六 - b.
2017 / 06 / 07 ( Wed )
 短い回想の旅から戻って来ると、頬が熱くなっているような気がして、つい指で触れて確認する。そして実際に熱かった。意識してしまうとますます恥ずかしさがこみ上げる。

「ねえバルバ。エランを見なかった?」
 気を紛らわせようとして、侍女の背中に向けて問いかける。
「公子さまは、夜にひとりでどこかへ行ったきり、戻らないのですよ」
 振り返った彼女の双眸は憂いに揺れていた。心臓が冷たい手に掴まれた気がした。
「ひとりって……タバンヌスは一緒じゃなかったの」

「あの方は公子さまに命令されて、姫さまの護衛のために屋根上に残りました。でも明け方まで待っても公子さまが戻られないので、通りがかりの兵士に交代を頼んで行かれましたよ」
 バルバが目配せする。その目線が指す方へ、二人で歩んだ。屋根から下りる梯子の前には、武装した見知らぬ男が立っていた。二、三ほどその者と問答をしたが、目ぼしい情報は得られなかった。

 胸騒ぎがする。次にどうすればいいかわからずに、セリカは一旦自室に戻った。身体を拭いて着替えを済ませ、もう一度バルバと共に宮殿内を出歩く。
 気のせいだろうか。やたらと静かである。元々広い宮殿とはいえ、誰かとすれ違うまでに数分かかった。
 最初にすれ違った女中たちは共通語が不得手で、話しかけてもあまりはっきりと受け答えをしてくれなかった。次に庭園で遭遇した官僚たちもよそよそしく、相手にしてくれなかった。

 諦めて朝食に向かおうかと回廊を進み出し、その矢先に小さな人だかりを見つけた。まだ成人していないような年頃の少年と、後ろにぞろぞろ続く男性が四、五人――少年は自分より幾まわりも年上の者たちに向かって助言や命令をしているようだった。話の内容は断片的に聴こえてくるも、難しい話をしているらしいことしかわからない。
 セリカたちは速やかに頭を下げて道を開けた。鋭い目付きと隙が無い立ち姿をしたこの少年は、確か第六公子のハティルだ。

「姫君。おはようございます」
 そのまま通りかかるかと思いきや、少年は足を止めた。
「おはようございます。ハティル公子」
 微笑み、顔を上げる。
 あちらから話しかけてくるとは運が良い。更に運の良いことにいつの間にか人だかりが解散していた。目の前にはハティルと、付き人らしい壮年の男しか残っていない。
 お約束の天気の話題を済ませてから、お伺いしたいことがあります、とセリカは本題を切り出した。

「どうぞ。僕に答えられるものなら」
「では遠慮なく――エランディーク公子が何処(いずこ)にいらっしゃるか、存じませんか」
「エラン兄上ですか。僕は会ってませんけど、まだ寝ているという可能性も……。兄上と何かお約束を?」
 ハティルの声も表情も、本気で驚いている風に感じられた。

(昨日あたしたちが夕食を一緒したのは知れ渡ってるはず。ならその後は、どうかしら)
 セリカの腹の底で勘のようなものが働いた。慎重に返答すべきだと判断する。
「いいえ、約束はしておりません。ただひと目お会いしたいと思った次第です」
「エランなら所領に帰ったって聞いたぞー?」
 回廊の先から人が近付いて来る。歩きながらパンを頬張って食べかすを巻き散らすこの行儀の悪さ、第三公子ウドゥアルだ。

(所領に帰った……? 言伝もなく? 「聞いた」って、誰に)
 最後の疑問はハティルが代弁してくれた。すると第三公子は、大臣が言ってたんだぞ、と答えた。
(ウドゥアルは口裏を合わせてるだけ、それとも本当に何も知らないの? 情報の発信源はその大臣か、別の誰かか)
 セリカはいくつかの引っかかりを感じたが、敢えて何も追及せずに公子たち二人の会話を静聴した。

「帰ったって、こんな時にですか。ベネ兄上みたいに火急の用事でしょうか」
「ルシャンフ領なんて蛮族しか住んでないんだし、なんかあったんだろ。そんなことより、結婚式なくなんのか? せっかくいい肉にありつけると思ったのに。親父殿は、面会謝絶だ。おれももう帰っていーか?」
「帰ればいいんじゃないですか」
 兄の質問に、弟は投げやりに答えた。
 そこでセリカは無難な礼の言葉を並べて、その場をやり過ごした。拭えぬ違和感を胸に抱えたまま、彼らの後ろ姿をそれぞれ見送る。

「ひどい……。姫さまのお立場はどうなるのですか……」
 二人だけになると、バルバがやるせなく呟いた。
「――嘘」
「姫さま?」
「嘘よ。エランは、そんなことしない。何かがおかしいわ」
 そう断言すると、バルバは怯んだようだった。もしかしたら自分は今、かなり険しい顔をしているのかもしれない。

「え、ええ、しっかりしてそうな方ですものね。無責任な真似はされないと、わたしも思います」
「無責任……そうね」
 それだけではない。夜中にいなくなったという事実の異常さは変わらない。
 百歩譲って、既に延期されている結婚式よりも重要な案件が所領で発生したとしても――

「堂々と妃を連れ回すと、あいつは言ったわ」
「はい……?」
「伴侶にそれを望むと。だからどんなに急いでいても、ひとりで発つわけない」
 低く呟きながらも、セリカは思考回路を最大速度で回していた。

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