二 - d.
2017 / 03 / 05 ( Sun ) 「アスト兄上、おやめください。見苦しいですよ。他国の姫君の前でこれ以上僕たちに恥をかかせるおつもりですか」
まだ声変わりも済んでいないような、耳に優しい声音は、それでいて毒を孕んでいた。 「ハティルの言う通りだ。確かに揃ってないが、公女殿下の時間をいたずらに浪費するのもいけない」――ベネと呼ばれた男は楕円の最奥へと首を巡らせた――「アダレム、任せたぞ」 つられて全員の視線が、幼児の元へと集まった。 五、六歳くらいの男児はびくりと大きく肩を震わせる。それから目を泳がせること数秒、やっとのことで口を開いた。 「えっと……よ、ようこそ、おこ……おこしください、ました。ぼくは、ぬんでぃーく公国、だいなな、公子。あ、あだれむ……アダレム、ナーガフ、です」 何度もどもりながら彼は名乗りを上げた。 幼児、第七公子、アダレム。セリカは要点だけをかいつまんで脳内で復唱し、より効率的に情報を覚えようとする。ちなみに顔は、席が離れているのであまりよく見えない。 「セリカラーサ・エイラクスですわ。よろしくお願いします、アダレム公子」 ふわりと微笑んでそう返すと、アダレムは萎縮するように身を引いた。この幼児は恥ずかしがっているだけなのか、それとも笑いかけたのは間違った作法だっただろうか。セリカは本気で悩みかける。 先ほどハティルと呼ばれた少年が、また嘆息した。 「大事なことが抜けているぞ、アダレム」 「え、え、ぼくなにか、まちがえた」 アダレムは泣きそうな顔になっている。それを、彼の隣のハティル少年はきつい声音で責め立てた。 「お前が第一公位継承者、つまり父上の跡継ぎだってことも言わないと」 「あ、あ」 いよいよ泣き出す寸前の第七公子。そのやり取りを眺めながら、セリカは失念していた事実を思い出した。 (そうだった! ヌンディークは末子相続の国だったわ) 長子相続の国が大多数のこの大陸では珍しく、最年少の公子が後継者となる構図である。確かこの国のシステムの下(もと)では、上の兄弟たちは成人したら巣立って、採掘場を任されたり、州や領地を治めていく。富をもたらし発展を促し、見聞を広めて末弟に伝えたりと、色々な利点はあると言われている。 こうして考えると、この場に大公の兄弟が居ないのは皆それぞれの州に残っているからだろう。 物理的な距離を置けば公子同士で争うことも少なくなり、円満に国は回っていくらしい。加えて、後継者が若いということは、大公と大公の即位までの間隔が長いということ。 頻繁な代替わりを避けることで政の混乱も避けられる。反面、劣った為政者に当たれば長く国は苦しむことになりかねないが、そうならないように他の人間が色々と支援するものだ。 要するに、年が若いほどに身分が高いのだ。 だから兄たちが何かと場を仕切ることがあっても、最後には第七公子の顔を立てているのか。席も、パヴィリオンの奥から入り口に向かって幼い順に座っていると推測できる。 ――女性側の序列はどうなっているのかよくわからないが。 「アダレム殿下が次の大公陛下となられるのですね」 相槌を打って、なんとかその場を収めようとする。アダレムは鼻を啜りながらも点頭した。 紹介は次に進んだ。 「……では続きまして、僕は第六公子のハティル・ナーガフです」 「初めまして、ハティル公子」 先ほどから何度か発言している彼は、十二か十三歳くらいの生意気そうな――もとい利発そうな少年である。隙の無い姿勢や吊り上がった形の両目も相まって、鋭い性格を思わせた。 (第六、ハティル。手厳しい感じ) この少年は、どこか近寄りがたい雰囲気である。今後もあまり関わり合いにならない方がいいのかもしれない。 「おれは第四のウドゥアル。ウドゥアル・ヤジャット。なあ、まだ食べちゃダメかー? 腹減ったー。宴だろ、踊り子はいつ来るんだ」 ハティルの隣の青年が言い終わらない内にだらしなく寝そべった。セリカを一瞥した後、使用人を急かすことにばかり気を取られている。 (わあ、ひどい) 口では適当な挨拶を返しながら、セリカは脳内でまた要点を復唱した。 肥満怠慢、第四公子のウドゥアル。この男は二十歳くらいだろうか、ゴブレットを手に持ち、顎鬚を撫でては出っ張った腹をかいている。似たような服装の人物が並ぶ中、この男は横幅が際立っているので覚えやすそうだ。 否。どうにも全員が濃い人格を有しているためか、案外早く覚えられそうな気がする。公太子となるアダレムを除いて、公子たちはどれも自己主張が激しい。 ついでに言うと、ハティルが汚いものを見る目で隣の兄を見下ろしている。上の二人に至っては、ウドゥアルの動向を完全に無視していた。 「はいはい、病で死んだ第三を飛ばして、次は私だね。さっきも言ったけれど、第二公子のアストファン・ザハイルです」 長髪の美形が妖艶に笑ってこちらを見つめた。かと思えば、おもむろに彼は下唇を舐めて身を乗り出した。 「それにしてもゼテミアンの姫殿下、君は実にきれいな眼をしているね。第五なんてやめて、私の妃にならない?」 誰も覚えてないかもしれませんが、アルシュント大陸では母違いの兄弟がいる場合は母の苗字をも名乗る風習があります。 |
二 - c
2017 / 03 / 03 ( Fri ) すると人影が一斉に立ち上がった。席はわかりやすく男女に分かれている――入り口から向かって右側に女性が三人、左側に男性が四人。 更に奥に一人。セリカの立ち位置から最も離れている、楕円の対極に居る人影は、妙に小さかった。(幼児……?) 身長の低さといい肩の細さといい、子供で間違いないだろう。不思議に思ったものの、すぐに思考は遮られてしまう。 「ようこそ、殿下」 一番手前に居た長身の男が代表して迎えてくれた。彼は膝に手を置き、腰を直角に折り曲げた。この国の旧い方式での礼だ。 「こんばんは。今宵はお招きいただき、ありがたき幸せにございます」 セリカも同様に深く腰を折り曲げて礼をする。 「長旅でお疲れでしょう。さあ、お席へどうぞ。すぐに料理を運ばせます」 長身の男はにこやかに言って、セリカの座るべき位置を掌で示した。女性側で、ちょうど一番手前の辺りがくっきりと空いている。 その言葉を機に、他の六人も腰を下ろしていった。 「ありがとうございます」 条件反射で微笑を返した。自らの席へと足を運びながら、さりげなく他の女たちの座り方を目に入れた。彼女たちは一様に膝を揃えてはいるが、踵を各々好みの角度で斜め横にずらしているようだった。 (踵の上に腰かけなくていいのなら、座って食事をしても足が痺れなくて済むわね) 納得して、皆に倣う。乱れた衣服の裾を丁寧に拾い上げて揃えたりもした。 ――さてどうしたものか。 絨毯に施された美しい刺繍を視界に収めながら、この場で守るべき作法を幾つか思い起こす。視界の端で、燭台の炎がちらついた。 きょろきょろしてはならない。必要以上に異性と目を合わせてはならない。 (無茶な話よね。向かい側に居るのが異性だけだってのに) 集まっている面々がどんな人間なのか、じっくりと観察したい。好奇心が疼いて仕方がないのに、セリカは膝上で組み合わせた自身の指先を見つめることしかできない。 背後で使用人たちが動き回っている気配がする。彼らはよく訓練されているのだろう、音を一切立てずに馳走を盛った容器を運んでくる。セリカの侍女たるバルバも、手伝っているはずだ。 このようなぎこちない時間は、幸いと長く続かなかった。 「では料理が揃うまで、我々から殿下に順に自己紹介をいたしましょう」 最初に迎えてくれた男がそう提案したのである。 (よしきた!) 意識して、なるべくゆっくりと顔を上げた。 真正面には言い出しっぺの彼が座している。二十代後半だろうか、立派な髭を生やし、威風堂々としていていかにも公族然とした風貌だ。頭には布を巻いているが、女性のそれとは違って布をより立体的に分厚く巻いている。これは確か「ターバン」と呼ばれる代物であった。 「お願いします」 短く答えて、男の次の言葉を待った。 ところが横合いから、正確には右に一席ずれたところから、別の声が上がった。 「いいんですか? 揃ってないのは料理だけじゃないでしょう、兄上」 セリカは思わず言葉を発した者に視線を移した。 艶っぽい声で話した男は、これまた艶っぽく微笑んでいる。歳の頃はそう変わらないだろうに、彼が兄と呼んだ隣の男との対比がまず目に付いた。 同じ伝統的な衣装であっても、弟の方は詰襟のシャツをはだけさせている。かけ外されたボタンの間から胸板が覗くが、その着崩しようはだらしないというよりは、色香をうまく演出していた。 長い髪は高く結い上げられ、そして何故かターバンは解かれて肩にかかっているように見えた。 髭を生やしていないからか中性的な印象を受ける。 彼はこちらの眼差しに気付いて、満面に笑みを浮かべた。 「ああどうも。私はアストファンと申します、麗しい姫殿下」 不覚にもセリカは返答に窮した。建てた片膝の上で頬杖をつき、流し目を送る美形の男がそこに居るのだ。客観だけでなく主観で見てもたいそう色っぽいとは思うが、この場合はどう反応するのが正解だろうか。 とりあえず「うふふ」と笑っておいた。 「アストファン、おまえ……! 順番を守れ! それと、ターバンはちゃんと頭に巻けと何度言わせれば気が済むのか!」 「ああ、耳元で叫ばないでください、ベネ兄上。そんなに形式を重んじる必要があります? これから家族になるというのに」 煙たそうな目で、長髪の美形――アストファンというらしい――がのんびりと仰け反った。 自由な男だ。おそらくは場の流れをつっかえさせる類の自由さである。 それを制したのは、アストファンから二つ右の席の少年の特大なため息だった。 |
二 - b
2017 / 03 / 02 ( Thu ) 現在は病床に臥せっているらしいヌンディーク大公からいただいた、豪華なネックレスだ。ガーネットとカーネリアンのビーズを何列にも連ね、時には大きく平らな石で花弁や葉を模している。離れて眺めれば満開の花と成るそれは、セリカの首の根元から胸を覆うまでに広がった。 公女として生きてきて日が浅くないが、これほどの代物は初めて見る。一目で虜になるような素晴らしい一品だった。「そういえば姫さま、わたし他の女官から聞いたんですけど」留め具をかけてくれているバルバが、セリカの肩越しに呼びかけてきた。「ここでは、床に座って食事をするそうで」 「えっ、床?」 「椅子を使わずに、専用の絨毯を敷くそうですよ」 「なんだか食べ辛そうね」 体勢が辛くないだろうか。しかしなるほど床に座るのならば、この衣服の重装ぶりも頷ける。膝丈のチュニックの下にスカートを、踝(くるぶし)丈のスカートの下にもズボンを履かされているのだから。 「お行儀よくしていられる自信がないわ」 「がんばってください」 苦笑してバルバが手を放した。 ネックレスのずっしりとした重みを鎖骨や胸元に感じながら、セリカは姿見の前で回転した。裾の長いスカートは広がりようも緩慢だが、それがまた心地良い。 そこにバルバが「完璧です!」との声援を添える。 「何があっても、どんなに派手に失敗してもわたしは姫さまの味方です! 泣き付く胸が必要になったら、このバルバティアがいつでもお貸しします!」 「あたしが失敗するのが当たり前みたいに言うわね」 くすくす笑って、セリカは自分よりやや背が高くて肉付きの良い侍女を抱擁した。 「バルバの胸があれば、安心だわ。ありがとう」 「いいえ……わたしにできることなんてこれくらいですから。後はお願いします、公女さま」 「!」 驚きに彼女を見上げる。最後の一言を反芻して、頭の奥が冴えていった。 それは、ゼテミアン公国の一国民としての頼みだったのだろう。 「我が国の更なる発展の為、新しい貿易ルート開通の為に。任せなさい。ヘマなんてしないわ」 ――縁談は商談、全ての段取りには意味がある。 ヌンディーク公子との婚姻をもって本国が富を得るのならば、価値のあることだと言えよう。 左手首に肌身離さず付けている、貴金属の細い腕輪に口付けを落とした。これは代々のゼテミアン大公家の人間が与えられる、身分の証だ。外側にはセリカの名と祖国を讃える一文が、内側には父母の名が刻まれていた。 「――行きましょうか」 それからピンと背筋を伸ばし、ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクスは不敵に微笑んでみせた。 _______ 香炉の煙が夜風に乗って舞い上がるさなか、出来立ての料理の芳香が微かに混じっているのがわかる。 なんて美味しそうな匂いだろう、と喉が反射的に伸縮した。次いで呼応するが如く腹の虫が鳴りそうになるのを、セリカは腹筋に力を入れて阻止した。 (あぶない、あぶない) ここは大いに人目がある。刹那の焦りは微塵も面に出してはならない。 回廊を滑るようにして進み、先を行く案内役の者の背中を見つめた。やがて回廊の果てにて彼はぴたりと足を止め、左を回り向いた。 「公女殿下のご到着です」 良く通る声で、案内役が宣言した。北の共通語だった。 このアルシュント大陸はおおまかに北半分と南半分に分けてそれぞれに定められた共通語がある。故郷では南の共通語が使われているのに対し、ヌンディーク公国では北の共通語が使われる。ゆえにあまり生活の中では聞かないが、公女ほどの身分ともなれば、幼少の頃から両方とも学ばされてきたので何ら問題はない。 案内役が横に退いてつくってくれた隙間を、セリカは恭しく通過する。回廊からいくつかの段差を下りた先は、中庭へと連なる石畳の道だ。 石造りの広大なパヴィリオンの方へと、真っ直ぐに向かう。半月を高く掲げる晴天の下、静かな庭を横切っていった。 パヴィリオンの中には、楕円形の絨毯を囲んで待ち受ける人影が見える。 今度は段差を上がっていく。一歩、また一歩、ゆっくりと。 柱の合間をくぐって、セリカは屋根に守られた空間に足を踏み入れた。 |
二 - a
2017 / 03 / 01 ( Wed ) 己が思い描く「理想の姫君」像が実は陳腐な虚像だとセリカは感じていた。そう感じていながらも、今夜はその虚像に少しでも近付こうと思って、柄にもない工夫に勤しむ。 たとえば、うなじや手首の内側に香油を塗ってみる。たとえば、窓際に立って優雅な仕草で頬杖を付き、夜空に向かってため息をついてみる。 「これ何の香りだったかしら、バルバ」 「プリムローズですよ。姫さま」 「ふうん、いい匂い」 名残惜しいような気持ちで、香油のビンをそっと閉めた。プリムローズ、先駆けて咲く春の花。 ――馬鹿みたいだと思う。 上辺だけ着飾っても、根底が変わるものではない。ほとんど宮殿に閉じ込められて育った身でも、自分はやはりそこらの深窓の姫君とは違うのだった。うまく説明できないが――仕草や立ち居振る舞いが問題なのではなく、思考や感性が別物なのである。 (男の兄弟と気兼ねなく接することが許された時点で、あたしの窓は開け放たれてたものね) そういう意味では、ずっと家族に甘やかされてきた。 大公妃たる母の気品を正しく受け継いだ姉と妹に挟まれていたからか、 セリカは跳ねっ返り娘でいても大目に見てもらえた。こちらの不足を補ってありあまるほど、二人は模範の公女だったのだ。 (甘やかされたツケを払う時か) わかっているからこそ、常よりも着飾る努力をする。身支度のみにこんなに時間と手間をかけたのは、十四歳の頃に迎えた成人式以来ではないだろうか。 姿見で全身を見直した。なるほど、立派な貴婦人に見えなくもない。 先方が用意した衣装にほとんど着替え終わって、残すところはベールだ。何故頭髪を布で隠さなければならないのかが理解できないが、しきたりだと言うので、従う。とはいえ、セリカやバルバティアでは巻き方がわからない。 そこで他の女官に手伝ってもらった。 さまざまな色合いの紫に彩られた衣装に薄紫のベールはよく映え、額にかかるレース模様もなかなかに美しい。 (宮殿内の女性って、みんなこんな格好なのかしら) 何もかもが新鮮に感じる。女官たちに至っては目元以外の全身を覆っているくらいである。 これが祖国ゼテミアンであれば、女性は髪を盛って見せびらかすのが基本だ。どんなに布を重ねたとしても、肩や首周りの曲線を隠さないどころか、なるべく強調する。 「こんなに髪も肌も入念に隠して……あたし、無個性じゃない?」 「大丈夫ですよ、姫さまは顔(かんばせ)だけで十分に魅力的です。きめ細かな肌、長い睫毛、甘やかなオレンジヘーゼルの瞳。一度お目にかかれば二度と忘れられないような美貌ですもの」 そう言いながらも有能な侍女はセリカの化粧の具合を隅々まで確かめてくれる。 セリカは普段あまり進んで化粧をしないため、それが必要になった際には自分ひとりでうまくできない。側仕えの力が無ければどうなっていたか。その為の侍女なのだと言えば確かにそうなのだが、他人に何かを頼り切るのはどうにも落ち着かない。 相手がバルバでよかった。信頼できる者が側に居てくれるのは凄く幸せなことなのだと、改めて再確認する。 「やめてよ、褒めたって何も出ないからね」 「あら、何も? おやつくらいくださってもいいのですよ。そうですね、晩餐会からくすねてみるとか!」 悪戯っぽく笑って、妙案とばかりに彼女は人差し指を立てる。バルバティアは甘味に目が無い。それでいて太りにくい体質なのか、出るべきところは出て引っ込んでいるべきところはちゃんと引っ込んでいる。羨ましい限りだ。 「でもこの服、袖がぴっちり手首にくっついてるから、ものをこっそり詰めて持ち出すのが難しそう」 「何の為のパルラですか!」 バルバは大袈裟に仰け反って、セリカが自国から持参した衣類を指差した。寝台の上で山積みになっているそれらの頂には、青緑色の外套がある。肩や腰を接点にして巻く長方形の一枚布で、祖国の旧い言葉でパルラと呼ぶ。なんでもこの一点物は、絹という高価で貴重な生地を使ったものらしい。 それゆえに、正装をする時のみに併せてこれを着ることにしている――断じて、人目を忍んで菓子類を持ち出す為に用いているのではない。 セリカは腕を組んで考え込んだ。 「うーん、今回はやめとくわ。デザインの相性も問題だけど、色が合わないのよね」 そもそも頭と首に既に布を巻いているのに、胴体にも何かを巻いたら、やり過ぎのように思える。 「残念。さて、装飾品が最後ですね」 そう言ってバルバは壁際のサイドテーブルに向かった。そこには大きな丸い箱が置いてある。 指先の脂が移らないように手袋を嵌めてから、彼女は慎重に箱の中身を取り出した。 宰相経由で渡されたこの「贈り物」を身に着ければ、仕上げである。 ゼテミアンの服は古代ローマをゆるーくイメージしてます。 |
一 - f
2017 / 02 / 27 ( Mon ) ヌンディーク公国首都ムゥダ=ヴァハナは、公宮に近付くほどに上品そうな空気感を湛えるようになった。 道中に見てきた下町とはまるで違う。ちなみにこれまでに通り過ぎた地区の建物の密集ぶりや路の賑やかさはどこか祖国ゼテミアンの首都を彷彿させたが、斜面に建てられている分、妙な開放感があった。宮殿周りの建築物は、本当にこの大陸の人間が建てたのかと疑問に思うほどに異様な外観をしている。現代の主流であるはずの四角い外壁が見当たらない。どうやってあの形になるのか、屋根は丸かったり変な針が伸びたりしている。焼きレンガではなく干しレンガを使えばああなるのだろうか。 大公の周辺は別世界――そういった部分もやはり祖国と同じに思えた。ゼテミアン公国の首都も、玄関を飾る巨大円柱などが特徴的な、旧い建築物がひしめき合うような場所だ。 願わくば一度じっくりと町を観光してみたい。 (願ったところで、叶わないか……) 夜の翼に追いつかれないように、御者は急いで馬車を走らせていた。最初こそ「あれは何?」の質問に答えてくれていた彼は、目的地に近付いた頃には相槌すらしてくれなくなっていた。 緊張感が伝わってくる。遅れたのはセリカの所為なのだが、自分が咎められるのを怖れているのだろう。 (悪いことをしたな) 門を通って少しすると馬車を降りた。 燭台を持った初老の男性が、広大な前庭を彩る噴水の前に佇んでいる。ゼテミアン大使だ。彼の後ろに使用人らしき人影が数人控えていた。 まずは挨拶を交わし、荷物を預けたり馬を休ませる手配などを済ませた。 「全く、すっかり暗くなっているではないか。何をちんたらやっていたのか。こちらは会談も終わったというに」 大使が御者を責め立てる。二人の間に、セリカがサッと立ち入った。 「遅くなったのはあたしが寄り道をしたがったからよ。他の皆を責めないであげて」 「公女殿下……相変わらず、貴女は困ったひとです」 初老の男性はあからさまなため息を吐いた。 「結果としては無事に着けたんだから、別にいいじゃない」 「無事に着けなかったら、誰かの首が撥ねられたかもしれませんぞ。以後、ご自分の振る舞いにもっと責任をお持ちください」 ――あんたなんかに言われなくてもそれくらいわかってるわ! 腹の奥から湧き上がる怒りを飲み込んで、代わりにセリカは顔に薄笑いを張り付けた。 「ご忠告どうも。善処するわ」 ふん、と大使は鼻で笑ったようだった。いくら生まれが上だからとこちらが粋がっても、父の側近である彼にしてみれば、セリカなど単なる世間知らずな小娘に過ぎない。 悔しいが、この力関係は揺るぎない。 「先方と話も付きましたし、私はもう休みますぞ」 「そうなの、ご苦労だったわね」 労いの言葉をかけつつ、依然として薄笑い。 大使は踵を返しかけたが、途中で立ち止まった。伝え忘れた何かを思い出した様子である。 「ああそうです、ヌンディークの宰相殿が迎えに来ています。なんでも、殿下の為に晩餐会を催すそうですよ」 「……晩餐会?」 セリカの笑みが僅かばかり崩れた。 「どうぞ、良い夜をお過ごしくだされ」 大使は曖昧に笑ってから、それきり口を噤んだ。その背中を、セリカと侍女のバルバティアが追う。 (誰が何を催すって? あたしの為に?) 正直のところ、結婚式までに誰とも会わせてもらえないものと予想していたので、それまでの時間を独りで自室で過ごすのだと勝手に思い込んでいた。 それが、初日で晩餐会。そうと知っていればもっと急いで来たのに――。 旅の疲れがあるのに今から猫被らなければならないなんて面倒だ、という気持ちが半分。残り半分は、どんな顔ぶれが来るのだろうか、と楽しみな気持ちがあった。更に言えば――許婚も来るのだろうか。 十九歳のセリカラーサ公女は、夢見がちな乙女ではない。まだ見ぬ夫と運よく素敵な絆を築けるなどと、夢想したりしない。 (でも自分の人生だもの。何でもいいから楽しめる要素を見つけてこそ、生き甲斐があるってものよね) たとえば武術の特訓を付けてくれそうな義理の兄弟とか、親友同士になれそうな義理の姉妹とか。 (せめて婚約者があたしより腕の立つ男だといいな) そうであれば、仲良くなれずとも尊敬の念を抱ける。 期待したい、けれども期待しすぎるのが怖い。逸る気持ちを抑えて、セリカは静かに歩を進める。 「公女殿下。ご存じですか」 正殿に続く階段を上る間、大使がまた声をかけてきた。 「何を?」 「貴女の夫となられるのは、ヌンディーク公国第五公子です」 「…………そう」 唐突に開示された情報を噛み締めんとして、その場で立ち尽くした。 (大公の五番目の息子。五番目か……ビミョーそうな立ち位置ね) その心境、果たしていかがなものであろうか。公位継承権を持たないのだから、男児にとっては張り合いの無い人生になりそうな気はする。 きっとこの辺りの境遇は人格にも反映されていよう。 ――やはり期待しすぎない方がいいのだろうか。 セリカは目を伏せて心を落ち着けた。 次に顔を上げた時には極上の微笑を浮かべて、階段の上で待ち受ける大使と宰相の元へと歩み寄った。 |
一 - e
2017 / 02 / 24 ( Fri ) 「できないって言うの? 結局口先だけなのね」
「片目だと遠近感がずれるから、私に飛び道具は扱えない」 ――至極ごもっともな理由があった。 それでも納得し切れずに、食い下がる。 「だって、あんたのブラインドじゃないの」 「別に私のではない。この建物は多分、季節が移ろう前からここにあった」 「あ、そう……」 それじゃあ自分では狩りができないくせに、得意げに知識だけひけらかしたの――と突っ込みたいところだったが、思い直した。元から片目だったとは限らないし、誰かに付き添うだけでも知識は身に着く。この人は普段、弓ではなく罠担当をしている可能性もある。 かくいうセリカもこれまでの狩りの経験は、兄弟について行った数回だけだった。それも公都内にある狩り場だ。的を当てる練習ばかりしていたのも図星だし、あまり人のことをあれこれ言えない。 (なんだか、やる気失くしたわ) ――ひとつくらい獲物を手にしてから馬車に帰りたかったのに。 だからと言って、粘る気力が無い。 道具を仕舞って背負い直し、帰り道を確認する。御者に伝えた二時間よりもずっと早く戻れそうだし、これでいいのだろうと自分に言い聞かせた。 それにしても、とふいに青年が口を開いた。こちらをじっと眺める青年の青灰色の瞳は、どこか冷たい印象を与える。 「さくらんぼみたいな頭だな」 瞬間、セリカはこめかみに青筋が浮かぶのを感じた。 「……初対面の人間をまず見た目から侮辱するのが、この国の礼儀なのかしら」 努めて平静を保とうとする。が、その試みはすぐに失敗に終わった。 「美味しそうだと褒めたつもりだが。赤黒いさくらんぼは見た目の渋さに反して果肉が甘く、好きだな」 「あんたの食べ物の好き嫌いなんて心底どうでもいいのよッ!」 ――いけない。 唾が飛ぶ勢いで怒鳴ってしまった。いくら淑(しと)やかさに欠けることを自覚しているセリカでも、これには反省した。 確かにこの髪は、母譲りの、滅多にない色合いではある。黒光りする深い赤紫――そう表現するのが一番シャレているのではないかと、自分ではこっそり思っていた。 今までに果物と比べられたことはない。というより、食べ物に似ていると感じていても誰も面と向かって言っては来ないだろう。 収まらぬ苛立ちをどうすれば吐き出せるか。紺色の帽子の下からうかがえる茶みがかった黒を見やり、その答えを思い付いた。 「そっちは泥みたいな髪色ね」 「よく言われる。淀んだ川底の土とそっくりだと」 仕返しのつもりだったのだが、思いのほか青年は平然としていた。それどころか、同情を誘う返しだった。 「け、結構心ないこと言う人と知り合いなのね……」 「そんなものだ。お前もたった今、泥みたいだと言っただろうに」 「あんなの腹いせよ、本気でけなしたいわけじゃないわ。ん、気品に紛れた遊び心っていうか? 野性的でいい色じゃない」 「…………無理して褒めなくても。泥でいい、私は気にしていない」 呆れたような顔をする青年に対して、セリカはバツが悪くなって小さく舌を出した。適当に思いついたことを口にしただったのを見透かされてしまった。気まずいので、さっさと話題を変える。 「そんなことより、いきなり出てきて何なのよ? 物凄く吃驚したわ。助言を乞うた覚えは無いし。誰よあんた、何様のつもり」 青年の鼻先に人差し指を突き指して、大袈裟に非難した。否、決して大袈裟ではない。 (乙女を尻餅つかせて驚かせたんだから、弁明くらいするべきよ!) 改めて強気になり、相手を睨みつける。 青年は全く怯まないどころか、意外そうに目を見開き、眉を上げた。 「わからないのか」 「はあ? わからないから訊いてるんでしょ。間抜けなこと言わないで」 激しく言い返してくるのかと思ったら、青年はただつまらなそうな顔をした。何なのだ、一体。何故そんな顔をされねばならないのか。セリカには心当たりがまるでなかった。 「――すぐにわかる」 それだけ言い捨てると青年はこちらに背を向けた。淀みない足取りで、速やかに木々の間に消えて行く。 後を追おうだなどとは、勿論セリカは考えなかった。 「変なヤツ」 嘆息混じりにひとりごちる。変な男、変な国、変な日。無人となった森は、セリカの独り言をことごとく吸収する。 日が傾きかけている。周囲の大樹の影がいつしか長くなっていた。極め付けは、長々と響くカラスの鳴き声だ。 胸の内に得も言われぬ物寂しさが広がっていった。 (はあ、帰ろう。受け入れたくない未来から目を背けるのは、もう止めにしよう) 運命の呼び寄せる方へ――彼女は一歩ずつ、重い足を進めていく。 _______ |
一 - d
2017 / 02 / 22 ( Wed ) 黒染めの革の長靴を、眼差しでなぞる。膝当てまで付いているとは珍しいデザインだ、ちょっとかっこいいな、なんてぼんやり思った。 視線は更に上った。裾を長靴に仕舞い込んだ黒いズボン。それを覆うのは、白く縁取られた紺色――膝丈の薄い羽織り物のようだが、左右のどちらかを上に重ねるのではなく身体の中央に緩く引き合わせる、見慣れないタイプだ。羽織り物を留める細いベルトは靴と同じ黒い革。そのベルトから細長いものが提げられている。美しい彫刻の施された鞘に見えた。 (あの大きさはナイフ、よね。股の上にこんな目立つモノをぶら下げる心理……) なんとも言えない気分になって、セリカは顔を上げた。 半袖の羽織り物の下から覗くのは、ボタンをきっちりかけ合わせた詰襟の黒いシャツ。シャツは普通だが、羽織り物の仕様には稀なるものを感じた。ヌンディーク公国の人間はこんな服装ではなかった気がする―― 「ぅわおっ」 眼差しが交差した途端、喉から変な声が漏れ出た。ずっと片足立ちの体勢を保っていたことを身体が突然思い出したのか、腰から力が抜けた。 (スカートじゃなくてよかった!) 開いた脚をすかさず閉じる。旅装として履いていた麻ズボンに感謝した。同時に、見知らぬ他人を随分とジロジロ見ていたのだと今更ながら思い出す。 とりあえず謝ろうと思って、相手を見上げた。 青灰色の瞳とまた目が合った。と言っても左目だけだ。浅い筒みたいな変わった形の帽子から流れる布に、顔の右半分が隠れている。 青年はこちらを見下ろすだけで助け起こそうとしない。無関心そうな表情を浮かべている。 (こいつ、いつから居たの) 何故話しかけもせずに突っ立っていたのか。理由もなく人を驚かせるのは、あまりに礼節に欠ける。不審者かと警戒しながらセリカは立ち上がった。青年はやはり微動だにしない。 正面から見据えて、また驚くこととなる。 なんと目線の高さが同じくらいだった。差は一インチ未満だろうか、首を曲げることなく対応できる。 確か、ゼテミアンの女は大陸中の他の国よりも平均身長が高いと言われていた。 (本当だったのね) とはいえ、セリカは知り合いの女の中では背が決して高くない方だ。きっとこの青年こそ、平均より低いのだろう。 立ち話をしながら人を見上げることはよくあっても、ありのままで目線が合うのは新鮮だった。そのせいか、いくらか毒気が抜ける。 「惜しかったな」 やがて、気だるげに青年が言った。低めの声で、丁寧で聴き取りやすい発音の共通語だ。 「え、何がよ」 一方、セリカはつい突っかかるような語調で応じた。 すぐには答えず、青年が首を巡らせる。その弾みで、彼が左耳に着けている涙滴型の装飾品が目に入った。 銀色のチェーンから垂れる大きな涙。暗めの群青色に、白い斑模様と金の斑点が浮かんでいる。 こういった不純物の多い石はラピスラズリと呼ばれず、別の名があったはずだ。それが何だったのか、思い出せそうで思い出せない。 (流石は宝石大国、ヌンディーク公国ね) その辺を何気なくほっつき歩いている若者ですらこんなにも美しいアクセサリーを身に着けているものなのか、と感心せざるをえない。或いはそれなりの家柄の者なのだろうか。見慣れない服装だけれど、身なりは綺麗だ。 「……的を射る練習はしていても、生き物を狙ったことが無いだろう」 青年の視線の先を一緒に辿った。先ほどヤマウズラを外して空しく地面に突き刺さった矢が、そこにある。 馬鹿にされているのだと、遅れて理解した。 「あっ――る、わよ! 勝手に決めつけないでくれる!?」 矜持が傷付けられた反動が頭の中で跳ね回る。セリカはずかずかと矢の傍まで歩いて、ひと思いに引っこ抜いてみせた。 「鳥は、頭を上げた時に人間(おまえ)の匂いを捉えていた。あの後また餌に夢中になったように見えたが、警戒心が残って、俊敏に避けることができた。風上に立ちながら匂いを十分に消さないのは、初心者のやりそうなミス――」 「初心者で悪かったわねえ!」 腹立たしい。背後から淡々と理屈をこねていないで、いい加減に黙ってはくれないだろうか。 「そんなに言うならあんたが射止めてみなさいよ」 セリカは青年の真正面まで戻って、ずいと弓矢を両手で押し付けた。 瞬きひとつせずに彼はそれを見つめ、無理、と返した。 |
一 - c
2017 / 02 / 19 ( Sun ) 「でも日が暮れる前には確実にムゥダ=ヴァハナに着かないと! 夜道は危ないです!」
「最後に、好きなことをして過ごしたいのよ」 低い声でそう返すと、窓から身を乗り出したバルバが怯んだのが見えた。その隙に一直線に走り出す。 あっという間に馬車を後にした。 (せめて楽しい思い出を胸に抱えていれば……当分は頑張れる、わよね……) 優しく澄んだ森の空気に包まれながら、セリカは滲み出す涙に気付かない振りをする。 _______ 数分ほど闇雲に走ったら、人工物に行き当たった。 森の中の空き地の隅に建てられたそれは、物見やぐらより一回り小さく、地上から七フィート(約2.13m)ほど上げられた木製の小屋だ。 狩猟用の隠れ場所――ハンティング・ブラインドだと、一目でわかった。 セリカは傍らの梯子に近付いた。此処でなら獲物に気付かれずに長時間張り込める。誰のものかは知らないが、ちょうどいい。 (人の気配がしないし、いいわよね。借りますよ、っと!) 片手で戸を開いて身を滑り込ませる。 床が短く軋んだ。一人か、多くても二人が同時に使えるような強度と広さである。食べ残しくらい落ちているのではないかと思ったのに、案外清潔だった。しばらく誰も使っていないのか、それとも最後に使った人間が丁寧に片付けたのか。中にあるのは素朴な椅子ひとつである。 戸を含めた四方の壁のどれもに、幅広い窓が開いている。好みの角度を見つけて、セリカはそこに椅子を寄せた。 そして肩にかけている弓矢を下ろした。 (確か、大物を狩るには長時間居座った方がいいのよね。まあ、あんまり高望みしないでおこう) そもそもブラインドを見つけるとは思っていなかったのだ。これだけで既に儲けものである。 ――三十分経った頃。 ガサガサと、小柄な生き物が草を踏む音がした。目を凝らして待つと、丸っこい鳥がひょこひょこと空き地に進み出た。 お世辞にもきれいだとは言えない、ざらついた指で弓弦を静かに引く。 感じるべきは掌に触れる感触、弓の重み。風向き。獣の動きに視線は釘付けになり、僅かに震える草の動きを事細かに追った。 目標を的確に射止める筋道を茂みの隙間に見定め、呼吸を限界までに遅めて機をうかがった。 地面を突いていたヤマウズラが、ふいにひょっこりと頭を上げた。鳥類独特の俊敏な首の動きで周囲をひとしきり警戒した後、また餌探しに戻ろうとする―― セリカは弦を放した。 草が乱される音、矢が地を打つ音、弓弦が弾ける音などが鼓膜に交差する。 息を呑んで周囲を見回した。 数枚の羽根が舞っているだけで、望んだ結果を得られなかった事実を知る。 (狙いはちゃんと付けたのになー) 逃げられた。落胆するものの、高揚感の方が勝っていた。 筋肉に走る微かな負担が心地良い。楽しい。こうして弓を手にしている間だけは、余計な感情がまとわりつかない。 (あたしはやっぱり、これが一番「生きてる」って実感できる) しかしそれも、弓を手にしている間だけである。腕を下ろせば嫌でも現実を思い出す。異国で誰かの妃になる以上、自分の時間は失われるということ。 趣味は所詮、趣味に過ぎない。たとえ立場が許したとしても、セリカは男として生きて成功するには力量不足で、公族の女として生きていくには粗雑過ぎた。 それでもできるだけ長く好きなことをしていたかった。弓の腕を日々磨いた分だけ姫らしさからかけ離れ、縁談が持ち上がる度に片っ端から蹴飛ばしてきた。 終いには親には「下手に結婚させたら相手の不興を買いかねない」と慎重に扱われる結果となったが、セリカは何も後悔していない。 思えばどうして、ヌンディークとのこの縁は成り立ったのだろうか。 (なんだかんだで気にしたことなかったわ) 矢を回収しに行こうと戸を開く。梯子を下りながらも、考え事を続けた。 (十九にもなって結婚してない姫を受けたんだから――) 下りきって、地に着いた。くしゃり、と旅用の長靴が草を踏む音がする。 (向こうも何か事情が?) くるりと踵を返した。何か視界に不自然なものが映っているようだが、意識はすぐにはそこに行かず。 足元に注意しながら、踏み出そうとしたところで。空中で右脚を止めた。 一拍の間、身を凍らせる。 そのまま足を下ろしたら別の誰かの爪先を踏むからである。 |
一 - b
2017 / 02 / 18 ( Sat ) (前より窮屈な生活になるでしょうけどね)
他国の妃の席に収まる以上、宮殿の中ですら好き勝手に過ごせなくなるだろう。聞いたところ、ヌンディーク公国はゼテミアン以上に古くからの慣習を重んじるらしい。 それがなんとも、皮肉な話である。 アルシュント大陸で最大の人口と領土を誇る帝国、ディーナジャーヤ。 過去数度に渡る略奪戦争を経てその属国となったヤシュレ、ヌンディーク、並びにゼテミアン公国は、当然ながら多方面で帝国の影響を受けている。使っている通貨も同じ、四国同士では国境などあってないようなものだ。 それゆえ、昔ながらの自国の伝統や服装にこだわっているのは大公家と貴族階級くらいのもので、国民の過半数は時代の流れとやらに身を任せている。好きな食べ物を選び、好きな服を着ているはずだ。 不自由だ。 そして、どうやっても生まれる家は選べない。 二十年近い人生を歩み、セリカは未だに己の境遇に甘んじられない自分を、どう思えばいいのかわからなくなっていた。 幼馴染と将来を共にする約束をしているというバルバが、少なからず羨ましい。彼女が大好きな相手と幸せいっぱいの家庭を築く未来を想像するだけで、自然と胸の奥が温まった。 対してセリカは、顔も知らない男の子供を産まねばならない。顔どころか――歳が近いらしいのは聞いているが、それ以外の情報を一切持っていない。 そうなるよう仕組んだのは母だった。相手について何も知らない方が不安も少なく済みますからね、楽しみは後に取っておくものです、なんて言っていた気がする。 知っても知らなくても逃れようが無いのなら知らない方が気楽だろう、とセリカも割り切ることにした。物凄く醜かったり性格が最低最悪なゲス野郎だと予想していれば、いずれにせよ期待を裏切られる心配も無い。 怖くないと言えば嘘になる。それでも、逃げ出そうなどと企むには、セリカは聡すぎた。 「きゃっ!」 バルバの小さな悲鳴で、物思いから覚める。いつの間にか道が険しくなったのか、馬車がガタンゴトンと大きな音を立てながら進んでいる。 興味を惹かれて、窓の外に目を向けた。道路沿いに、いい感じに生い茂った森が見える。 「停めて!」 セリカは思わずそう叫んでいた。急に呼ばれた御者の男が驚き、言われた通りに手綱を引く。 「どうしました!?」 「ちょっと降りる。二時間もすれば戻るから」 用を足す為ではないと、念の為にセリカは補足した。荷物の中から、愛用の道具を取り出し、腰を浮かせる。 「二時間? それでは大使さまの馬車と大きく差がついてしまいます」 御者が前方を指差した。 「構わないわ。あたしが立ち合わなくても、商談はできるでしょう」 縁談を敢えて商談と称する。 政略結婚とは、国同士の交流を繋いだり強める為の措置。――交流? 実際にはそんなにあやふやな言葉で形容できるものではないと、セリカはしっかり理解していた。ゼテミアンはヌンディークから、ヌンディークはゼテミアンから、欲しい「持参金」があるのだ。 花嫁側(ゼテミアン)からのブライドウェルスは分割で支払われる手筈となっている。先月から少しずつ鉄が運び込まれていて、花婿側(ヌンディーク)からのダウリーがちゃんと支払われたと確認された暁には、契約通りの量まで届けられる。 双方の大公は既に契約書に署名している。それでもゼテミアン大使がセリカに同伴するのは、再三の言質を取りたいからに他ならない。 これらの手続きは結婚式などよりもよほど重要視されていた。 ――セリカラーサ・エイラクスという人間が消えていく。誰も本当の自分を知らないし、今後も知ろうとしないだろう。 未だに不服そうに抗弁する御者を無視して、馬車を飛び出した。 「ひ、姫さま! 危険です。護衛を連れてください」 バルバが声を震わせて叫んでいる。 「いらない。何かあったら叫ぶわ、そんなに遠く離れないから」 この路は人通りも多く危険度が低いからと、セリカの馬車についている護衛は一人しかいない。彼には荷物を守らせた方が得策だ。 日本の慣習だと結納金がダウリーに該当するっぽいですね。文化によってはブライドウェルスだったり両方出したりしていましたけど、旦那側の家族が何かしら出すのが多いのですかね。王族が一般人の嫁を取ると、王族側が嫁の家族に贈り物をすることもあるようで(現代では中東の国とかで例が)。今回はどっちも同ランクに高い家柄で、国同士の関係なのでどっちも寄贈品出します。 まあ、これはファンタジーですww |
一 - a
2017 / 02 / 16 ( Thu ) ――伝統は呪縛だ。 そんなことを思いつつ、馬車の小窓の向こうの景色を見やる。悠然と流れる峰々をいくら眺めても、心は少しも晴れなかった。まだまだ先が長い。公都ムゥダ=ヴァハナに着くにはあと数時間はかかるそうだ。 時折、向かいに座す女性と雑談を交わして気を紛らわせたりもした。しかし会話が途切れれば、思考回路はたちまち同じ憂鬱に巻き戻ってしまう。 なんでも、世間では「時代が移り変わりつつある」などと囁かれているらしい。具体的に何が変わっているのかは諸説あるようだ。たとえば各地で身分の壁が薄くなっているとか、男尊女卑の意識が薄れつつあるとか。 まやかしだ。少なくとも自分は、世の変化を実感できていない。 そんな立場ではないからだ――生まれる前から墓に入るまでの期間、一貫して大きな選択は何ひとつ自分でできない身の上と言えよう。 ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクス――愛称セリカ――は、十九回目の春を迎えたばかりだった。晩春に予定されていた生誕祝いも待たずに自国を発たされたのには、本人にとって非常に不本意な理由がある。 今夜、夫となる男と初めて顔を合わせる。明後日、結婚式を挙げる。 平たく言えば政略結婚だ。 ――退屈だ。退屈な人生に、これからなりそうだ。 「バルバ」 肘掛に頬杖をついた姿勢のまま、向かいの席の侍女を呼んだ。セリカより三つほど年下で、耳の下で切り揃えられた髪とそばかすが印象的な女性は、名をバルバティアという。ここ数年ほど仕えてくれていて、今となっては気心の知れた友人だ。 「なんでしょうか、姫さま」 彼女はどこか緊張した面持ちで応えた。主と話すことに緊張しているのではなく、おそらくは環境が変わることへの不安の表れだろう。 「知ってた? このアルシュント大陸で女が伸びやかに暮らすには、平民くらいがちょうどいいそうよ」 「そうでしたっけ」 バルバティアは小さく首を傾げた。彼女は中流貴族の家から大公家へ奉仕に来ているのだからセリカよりは平民と関わる機会があるだろうに、どうもピンと来ないらしい。 「ええ。極端に身分が低くても、高くても、好きなように生きられないんだわ」 そういうセリカは、この話を誰に聞いたかは忘れていた。観劇の際にフィクションから吸収したのかもしれないし、兵士の噂話を盗み聞いたのかもしれなかった。 「姫さま……」 バルバは所在なさげに両手を握り合わせて俯いた。眉の端が悲しそうに垂れ下がっている。萎れた花のように背を丸める姿に、ちくりとセリカの胸が痛んだ。 「ごめんなさい、独り言よ」 いたずらに心配させないように微笑みで誤魔化し、話題を打ち切る。 視線を再び外の景色に向けてみた。四方八方が山に囲まれているというのは、新鮮と言えば新鮮である。このヌンディーク公国と違って、祖国ゼテミアンの公都は平地にあった。 これより以前、最後にゼテミアンを出たのがいつだったのか、思い出せない。 公族に於いての女の政治的価値及び発言権は一貫して夫の地位に依存しており、十六歳でディーナジャーヤ帝王の後宮に入った姉や十四歳でヤシュレ公国の貴族の家に嫁いだ妹に比べれば、嫁ぎ先が長らく定まらなかったセリカにほとんど自由は許されなかった。 妙齢の未婚の姫である内は公の場に顔を出すこともできず、旅行目的でも外交でも国を滅多に出なかった。 ようやく長旅に出られるかと思えば、隣国への片道行路。 (なんて、憂えてみるけど) これまでの生活の中に涙して惜しむほどの何かがあったのかと言うと、そうでもない。故郷は恋しいが、家族に関してはそれほどでもない。姉妹とは既に一緒に暮らさなくなって久しいので、別れて寂しかったのは兄くらいだ。親に至っては、むしろやっと解放された気分である。 一番仲の良い侍女を連れてきているので、心細さも薄まっている。勿論、新しい生活や侍女に慣れた後には彼女はいずれ実家へ帰すつもりだ。バルバには他に居場所が、帰るべき家があるのだから。 いっそ心機一転しよう。 新しい人生に挑戦する機会だと思えば、いくらか前向きな気持ちになれそうだった。 |
零 - b
2017 / 02 / 15 ( Wed ) (でも待って。入り口だけでもこんなに足が竦むのに、実際に中にいる人はもっとキツイわよね)
想像を絶するような想いをしているのではないか。 そう考えると、萎みかけていた闘志がまた燃え上がった。兵士を睨み付けて、返事を吐き捨てる。 「口の利き方がなってないわね。あたしは大公陛下の公賓よ」 しゃがんだ体勢から素早く立ち上がり、セリカは己の胸元を飾る豪華なガーネットとカーネリアンの首飾りを見せびらかした。いかに宝石大国と言えど、これほど多くの宝石をあしらった装飾品は一般人にとってはなかなか目にすることができないだろう。 案の定、兵士は青褪めながら何度か謝った。 「し、しかし失礼ながら……なにゆえ、やんごとなきご身分のご婦人がこのような場所に、ひとりで……」 「中の人間に用があるから来たに決まってるでしょ。通しなさい」 「なりません! ここは牢です。それに、第二公子から何者も通さぬようにと言い付けられておりますゆえ」 ――第二公子? あの腹黒ロン毛野郎がどう絡んでいるのよ、などと訊き返すことはできない。セリカは呆れたような、わざとらしいため息を吐いた。 「そんなのあたしの知ったことじゃないわ。通して」 すごみつつ、戸の方に一歩踏み込む。 「な、なりませぬ」 衛兵が慌てて扉を引こうとしているが、セリカの方が一瞬早かった。 ――ガン! 右の踵で強引にこじ開ける。次いで左足で跳び上がり、兵士の顔面を着地点とした。男はぐうと呻きながら崩れた。 遅れて、扉がけたたましく閉まった。視界が一気に暗くなる。 「何奴!」 近くに待機していた別の衛兵が、騒ぎを聞きつけて駆け寄ってくる。 迷わずセリカは壁の松明をもぎ取り、相手に向かって投げた。 「うわあ!?」 兵士は突然の熱さに慌てふためき、更には地面に落ちた松明に足をひっかけて、盛大に転んで地に伏せた。あまりに鮮やか過ぎる。まるで誰かが脚本に書いたみたいな展開だ。 (ごめんなさい!) 謝るのは心の中だけにして、セリカは全力で走り去る。邪魔なドレスの裾は、両手で握り締めて捲り上げた。 しばらくの間、殺風景な廊下が続いた。 どこまで走ればいいのだろう。 焦りが段々と強まる。頭がおかしくなりそうだ。一定の間隔で左右交互に現れる壁の灯りを、ついつい数えそうになっている。 異臭が濃くなり、一息つく為にセリカは足を止めた。向かう先の方に、鉄格子の輪郭が浮かんでいる。 (……もう手遅れだったりしないわよね) どうして彼は牢に入れられたのだろう。第二公子の差し金らしいが、この国では今、何が起こっている――? (朝から何かがおかしいのはわかってたけど) こうして考える時間さえもが勿体ない。セリカは再び走り出した。 「ねえちゃーん、きれいなおみ脚だねえ。ちょっと股開いてみなー?」 闇から、しゃがれた声が響く。 「ありがとう! この脚はあんたの空っぽな脳みそを蹴飛ばすために、長くできてるのよ!」 最初に通り過ぎた独房のいくつかは、中を確認するまでもなかった。下卑た文句を投げつけてくる者、猫なで声で呼びかけてくる者、不気味な奇声を発する者。それらの中に探し人は居ない。 「エラン! どこなの!?」 闇が深くなっていく。気分が悪い。 気のせいだろうか、通路の灯りの間隔が長くなっているようだ。と言っても真相はきっと単純で、奥に入るほどに松明の火が補充されていないだけなのだろう。 ――ああ、なんてひどい場所だ。 走りながら時々、サンダルの裏から大きな虫を踏み潰したような気色悪さが伝わる。四方から響く鼠の鳴き声が頭の中で反響している。あと数分この場に留まるだけで、気が狂うのは目に見えていた。 囚人たちには同情せざるを得ない。 「ねえ! 聞こえてるなら返事しなさいっ!」 ――はやく、早く助け出そう。こんなところに長く居てはダメだ。むしろあいつが此処に閉じ込められていると想像するのが、辛い。 つい先日、屋内で眠るのが嫌いだと言っていたのを思い出す。 最早息も切れ切れだが、急く気持ちに背中を押されて、セリカは必死に叫んだ。 「――エランディーク・ユオン!」 念のため補足しますと地下牢の床はめっちゃ水たまりだらけなので松明落としたくらいでは火事になりません。 |
零 - a
2017 / 02 / 14 ( Tue ) これより先は淑女が踏み入れるべき場所では、断じて、ない。 長い間、セリカは己の足下をただ睨み付けた。そうしている内に、果樹園を駆け抜けたことによって上がりきっていた息が、徐々に落ち着きを取り戻していった。――この扉を開けばきっともう戻れない。 迷いという名の錘が彼女の足を持ち上がらなくさせている。 否、同じような分岐に立たされれば誰だって躊躇するはずだ―― (ごめん、お母さん。あたしには荷が重かった) くれぐれも淑女にあるまじき振る舞いは控えてくださいね、と何度も念を押してきた母の顔を思い出す。 心の中で謝ったはいいが、直後に自己嫌悪がこみ上がる。 ――違う。別の誰かに責任転嫁して、踏み出せない臆病さを正当化しようとしているだけだ。 上質な生地に装飾品をふんだんにあしらったドレスの裾から覗く足は、いかにも高価そうなサンダルを履いている。が、綺麗な黄金だったはずの金具は草から擦れ移った緑に汚れ、足の爪は色濃い泥に塗れていた。 頭の中で、自嘲気味に笑う。 (元々あたしは「淑女」の枠組みからはみ出ていたわ) それでも家族のため、国のため、今度という今度はちゃんと頑張ろうという気になっていたのに。 ――あいつとなら、頑張れそうな気がしていたのに。 足の指をくすぐる草と大地の温かな感触が、セリカの心中に巣食う不安を残らず引き出した。 選択次第で、世間体以上の強敵をつくってしまう。慣れ親しんだ安寧を遠ざける覚悟が、本当に自分にあるのか? この道を進んだ先にはどんな未来が待ち受けて――或いは、未来と繋がってすらいないのか? (本当に会えるの? 会ったら、連れ出せるの? あたしに) 想像してみようにも、頭の中は真っ白だ。 明らかに気が動転している。 茶会の席を抜けて夢中で此処まで走って来たが、これからどうすればいいのかがわからなかった。型破りな娘だなんだと周りに言われてはいるが、肝心なところでは身動きが取れない。常識の打ち破り方がわからないのだ。 引き返してしまおうか。今なら、まだ間に合う。 ――お前の知らない「自由」を見せてやろうか―― 耳の奥に響いた声に、ハッとなった。 あの男が悪いのだ。夢を見させるようなことを言うから、真に受けた自分はこんな無茶を―― 「ああもう! 違うったら!」 追いつめられると何でもかんでも人の所為にするのは、悪いくせだ。 今まで誰もくれなかったような嬉しい言葉をかけてくれたからとか、命を救ってくれた恩があるからとか。それは確かに理由の一部であるが、それだけではない。 「知ってるヤツに死なれたら寝覚めが悪い、だけよ!」 ましてや相手はこちらの手が届く範囲内にいる。見捨てられるわけがない。助けてやれそうな可能性がある内に、何もしないなんてありえない。 そうはっきりと口にしたところで、セリカは腹をくくった。祖国への郷愁や、身分を惜しむ気持ちは、もちろんある。けれどそれを上回って余りある強い想いがあった。 しゃがんだ。ドレスの裾が汚れるのも厭わずに。 地面に溶け込むような色に塗装された両開きの扉は、初見では素通りしてしまいそうだが、セリカは先日この庭をうろついていた際に見かけたので探し出すのは容易だった。 表面にこびりついている土を軽く払ってから、両の拳で扉を思いきり叩いた。十回以上は叩いたところで内側から上へと扉が開いた。 ぎぎぎぃ。扉を開けた者の億劫さを代弁するかのように、蝶番がうるさく軋む。同時に、異臭が地上へと這い出た。数種の汚臭が混ざったようで、何の臭いかまでは割りだせないほどに複雑だ。 セリカは僅かに仰け反って、鼻先を手の甲で覆った。 「なんだ女、何か用か」 地下からつまらなそうにこちらを見上げる男は、武装した兵士である。それを見て、大体察することができた。 情報源であった少女を脳裏に思い浮かべる。 ――エラン兄さまでしたらきっと、地下にいらっしゃいますわ。 確かに彼女はそう語った。 (地下って言うから予想はできてたけど。やっぱり、牢……!) 冷や汗が額に滲み出す。喉の奥が詰まったように息が苦しくなり、頭がじわじわと痛み出した。恐怖が手足を絡め取らんとしているのだ。 ハッピーバレンタイン! おや、何かが始まってしまいましたね…? 最初は三日連続更新でその後は以前のような2~3日に一度ペースになると思います。 |
66.d.
2017 / 01 / 01 ( Sun ) 久しぶりに拝む太陽は、ひどく眩しかった。季節感など一切無い地下牢で過ごしてきただけに、夏の気温には凄まじいものを感じる。
ぐらりと眩暈がして、ミスリア・ノイラートは道端にあった木箱の上に座り込んだ。 「大丈夫?」 「暑いですね」 迎えに来てくれた友人に向かって弱々しく笑う。傍に居るのは彼だけだ。 出所の日程と手続きは秘密裏に処理したものだから、外部から聞きつけた人間は誰もいない。三年も経てば世間も「世界を救った聖女」の行方に興味を失うのだろう。その代わりに、大聖女も地に還っただとか天に昇華しただとか聖獣が恋しくなって極北の地まで後を追いに行っただとか、おかしな噂だけが飛び交っているのだとカイルは教えてくれた。 「これでも三年前よりはずっと涼しいんだよ」 カイルはそう言ってハンカチで顔の汗を拭った。おいで、と彼はミスリアの手を取り、建物の影の方へと誘導してくれた。 「目、慣れそう?」 「まだしばらくは眩しいかと。光だけじゃなくて、音も……世界ってこんなに色んな音がしてたものなのかと、再発見してます」 通り過ぎる馬車の音、露店で値切り合う人々の声。頭上を通り過ぎる鳥の鳴き声、子供たちが走り回る足音、洗濯物を干しながら歌う女性の声も、全てが頭の中で大きく響いている。 地下牢では自分と看守のが作る音以外には、鼠の鳴き声くらいしか聴いていなかった。 それに匂いだ。漂う重厚な匂いが何なのかは特定できないけれど、空腹感を刺激するものには間違いない。ぐうっとお腹が悲痛な音を出す。 「引き留めてごめん、すぐに終わるから。その後に一杯美味しいもの食べてね」 友人は爽やかに笑った。三年ぶりともなると、懐かしいとさえ感じる笑顔だ。そして、また見れて嬉しい。 「い、いいえ。お忙しいのに、私の為にわざわざ来て下さってありがとうございます」 「これをどうしても手渡したくて」 懐の中から、カイルがネックレスのようなものを取り出した。 「それは……」 続く言葉を紡げなかった。 しゃりん、とカイルの掌から大きな影が流れる。チェーンから転がり落ちるようにして垂れた形は、聖獣信仰を象徴するもの。銀細工に、二つの水晶を取り付けたもの。 元々二つ持っていた銀細工のペンダントは、小さい方は旅の道中でいつの間にか紛失してしまい、そして水晶の施された大きい方は聖獣に取り込まれた時に、失われた。その後教団に帰還して、新たに賜った――水晶も、新しくいただいた『鱗』を使って。 「君はもう教団に属する聖女ではなくなったけど、本質は今でも聖女だよ。役職を返上しても聖気が全く扱えなくなるわけでもない。君にはこれが必要だって、教団と掛け合ってきた」 ありがとう、とカイルを見上げて唇でなぞった。受け取ったアミュレットの重みと僅かな温かさが、心の中で忘れていた感情を引き出した。胸元に、大切に握り締める。 「……やっぱり、私には必要ですね。牢の中には魔物の前兆が数多く視えました。視えても浄化できなくて……」 体内の聖気を一度根こそぎ失ったミスリアは、以前と違ってアミュレット無しでは聖気を扱うことができなくなっていた。刑務所の残留思念とは語り合うことしかできず、彼らを送ることはできなかったのがずっと悔しかったのだ。 「自由の身になれて、おめでとう、ミスリア」 「はい」 アミュレットを首にかけて、ゆっくり立ち上がる。ふらつきそうになると、カイルがそっと肘を支えてくれた。 「僕からの用事はこれだけだよ」――彼はポケットウォッチを取り出して時刻を確認する――「ちょっとこの後も予定が入っててね。晩御飯なら、一緒できそう」 「はい! 楽しみにしてます」 カイルは目を細めて笑った。 そして何故かわざとらしく、何かを気にするようにちらちらと肩から振り返る。 「待ち人は角の方に居るよ。早く行ってあげて」 「――!」 パッと心の中に広がった悦びに、頬は緩み、声は出なかった。対するカイルは微笑ましそうなものを見る顔になった。 「じゃあ、また後で」 手を振り合って、別れる。既にミスリアは小走りになっていた。 とはいえ独房生活が長すぎた。走る為の筋肉は衰え、何度も情けなく転びそうになる。逸る気持ちをなんとか抑え、建物脇の樽などを支えにして、少しずつ確実に歩を進める。 (どうしてこの角に?) すぐに疑問は解決された。 井戸から汲んだ水を、頭から豪快に被っている青年の姿がそこにはあった。 本物だ、と直感するまでに大して時間は要らなかった。 速まる心臓の音が耳の中で響いている。その場に縫い付けられて、動けない。 地面に流れ落ちた水が一筋、するするとミスリアの足元まで伸びる。 青年が顔を上げた。次いで、目が合った。 深い黒をたたえた右目と、白地に金色の斑点が散らばる左眼。 何も無い闇の中でも、忘れられずに焦がれた――幾度となくミスリアの胸の内を掻き乱した眼差しがすぐそこにあった。 青年が目にも止まらぬ速さで動いた。 「ストーップ、兄さん! 濡れたままじゃ可哀想でしょ! 拭いて! ほら!」 間に大きな布がバッサリと入る。 派手に光沢を放つ服を纏った人物の後ろ姿を認めて、ミスリアは嬉々としてその名を呼んだ。 「リーデンさん!」 「や、久しぶり」 くるりと振り返った青年は、記憶の中の像を楽々と飛び超えるほどの美貌だった。三年の間に色気に磨きがかかって、同時に男性としての凛々しさも濃くなっている。何より、サラサラの銀髪の襟足が大分減っていたり、短くなっているのが印象的だ。 「髪切ったんですね。すごく似合ってます」 「そうでしょー? 君は髪、伸びたねぇ」 「早く切ってしまいたいです」 「その長さも似合ってるよ」 リーデンは何気なく、栗色の髪を幾筋か手に取って撫でた。気恥ずかしいけれど、そういえば彼はこういう人だった、と思うと嬉しくなった。 「そうそう、外に出たら、最初に何がしたいとかある」 「お風呂……お風呂に、ハイリタイ……です」 うじゃうじゃと伸びてしまった髪なんて、汗や泥が固まっていて変な臭いまで発している。唐突にそれを思い出し、リーデンからサッと距離を取った。つい井戸の方へと目が行った。そのまま飛び込みたいくらいに、お風呂が恋しかった。 「あははは、他には?」 「温かくて柔らかいご飯をお腹一杯食べて、広い野原で散歩して、それから――」 指折り数えている最中に、地面から足が離れた。 「きゃっ!?」 強烈な抱擁に捕えられている。うなじ辺りに、吐息を感じた。 「汚いってさっきから言ってるのに――! 放してください! ゲズゥ!」 「お前は抱き着くつもりじゃなかったのか」 「そ、そうでしたけども! 改めて考えてみると汚いんです!」 彼はこちらの抗議など聴こえていないように、抱き締める力をまるで緩めない。苦しい。けど、気持ちいい。 心臓が口から飛び出しそうだ。 極め付けには、いつか法廷でしてくれたように耳に口を寄せて「あいしてる」と低い声が伝えた。 あの時は、三年も会えないという悲しい気持ちに後押しされて「わたしもです」と言えたのだが。こうしていると、気恥ずかしさが爆発する。ついでに、すぐ近くでニヤニヤ笑っている絶世の美青年の視線も気になる。 けれども、やはり心地良いのである。地に下ろされた頃には怒気はすっかり消え失せていた。 また目が合った。今度は、迷わずに笑いかける。 「生きてくれてありがとうございます。逢いたかった、です」 すると、「知ってる」との笑顔が返った。 頬をなぞる大きな手は、記憶の中よりも冷たい。黒い髪も伸びていて、肌の色素もこころなしか薄くなっている。 互いに痩せ細ってしまったものだ。でも、また巡り逢えた。それだけで、涙が溢れるほどに嬉しかった。 「貴方は変わりませんね」 「お前は少し大人びたな」 しばし、体温を確かめ合うような口付けを交わした。 拍手の音で、我に返る。それをしていた当人、絶世の美青年は、妖しげな微笑みを浮かべていた。 「とりあえずそうだねー、思い付く限りのやりたいことをやり尽くしたら、結婚でもしたら」 「けっ……!?」 何てことを言い出すのか、とミスリアは仰天した。 「だってさー、もう聖女さんって呼べないんだし。だから今度は姉さんって呼ばせてよ」 「なるほど」 と、あろうことかゲズゥは納得したような顔をしている。 「からかわないでください!」 「僕はいつだって大真面目だよー?」 いけない、肩で息をしていたら、またふらりと眩暈がしてきた。倒れようにもガッシリと腰を抱える腕があるので、その点は平気だった。 はあ、とミスリアは呆れてため息を吐く。次に、深呼吸した。 (――結婚、か。それって、ずっと一緒にいようって家族と神々の前で誓うってこと……) 落ち着いてちゃんと想像してみると、そこに抵抗感は全くなかった。 同年代の友達が己の結婚式や花嫁姿について夢を語っていた頃、ミスリアはただ聖女としての使命のみを想って生きていた。 けれど、今は。隔てるものが何も無い。 身分や立場も、運命も、迫り来る命の危険も。独房の壁だって、取り除かれている。真実、自分たちは好きなように生きられるようになった。 カイルに言った通り、自分の望みは―― それを語るべき相手を見上げる。 じっと見返してくる左右非対称の瞳は静かだった。密かに、勇気をもらった。 「私は前に、離れるのが怖いからと、貴方を突き放そうとしました。でももうそんなことは考えません。死に別れる時は明日かもしれないし、もっと遠い未来かもしれない。それでも最後の瞬間まで一緒に居てくれませんか」 ゲズゥは二度、瞬いてから答えた。 「引き受けた」 ふわりとまたその腕に包まれる。先ほどよりも優しくて、温かい抱擁に。 「当然だ。お前の帰る場所は、俺の傍にしかない」 「はい。これからもよろしくお願いします、ゲズゥ・スディル氏」 ミスリアは抱き締め返す腕に力を込めた。いつまでもそうしていたかった。 ふと目を閉じると。 幸せになってね、と言ってくれた姉の声が脳裏を過ぎった。 ――お姉さま。どこかで見ていますか。貴女の代わりに私たちが、やりましたよ。そして今は貴女が望んだ通り、私は、幸せです―― _______ かつて、青年と少女は旅に出た。 世界を救った旅だった。 やがてその旅も終息すると――罪人と聖女であった青年と少女は只人となって、人知れず彼らの物語の続きを紡ぐのであった。 |
66.c.
2016 / 12 / 31 ( Sat ) 以前はどんな立場であったにしろ、囚人は囚人だ。看守は、囚人の生死を握る者としての薄暗い優越感に浸るのが好きだった。
だがこの二人はどうもおかしい。 男の方は朝から晩まで、腕立て伏せやら逆立ちやらしている。かと思えば、反復横跳びや側転などをして汗を流していることもある。一日一回の貧相な食事でどうやってあの体力を保っているのか、謎でしかなかった。逆に運動をしていない時は、死んだようにじっと静かにしている。 それにしても、独り言のひとつも漏らさないのは人としておかしい。相手が居ない時、人は会話への意欲を独り言を呟くことによって満たすものだ。この男は他者と会話する欲求が無いのか。それとも看守の知らぬ内に満たしているのか。 そして女の方。女と言ってもまだ十代半ばのほんの少女で、牢獄に閉じ込めるのは惜しい可憐さである。看守も、劣情を催したことは何度かあった。だが囚人相手に欲を抱くのは浅ましいと考え、いつも一線を越えずにいる。万が一行為に及んでそれが露見しようものなら、ジュリノク=ゾーラを主神とする集団に苛烈な処罰を下されることだろう。 このような可憐な少女があのような不気味な男の為に自ら囚われの身となるのか。世の中とはよくわからない。 若い男の方と違い、少女は一日のほとんどを喋って過ごしていた。喋っていなければ、歌っている。 ある時看守は少女に訊いてみた。その歌は何だ、と。 聖歌です、と答えた少女は、聖歌集の何ページに載っている歌なのかまでを教えてくれた。 「どういう歌だ」 「春に咲く花々への感謝の歌です。今年も咲いてくれてありがとう、って」 「いい歌だな」 「いつか機会があれば、ご覧になってみてください」 「おら、字が読めねえんだ」 「そうですか、残念ですね。もう少し明るかったなら……ここで文字を教えてあげられたんですけど」 看守はそれには答えなかった。 本当は、前々から字を学びたいと思っていた。だが関わりすぎたって、情を抱いたって、どうせ遮断独房の囚人は長くもたない――そう自分に言い聞かせて、その場を去った。 それから一年経っても二年経っても、三年目になって既に他の独房では何度か囚人が入れ替わっていても、二人は相変わらずだった。相変わらず、身も心も健康そうである。 他の囚人が二言目には何々が欲しいと訴えかけてくるのに、二人は何も要求して来なかった。本が欲しいとも、絵具が欲しいとも言わない。何かを欲しがられたところで与えることはできないが、来る日も来る日も飽きずに似たようなことをして暇を潰せる二人は、相当な精神力を持っているのかもしれない。 ある時、看守は気になって男に問いかけた。 「おめえ、ずっと喋ってねえんじゃ、言葉忘れるぞ」 男はかなり長い間沈黙したままだったが、ついに看守が立ち去ろうとした時に、静かに答えた。 「……問題ない。こう見えて、弟と話している」 「はあ」 死んだ弟の霊とでも話している妄想かね――と、少し哀れに思った。男はきっとやんわりと気が触れ始めているだけだろう、と看守は自分の中で勝手に結論付けた。 またある時、少女に問いかけた。 「男の方がどうしてるか、気にならねえんか」 「なりますよ、勿論。でも貴方に訊ねたところで、答えてはくれないでしょう」 「当たりめえだ。独房は、孤独も罰なんだ」 「では、あまり私に話しかけない方が良いですね」 「女は寂しいと死んじまうからなあ」 看守は、ついつい少女に話しかけてしまう自分に言い訳をした。 「寂しくなったら、大切な人たちに次にまた会える時を想い描きます。それに、同じ建物の中で息をしていると想像するだけで、とても幸せな気分になれるんです」 囚人の少女は穏やかに笑って、また何かを喋り出した。よく聞けば喋っているというよりは唱えているのか、それは祈りの言葉のようだった。 死者と語らう――と本人は主張している――以外には、覚めている時間はほとんど祈祷に費やしている。 まだ若いのに。一体どういう人生を送ってたら、こんな風になるのか。聖女とは皆こういうものなのか。 看守は、これ以上彼らを気にしても仕方がないと悟り、考えるのを諦めた。 そうして二人の若い囚人が独房で暮らし始めてから、三年が経った――。 _______ |
66.b.
2016 / 12 / 31 ( Sat ) 「ではそのように計らいましょう。記録係、お願いします」
猊下の一言から、要人たちは書類を更新する為に大仰な扉の向こうにまた消えて行った。大使は未だに不服そうにしていたが、きっと他の二人が説得して下さることだろう。 カイルサィートは折を見て席をより前の列の方へと移動した。眼前で、ミスリアたちが会話している。 「もしかして今、ものすっごくうんざりした顔しませんでした?」 「……気のせいだ」 「そうですよね。あ、お礼なら要りませんよ。だって私たちは迷惑かけたりかけられたり、半永久的に助けたり助けられたりする仲ですよね」 にこやかに宣言する少女。ハッ、と青年は微かに笑ったようだった。 「ああ、礼は言わない。十五年が三年になったのは、『よくやった』」 褒められたミスリアは満面に微笑みを浮かべる。それからしばらくして、俯いた。 「三年なんてあっという間ですよね」 自分に言い聞かせるような声色だった。 「出逢うまでの二十年に比べると、随分と長そうに感じるが」 「い、いくらなんでもそれは大袈裟ですよ……」 「事実だ」 ――ジャラリ。 瞬きの間に、ミスリアが移動していた。手足を鎖で繋がれている青年に、人目も憚らずに抱きついたのである。 観衆はひそひそ話を繰り出したが、大っぴらに口を出す者は居なかった。そこには、第三者がおいそれと侵せないような空気が流れていたからだ。 二人は互いに何かを耳打ちしてから、離れた。 「生きていて、くださいね」 「そっちこそ。石みたいな味の飯が出ても、残らず食うことだ」 「任せてください。石でも砂でも、最後の一粒まで食べます!」 それには、傍観していたカイルサィートが思わず噴き出した。二組の双眸が驚いてこちらを向く。 「ああごめん、邪魔するつもりじゃなかったんだ。でもミスリア、砂は食べなくてもいいんじゃないかな」 「砂は栄養に……なりませんか?」 これから長い年月を独房で過ごさねばならないというのに、彼女は実に楽しそうに手を合わせてくすくすと笑っている。つられて、カイルサィートも自然と笑んだ。 「君たちは変わったね。なんていうか、明るくなった感じがする。楽しそうで何よりだよ」 「ありがとうございます。カイルも、また会える日まで絶対に元気でいてくださいね」 少女が両手を前にして歩み寄ってくる。なのでとりあえず伸びてきた両手を取って引き寄せ、意味もなく笑い合う。 その間、脳裏では少し前の会話を思い返していた。 ――カイル、私は聖女であることが誇りです。でも大義を果たせた今、新しい目標に向かって歩みたい。これからの私が望む人生、は―― 気が付けば小さな手をぎゅっと握り返していた。 「うん。君たちは、君たちの好きなように生きればいいんだよ。これまで一杯、頑張ってくれたんだから。後のことは僕たちに任せて……魔物信仰の残党対策も、ね」 「はい、頼りにしてます」 でも無理だけはしないでくださいね、とミスリアは小声で付け加えた。「秘術って寿命を消費して使うものだとか」 「え、そうなの? それは初耳だよ」 「全知全能空間から持ち帰ってきた、ほんのちょっとだけの知識です。実は術式も幾つか憶えてるんです……」――そこまで言って、ミスリアはキッと眉根を寄せた――「でも教えません。カイルも、たとえ今後出世しても、長生きしてくれないと嫌ですからね。秘術は使っちゃダメです」 「ありがとう。善処するよ」 ぎぃいいい、と扉が大きく軋んだのを合図に、ミスリアがトコトコとゲズゥの傍に駆け戻った。 「君も、またね。三年間頑張って」 無言で佇む青年にも、カイルサィートは挨拶を投げかけた。 「……そうだな。こう何度も再会できたなら、おそらくまた会えるだろう」 と、彼はつれないながらもちゃんと返事をくれた。 やがて組織の成員が近付き、二人の身柄をそれぞれ確保した。 彼らが自身の決断により引き離されてゆくさまには、言いようのない哀愁があった。 _______ 首都の外れの刑務所にある「遮断独房」は、去年から三人の囚人によって使用されている。中年の男が一人、若い男が一人、そしてなんと若い女が一人居る。 三人の内、中年の男はもうそろそろ駄目だろうと看守は踏んでいる。近頃は食事を持って行く度に必死に会話をしてくるのだ。看守は気の向く程度にしか受け答えをしないし、あの男とは何を話しても面白くないので、無視している。このまま行けば囚人は発狂するしかないだろう。 残る二人は妙に平静を保っていて、気味が悪いくらいである。 二人がこの牢獄に居ることは極秘事項だ。なんでも男の方は一時期世間を騒がせた「天下の大罪人」で、女はその懲役を共に負担しているとのことだ。女は以前は世界を救った聖女だと言うらしいが、看守には世界が救われたという実感がそもそも無かった。町中の人間が聖獣の姿を見上げて感動していた間、彼はただ黙々と仕事をしていただけである。 |


