屈な気分になれば、浸るようにどんどん沈んでいく。人生うまく行かないのはこの性格の所為かもしれない。 「ありがとうございます」 「……?」 少女を改めて見下ろした。 その時、右手が不可解な温もりに包まれた。 少女の両手に指先が包まれてはいるが、それとは別の、芯まで染み入るような温かさだ。 「いっ」 つい奇声が漏れた。皮が擦り剥けて赤かったはずの箇所が、見る見る塞がっていく。 (なんだぁ!?) 気味の悪い光景だ。青年は震えを抑えるのに必死だった。 「はい、治りました」 「治りましたじゃねえ……もうちょっとこう、心の準備をさせろ」 自分の皮膚じゃないみたいだと思っても、左手で撫でてみれば確かに感覚はあった。間違いなくこれは自分の皮膚だ。今のはどういう現象だ―― 「そういえば、とてもきれいな髪だなってさっきから思ってました。スターアニスの種の色みたい」 突発的な容姿褒めが始まる。欠片も嬉しくない。 落ち着いて物思いもできやしないな、と青年はやはり諦めた。 「せめてシナモン色と言ってくれよ」 「アニス、嫌ですか?」 「薬っぽくて苦手な味だ」 「じゃあシナモン色ってことにしますね。ああでも、アニスを練り込んだパンが食べたくなっちゃいました」 「あんたは何を言ってるんだ。さっきたらふく食ったじゃねーか、肉を」 反論してみたら、少女はぷっくりと頬を膨らました。 「美味しいパンの話ですよ。お腹が空いているという話ではありません」 「どうでもいいわ! それより、あんたが今何をやったかの話をしようか」 最後を低い声で告げると、少女は「あ」と唇を驚きの形に動かした。スカートの両端を指先で持ち上げ、腰を折り曲げる礼をする。 「失礼、申し遅れました。私はヴィールヴ=ハイス教団に属する聖女、カタリア・ノイラートと申します。今のは我々が『聖気』と呼ぶ清浄化の力です。よろしかったら、貴方の名前も教えてくださいな」 聖女カタリア・ノイラートは、服の下に収めていたらしいペンダントを取り出してみせた。教団の象徴をあしらった、二つの紫水晶が印象的な銀細工――なかなか偽造できる代物ではない。治癒能力といい、本物だ。 「聖女……」 はああああ、と彼は露骨に長いため息をついた。 自分は厄介な何かに巻き込まれようとしているのではないかと、頭の中に警告が鳴り響く。 (ヒューラカナンテ。思い出した、それって教団の本拠地だったな) 旅の聖女となると、連合への用事も単なる魔物退治の域を超えたものかもしれない。 事情は変わりつつあった。その辺の田舎娘ならともかく、人類の宝とも言われる聖人・聖女の一人を目の前にして、手助けをしないわけには行かない。 (連合に送り届けてからトンズラしよう。うん、そうしよう) 今度こそ縁を切るのだ。でないと胃が不安だ。 「あんた一人じゃ心もとないから、連合拠点まで案内してやるよ」 「本当ですか!?」 喜びすぎだ、とは口に出さずに、気を取り直して青年は咳払いをした。 「門前まで送るだけだぞ。いいな」 「十分助かります。よろしくお願いします!」 「よろしくしなくていい。俺の名は――――……」 そして求められたがままに、青年は名乗った。どうせ憶えられることも無いだろうとの軽い気持ちで。 ――しかしこれは、青年のその後の人生において、激動をもたらす出会いとなる。 |
51.e.
2015 / 12 / 25 ( Fri ) 脱力して青年は道端に座り込んだ。 「それはそうと、どうして逃げたんですか?」「……逆に訊くが、どうしてあれで『お金に困ってる人を助ける』って考えに至るのか教えてくれ」 「困っている人に手を差し伸べるのは当然のことかと」 相変わらず田舎娘の思考はあさっての方向に向かっている。呆れからか、青年は大げさに手を振り回した。 「じゃあ何か? あんたは相手が困ってさえいればなんでもあげるのか? 家族でも知り合いでもない奴を、助ける義理は無いってんのに」 「ダメですか?」 少女が膝上に腕を組んで、正面にしゃがみ込む。首から胸辺りの肌が近付いてくるが、残念ながら布面積の多い服によって肝心なところは隠れている。服の下にネックレスでもつけているのか、銀色のチェーンだけが目に入った。 「ダメだ。いいか、そういう過度に慈善的な考えが人を怠慢に追い込むんだ」 「たいまん……?」 本気でわからなそうにしている少女に、青年はずいと顔を近付け、暑苦しくまくし立てた。 「そいつはあんたの為に何をしてくれる? 靴を磨くとか荷物を持つとかなんでもいい。何か雑用をやってやるから一食恵んでくれって言ったんならいい。こっちから一回くらいは催促してもいい。でも、自分から言い出せない奴は、いずれにせよクズになるんだ」 少女は真剣な表情を動かさぬまま、聞き入っている。酒臭い息がかかっているだろうに、嫌な顔ひとつしていない。 「ましてや悪事に走る奴だ。それは、何もしてやらないけど何かくれって言う奴よりもっとずっと悪質だ。あんた今、売り飛ばされそうになってたんだぞ。危機感なさすぎだろ」 「――すごい! 目から鱗が剥がれ落ちた気がします。貴方は社会についてよく考えているんですね。私の思慮が足りませんでした。深く反省します」 「そこまで素直だと逆に気持ち悪いな……って、危機感については何も思うとこ無いんかよ」 文句を垂らしながらも青年は諦めていた。何せ少女はもう話を聞いていない。両手を合わせ、その視線はどことなく宙を彷徨っていた。 ここまで噛み合わない会話をしたことがかつてあっただろうか。青年はまたしてもため息をついて、のろのろと立ち上がった。 「大体なんでここに居たんだよ。まさかまた迷ったんじゃねーだろな」 「ええと、それは非常に申し上げにくいのですが」 所在なさげに俯きながら少女も立ち上がる。 「…………迷ったんだな。まあ逃げている内にさっきよりは近づけたとは思うぜ。ほら、こっからでも見えるだろ。まだちょっと遠いが、あの丘の上のでっかい建物だ」 青年は目当てのものを指差した。 この町の魔物狩り師連合拠点は夜になると物見の塔の灯りを一晩中点ける。水路を渡る船にとっての灯台とは少し違うが、助けを必要とする人々が速やかにそこまで辿り付けるように。 ゆえに、初見でも見間違いはありえないほどにわかりやすい。 「あれがそうなんですね」 感心したように少女は言う。おう、と青年は答えた。 「わかりました、重ね重ねありがとうございます。親切な方。お礼はするなとのことでしたよね」 ぺこりと頭を下げて少女はその場を去ろうとする。夜も更けてきたことだし、急ぎたいのだろう。 が、青年はその細い肩をガッシリと掴んで引き止めた。 「待て待て。なにまた路地裏通ろうとしてんだ」 「だってこの方向でしょう?」 「だからって一直線に進めばいいってモンじゃねえ。治安考えて道を選べよ。つくづく、よくファイヌィ列島からこんな遠くまで来れたな」 大抵の町というものには夜は絶対通ってはいけない路があって、特に丸腰の若い女が一人となると、どこを通ろうと危険は倍増する。目の前のこの少女がこの現実を理解できていないのは最早疑う余地も無かった。 「私、列島出身ではありますけど、此度の出発地点は別ですよ。ヒューラカナンテから南下してきたんです」 「ヒューラカナンテ、ってどこだ」 「非法人地域で無国籍地帯らしいです。ご存じありませんか」 言われてみれば聞いたことがあるような地名だ。青年は懸命に記憶を探り、何も思い当たることなく終わった。 |
51.d.
2015 / 12 / 23 ( Wed ) 思わず足踏みした。 人間とはどうしようもない生き物である。見ず知らずの他人が襲われていようが全力で無視できても、それが顔見知りとなった途端、放って置けなくなるのだから。青年は思いきり舌打ちした。ここで見捨てたら、寝覚めが悪くなる。 (くっそ、なんでまだこの辺に居るんだ! 田舎娘が) 怒りと呆れで一気に酔いが醒めた。 だが、どうするべきかを未だに決めかねる。 「ではお渡しします」 「それで手持ち全部かい? お嬢ちゃん惜しみないねぇ、いいねえ」 「私はまた稼げばいいので大丈夫です。どうぞ」 「そーかい、じゃあいっそのことおいらたちのもとで稼いでもらおうじゃねえかい」 「それはできません、すみません。私にはこれから向かうべき場所が――」 その先を待たずに青年は駆け出した。 少女を取り囲む大きな人影が三つ、目に入る。その内の一つが猿ぐつわのような布を両手に持ち、腕を上げている―― 他の二つの人影が、駆け寄る青年に気付いて振り向く―― それらを無視し、彼は少女に一番近い者に足払いをかけた。 不意打ちが決まり、男は派手に転倒する。 「なんだてめえ!」 面白味の無い文句と、重そうな拳。それらが右隣から飛び出した直後、青年はカウンターパンチを相手の頬骨に決めた。 残る一人は、攻撃態勢に移る動作を見せている。 構えの軸が左脚であろうことを見抜き、青年は敵のスタンスが完成するより先に膝の内側を蹴り崩した。 (よっしゃ、チャンス) 少女の腕を引っ掴んで、逃げに入る。 一分としない内に路地裏から逃げ出せた。運の良いことに少女は一度も転ばなかった。 だがその時点で二人とも息が上がっている。 「いたっ――」 少女から漏れた小さな声で青年はハッとなった。 「悪い。一刻を争う事態だったから」 手を放しつつ、条件反射で謝る。 (って、何で言い訳みたいになってんだ。そりゃー勝手に引っ張ったのは悪かったけど、助けたんだからいーだろ) 自分はこんなに下手に出る奴だったか、と首を捻る。 「よく、わかりませんけど……貴方は足が速いのですね」 何故だか予想だにしていなかった感想が返った。 「……第一声それか。言っとくけど、俺は体調万全だったならもっと逃げ足速いぜ」 「あれ以上に速くなるんですか? すごいですね」 「他人事みたいに感心してんじゃねーよ。ま、あんな三人、万全だったら逃げずに余裕で片付けられる自信だってある」 変な矜持が発動し、青年はべらべらと強気に語った。 (いやほんとに何言ってんだ俺は) 未だに抜け切らない酒の悪影響だろうか。青年は我に返り、自らの発言に気色悪さすら覚えた。 「片付ける? とは?」 「……まさか。危ないとこだったって自覚すら無いのか。あんたの脳内お花畑はさぞや立派なんだろうな」 「花畑? 冬に花はあまり咲きませんよ」 真剣に考え込んでいるような顔をして少女が返答する。 ――ここに表れているのは果たして、人を拍子抜けさせる才能か――髪をかき乱しながら、青年はため息をついた。 「よし。あんたに皮肉が一切通じないんだってのはよーくわかった」 |
51.c.
2015 / 12 / 17 ( Thu ) 「いいか、町ってのは村と違って複雑だし、似たような建物がぎっしり並んでる」
「はい。初めて見た時は本当に開いた口が塞がりませんでした」 「だから路は景色じゃなくて名前で識別する方が確実なんだ」 「そう――なのですか?」 青年が力説する中、少女はどんどん不思議そうな表情をしている。 「今までどうやって旅してきたんだ」 「町に着くまでは案内の方が居ました」 「案内役……」 これで合点がいった。そして、もう雇わないのか、と問う。この田舎娘は単独で旅をさせてはいけない気がする。 「連合にさえ辿り着ければ、そちらに頼もうと思っていまして」 「あー、なるほど。しっかし遅ぇ時間に行くんだな。とっくに日も落ちてるから、みんな任務で出回ってると思うぜ」 「もう少し早く行くつもりだったんです。道に迷っている間に二時間が過ぎてました」 「――どんだけ迷ってんだよ! 人に訊けよ!? この町そんなに広くねーぞ!」 「訊きましたよ。それでも何故か着けなくて」 少女がのんびり笑う傍ら、ポットローストが給仕係によって運ばれてきた。芳醇な香りがもわっと鼻先に伸び、青年は一瞬吐き気を催した。 少女はいただきますと言って早速バッファロー肉の塊に切り込んでいる。 「ん~、美味しいですね。これまで食べたことがなかったのが悔やまれます」 一口目の後に感想が挙がる。 「そいつぁよかったな。別に俺に報告しなくていいから」 青年は口と鼻を手で覆い、仰け反りながらその様を眺めた。 (にしてもコイツ、肝が据わってんのか頭がおめでたいのか。二時間さまようって相当だぞ) 焦りもせずにただのほほんと飯を食いに来ている辺り、後者だろうか。単に、連合への依頼内容が火急のものじゃないのかもしれない。 「……こっから連合拠点までの行き方を教える。気合いで覚えろ」 「本当ですか! 助かります」 咀嚼していた分をごっくんと飲み込んでから、少女は明るく返事をした。 「食べながら聞け」 「はい。ありがとうございます、親切な方。このお礼は必ず――」 「いやいや、礼はいらんって。あんたはちゃんと着くことだけ考えてろ」 これ以上関わってたまるか――と早々にその流れをぶった切る。少女は不服そうに口の端を下げたが、結局頷いた。 そうして青年は懇切丁寧に、なるべく噛み砕いて、行くべき道順を伝えた。 _______ さて――座っていた間は平気だったものの、いざ歩こうとすると急激に気分が悪くなる夜もある。それが酒を飲みすぎた直後とあらば尚更だ。 酒場を立ち去ってしばらく歩いた頃、青年は路地裏に入って排水溝の前に立った。溝の向こうの建物に片手を付き、もう片方の手で解かれつつある髪を押さえ、胃の中身を排水路に逃がす。 (サイアクだ) 喉からは空気が圧縮される音が漏れる。口や鼻の中には酸味が粘り付き、目からは熱い涙が溢れた。 だがこの行為は最終的には気分を良くしてくれるものだと、彼は経験から知っていた。 (あーもー、何もかも最悪だ) 呼吸の合間に人生に対する憂いがどっと蘇るが、とりあえず雑念を捨てて吐くのに集中した。ここで手を抜けば、二日酔いで明日は移動どころではなくなる。 やがて胃が空となり、青年は咳き込んだ。 「――はやく金目のものを出せやい」 ぼんやりとしていた頭と聴覚が、その時はっきりと一つの不穏な台詞を拾った。 時と場所を思えば、真夜中の路地裏である。他人を襲う輩の一人や二人など別段珍しくもなんともない。彼自身、排水溝目当てでなければ一人で訪れたりしない区域だ。 聴かなかったことにして、青年は人の気配のする方から背を向けた。だが次の一歩を踏み出すには至らなかった。 「貴方がたはお金に困っているのですか?」 カツアゲされていながらそんな緊迫感を全く感じさせない、どこかで聴いたような若い女の声がした。それはつい先刻、酒場で別れたはずのあの少女の澄んだ声であった。 |
51.b.
2015 / 12 / 15 ( Tue ) (居座る気かよ)
図々しい奴だ、と思いながらもまた食卓に突っ伏した。 (無視だ無視) 他人の動向よりも気にすべきは明日からの自らの生計だ。青年は貯金の残高を脳内で計算し、何日までなら食い繋げられるか思索した。移動中は野宿すれば更に節約できる。 「今日の一押しはバッファロー肉のポットローストと鹿肉のシチューね。どんな味がするのかしら」 少女がブツブツと呟いているのが耳に入る。両方ともこの地域では定番メニューだが、どうやら彼女は食べたことが無いらしい。 「どっちも気になるけど、合わなかったらどうしよう……」 聴こえてくる独り言が気になって、青年は自分の物思いに専念できなくなった。 性分だろうか、口を出さずにはいられない。青年は顔を僅かに上げて問う。 「あんた鹿もバッファローも食べたことないのか」 「残念ながらありません。貴方ならどちらにしますか?」 少女は嬉々として言葉を返した。独り言に始まったものが会話に発展したのが嬉しいようだ。相席を押し切ったことといい、彼女はもしかしたら一人で食事するのが寂しいのかもしれない。青年にとっては久しく忘れていた感情だ。 「クセが強いのは平気か」 「たぶん問題ありません。でも食べ辛いのは苦手ですね」 「ここの鹿肉シチューはスジ多めだ。そういうのが嫌ならポットローストだな。とろける食感で旨いぜ」 「そうなんですか! 助言ありがとうございます。ではバッファローのポットローストにします」 後半の言葉は給仕係の人に向けて言い放たれた。ちなみにやり取りからして、飲み物はジュースの類にしたらしい。 「お酒あまり飲めないんですよ、私」 給仕係が去った後、少女が勝手に補足した。 「酒場に来ておいてそりゃあ変だな。ここの麦酒は格別だってんのに」 「道に迷っている内に小腹が空いてきたので……食事が出るならどこでも良かったと言いましょうか」 「道……?」 街で一番人気のこの酒場も地域名産の肉も知らない、どこか浮いた雰囲気の少女に――青年は訊ねた。 「あんた旅のモンか。どこ行こうとしてたんだ」 青年は観念して頬杖ついた。我関せずを貫くには、どうもこの少女は危なっかしい感じがする。酔いが醒めないまま、先程よりもちゃんと話を聞く姿勢に入った。 少女はよくぞ聞いて下さいました、と言いそうなほど大きな茶色の双眸を輝かせた。 「魔物狩り師連合拠点です」 「あー……」 その返答は驚くようなことではなかった。この町の魔物狩り師連合は会員の数も質もかなり優れていて、わざわざ遠くから退治の依頼を持ってくる人間は日々、後を絶たない。 しかし解せない点があった。 「連合はこっから北西、大通りを一マイル半進んだ先の丘の上だろ。全然方向違うぜ」 そう指摘してやったら、少女は首を傾げた。次いで懐から地図のような紙切れを取り出して、食卓に広げた。 青年は少し身を乗り出し、それを逆さのまま読み解く。思い出したように視界が揺らぐが、瞬けば治った。 「えーと。矢印がスタートでバツ印が目的地か。東門から入って、この十字の交差点で右曲がって、小道を二つ経て大通りだろ。道の名前も書いてあるし、わかりやすい地図じゃねーか。どうやって間違えたんだ」 「こうさてん……道の名前?」 また小首が傾げられる。十字型の交差点なんて、道が二つだけ交わっているという極めて単純な構造だ。 (なんだこの反応) 嫌な予感がした。そもそもこの酒場の位置は、地図に記された道から南に外れている。 「……方向音痴?」 というよりは地図が読めないだけかもしれない。 「いいえ、故郷では迷ったことは無いはずなんですけど」 「あんたの故郷ってどこだ」 おそるおそる訊いた。 「ファイヌィ列島です」 「つまり、ドのつく田舎から来たんだな」 青年は口元をひくつかせる。 田舎娘の面倒など見たくない。なんとか道順だけわからせて、関わるのを止めよう。 |
51.a.
2015 / 12 / 11 ( Fri ) 人生それなりにうまく行っていたはずだった。 ――どこで歯車が狂ったかなど、振り返ったところで何も生まれやしないのに。青年は町の一番人気の酒場の薄暗い隅の席で、浴びるように麦酒を飲んだ。卓上に出されていた分を一気に喉に流し込んだ後、ゴンと音を立てて前に倒れた。 (これで何度目だよ) 組んだ腕の中に頭を埋めて、ぐだぐだと思い悩む。 きっとすぐにまた仕事は見つかる。そしてきっとまたすぐに、お役御免になるのだろう。どうにも性に合う働き口が見つからないのである。 (ごめん、師匠……) うまく行かなくなったのは、人生の師を喪ってからだろうか。 彼は既に路頭に迷うような歳ではなかったし、一人で十分にやっていけるだけの精神力も生活力もあった。家族を火事で失い、親の友人に引き取られてから数年。その男も魔物狩りの任務中に命を落としてからというもの、実際に青年は二年以上は一人で生きてきた。 ところがどうだ。生活はできても――毎日が信じられないほどにつまらなかった。 何をしてもいまひとつやる気が出ず、勤務先でヘマをやっては追い出される始末である。しかし職種の需要は永続的にあるため、貯金が底をつく前に新しい町に移動さえすれば一応次の仕事は見つかる。 何度こうしたかはわからない。最初の内は数えていたものだが、段々と空しくなってきて止めた。 明日からその繰り返しかと思うと、うんざりする。 「あの、すみません。相席よろしいでしょうか?」 何故だかその時、可憐な声が頭上から降ってきた。普段ならともかく現在の精神状態では、全く喜べない状況だ。 青年は首をもたげて半眼で応じる。そのちょっとした動作だけでも目が回った。酒が効いてきているのは間違いない。 「よろしくない。席なんていくらでもあるだろ。他を当たれよ、なんでわざわざここに」 問題の人物はフード付きの外套を着込んでいるが、この薄暗い中でも、体格からして女なのはわかる。 「それがさっき大きな団体さんが入ってきたみたいで、他に席が無いんですよ」 女はフードを脱いでみせた。 「あぁ?」 若い女だ。十六、十七歳くらいだろう。少女は特別美しいわけではなかったが、佇まいと身なりからは清潔感が溢れている。丁寧に梳かれた胸より下に届く長い髪も、牛乳のように白い肌も、この騒然たる酒場では場違いなほどだ。 「あの」 あろうことか少女は椅子を引いて青年の向かいの席に腰を落ち着けた。こちらを覗き込むように首を傾けている。 波打つ髪は栗色だろうか。下ろしただけの髪型かと思ったら、耳より少し後ろに左右それぞれ三つ編みを一本編みこんでいる。その一本が、青年の肘をかすった。 「おい、そこに座るなっつってんだろ」 彼は自暴自棄タイムを邪魔されて苛立っていた。ところが少女は青年の睨みを気にも留めずに喋った。 「差し出がましいことを言うようですが、お酒の飲みすぎでは? 顔色が悪いです。お水頼みましょうか」 「うっせえ、ほっとけ。見ず知らずのあんたに何がわかる」 反射的に突き放した―― (しまった) 虚を突かれた少女の表情が、次には傷付いたように眉尻を下げたのだ。青年は反省した。いくら虫の居所が悪くても、流石に言い過ぎではないか。 (心配……ていうか親切心、だったんだよな) 元より彼は口が悪い。意識してそうしているわけではないのに、気が付けば当たりのキツイ言葉しか並べられないのだ。またやってしまった、と青年は己の情けなさに焦る。 「すみませんでした。ご要望の通り、放っておかせていただきますね」 が、少女はけろりとして笑った。何事も無かったかのように、メニューが書かれてある木板に目線を移している。 |


