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八 - b.
2017 / 08 / 02 ( Wed )
 その単語を引き金に、改めて様々な思い出が蘇った。
 一拍置いてエランは息を吐く。歩きながら話す、と言って足を踏み出した。

「もう八年も前になるか。母が事故で亡くなって、私はヤチマを解放した。その後の生活に困らないようにと、安全な行き先を探し、十分な金を持たせた」
 彼女は以前からエランの母親の生家の奴隷だった。同じく奴隷だった夫と死別してからは、母専属の奴隷になったという。

 母がヤシュレ公国からヌンディーク公国に嫁ぐ時が来ても、子供二人を連れて一緒についてきた。
 そこまでの縁だったとしても――奴隷階級の人間にとっての義理には、居心地の良い場所が前提だ。

「いくら主人に恩義を感じていても、個人の夢を諦めずにいたりもする。ヤチマがそうだったのは知っていた。何も持たない私に仕えさせるよりは、手放すべきと判断した」
 勿論、抵抗された。
 お嬢さまの忘れ形見を置いてどこかへ行くなんてわたしには無理です――と泣き付かれたりもした。しかしエランは頑なに押し切った。
「……タバンヌスだけが残ったのはどうして?」
「本人が願い出たからだ」

 脳裏に八年前の映像が過ぎった。
 当時まだ成人して間もなかったタバンヌスは、今のような屈強な外見からはほど遠く、武術が少し得意な、精悍な顔付きの少年だった。体力があって要領も良く、どんな仕事にも就けただろう。
 エランは何度も諭した。町に働きに出て可愛い嫁を見つけて、幸せを掴みに行け、と。母と妹と離れていいはずがない、とも。

 ――ではエランさまは、この先おひとりで、御身の幸せを掴めるのですか。

 必要以上に表情筋を動かさないあの男が、あの時どれほど悲しそうな顔をしたのかは、今でも思い出せる。
 返せる言葉が無かった。
 実母を喪ったばかりの十歳のエランには、幸せというものがわからなかった。きっと遠いどこかの山を越えれば見つかるような、そんな漠然とした浮世離れた他人事のように思っていたのだ。
 ついには根負けして、奴隷から従者に昇格させることで妥協した。

 ――いいかタバンヌス。お前は解放されて人の所有物じゃなくなった。これは契約だ。私はお前を傍に置いて、命令はするが、真の意味で何かを強要したりはしない。従うかどうかはいつだって自分で決めろ。
 ――御意にございます。
 ――もうひとつある。いつか私の命と己のそれを天秤にかけなければならない状況になったら、その時にどうするかもお前の自由だ――


「待って、どういう意味なの。従者なら当然、主人を優先したいわけで……でも自分可愛さに逃げてもいいってこと」
 気難しげな表情でセリカが問いかける。
「それもあるが、私はあいつが身を挺して主人を助ける性分であるのを知っていて、もしも私が『助けるな』と命令した場合も無視していいと言ったんだ。怒りはするが、恨みはしない」
 つまり何を選ぼうとも、本人の意思を尊重する契約だ。

「ややこしい約束をしたものね。今のあんたの顔見てると、十分恨んでるみたいだけど」
 セリカの指摘でハッとなり、エランは自らの表情の強張りを唐突に自覚した。
「……そうか」
 気まずくなって目を逸らす。いつの間にか長く伸び始めた街中の影を眺め、気を紛らわせた。

「そうよ」――答えた彼女の声は柔らかい――「また無事に会えるように、祈ってるわ」
「ありがとう」
 本当は祈る以上の行動に出る心積もりだったが、ここで語るのは憚られた。
 それからは静寂を供にして、進んだ。やがてこじんまりとした住宅街に出る。
 目当ての家を見つけて扉を叩くも反応は無い。干し煉瓦を並べて建てられた玄関の階段に、二人して腰を下ろして待つことにした。と言っても、間隔はやはり微妙に離れている。

「もうしばらくしたら仕事から帰ってくるだろう」
「仕事って、どんなの」
 小石を爪先で蹴りつつ、セリカがボソッと訊ねる。
「賄いだ。確か駐屯地――いや、傭兵団だったか」
 その時、土手道の向こうに誰かが現れた。単色のワンピースと頭巾、ひとまとめにした焦げ茶色の髪、といった質素で清潔そうな恰好をした女だ。セリカよりも背が低くて肉付きが良いのも特徴である。

 彼女が近付いて来るのを待ってから立ち上がり、エランは軽く礼をした。被っていたフードも下ろす。
 女はこちらを見上げてあんぐりと顎を落とした。
 記憶の中の乳母よりも痩せていて小皺が増えている気もするが、深い茶色の瞳と目が合うと、昔ながらの安心感を覚えた。

「久しぶりだな、ヤチマ。ハリマヌは元気か」
「なっ!? なにゆえあなたさまがこのような! と、とにかくお入りくださいまし!」
 彼女は悲鳴交じりにまくし立てた。しどろもどろに扉を開けると、こちらに道を開けた。
 全員、なだれ込むようにして中に入る。最後尾のヤチマが閂をかけた。
 それから迷わず、床に額をつけるほどに平身低頭した。

「お久しぶりでございます。ご息災そうで何よりです……!」
「お前もな。頭を上げてくれ」
 震える肩に、そっと手をやる。

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